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第二章 ブラザー・オン・ザ・ヒル
第十一話 母娘
しおりを挟む夕方の六時半、既に日は落ち夜と言ったほうが正しいだろうか。竹ヶ鼻商店街を歩いているのは俺達三人だけだった。アーケードを照らす街灯が、誰も居ない部屋の照明の様で酷く浪費に感じる。昨日開いていた楠生肉店のシャッターは既に閉まっていた。
結城クリーニングの看板が目に入る前に、隣の元石川模型店前で夕涼みをする老人と目が合う。真っ白ではあったがボリュームに関しては申し分なかった頭髪は殆ど抜け落ち幾分痩せはしたが、その老人が石川模型店の元店主、通称『店長』だと直ぐに分かった。店長にとっては沢山居た客の一人でしかなく、会話を交わす程の仲でもなかった俺のことなど覚えていないだろう。それでも店長の健在には少なからず感慨を覚える。
よく考えれば経営者を『店長』と呼ぶのはどうなのだろう。そんなことを考えながら椅子に座る老人の前を素通りしようとしたが、まだ俺の顔を覗き込むように見ている。向こうが俺を覚えていようがいまいが老人に対して敬意を示すのに問題は無かろうと、軽く会釈をして結城クリーニングへ入店した。片桐と結城には五分後に入って来るよう言ってある。
「いらっしゃいませ。あっ昨日の・・確か入間川君よね」
「シャツを貰いに来ました」
「はい、二着で二百二十円になります」
財布から小銭を取り出し結城の母親に手渡しながら、世間話でもするように話し掛けた。
「結城先生は御在宅ですか」
代金を受け取った恰好のまま結城の母親は動きを止めると、強張った表情で目線だけを俺に移した。さすがに二日連続煙に巻く訳にもいかず、遂に本性を曝け出す。
「あなた、二年生よね。どうして巧のことを知っているの」
やはり結城の母親は息子が学校を休職しているにも関わらず、出勤する振りをしていると気付いていた。
「俺が部長を務める部の顧問ですから」
「竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の部長・・さん」
「はい」
驚いた。結城の母親は息子が顧問を勤める部活を知っていた。こんな部の、しかも正式名称まで把握しているあたり、ジジイとの繋がりは間違いない。
「結城先生にこいつの承認をもらいたくて」
鞄から『竹ヶ鼻商店街の歴史と文化』を取り出しカウンターに広げると、結城の母親は息子の在宅を明確にしないままB4の紙を覗き込む。
「あぁ、竹ヶ鼻祭りの・・・でも、去年は顧問の承認なんてもらいに来なかったわよね」
息子の休職を認知していることを隠す必要が無くなった以上、即座にその矛盾を突くとは流石に鋭い。それ以前に、誰も見ていないと思っていた『竹ヶ鼻商店街の歴史と文化』の存在を知っているのには参った。
「このイラスト可愛いと思いません。竹ヶ鼻の鼻からイメージした象なんですけど、牙が竹になっているんですよ」
結城の母親は何も言わず、怪訝な表情で俺を見る。質問に答えもせず、突然二人の攻防に関係のないことを言い出す俺の真意を測りかねている。有能な人間ほど予想に反した場合、安易な対応はしない。これが結城律子ならば「可愛い」と迷わず言うだろう。
「去年まで部員は俺一人だったんですけど、そのキャラクターを考案した奴とイラストにした奴、二人部員が増えまして、そいつ等が顧問の許可はいいのかと言うもので」
「へぇ、そうなの。良く描けていると思うわよ、確かに去年までは少し寂しかったものね」
其の時、店の扉が開いた。
「それ、私が描いたの」
「律子・・・・」
日常と変わらぬ娘の帰宅に、母親は固唾を飲む。
「紹介するね。今度入った部活の部長さん、入間川息吹君。こっちが部員で・・・友達の片桐志摩子ちゃん」
結城に紹介され俺達は頭を下げるが、母親の視線は娘に釘付けで反応は無い。
一般的な家庭であれば何の不思議もない風景が、母親にとっては思考を停止させる程の大事となる。
兄が妹の為に休職し、母親には隠し続けていた。母親に心配を掛けたくない兄の思いを汲んで結城もそのように振舞った。だが、この母親は兄妹が隠し事を出来るような相手ではない。全てを知った上で気付いていない振りを続けた。
母親は知っている。兄が心優しく家族思いの人間であることを。妹の為に自分を犠牲に出来る人間であることを。そんな兄に弱い部分があることを。
子を産むのには危険が伴い、育てるには苦労が伴う。母親は兄を宿した時から覚悟が出来ているのだ。我が子を守ると。
母親が我が子思う気持ちは、兄が妹を思う気持ちの何倍も大きい。何の見返りも求めず、ただ、我が子の幸せを一心に願い続ける。もし、我が子が不治の病を患い命が尽きようしたとき、悪魔が母親の命と引き換えに我が子に一年の寿命を授けると持ち掛けたなら、一瞬の躊躇もなく母親は取引に応じるだろう。その時、母親には悪魔が天使に見えるはずだ。
この世に絶対確かな物など存在しない。だが、母親の我が子に対する愛情こそが、それに一番近い物であると俺は信じている。
「ごめんね、お母さん。今迄辛い思いをさせて」
「律子・・・」
説明していないが、本能的に結城は気付いている。母が兄と自分を守る為、この一年どのように過ごしてきたのかを。
「私が悪いの。全部、私が弱いから・・・お兄ちゃんとお母さんは優しすぎるから・・」
母親は口を噤んだまま瞬きもせず結城を見ている。成長した我が子を、強く生まれ変わろうとしている愛娘を。
「私は、もう大丈夫。友達もいる。志摩ちゃんだけじゃないよ、真紀っていう親友もいるの。少しずつだけど・・学校が楽しくなってきた」
「律子・・・」
精神が惰弱な娘が原因で始まり、何時まで続くか分からなかったこの生活が変わろうとしている。妹を守ろうとした兄でも、二人を守ろうとした母親でもなく、妹が自ら強くなろうと動き出したからだ。
「結城は自分から部室に来ました。そして言ったのです「手伝ってほしい」と。助けてくれではありません、「手伝ってほしい」と言ったのです」
今にも零れ落ちそうな涙を堪え、凛とした表情を作り直し、母親が漸く意を発する。
「巧は部屋に居ます。律子、ご案内して」
「うん」
強く賢い母親だ。幾ら知識を蓄積しようとも使えなければ意味は無く、机上の論理どおりに事態は運ばない。一度経験した事の何倍も人生は初体験が多く、それを乗り切るには知識と経験の応用から導き出した結論を実行する勇気と決断力が不可欠だ。
娘の変化を目の当たりにして先程までの警戒を解き、説明が無くとも最善だと第三者の介入を承諾した母親は、その全てを兼ね備えている。
振り返り大きく頷くと結城は奥にある扉に視線を移した。
店舗と居住空間の境にある扉を開くと香辛料の匂いが鼻を突く。夕食はカレーだな、結城が大口を開けてカレーを頬張る姿は妙にしっくりくる。俺はもう一度母親に軽く頭を下げ、『竹ヶ鼻商店街の歴史と文化』を手に取った。
「お願いします」
子を産むことの出来ない男に、況して親になったことのない俺に、母親の苦しみを知ることは出来ない。まだ経験の乏しいガキが彼女に知った口を利くべきでないのは分かっていたが、それでも一言だけ伝えたかった。
「貴女がしてきたことは最善だったと思います。俺は貴女のような母親を心から尊敬します」
深々と頭を下げる母親の肩が、少し震えている。その姿に病院で速水巡査部長に頭を下げ続けていた姉さんが重なったが、かぶり振り残像を消す。
この家族は元より壊れてなどいない。皆が愛情で溢れ、壊れないよう必死に手と手を取り合っている。
俺と姉さんとは全くの別物だ。
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