つげ櫛よ、君があれな

坂巻

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中編(2)

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じっとりとした蒸し暑い6月が過ぎ、乾いた風と共に夏らしい7月がやってきた。

と、明るい気分で季節を語りたいところだが、月が替わっても湿気た暑さは続いている。
暦はカレンダーをめくれば次が来る。けれど、昨日と同じ温度と湿度が続く中、そう簡単に気持ちは次の月へと追いつけない。
更なる暑さと、やがてくる運命の日が、わたくしの心を痛めつけるように迫っていた。



「では、皆の者。準備を始めてくれ」

3時間かけてたどり着いた他県にて、車から降りた親族の男が声を張り上げる。
各々返答しながら、車内から祭具とも呼ばれる破邪の道具を取り出していった。
本家にてすでに巫女服へと着替えていたわたくしも、自身の道具をまとめた風呂敷を抱き、目的地に降り立った。

山の上に造られた、今年の3月に廃校となった学校。
その建物が、静かにわたくしたちの前に立ちはだかっている。
外観は綺麗な木造の校舎、といった印象だ。しかし、ここに来るまでに車で山道を登ってきたことを考えると、通学しないといけない生徒からは相当不評だったに違いない。

「少子化で、廃校か……」
「もうちょっと粘って、人がいてくれたほうがよかったかね」
「いやあ、弱い奴らは人の気配を嫌がるが、強い奴は人を食ったりするからな。逆に危なかったんじゃないか」
「この、状態じゃなあ……」
「ああ、魔除けも何もなくなってる。建てた時は、陰陽師か誰かがやってただろうにな」

学校には近寄らず、数台の白いワンボックスカーの前で、大須賀家の者たちが話していた。彼らが『この状態』と言いたくなる気持ちもわかる。

どす黒い、凍えるような靄に覆われた、校舎。説明で聞いたときよりも悪化している。
わたくしたち破邪師の眼には、その異質さがはっきり映っていた。

本日指揮役を務める男が、使用する祭具の変更など、現場の状況に合わせて指示していく。やる内容や配置に特に変更はないので、使い慣れた鈴串を握り締め、わたくしは気持ちを落ち着かせ集中していた。

とうとう、この日が来てしまった。

八重の巫女選定前の、一族の破邪師たちが最も多く集う最後の実戦だ。
緊張と共に、方々に散らばる親族の動向を意識してしまう。彼らは普段通りの仕事と合わせて、わたくしとミチルを見定める役割があった。
今回は、1匹でも多く妖を屠らねばならない。

そんなわたくしのライバル、ミチルはというと――。

「はい? まだ来ていないのですか?」

皆と同時刻に本家から出発したミチルを乗せた車は、山頂の学校までたどり着いていなかった。

「もうすぐ到着するので、予定時刻に始めて問題なしと連絡はあったのですが」
「そうですか……」

打ち合わせは、大須賀家にて全て済ませてある。
目的地に着いてからは、準備、指定時刻に開始、撤収の流れのみだ。余裕を持ってやってきたものの、あの女はギリギリになりそうらしい。

やきもきとさせられているうちに、大須賀家所有の乗用車が、山道終わりの入り口辺りから校庭であるこちらへ走ってきた。ようやくミチルさまのご到着だ。
遅れたことなど微塵も悪くないと思っている様子で、彼女は車外に出て気持ちよさそうに身体を伸ばしている。

「ミチルさま、ずいぶんとお時間がかかったようですが、道中何かあったのですか」
遅くなった彼女への、質問半分、遠回しの嫌み半分のつもりだった。

「うん。あったあった。いろいろあって」
「い、色々?」
「そう、しょうゆととんこつと、あと塩ね。魚介だしのつけ麺とかもあって、迷いまくってさあ」
「……ミチルさま。えーと?」
「うん? ラーメン食べてた。これから破邪だっていうのにむっちゃお腹減ってたし」
「そ、それは良かったですわね」
「うん良い店だったねー。醤油にしたんだけど、自家製のチャーシューが分厚くて――」
「もういいですわ」
「えーまだまだ食レポ続けられたのに」
「もういいですから、用意を始めてくださいませ」

一族の者を待たせて、遅れてきた理由がこれだ。
一緒に乗車していた大須賀家の者たちも、本家の娘に逆らえなかったのだろう。
わたくしは、車の中で大須賀家の者に渡されたサンドイッチで昼食を済ませた。そんなつまらない差で、いじけそうになる。

「用意言われても、破邪区域作成班でもないしなー」
「淀みない力を練り上げておくのも、破邪師として必要なことなのでは」
「おうおうー。みことちゃんまっじめー」
「ふざけないでください」
「だってさあ」

彼女の瞳に、鋭いものが宿る。その先には、普通の人には立派に見える木造の校舎だ。

「この寒さの中で、集中するのって結構大変だし」
「……それは、まあそうですわね」

ミチルも、もちろんわたくしも、気が付いている。
クーラーの効いたワンボックスカーと違い、蒸し暑いはずの夏の山林。けれど、外に出てから、じっとりとした寒さが足元を這い上がってくる。

「なんなら、町に入った時から嫌な感じするしね。……山なんか特に」
「原因はこの学校でしょうが、麓まで気配はいたしましたわね」
「原因ねえ……まあ現時点で一番やばそうなのは学校だけど」
「ですわね」
「だってさ、これだけの気配なら破邪師がいることも感づいてる上級の妖が巣くってるだろうに、存在が揺らぎもしない」

嫌な雰囲気を漂わせ、今は誰もいない校舎は狡猾にわたくしたちを待っているような気がした。不気味な存在が口を開け、その時が来るのをただずっと待っている。

「一応、妖たちから恐れられてる破邪師だよ。わかってて逃げもしないなんて、いい根性してるよね」
「気を引き締めて、挑まなければなりませんわね」
「おじさんたちは、区域どうするって?」
「上級護符の使用もやめて、宝玉に切り替えるとのことでした」
「これ見れば、当然よなー」

破邪区域の威力は、作成する際の込める力によって変化するが、使用する道具によっても変わってくる。今回使う宝玉は、わたくしが普段使用している護符よりも数段上の祭具だ。事前に破邪師たちが力を注ぎこんだ宝玉を、区域の作成班数人が校舎の周りに設置している。
ミチルは、ちょっと話してくるね、と指揮役の元へ行ってしまった。

確かに、八重の巫女へとなるため、ミチルとの勝負は重要だ。
けれど、まず今回の仕事をきっちりこなさなければならない。
寒さからか、緊張からか、わけもわからず震えそうになる。

「みこと、様」

少し遠慮したような面持ちの、見知らぬ男性に声をかけられた。
真新しい白衣に、露草色の袴。薄青のその袴は、破邪師の見習いが身に着けるものだ。
どうやら彼は一族の者ではなく、外部から受け入れた能力持ちのようだった。大須賀家の人間であれば、さすがに見たことがあるはずだ。

「はい。わたくしにご用ですか」
「こちらの式をご当主様より預かってまいりました。妖を滅した数を記録する物だそうです。鈴串に取り付けたいのですが」
「構いませんよ。……どうぞ」

いつもの使い慣れた祭具を、胸の辺りまで持ち上げる。見習いの彼は、持ち手の少し上、下段の鈴の下辺りに、細長い白い布を結びつけていた。一見ただの布に見えるが、単純な命令に従う人工の式神だ。布の端の部分には、目のような丸い模様が墨で描かれていた。

「ご協力ありがとうございます」
「どういたしまして」
「あの、……みこと様」
「はい」
「……お気をつけて」

それだけ囁いて、彼はもう1人の巫女候補の元へ歩いて行ってしまった。
同じようにミチルの破邪の道具にも、式を取り付けるのだろう。

だが――、ぞわりと肌が粟立った。

彼とはたぶん、会ったことはない。初対面、のはずだ。
大須賀家の破邪師の誰かに師事しているであろう、ただの見習い。

すれ違いざまの、憐憫を含んだ表情。

あれは一体、何だったのか。

笑顔で自分の破邪の道具である剣を差し出すミチル。
その柄の部分に布を結びつける見習いの男性。
違和感の正体を探るようにその姿を見つめ続けても、得られるものは特になかった。




◆ ◆ ◆ ◆




破邪開始の14時まであと数分。
北校舎3階端の廊下にて、わたくしは一族の破邪師たちと時が来るのを待つ。

今日の作戦は、破邪区域作成班・護衛班・攻勢班・補佐班に分かれて行う大規模なものだ。これだけの人数は過去2回程の経験しかないし、しかもその時は補佐のみだった。

まず、開始時間に正面玄関、北校舎1階、南校舎1階に陣取った破邪区域作成班が、区域を発動。個人でやるような任務とは違い、破邪区域の維持に終始する。
その間動かない破邪区域作成班を守るのが、護衛班の役目だ。学校から逃げ出そうと区域の破壊を目論見、襲ってくる妖は護衛班が殲滅する。
そして、校舎内に散らばる妖たちを端から潰していくのが、攻勢班の役割だ。もちろん、破邪区域の中にいればいつか妖は消失するが、できるだけ早く滅することで、破邪区域作成班の区域発動の時間を短縮できる。今回は強めの破邪区域を作成するので、それを長時間維持することは熟練の術者でもなかなか難しいのだ。

北校舎3階の攻勢班は、わたくしを含めて3人。
年長の男破邪師と、その弟子らしい新人の男。そしてわたくしだ。

「あと、1分ほどですが、手筈通り私が前衛を務めますので、後方の注意をお願いします」

年上の男性の言葉に、わたくしと新人は黙って頷く。この班の指揮は彼だ。
スマホで時刻を確認する。アプリの時計の秒針が12目掛けてカチカチ進む。何とか通信できていた携帯電話も、校舎に入った途端圏外となっていた。強力な妖の潜む場所では時たまあることで、こうなるとわたくしたちの連絡手段は人工の式神頼りになってくる。
それでも、時間を見るだけならスマホで十分だ。

「――参ります」

自身の腕時計から顔を上げて、年長の破邪師が勢いよく隣の教室の扉を開けた。
直後、身体にずっとあった禍々しい圧が消える。

――破邪区域が発動したのだ。

作戦が始まるまで手を出すつもりの無かった、低級の靄のような妖たちが数体、弾け飛ぶ。
わたくしたちが何かするまでもなく、校舎内の弱い妖が破邪区域だけで消滅したのだ。さすがとしか言いようのない、熟練の破邪師たちの力だった。

「前方の5体は私が。横、2体!」

教室に飛び込んだ破邪師の男が、自身の祭具である榊を横に薙ぎ払う。雫が飛び散るように橙色の光が舞った。上空にいた鳥に似た目の無い妖たちが逃げ切れず、その身体を膨らませ破砕する。断末魔すらなかった。

それを惚けて見ているわけにもいかず、廊下近くに逃げ出した妖をわたくしは追う。もう一匹の妖は、新人の男性が鈴串を振り上げているのがわかり、無視する。


「――っはぁ!」

力を込めた鈴串を、飛行する妖に向かって下から上へ叩きつける。もちろんわたくしの祭具にそこまでの長さはなく、伸びた光による打撃だ。掲示物のある廊下の壁をこすり、天井に光が打ち付けられた。
翼の部分がねじ曲がり、床へと落下していく妖は、着地の前に消え去っていた。妖がいなくなった辺りに、黒い粉のようなものが漂い、少しして空気に溶ける。
まずは、1匹。

「師範、大丈夫ですか?」

新人の男が鈴串を掲げ、先程5匹を滅してみせた破邪師を浄化している。

「ええ、ありがとうございます。あなたたちは大丈夫ですか」
「俺は問題ありません」
「わたくしもです。……浄化しないといけない類の妖でしたか?」
「いや、妖が最期に瘴気のようなものを放ちまして。嫌な感じはしませんが、念のためです」

もうなくなってしまった、あの黒い粉のようなものだろうか。確かに見覚えのない現象だった。

「では注意して、次に行きましょう」

のんびりしてもいられないので、わたくしたちは再度廊下に出て、次の教室へ向かう。いつ、この悍ましい気配の主が現れるのか、覚悟しながら破邪を続ける。

――2匹、3匹、4、5、6匹。
年長の破邪師の指示通り妖を倒し、時には彼が取りこぼした妖を滅する。新人の男は師範やわたくしのサポートのため防御や浄化をすることが多く、その存在は非常に助かっていた。

これはわたくしの個人的な思いだが、同じ鈴串を使っている同士ということで、勝手に新人の彼に親近感を持ってしまう。
破邪のための道具――祭具としての鈴串は、破邪師がまず使う基本的な物だ。
露草袴の見習いもまずこれだし、巫女の修行の時もわたくしたちはこれだ。その後、能力を磨き、より自分に合った祭具へと持ち物を変えていく。この攻勢班の破邪師の男は榊だし、ミチルは使い勝手が難しい石製の剣だ。

そう、自分だけの特別へと道具を変えていくのだ。

でもわたくしは、色んな祭具を試したけれど、この基本的な鈴串以上に使いこなせる物は無かった。そういう破邪師は多いし、珍しいことでは無い。でも。
祭具にまで、お前は普通だと言われているようで、初めの頃はがっかりしていた。
――今はもう極めてやるんだ、という心意気の方が勝っている。



「あ、みことだー! へーい」

3階の渡り廊下のところで、南校舎担当のミチルのいる攻勢班と一度出会った。
班の年長者たちが、報告と現状を話し合う。
その間に、とことこと巫女服姿のミチルが近寄って来た。

「どう? どれぐらいやった?」
「今のところ6匹ですわ」
「あら、ボク4だ。負けてるなあ」
「状況にもよりますから、最後までわかりませんわよ」
「そうだね、どうせボクが勝つし」

一瞬答えに詰まったわたくしへ、ミチルはにやりと笑って緋袴を翻す。長時間話し込むことはなく、彼女たちは南校舎へと戻って行く。
その姿に、あの何とも言えない違和感を再度覚えた。
鈴串に式神を取り付けられたときの、あの妙な感じだ。ミチルと見習いが並ぶ、その情景。
何故、今彼女は――。

「私たちも、2階へ向かいましょう」

わたくしの班の破邪師の男性の一言。
そこで、思考を元へ戻す。いけない、集中が途切れるところだった。
まだまだ妖はこの学校に潜んでいる、しかも本命と思わしき強力なものも出てきていない。
わたくしは、軽く頭を振って、鈴串を再び強く握りなおした。




◆ ◆ ◆ ◆




なにかが、おかしい。


予定通り破邪は続けられた。
破邪区域作成班と、護衛班のいる1階へ向かうようなルートで、わたくしたちは妖を屠っていく。自分の分を数えただけでも、滅した妖の数は20を超えた。
その倍の数を捌いている破邪師の男と、彼に師事する新人の男が、壁に手をつき荒く息を吐いている。

彼らは、異常なほどに疲弊していた。

「……すみません、眩暈、が」
「いいえ、……その少しお座りになってはどうでしょう。お休みになった方が……」

大した対処にはならないとわかっていても、休憩を提案したくなるほど顔色が悪い。

「し、師範……浄化を、いたします」
「それなら、わたくしが。あの、座っていてください」

少し薄暗くなってきた廊下で、わたくしの鈴串の光が2人の身体を包み込む。けれど意味のないことはわかっている。彼らはどこも怪我をしていないし、呪いや攻撃の類も受けていない。
ただ、体調不良なのだ。

破邪の力を使用しすぎると、もちろん疲れる。だが、破邪区域を作成しておらず、詠唱も何もない妖への攻撃のみで、ここまで消耗することはない。実際、わたくしはそれほど疲れてはいない。けれど、共にいた2人はこの有様だ。

「他の班の方へ、連絡いたしますわ」

緋袴のポケットの部分から3枚の形代を取り出し、軽く指ではじいた。わたくしがよく使用する、人工の式神だ。
1枚はミチルたち攻勢班へ、1枚は正面玄関の破邪区域作成班・護衛班へ、1枚は外にいる補佐班へ。
補佐班には、人員の交代をお願いして、他2班にわたくしの班の現状報告だ。するりと指の間から飛び立っていく3枚の式を見送る。

少しお待ちください、と振り返って、慄く。

完全に気を失っている共にいた破邪師の男たちと、彼らに忍び寄る粘ついた気配の妖に。

「――このッ!」

鈴串で打ち払おうとして、鳥に似た、しかし人のような足が4本ある妖が身をかわし、こちらへと突っ込んでくる。するどい足先の爪が光り、とっさに身を屈めた。

【ゥ、シイ、イイイ、ソオオオ――!】

軽い、乾いた破裂音。
しゃがんだわたくしの、少し上あたりで、襲い掛かってきた妖が霧散する。同時に黒い粉がふわふわと漂った。わたくしは何もしていない、つまり――。

「破邪区域が、間に合いましたか……」

良いタイミングで、区域の破邪の力が効いたようだ。
というか、この学校で倒してきた中で、今のはなかなかの上位の妖だった。できれば、わたくしの手で倒して、手柄にしたかったなと今更どうしようもないことを思う。
だが、傍に倒れている年長の破邪師の男性と、新人の男性は、無事に助けられた。それだけでも良しとしよう。安堵から頬が緩む。怪我をさせないで本当に良かった。

ここから挽回したいところだが、破邪区域がそろそろ中の妖を全て消滅させる時分だろう。
人員の交代を頼む必要はなかったかな、と思いかけて、――彼の言葉を急に思い出す。


『……お気をつけて』


破邪が行われているはずの校内は、その淀みが増していた。

妖は他の攻勢班や護衛班にも次々と屠られているはずなのに、絡みつくような気持ち悪さが無くならない。重く、湿気た、陰湿な悪意が、何処までも追ってくる。
ずっと、気のせいだと言い聞かせてきた、違和感。
体力は問題ない。だが、息をするほどに、歩みを早めるほどに、黒く不快なものが身体の中に降り積もっているような、感覚があった。

そして――。

「……なんですの」

獣が低く唸るような異音。
岩がこすれ、大きな物が持ち上がる、重々しい轟音。
校舎全体がその恐ろしい音で震えていた。
歓喜に沸く様に。勝利を祝う様に。

悍ましい声の主は、この状況を喜んでいる。

問題は外にあると判断したわたくしは、瞬間走り出していた。
近くにある階段を下りれば、もう1階だ。
一度建物内に意識を集中させて、気が付く変化。

もう、破邪区域はほとんど消えかかっている。

校内の様子から妖はすべからく滅している。だから、区域を解除してしまっても問題はないが、これは術者が意図してやったことなのか。
もしも、破邪の力の維持ができていないのだとしたら――。

1階にたどり着いたわたくしは、後も先も考えず、近くの窓に飛びつき鍵を壊しかねない勢いで開けた。
窓枠に足をかけ、緋袴を引っかけないように校庭へと飛び降りる。
着地した後は、間髪入れず山の出口に向かって駆けだした。

探す必要もなく、迷う必要もない。
生い茂った木々の中に聳え立つ、妖。
校舎とほぼ同じ大きさの、黒い人間のような形。頭と思わしき部分の中央には、ぎょろりと動く目が一つあり、それと視線がかち合ってしまう。

【シ、シイ、イイイイイッ――】

意味の分からない笑い声。一つ目の下の黒い口が息を吐き出す。
油の交じったような腐臭に思わず顔をしかめた。


一目見ればわかる。
これが本命だ。


校舎は完全に囮だった。
どうやったかはわからないが、まず校内の破邪師たちを疲弊させ、動けなくする。そして、自身に対する脅威がほぼ無くなった状態で、表へと出る。

思い返せば、妖たちの動きは完全に時間稼ぎだった。わざと姿を見せ、追わせる。そして何らかの不利をこちらに押し付ける。
校舎の妖はただ存在することで、陰惨な気配を漂わせていたわけではない。わざと、陰惨な気配を出させていたのだ。攻撃ではなく、雰囲気を纏うことに力を使うなど、そんな馬鹿なこと普通はしない。
そう、普通なら。

気味の悪い一つ目の妖は、下位の者を従わせる、この山の主であった。

「みこと!」

名を呼ばれて振り向けば、わたくしと同じように校舎を飛び出したミチルが走り寄ってくるところだった。

「他の方々は!?」
「ボクの班はだめ! 来る途中で見たけど、区域とか護衛のみんなは廊下でぶっ倒れてた!」
「はあ!?」
「たぶん無事なのは、ボクとみことだけ」
「最悪ですわ!」

わたくしが大丈夫だったのだから、何人かの破邪師は平気なのでは、という甘い考えはあっさりと打ち砕かれた。
巨大な妖に向かって走りながら、校庭に止めてある大須賀家の車に目線を送る。僅かに見えた車内の中では、数人の大人たちがだらりと力なく倒れていた。補佐班の人たちだ。
もう、頼れる者はいないと心がさらに追いつめられる。

「来るよ!」

ミチルが叫んだ途端、こちらを見下ろす妖がその長く奇妙な腕を振り下ろす。
正直、落とすといった方が表現としては近かった。

「――ッ!」
「ぐッ……!」

わたくしが右、ミチルが左に跳躍し、なんとか直撃を避ける。
抉れた校庭の土が周囲にばらけ、白衣越しの身体に小石がいくつも突き刺さる。その細かい衝撃に息が止まりそうになった。
そのままごろごろと地面を転がり停止したところで、慌てて膝をついて立ち上がる。
左に顔を向ければ、黒く大きな妖の腕がゆっくり持ち上げられるところだった。

「みこと、ボクが気を引く! だから鈴串で中心を砕け!」

砂煙と遠のく巨大な腕の向こう側から、姿の見えないミチルが喋っている。
彼女に対する反発心や、嫌悪感は、この非常事態で完全に消え去っていた。

「君が一番、力を残してる。時間を稼ぐ、だから!」
「わかりましたわ!」

決めてからは早かった。
標的に向かって走るのではなく、わたくしは横の山林に向かって足を踏み出す。
後ろから、更に破砕音が響いてくる。ミチルだ。ミチルが、戦っている音だ。
木々が倒れ、その勢いの風がこちらまで届く。

拓かれた学校近くから離れ、草木の間をとにかく駆けた。
あの山の中にいる妖の横か後ろに回り込みたい。
飛び出した枝が頬を引っかき、腕を打つ。
山を走る装いでないことは理解している。妖からは守ってくれる破邪師の衣装は、自然の中では動きにくく不便でしかない。けれど、あの巨大な妖の威圧感はいささか軽減されている。これを着ていなければ、そもそも動けていたか怪しい。

走って、走って、走る。
草を踏みしめ、地面を蹴る。

体力はとっくに限界だった。
けれど、ミチルに言われた通り、破邪の力ならばまだ内に残っている。

「――は、はぁ、げほ、げほッ」

3メートルほど先に座り込むようなとんでもない大きさの足を観測し、立ち止まる。近くの樹木に掌をついて、必死に呼吸を整えた。
こんな状況でもずっと握り締めていた鈴串を構えなおし、倒れ込みたい身体に鞭打ち相手を見据える。

普段、鈴串に力を込める時は無詠唱だ。
破邪区域の中で、妖に直接破邪の力を叩きこむ祭具なので、そこまで強い力を注ぎこむ必要がない。
言葉を必要とするのは、間に空間をかます破邪区域の発動や、能力がそこまでない破邪師たちだ。わたくしは、護符や鈴串ぐらいであれば、無言で済ませる程度の力はあった。

――けれど、今山に居座っているこの妖は、破邪区域内にいない。
つまり時間が経っても滅されることはない。

ならば、いつもより力を込めた一撃で、屠ってしまうほかない。

『ねがいますは このすずぐしに』

わたくしの小さな声は、妖から発される衝撃と誰かへの攻撃で掻き消える。
巨躯を丸め、上半身を乗り出すような姿勢になった妖は、狂ったように腕を振り下ろし続けていた。たぶん、その下でミチルが戦っている。

『かみさきよ つめさきよ めぐりて ながるる』

出し惜しみはなしだ。
身体中の破邪の力を手元の鈴串へ集中させる。

『うでよ あしよ めぐりて ながるる かたよ はらよ めぐりて ささげる』

とても短い時間が、とても長く感じた。
並の破邪師なら、とっくにやられているだろう妖の猛撃も、たぶん彼女ならと信じていた。
大丈夫、ミチルならまだ生きている。

『――破邪収束』

ひと際大きく鈴串が輝き、握りの部分も三段に並んだ鈴も、真白になってわたくしの力を宿したことを示していた。
休憩を挟まず、妖へと向かう。
早く倒して、ミチルへの攻撃を止めなければ、一族の者たちを介抱しなければ。
早く、速く、助けてあげなければ。

たどり着いたのは、巨大な妖のふくらはぎの辺りだった。
気が付かれる前に鈴串を真横に構え、斜め上目掛けて振り上げた。


【……ヒッ、イイィ、ヒイイイイイッ!!!!!】


ビリビリと鼓膜に響く、妖の大絶叫。
鈴串は光の刃を伸ばし、大きな身体を切り裂いていく。焼き切れていくような溶け消える手応えにまだ安心することはなく、わたくしは前進した。
ゆっくりと、その人形の下半身が分断されていく。
ミチルとやりあっていたせいか、妖は這いつくばるような姿勢になっていた。その下の方の身体や腕肘の部分も、削いで、まともに動けなくする。

――体勢が崩れた。

木々が押しつぶされる音と砂煙を巻き上げながら、巨大な妖が倒れていく。
まだ、まだだ。
ミチルが砕けと言った、その中心。
まずは目だ、それから全体を破邪の力で破砕しなければ。

地面に伏した妖の頭へと足を必死に動かす。
もちろん、鈴串は横になった妖を切り裂きながら。


「はあ、……は、ぁ、…ミチル、さ、ま」


再び校庭へと戻ってきたわたくしが見たのは、妖の頭から10歩ほど離れた位置でぼろぼろになったミチルの姿だった。白衣の袂や袴は裂けて、血が僅かに滲んでいた。
それでも、石の剣を正面に構え、彼女はしっかりと立っている。その前には彼女を守るように、見覚えのある銀灰の式神が牙を出して唸っていた。

よかった、ミチルは無事だ。
そのまま落ち着くことなく、わたくしは妖の頭に向かって、鈴串を振り下ろした。

【シィッイイイ、ギイッ――!!!】

光が弾ける。流れる。飛び散る。
苦しんでいるがこれではだめだ。破邪師とは妖を滅する者。祓うでもなく、支配するでもなく、無へとするのがその役目。

光を集めた鈴串を、押し込む。

――もう少し、もう少しなのに。


「…………あ、」

虚脱感と共に、間抜けな息が漏れる。
もう無理だと思った。
鈴串の力がどんどんと弱まってく。もう一度込めなおす残りもない。

救いを求めてミチルを探した。

彼女は、先ほどと同じ場所で、尻もちをついて、ぼんやりとこちらを眺めていた。
目の中に光はなく、口はだらりと開いている。
小さな狐が心配そうに、主の足にすり寄っていた。

「もう、だい、じょうぶ……?」

ミチルの口の動きを真似て、声に出して、頭を疑問が埋め尽くす。
この状況で、一体彼女は何を言っているのだ。
もう、わたくしに使える破邪の力は残っていない。ミチルも動けるような状態ではない。
では、どうして。

その問いの答えは、あっさりと示された。

倒れていた一つ目の妖の身体が、その端から崩れて消えて行く。
頭も手も足も。切断してバラバラになったパーツが綺麗になくなっていくのだ。
まだ、全てわたくしの鈴串で滅していないというのに、まるで破邪の力によって消滅するように、空へと散っていく。

まるで、そう、まるで。
――破邪区域でよく見る妖の最期のようだな、と思った。


「うあああー、終わったーーーー」


ずいぶんとだらしない声を出して、ミチルは校庭の土の上に寝ころんでいた。

「もう、無理無理ー。むらくもぉーみんなのこと見てきてくれる?」
「はい、お任せください!」

狐の姿をした式神が、校舎へと去って行く。
その後姿を呆然と見送りながら、わたくしは何が何だかわからなかった。

「あ、みことも生きてるう? 車の中のさ、倒れてたおじさんたちの様子見てきてくれない?」
「は、はい? それは良いのですが……」
「やったー。じゃあボクもうしんどいから。寝るね」

四肢をだらりと投げ出して、ミチルは本当に寝始めてしまった。

待っていても誰からも指示もないし、説明もない。
仕方なく、重い身体を引きずりながら、大須賀家の者たちの安否を確認することにした。
車にたどり着く前に、いくつかに分断された妖の塊は綺麗さっぱり無くなっている。あんなに圧迫感のあった巨大な存在が消えるというのは、不思議なものだった。
穴の開いた地面や、ひしゃげた樹木のみが、今はいない妖の名残だ。

車内の大人たちは数度呼び掛けて、残っていた微量の破邪の力を流せば、すぐに目を覚ました。
それでもほとんどの者が体調不良を訴え、疲れ切っており、片付け作業に加わるのが難しかった。まだ何とか動ける者が、携帯電話で慌てて本家に連絡している。
倒れていた補佐班も、校舎内の異常を察し救出に向かおうとしていたらしい。だが、車内に張っていた破邪区域を解除し、ドアを開けようとしたところで複数の妖が侵入、入り口を塞ぎそして爆散した。結果、校舎内の破邪師たちのように昏倒してしまったようだ。

しばらくすれば、学校の正面玄関から、数人の破邪師たちが肩を支えあいながら外へと出てくるのが見えた。まだ、動けるとわたくしは自身に言い聞かせて、救出を手伝う。

もうミチルとわたくししか、あの大きな妖に対することができなかったという状況に、死者も覚悟していたが、奇跡的に誰も一族の者は欠けることがなかった。
それなりの破邪師たちで来たことと、やはり八重の神の祝福だと、彼らは喜ぶ。
そして、危険な目に合わせてしまったと謝罪と感謝をされてしまった。


数時間後、麓の町で念のため待機していた一族の者や、大須賀家本家からの応援がようやく到着し、帰途につくことになった。
今回の作戦へ参加していた破邪師は、殆どが地元の病院へと直行し、大須賀家の息のかかった医者に託された。わたくしとミチルは一番の関係者なわけだが、状況の説明や増援への引継ぎなど全てわたくしがやるはめになった。ミチルがずっと寝ていたせいだ。

一族の人間に、何があったか話しながら、それでもわたくしはその全てを理解していなかった。わたくしたちだけ倒れずに済んだ理由も、山に現れた妖が滅された原因も。ともかく、自身の体験したことだけできるだけ正確に伝える。
学校の周りを、大須賀家の者たちが探っているし、きっとどうにかなるだろう。
他にも小さな疑問が湧いては消え、考えようとしてまとまらず崩れていく。

帰りの車の中ではあっという間に眠りに落ちた。
破邪の力も体力も、根こそぎ奪われたのだ。
もう、休憩したって罰は当たらないだろう。




◆ ◆ ◆ ◆




生ぬるい、液体の中を、わたくしはどんどん落ちていく。
下の方は、どす黒く、恐怖しかない色が沈殿していて、こちらを飲み込もうと、何本も何本もタコのような手を伸ばす。掴まれたくない、沈みたくない。

上の方は、温かくて、優しい。
ふと、慈愛に満ちた声が聞こえた。

「知らなかった。お前はすごんだな、みこと」
お父さま。

「あなたは、すごい子なのよ。みこと」
お母さま。

大好きな家族がそこにいる。だから、上に行かなければならない。

「だから、だから――八重の巫女になりなさい」

誰かの手を取って、走る。砂利を踏む。
並んで笑う。

大好きな家族に囲まれて、ずっとあそこにいたい。
それに――。

「みことって、まあまあ優秀だけど、ほんとダメだよね」

――張り付くような細長い手が、わたくしを一気に水底へと引っ張った。



「……嫌っ!」
「みことさまっ!?」



飛び起きたのは、どこかの和室だった。
畳の上に敷かれた布団を跳ね除け、良く知った襖や障子を認識し、ようやく肩の力が抜ける。ここは、大須賀家本家の一室だ。

「すみません、悪い夢を……みていたもので」

心配するようにわたくしを見上げていたのは、村雲だった。
左手を少し上げてみせると、彼はそこに額をこすりつけて、鼻を鳴らす。

「びっくりいたしました。もう平気でありまするか」
「ええ。十分睡眠はとりましたし、平気ですよ」

いつの間にか、和服に着替えさせられており、巨大な妖との死闘の際の、打撲やかすり傷もましになっている。大須賀家の者がやってくれたのだろう。
体力も、問題なく回復していた。

「あれからどれくらい経ちました?」
「翌日です。今は午の刻ぐらいでありまする」
「まだ、日曜ですか……よかった」

数日ぐらい寝ていたのでは、と思うほどの深い眠りだった。
傍にいてくれた村雲にお礼を言って、顔を洗おうと部屋を出る。できればお風呂にも入りたい。
廊下で本家の使用人と出会い、体調を心配される。それから、用意された朝食を食べ、一通りの身支度を済ませ、寝ていた部屋に戻ってきたところで、――彼女と鉢合わせた。

「おっはよー。もうお昼だけどね、みことさん」
「おはようございます。ミチルさま。お怪我などは大丈夫ですか?」
「元気だよ。眠くて、寝てただけだし」

嘘偽りなく、彼女は健康そのものだった。
茶色の長い髪は相変わらず楽しそうにはねているし、赤いフレームの眼鏡もいつもどおりどこかとぼけた印象だ。

「当主様から伝言なんだけど、昨日の状況報告、みことからも直接聞きたいって」
「わかりましたわ。今ですか?」
「ううん。夜に。さっき出てったから」

ミチルは廊下に通じる障子を開けると、そのまま庭につながるガラス戸を開けて、足を投げ出して座り込んだ。
わたくしは、その後姿を眺めるように、部屋の畳の上で正座する。

「お聞きしたいことがあるのですが」
「うん。いいよ」
廊下からぽてぽてと歩いてきた村雲が、ミチルの隣で黙って丸くなる。

「どうして、破邪師の方々はあんなに疲弊していたのでしょうか」
「なんかね、毒だって」
「――ど、く?」
妖らしからぬやり口に、瞠目する。

「嘔吐に、脱力感に、眩暈に、手足のしびれ? まあみんな大須賀の血族だし軽症だったらしいけど、アルカロイドってやつね」
「植物に含まれている、あのアルカロイドですか……」
「うん、まあね。瘴気の対策に呪いの対策に物理の対策に、対妖への色々はやってたけど、こんな人間にもできちゃうようなことは対策してないし、笑っちゃうよね」

そんなものは必要なかった。というか、妖から発する毒ならば、対策していたはずだ。けれど、それはあくまで妖が生成した毒に近いものへの対抗策であって、毒ではない。

「自然界からとりこんで、自身から密閉した空間に居続ける人間に使ってやろう、なんてヤバい奴だよ」
「……では、どうして、わたくしとミチルさまは何ともなかったのでしょう」
「身体の状態を正常に保ち続けるような、祭具を持ってたから」
「え?」
「別に解毒ってわけじゃないんだよ。できないし。ただ、体内の破邪の力を安定して回すように、不純物を回収する祭具があったから、まあなんとかなったね」
「そんなもの、わたくしは記憶に」
「ほら、破邪開始前にさ、結ばせたから」

そこで思い出される、鈴串へ式を結びつける見習いの男の姿。
確か、妖を滅した数を記録すると、取り付けられたそれ。
ずっと違和感のあった、ミチルの姿。
どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのか、自分の情けなさにため息が出る。彼女の隣にいつもの銀灰の毛玉が足りないことに、気持ち悪さがあったのだ。

「あの見習い、あなたでしたのね、村雲」
「うう、お許しください。みことさま」

尻尾をぶるぶるふるわせて、彼はミチルの膝にすがっている。それを彼女は慣れた手つきで撫でていた。

「いやあ、だってー、ボクか村雲が本来の用途言って巻こうとしたら絶対余計なお世話ですわって言うじゃんー」
「それは、えーとどうでしょうね」
「みことはそういうこと言いますぅー。それに、何も起こらないかもしれないし、そしたらただの布だし、バレなきゃいいかなって」
「どうして、そこまで」
「ボクたち八重の巫女候補だよ。万が一でも欠けたらどうすんの?」

予想以上に冷たい一言だった。
振り返ったレンズ越しの眼は刺すようで、鋭い。

「何もなければ、それでよし。でも十分注意する、ぐらいの気でいないとさあ」
「……おっしゃるとおりですわね」
「でしょー。こういうとこが、みことの持ってない部分ねー」

緩い声音で、彼女はわたくしの心を丁寧に押しつぶす。

「……では、最後の妖の消滅は? わたくしは滅しきれなかったのですが」

窒息寸前で、何とか息をするように、別の質問を投げかける。

「あれはいつものやつだよ。時間切れで破邪区域にて消滅、って感じ」
「ですが、あの時、校庭では誰もそんなことは……」
「ボクが事前に、山ごと破邪区域にしといたからだけど」
「――は?」

それは非常に納得がいく説明で、欠片も信じたくない真実だった。

「なんで遅れてきたと思ってんの? マジでのんきにラーメン食べてただけって?」
「う、うそです。あの広さを?」
「まあ、だいたい村雲に護符の設置は頼んだけど……ああ、力の話? むっちゃギリギリまで弱めてばれないように発動したから、そんな使ってないけど」
「それも、万が一ですか」
「だって、山入るの気持ち悪かったじゃん。万が一だよ」

破邪区域は、力の半分以上を消耗する、破邪師の基本技だ。
作成できる規模や、その効果は、術者の力量による。

今回学校での仕事で、校舎全体を覆うのに、複数人の強力な破邪師が関わった。もちろん、通常よりも強力なものを作成するためだが、何より囲う範囲が大きかったからだ。
それなのに。

「もう、そろそろ気が付いた?」

庭へと顔を向けたまま、ミチルはわたくしの方を振り返らない。自身の式神を撫でる手も一定の動きで、平常のまま。

「叶わない夢を見て、必死に修行するみことは、それはもう滑稽で面白かったんだけど、――飽きちゃって」

クラスメイトたちと、次の授業は何だっけと、どうでも良さそうに話すいつものノリで。

「今月末に八重の巫女決定じゃん? そろそろ本当の実力差ぐらい、わかったら? 多少賢いんだから」

彼女は、恐ろしいことを言い放った。

「あいつが結局出てきたのも、校内の破邪師が全部倒れたからじゃなくて、ボクの破邪区域にとうとう耐えられなくなって現れただけだし。みことが砕いたから少し早くなったけど、ボクが区域の出力上げたから消滅しただけだし」

畳に、手をついて爪を立てた。そうして堪えていないと、まずいものが溢れそうだった。


「だから言ったでしょ。八重の巫女はボクのものだって」


わたくしが、いつまでそうしていたか覚えがない。
知らぬ間に日は沈んでいて、ミチルはいなくなっていて、どこにもいけないまま取り残されていた。当主への報告の時も、幻の中にいるようで心はそこにほとんどなかった。

あとはもう颯のように日々は過ぎ去るだけで。

期末テストは大した力も出せず、いつも通りのミチルの下。
夏休みに突入しても、ふわふわと地に足付かない心地で修行を無為に続けるだけ。

そして、八重の巫女選定の会合前の、最後の日。
大須賀家の破邪師たちに見守られる中、わたくしたちはこれまでの成果を発揮すべく宝玉へと力を込める。

わたくしが、15個。ミチルが37個。

汗を流しながら、ぜえぜえと畳の上で蹲るわたくしの隣で、ミチルは涼やかに微笑んでいた。


「第14代、八重の巫女は――大須賀ミチルとする」


翌日、一族の者が集まる大広間にて、その発表を聞いたとき。

わたくしは、自身の心が壊れる音を聞いた。
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