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2章 デビュー戦

34話 地区予選四継・決着

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(別にこっちが遅くなってるわけじゃねえ……てことは、相手が速くなってやがる! バトンパスじゃトドメの跳躍フィニッシュ・ジャンプも使えねえときた……クソッ、悪い、美咲! 部長! 打ち手なしだ、3、4走で挽回してくれ!)

 麻矢は敗北を悟ると、正確なバトンパスに気持ちを切り替える。
 経験の浅い選手であれば、想定外の展開に、自身の走りや思考まで乱されてしまうだろう。
 しかし麻矢には、打つ手なしと判断すると同時に、自身にできる最善の行動を選択し、実行できるだけの強さがあった。
 
「2走、2番手で来ます! 速度修正なし、無風!」

 香織は内心焦り、手をぎゅっと握る。
 しかし麻矢に応えるように、冷静さを欠かずに役割を果たす。
 その肩には、励ますようにロリ先生の手が優しく置かれた。

「美咲ーっ! 頼んだ―っ!」

 バトンを渡すと、悔しそうな表情で麻矢が声援を送った。
 
(言われなくても……頼まれるわよ!)

 予選後に再調整したこともあり、麻矢と美咲も完璧なバトンパスをした。
 しかし立身大付属も『日本式』アンダーハンドパスを成功させる。
 オーバーハンドパスからでも、積み重ねた練習によって、美咲は理想的な加速ができる。
 この区間においては、美咲の練度の高さもあり、バトンパスの優劣は存在しなかった。
 コーナー走の精度においても、美咲の技術をもってすれば、5レーンなど直線と変わらないタイムで走れる。
 立身大付属の3走は、美咲ほどのコーナリング技術をもっていない。
 しかしコーナーの緩やかな6レーンだったことが幸いし、コーナーによるロスはなかった。
 つまり、両者は完全に互角の条件。
 しかしそれ故に、受け取ったポジションと、走力で勝負は決まる。
 
「あーっ! なんで、なんであんなに完璧なコーナリングなのに……抜けないんだよっ!」
「あの3走の選手、100mで12秒6のタイムを持ってる……いくら技術があっても、これだけ条件を揃えられたら、ベスト12秒7の美咲先輩じゃ分が悪いっ! けど、多分部長に渡ったところで0.3秒差程度……部長ならっ!」
 
 くやしがる陽子に、伊緒がまくしたてる。
 伊緒の解説を聞き、部員の誰もが希望を抱いた。
 部長なら何とかしてくれる。と。
 立身大付属の4走は、400mで優勝した渋沢栄子しぶさわえいこだ。
 強豪立身大付属の部長を務めるだけあって、安定感とスピードともにある強い選手だが、ショートスプリンターの宗や幸に比べれば、100mという距離においては一段劣る。
 対する蒼も100mは本職でないものの、部内の加速走タイムトライアルでは瑠那に次いで2位の実力を誇る。
 スターティングブロックを使用したタイムトライアルでは麻矢に及ばないが、10mの加速距離さえつけば……つまり、四継と同じ環境では、蒼は麻矢を上回る。
 さらに蒼が、練習のタイムトライアルでは完全な本気ではないことを、みんな知っている。
 抱えた爆弾の詳細は、ロリ先生の他は同期である3年生しか知らないが、蒼が何かしらの爆弾を抱えており、練習では枷を嵌めた状態なのは周知の事実だ。
 そして大会当日には、練習時よりも一段速い実力を見せつけることも。
 さらに3年生は、蒼が普段の大会で発揮する実力よりも、さらにもう一段上のギア……かつて短距離界で『蒼炎そうえん』の名を轟かせたほどの速さも知っている。
 だからこそ、期待してしまう。
 これまで数多の逆転劇を生んできた、夏の森最強の”元”スプリンターに。

「先生……許可をお願いします。どうか”勝つ許可”を」

 懸命に走る美咲を見ながら、蒼が無線を入れる。
 このままの成り行きでは、夏の森の敗北は必至だ。
 だからこそ、誰もがアンカーの蒼に逆転の淡い期待を抱いているのだ。
 つまり、勝つには成り行きの未来を超える力……限界を超える力が、必要になる。
 蒼が言葉にしなくても、ロリ先生には、そして3年生には、蒼の求めている許可が何なのかが分かった。

 再燃焼推進アフターバーナー
 封印されている、限界を超えるための技。
 意図的に心臓に圧を加えることで血流を速め、一時的に超人的な身体能力を得る。
 しかし当然、その代償は大きい。
 まず現実のアフターバーナー同様に燃費が非常に悪く、使えるのは最大でも3秒に満たない。
 さらに心臓への負荷が尋常ではなく、かつてこの技を編み出した当初、多用した蒼は緊急搬送された経験を持つ。
 その結果、蒼は心臓にダメージを負い、技を封印すると同時に、短距離界を去ることになった。
 
 しかし今の蒼は、高校生になったばかりの未熟な1年生の頃とは違う。
 蒼自身、各段に丈夫になった今の自分なら、あの頃よりも上手く技を操れる、少なくとも倒れはしないという自信はある。
 それでも、ロリ先生は封印を解かない。
 安全だという確証がないのだ。
 定期的な精密検査の結果、心臓のダメージについてはほぼ回復したことが確認できている。
 しかしもう一度、再燃焼推進アフターバーナーを使ったとして、今度は耐えられるなど誰が言えようか。
 仮に一度は耐えられたとして、その後、何度まで、どんな頻度まで、問題ないと言えるのか。
 命に関わるほどの影響が出なかったとして、選手生命ならばどうだろうか。
 リスクが、あまりに大き過ぎる。

 蒼には、類まれな陸上競技の才能がある。
 400mの才能はもちろん、転向直後から好記録を連発している走高跳、さらに将来的には棒高跳や、7種競技も視野に入る。
 高校卒業後も大学でトレーニングを続ければ、いずれ世界で戦える逸材だとロリ先生は確信していた。
 いや、蒼を知る陸上界の多くの指導者が同じように期待し、一部はすでにスカウトのコンタクトを取っているほどだ。
 だからこそ、蒼の身体は安全第一だ。
 これからの長いキャリアを、ここで狂わせるわけにはいかないのだから。
 
 つまり、ロリ先生の答えは聞かれるまでもなく決まっている。
 
「ダメだ。許可はできない。悔しいが、今日のレースはうちの負けだ……このレースは2着でいい。”いつも通り”の全力で帰ってくるんだ」
「……了解です」

 ロリ先生は自分の感情を押し殺すように、選手以上に悔しそうな声で「うちの負けだ」と言う。
 そして隣のオペレーター席にいた立身大付属の監督、凌は、その言葉を聞き逃さず嬉しそうに笑顔になった。
 
 バトンを受け取り、”いつも通り”の全力で走った蒼は、立身大付属に次いで2着でゴールした。
 立身大付属が46秒57。
 夏の森女子が46秒66。
 予選から大幅にタイムを上げた2校の接戦となった。
 3位が49秒台なことからも、その速さがよく分かる。
 しかし夏の森は、0.09秒差で敗者となった。
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