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2章 デビュー戦

32話 地区予選100m決勝

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 インターハイへ続く道のりの一番最初である地区予選とはいえ、100mの決勝には、やはり雰囲気があった。
 予選タイムの上位8人が1組目としてスタートラインに立ち、名前が読み上げられると手を挙げて挨拶をする。
 予選では進行の都合上、時間短縮のため名前が呼び上げられない。
 こういったところも、決勝は特別だ。
 さらに100mは直線走路で段差スタートではないため、選手が横一線に並んでスタートすることも他の種目と違う点だ。
 メインスタンドに一番近い場所で選ばれし8人が並び、最速の座を賭けて戦う。
 陸上競技の数ある種目の中でも、100mが特別な扱いをされるのには理由がある。
 だからこそ、最も競技人口が多く、熾烈な戦いが繰り広げられる競技だ。

「4レーン、立身大付属、松下幸まつしたさちさん」
 
 立身大付属の2年生で、次期部長と目される幸の名前が読み上げられる。
 バックストレートに陣取っていた立身大付属の部員達は、100mの決勝に合わせてメインスタンドに移動している。
 統制の取れた応援団と化しており「さーちー!」と大きな声援で存在感を示している。
 もちろん、手には彼女達のアイデンティティとも言える”R”の旗が握られている。
 これだけの応援団がついていれば、走る方も心強いだろう。
 
「5レーン、夏の森女子、湖上瑠那こじょうるなさん」

 瑠那の名前が読み上げられ、スタンドから一際大きな拍手がされる。
 立身大付属の応援団は拍手の大きさで負けたのが気に食わないようで、不満げに陽子達を見てくる。
 しかしこれは仕方ないのことだ、瑠那は夏の森の陽子達だけではない、この競技場の全員が注目しているのだから。
 1年生とはいえ優勝はほぼ確定と言ってよく、観衆の興味は生で見る瑠那の本気の走り、そして記録だろう。
 
「6レーン、夏の森女子、文月麻矢ふみづきまやさん」

 予選2位の麻矢は、瑠那の隣を走る。
 このステージに立つのも3年目、ベテランの麻矢に緊張はないようで、堂々とスタンドにお辞儀をした。
 立身大付属に負けないよう、陽子達も精一杯声を張り上げて声援を送る。
 声援を聞いて右腕でガッツポーズをする麻矢を見て、一同は調子が良さそうだと安堵した。

「7レーン、立身大付属、本田宗ほんだそうさん」

 麻矢の隣には、立身大の1年生の宗だ。
 現在の立身大で一番の才能を持っているのは、おそらく彼女だろう。
 4レーンを走る幸とともに、夏の森の2人を挟む形で走ることになる。
 朝の出来事のせいか、あからさまに瑠那の方を見て意識しているのが分かる。
 しかし瑠那は気付いていないようで、ゴーグル越しにただ真っ直ぐ、ゴールを見据え立っている。

「あー、見てるこっちが緊張してきました……。勝敗よりも、どんな走りが見られるのかで」
「分かる。瑠那さんと麻矢先輩なら勝てるって信じてはいるけど、それ以上に、どんな走りになるのか……」

 花火と伊緒は、そわそわと落ち着きなく、興奮を隠せずにいる。

「ビッグネームとはいえ、瑠那さんもまだ1年生ですから。都大会は確実でしょうが、立身大付属も速いですからね、あまり油断はできませんよ」
「麻矢はこういうステージでこそ強いけど、立身大付属の1年生の子……多分、相当速い。勝てるかしら」

 蒼と美咲の3年生組は立身大付属の強さをよく知っており、冷静だが心配をしている。

「さぁ、そろそろ走りますよ」
 
 つい先ほどまで声援が飛び交っていた競技場は「位置について」のコールで静まり返る。
 旗を振る手を止めた立身大付属の応援団も、緊張かぎゅっと旗を握っている。

(瑠那……頑張れ! 立身大付属の連中なんて気にしなくていい、あの美しい走りを、みんなに見せてやれ!)

 陽子が心の中で声援を送ると同時に、号砲が鳴り響く。
 まだ残響が消えないうちに、先頭へ飛び出したのは瑠那、そして麻矢だ。
 しかし流石は立身大付属の2人も12秒台の選手、大きくは引き離されない。
 むしろ、先頭の4人で5着以下の選手をどんどんと引き離していく。

「は、はっえぇぇぇ!」

 ざわめくスタンドに気をよくした立身大付属の応援団が、さらに声を張り上げる。
 負けないように陽子達も声を張り上げ「瑠那―!」「麻矢先輩ー!」と声援を送る。
 60mを通過したところまできて、瑠那は大きく後続を引き離していた。
 しかし2位を走る麻矢に、7レーンから宗が迫る。

「あぁ! 麻矢先輩ー! 粘ってくださいー!」
「あの子、本職は200mの選手とは聞いていたけど……1年生ですでにあれだけの後半の伸びがあるなんて! 麻矢、負けるなー!」

 ほぼ真横につかれ、2着争いだ。
 4レーンの幸も迫るが、麻矢と宗の方が速い。
 終盤に宗が伸びるが、麻矢だって、人員不足もあってマイルで400mを走るような選手だ。後半には決して弱くない。
 1位で独走状態に入った瑠那がゴールしようとするが、後ろを走る麻矢と宗はまだ競り合っている。

(クソッ速いなぁ! ここで負けたところで都大会には行ける……が、1年2人に、それも片方は立身大付属だなんてなぁ!)

 麻矢は競り合いの中で考えを巡らせる。
 常にベストに近い走りをできる麻矢だからこそ、宗の速さが嫌なほどに分かった。
 麻矢の心の強さは、自身の能力を最大限に引き出す力。
 対して宗からは、麻矢以上の才能と、強い勝利への渇望が感じられた。
 どれだけ力を引き出しても、宗の走りには勝ち切れない。

(まったく、今年は天才がポンポン出てきて困るぜ……でも、やっぱり負けるのは癪だよなぁ! だったら……使うしか、ねーよなぁ!)

 麻矢には自分の実力を、そしてこれまでの鍛錬を信じる強さがある。
 そしてどんな土壇場でも、その成果を発揮できる。

「抜かれちゃう、抜かれちゃいますよ!」
「まだ……麻矢には、最後に”アレ”がある!」
「えぇ、麻矢ならこの局面、使うはずです……!」
「”アレ”……?」

 下級生が動揺する中、蒼と美咲だけが、まだ麻矢の勝利を諦めていない。
 瑠那が1着でゴール、そして麻矢と宗が今、競り合いながらゴールしようとするが……。

(いくぞ……! )
「「いけ、麻矢ー!」」

「「トドメの跳躍フィニッシュ・ジャンプ!!」」

 まるで猛獣が獲物に飛びかかるかのように、麻矢は前方に大きく、そして猛烈な勢いで跳びながらゴールした。
 麻矢の強力な地面を引っ掻く力と、地面を蹴る最後まで引っ掻けるように、スパイクの爪先にまでピンを延長したバイパーピン。
 これら2つを巧みに使った、麻矢の必殺の一撃だった。
 タイミングがズレれば逆効果どころか、転倒の恐れもある。
 フィニッシュアクション以上に高度な技術と素質が求められ、常人であれば博打にも思える技。
 しかし、麻矢は成功させた。

「どっちだ……!?」

 トドメの跳躍フィニッシュ・ジャンプをもってしても、その着差は分からないほどだった。
 電光掲示板に視線が集まるが、まだ写真判定に時間がかかっているようだ。
 そしてまず最初に、1着の瑠那の名前が表示される。

「1着、夏の森女子、湖上瑠那さん。12秒15」
「12秒……15!? 『磁器人形ビスクドール』健在! しかも中学時代から、さらに速くなってる!」
「1年生ですでに全国レベルじゃん……関東6強って、あと5人いるんでしょ? 今年の関東は荒れるなぁ」

 驚きの歓声の後に漏れるのは、ため息。
 あまりの速さに、地区予選で相手になる選手はいなかった。
 しかし問題は2着、そして3着の争いだ。
 新人戦の王者、3年生の麻矢か。
 瑠那に続くルーキー、1年生の宗か。

「2着……夏の森女子、文月麻矢さん。12秒40。3着、立身大付属、本田宗さん。12秒40。着差ありの同タイムです」

 電光掲示板には、公式記録には残らないが、1,000分の1秒単位のタイムが表示された。
 12秒392、12秒395と表示されており、0.003秒の決着だったことが分かる。
 結果が表示されるとともに、麻矢が腕を天に突き上げる。

「勝った……ワンツーフィニッシュよ!」
「えぇ、やりましたね。麻矢」

 瑠那の肩に腕を回し、ゴール地点からスタンドに向かって笑顔を向ける麻矢を見て、蒼と美咲が手を振っている。

「瑠那―! 麻矢せんぱーい! おめでとうございまーす!」

 駆けつけた香織からタオルを受け取っている2人に向かって、陽子達も声を張った。
 4着は立身大付属の幸で12秒64。
 宗とともに悔しそうな顔で夏の森勢を見てから、静かにトラックを去った。
 四継の決勝までの時間は僅かに1時間。
 リベンジのため、すぐに身体を休めるのだろう。

「大丈夫? 宗ちゃん」
「身体の方は大丈夫ですよ、幸先輩。でもまさか、ここまで速いとは、正直思っていなかったです。それに3年の文月さん……走力なら僅差で勝ってたはずなのに! 必ず、四継で勝たないと……あんな弱小チーム相手なのに!」
「監督はきっとお怒りよ。湖上瑠那はまだしも、文月さんとのワンツーフィニッシュは……四継で必ず挽回しないと」
「はい……必ず」

 立身大付属の2人は静かに会話すると、更衣室に消えた。
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