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1章 入部

17話 心の強さ

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「っしゃおらぁぁ! いくぜいくぜいくぜぇぇ!」

 バトンを受け取った麻矢は、気合を入れるように雄叫びを上げながら猛烈な加速をしていた。
 同時にバトンパスをしたはずが、一瞬で4位まで順位を上げる。

「陸上部上級生チーム、ついに4位に順位を上げました! 一番アウトコースでのバトンパスという条件は、もはやハンデにならなかったようです。5位は同じく陸上部の新入生チーム! 6位にラクロス部ですが、どんどん引き離されていきます!」

 レースの主眼は、もはや第2集団ではない。
 先頭集団に陸上部が追い付けるか、そして最終的に追い抜けるのか。
 ギャラリーの視線は、先頭集団を猛追する麻矢と陽子に注がれた。

「麻矢先輩、速い! 先頭集団も校内随一の身体能力を誇るメンバーが走っていますが、それを大きく凌駕する猛追! このペースならば4走は先頭集団と並んでのバトンパスとなりそうですが……ここで驚くべきは陸上部新入生チームの日向陽子! やや離れた位置ですが、同じく先頭集団との距離を縮めています!」
「面白くなってきたなー! リレーにおいて、うちの”最強”が蒼ちゃんなのは周知の事実だが、個人100mのタイムなら麻矢ちゃんが上! というか、まぁ蒼ちゃんが100mの公式記録なしってのが理由だが……しかし! これだけは言える。麻矢の東京ベスト8の実力は、本物だぞ!」

 ギャラリーを含め、麻矢の実力を疑うものは誰もいなかった。
 大きな腕振り、やや低めの重心での走り方は、一歩一歩が地面に食い込むようだ。
 事実、その足跡はスパイクでもないのに、誰よりもくっきりと地面に残っている。
 チーター以外で、脚の速い動物を思い浮かべてください。と言われて思い浮かぶような、軽快な草食獣の走りとは真逆。
 むしろその草食獣の筆頭、カモシカなどを狩るような、大型の肉食獣のような荒々しさを感じさせる走りだ。

(くっ……予想はしていたけど、流石に麻矢先輩は速い! 学年の違い以上に、自分の走りへの絶対の自信を感じる。自分との間に……確実な、格の差がある!)

 実際に一緒に競ってみて、陽子は実力の差に強い焦りを覚えた。
 自分と瑠那で何とかする! そう豪語して花火と伊緒を見守ったのだ、今度は自分の番だと気合を入れる。

 東京ベスト8を相手にしているとはいえ、世間から見れば陽子も十分以上に速い。
 陽子だって、100mで都大会に出場したことがあるのだ。
 しかし、”都大会に出場したことがある”陽子と、”都大会の決勝まで戦い抜いたことがある”麻矢の経験、実力の差は非常に大きい。
 予選、準決勝、決勝。徐々に下位から振り落とされていく戦いを、1日で3度も走るのだ。
 並大抵の体力、メンタルでは戦い抜けない。
 陽子はその戦いを、地区大会レベルでしか戦い抜いたことがないのに対して、麻矢は都大会でも経験しているのだ。

 さて、麻矢の強さを語るためには、少し話を脱線させる必要がある。
 陸上競技に触れたことがない人が持つ、よくある疑問についてだ。

「ただ本気で走るだけなのに、どうして走るたびに結果が変わるの? 怪我をしてるわけでもないのに、良いとか悪いとか、そんなに差が生まれるもの?」
 
 体育の時間に50mを何度か走った場合、体力切れやよほどの失敗がなければ、生まれるタイムの差はせいぜい0.1秒程度だろう。
 手動計測なら10分の1秒単位でしか記録を残さないため、0.1秒といえば記録で見える最小単位だ。
 複数回走って、最小単位の差が生まれるかどうか……それなら、コンディションの差や走り毎の良し悪しなんて、あってないようなものではないかと。
 そうした経験に照らし合わせて考えれば、この疑問はもっともだ。
 しかし陸上競技の現実は、もう少しミクロでシビアである。

 まず、距離が延びればタイムの差は広がる。
 先の例で言えば、50mで0.1秒の場合、100mならば単純計算で0.2秒の差が生まれるのだ。
 分かりやすく、距離で示そう。
 麻矢の100mの自己ベストは12秒50。
 平均して秒速8mで駆け抜けることになる。
 では、0.1秒なら? 0.8mだ。
 0.2秒となれば? 1.6mだ。
 僅か0.2秒の差でも、並んで走れば丁度、身長に相当するほどの差が生まれることになる。

 次に、体力だ。
 速く走るためには、高速で身体を動かす必要があり、当然、体力を使う。
 本当に全力を出すべきは決勝だが、それは2レース分を勝ち抜いた者しか走れない。
 準決勝ともなれば勝利を確信してから力を抜くこともあるが、少なくとも予選は最初から省エネで走りたいところだ。
 となれば、どれほどの出力で走るか、事前に考えておく必要がある。
 そのレースで結果的に同じタイムだったとしても、そこに至る過程が大いに違うかもしれない。
 そうした差は、次のステージでじわりじわりと現れる。
 
 最後に、風についても挙げておこう。
 一般的に、風速1mにつき0.1秒の影響を受けると言われている。
 追い風が2m吹けば0.2秒ブーストすることになるが、向かい風が吹けばタイムが悪くなるばかりか、体力まで削がれてしまう。
 また、あまりに強い風は普段のフォームを崩すことにもなり、実際のところは正比例でタイムに影響するわけではない。
 
 こうした様々な要素が絡み合った末に、100分の1秒刻みのタイムが生まれるのだ。
 さらに言えば、正式記録には組み込まれないが、順位の判定のためには1,000分の1秒まで計測されている。
 これは距離にして、8mmだ。
 走ったあとに、さっきの走りより8m分遅かったからイマイチだったな。などと分かるだろうか。
 まず、普通は分からないだろう。
 しかし陸上選手は、身体との対話を通して、そうしたミクロな変化を敏感に感じ取るのだ。
 
 人のコンディションは、日々……いや、細かく見れば一瞬ごとに変わるだろう。
 さらに、これだけのシビアな戦いだ。
 もし、隣の選手が予想以上に速いスタートをしたら?
 焦って走りが固くなってしまうだろう。
 もし、いつもより風が強かったら?
 上手くフォームを整えられないだろう。
 もし、炎天下で、軽く走ったはずでも体力の消費が激しかったら?
 次のステージは万全の体力では挑めないだろう
 もし、もし、もし……勝負に関わる要素は、無限に積み重ねられる。

 そんな世界で最も重要とされるのは、結局のところ、”心”だ。
 こと100mにおいて、他の選手は直接的な関与をしてこない。
 競い合う相手とはいえ、影響は視界に映り込むことだけだ。
 競技場で起こりうる環境の影響も、他の選手と平等だろう。
 ならば、本当の敵は自分だけだ。
 自分の走りを、ただ研ぎ澄ませればいい。
 これまでの自分の努力を信じ、ただ全力で走るだけだ。

 麻矢は、誰よりもブレない心を持っている。
 周りに何が起きようと、自分は自分。
 自分にできる走りは変わらない。 
 バトンを受け取ってから、蒼まで繋ぐ。
 何位で受け取ろうが、相手までどれだけの距離があろうが、麻矢は迷わない。
 ただ自分の全力を、ベストの走りをするだけだ。
 そういう、ある意味ドライな、修行僧にも似た境地に麻矢はいる。
 
 誤解なきよう説明すれば、決して、麻矢は一人で走りたいわけではない。
 競った相手に勝てば嬉しい、負ければ悔しい。
 ただ麻矢の戦いとは、心の戦いなのだ。
 肉体を極限まで鍛え上げることは、もはや前提。
 その上で心を乱さず、肉体の発揮できる最高のパフォーマンスをする。
 その上で負ければ、もはやそれは才の差だろう。
 しかし同格の相手と競ったとき、最後に勝負を分けるのは心だ。
 そうした戦いを制したとき、麻矢は勝利を実感する。

 しかし、誰よりもブレない心を持っている麻矢とて、完全はない。
 むしろ、心の強さにこだわるからこそ、僅かな乱れも反省する。
 そしてさらに強く、強く、心を鍛え上げていく。
 自分の立ち位置を気にしてしまう陽子にはない、強靭と言える心の強さを麻矢は持っている。
 
(離される……! 得意の中間疾走でも、全然太刀打ちできない! これじゃあ瑠那に上位で繋ぐことが……! だめだそんな、瑠那に、瑠那が、瑠那……!)

 陽子が焦れば焦るほど、麻矢との差は広がる。
 どんな走りをすれば速く走れるか、そんなものは走る前から決まっているのだ。
 視界に映るライバルがどうしようと、自分にとっての最高の走りは不変だ。
 しかし、陽子はまだそのことには気付かない。
 それでも、麻矢との距離こそ離れるが、先頭集団との距離は着実に縮まっている。
 
(陽子ちゃん、足掻いているな。相手の強さと、自分の弱さを認め、自分の走りを変えないことがこの場で求められた強さだ……。しかし、自分の弱さを認めたくない気持ちは痛いほどに分かる。それは心が弱いからじゃない、きっと、”想い”が強いからなんだろう。だったら、今日だけは肩を持ってあげよう。”心の強さ”に、”想いの強さ”で挑んでみろ)
 
 陽子をじっと見つめていたロリ先生は、リンゴ飴をガリッとかじる。
 青いことも、若い子の特権だよな。と心の中でつぶやくと、マイクに向かって口を開いた。

「さぁ綾乃ちゃん! 3走が必死にバトンを繋ごうとする相手……4走についても、今のうちに解説しとこっかー。で、大注目な『磁器人形ビスクドール』の瑠那ちゃんなんだがなー」

 走っている陽子の耳が、ピクリと反応した。
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