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三十二
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春の気配が感じられる穏やかな日、岐城君邸は喜色に溢れていた。
「おめでとうございます、男の子です」
助産師の声に屋敷の者たちは歓声を上げ、主人は大急ぎで産婦のもとへ言った。
「よくやった」
岐城君は小尚宮の手を握ろうとした瞬間、彼女の顔の上に亡き妻の笑顔が浮かび上がった。
“姫、がんばったね”
彼は“妻”の顔の汗を拭いた。
「若君でございます」
助産師に抱かれた赤子はにっこりと笑った。それは結婚後、初めて見た妻の笑顔を彷彿させるのだった。
新しく迎えた小さな家族に、岐城君と小尚宮、大尚宮を始めとして屋敷の者たちは翻弄されるような日々を送り始めた。それは、楽しいことでもあった。
岐城君はいつも若君を側に置いた。仕事(といっても殆どないのだが)の時は、側に布団を敷いて寝かせたり、小尚宮に抱かせて侍らせたりした。時々、自ら抱いて庭を散策したりもした。
夜も自身の横に隣に寝かせて、夜泣きをすれば、あやしたり、襁褓を手ずから替えたりもした。
時々、自身で沐浴をしたりと、岐城君は子供の世話をよくするのだった。
「私のすることはただお乳をあげることだけですね」
小尚宮が笑ながら言うと岐城君は
「それが出来るのは“母さん”だけだからね。私には無理だ」
と楽しそうに答えた。子供が生まれてから岐城君は小尚宮のことを“母さん”と呼ぶようになった。
周囲が暖かく見守るなか、若君はすくすくと育っていった。
ただ寝ているだけだったのが、いつの間にか座れるようになり、這って動けるようになった。
側の布団にいた若君が気が付くと岐城君の膝を掴んでいたということがしばしばあった。
その度に「お父さまのお仕事を邪魔してはだめでしょ」と小尚宮、大尚宮は若君を抱き上げようとするが、岐城君はそれを制し自ら抱き上げて膝の上に座らせたり、あるいは抱いたまま庭を散策するのだった。
若君の成長は、岐城君に既視感を抱かせた。亡き妻の生前の姿だった。
結婚した当初は起き上がることも出来なかった彼女が座れるようになり、少しづつ動けるようになったのだった。彼女がもう少し生きられたら、歩けるようになり、やがて普通の夫婦のように暮らせるようになったのではないか、岐城君の脳裏に妻と最後に過ごした一夜が蘇るのだった。
こうした中で若君は一歳の誕生日を迎えた。
異母兄の王やかつての使用人たちからお祝いの品がたくさん届いた中で、若君の初度弧宴(一歳の祝宴)が行われた。
可愛く着飾った若君の前に膳が置かれ、その上に書物や筆、紙、葉銭、小さな弓、短剣、生糸等が並べられた。これらのうち、どれを掴むかで子供の将来を占うのであった。
岐城君や小尚宮、大尚宮、その他屋敷中の人々が見守る中で若君は書物を掴んだ。
人々は歓声を上げた。
岐城君は若君を抱き上げると、
「そうか、お前は学問をして人々のために尽くす人間になるんだな」
と喜んだ。子供は父親の言葉を理解したように微笑んだ。
その後も若君は日増しに成長し、自分で歩けるようになると、あちこちを動き回って周囲の者たちを振り回した。
しかし、岐城君が絵を描き始めると横に座って筆を取って何かを、といっても単に筆を紙に叩きつけたり線を引いたりするだけだが、描くのだった。
岐城君は息子の“作品”に手を加えて、花や風景に仕上げた。かつて、亡き妻と共に描いたように。
彼は子供を抱き上げた。子供は父親を見てにっこりと笑う。その笑顔は亡き姫君とそっくりだった。
子供は三歳までは、現世と幽界の間に漂う存在だとよくいわれる。医療が未発達の時代、乳幼児の死亡率は高く、それだけか弱い存在だったのである。
元気だった若君がある日、急にぐったりし、倒れてしまった。
岐城君は大急ぎで医者を呼んだが、症状は芳しいものではなかった。
「恐らく今夜が峠でしょう」
岐城君はもとより、小尚宮、大尚宮も側に付き添い若君の看病をした。
「ちちうえ、ちちうえ」
若君の呼び声に岐城君は顔を上げた。
周囲は真っ暗で前方が薄ら明るくなっていた。そこには見覚えのある姿があった。
「また、あいつか」
妻と朴尚宮を冥界に送った美少年だった。
「今度は息子を連れて行く気か」
岐城君が怒鳴ると、少年の背後に二人の女性の姿が現れた。一人は弓を手にし、もう一人は布団の中で寝ている息子に覆い被さるように庇っていた。
「朴尚宮、姫!」
彼の愛した女性たちだった。
「お戻りなさい、さもないと…」
朴尚宮の言葉に振り向いた少年は、無視して近付いて行った。彼女は躊躇わず弓を引いた。
矢は命中し、同時に少年の姿もかき消えた。
「朴尚宮!」
岐城君の呼びかけに彼女は笑顔で応じた。
「ちちうえ、ちちうえ」
再度の呼び声に彼ははっとした。息子の側にうつ伏してしまったのであった。
身体を起こして息子の顔を見た。
「のどがかわいた」
息子はしっかり目を開けて飲み物を要求した。
「ああ、気が付いたのか」
岐城君は息子を抱きしめた。その間に小尚宮は白湯の入った器を持ってきた。
器を受け取った岐城君は子供に白湯を飲ませた。
ごくごく飲んでいく若君を見ながら、岐城君も小尚宮、大尚宮も涙を流しながら喜ぶのだった。
「おめでとうございます、男の子です」
助産師の声に屋敷の者たちは歓声を上げ、主人は大急ぎで産婦のもとへ言った。
「よくやった」
岐城君は小尚宮の手を握ろうとした瞬間、彼女の顔の上に亡き妻の笑顔が浮かび上がった。
“姫、がんばったね”
彼は“妻”の顔の汗を拭いた。
「若君でございます」
助産師に抱かれた赤子はにっこりと笑った。それは結婚後、初めて見た妻の笑顔を彷彿させるのだった。
新しく迎えた小さな家族に、岐城君と小尚宮、大尚宮を始めとして屋敷の者たちは翻弄されるような日々を送り始めた。それは、楽しいことでもあった。
岐城君はいつも若君を側に置いた。仕事(といっても殆どないのだが)の時は、側に布団を敷いて寝かせたり、小尚宮に抱かせて侍らせたりした。時々、自ら抱いて庭を散策したりもした。
夜も自身の横に隣に寝かせて、夜泣きをすれば、あやしたり、襁褓を手ずから替えたりもした。
時々、自身で沐浴をしたりと、岐城君は子供の世話をよくするのだった。
「私のすることはただお乳をあげることだけですね」
小尚宮が笑ながら言うと岐城君は
「それが出来るのは“母さん”だけだからね。私には無理だ」
と楽しそうに答えた。子供が生まれてから岐城君は小尚宮のことを“母さん”と呼ぶようになった。
周囲が暖かく見守るなか、若君はすくすくと育っていった。
ただ寝ているだけだったのが、いつの間にか座れるようになり、這って動けるようになった。
側の布団にいた若君が気が付くと岐城君の膝を掴んでいたということがしばしばあった。
その度に「お父さまのお仕事を邪魔してはだめでしょ」と小尚宮、大尚宮は若君を抱き上げようとするが、岐城君はそれを制し自ら抱き上げて膝の上に座らせたり、あるいは抱いたまま庭を散策するのだった。
若君の成長は、岐城君に既視感を抱かせた。亡き妻の生前の姿だった。
結婚した当初は起き上がることも出来なかった彼女が座れるようになり、少しづつ動けるようになったのだった。彼女がもう少し生きられたら、歩けるようになり、やがて普通の夫婦のように暮らせるようになったのではないか、岐城君の脳裏に妻と最後に過ごした一夜が蘇るのだった。
こうした中で若君は一歳の誕生日を迎えた。
異母兄の王やかつての使用人たちからお祝いの品がたくさん届いた中で、若君の初度弧宴(一歳の祝宴)が行われた。
可愛く着飾った若君の前に膳が置かれ、その上に書物や筆、紙、葉銭、小さな弓、短剣、生糸等が並べられた。これらのうち、どれを掴むかで子供の将来を占うのであった。
岐城君や小尚宮、大尚宮、その他屋敷中の人々が見守る中で若君は書物を掴んだ。
人々は歓声を上げた。
岐城君は若君を抱き上げると、
「そうか、お前は学問をして人々のために尽くす人間になるんだな」
と喜んだ。子供は父親の言葉を理解したように微笑んだ。
その後も若君は日増しに成長し、自分で歩けるようになると、あちこちを動き回って周囲の者たちを振り回した。
しかし、岐城君が絵を描き始めると横に座って筆を取って何かを、といっても単に筆を紙に叩きつけたり線を引いたりするだけだが、描くのだった。
岐城君は息子の“作品”に手を加えて、花や風景に仕上げた。かつて、亡き妻と共に描いたように。
彼は子供を抱き上げた。子供は父親を見てにっこりと笑う。その笑顔は亡き姫君とそっくりだった。
子供は三歳までは、現世と幽界の間に漂う存在だとよくいわれる。医療が未発達の時代、乳幼児の死亡率は高く、それだけか弱い存在だったのである。
元気だった若君がある日、急にぐったりし、倒れてしまった。
岐城君は大急ぎで医者を呼んだが、症状は芳しいものではなかった。
「恐らく今夜が峠でしょう」
岐城君はもとより、小尚宮、大尚宮も側に付き添い若君の看病をした。
「ちちうえ、ちちうえ」
若君の呼び声に岐城君は顔を上げた。
周囲は真っ暗で前方が薄ら明るくなっていた。そこには見覚えのある姿があった。
「また、あいつか」
妻と朴尚宮を冥界に送った美少年だった。
「今度は息子を連れて行く気か」
岐城君が怒鳴ると、少年の背後に二人の女性の姿が現れた。一人は弓を手にし、もう一人は布団の中で寝ている息子に覆い被さるように庇っていた。
「朴尚宮、姫!」
彼の愛した女性たちだった。
「お戻りなさい、さもないと…」
朴尚宮の言葉に振り向いた少年は、無視して近付いて行った。彼女は躊躇わず弓を引いた。
矢は命中し、同時に少年の姿もかき消えた。
「朴尚宮!」
岐城君の呼びかけに彼女は笑顔で応じた。
「ちちうえ、ちちうえ」
再度の呼び声に彼ははっとした。息子の側にうつ伏してしまったのであった。
身体を起こして息子の顔を見た。
「のどがかわいた」
息子はしっかり目を開けて飲み物を要求した。
「ああ、気が付いたのか」
岐城君は息子を抱きしめた。その間に小尚宮は白湯の入った器を持ってきた。
器を受け取った岐城君は子供に白湯を飲ませた。
ごくごく飲んでいく若君を見ながら、岐城君も小尚宮、大尚宮も涙を流しながら喜ぶのだった。
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