密会の森で

鶏林書笈

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十三

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 振り返ってみれば、あの頃が一番幸福だったのかもしれないなぁ。
 今は亡き妻の絵姿を前にした岐城君の脳裏には再び走馬灯のようにさまざまな場面が浮かび上がった。

 庭の亭屋から賑やかな声が聞こえた。
「吉祥、駄目じゃないか」
 岐城君が近づくと下働きが愛息子を叱っていた。この子はまだ歩みもおぼつかないのだが、妻のことが大好きなようで姿を見付けるとすぐ近付いて来るのである。妻も彼を気に入ったようでいつも笑顔で向かい入れている。
 妻が夫の姿を見つけると笑顔を向けた。下働きも気が付いて息子を引き寄せながら岐城君に
「申し訳ございません」
と恐縮しながら頭を下げた。
「気にするな。吉祥は姫の友なのだから」
 岐城君が応えると父親は再度頭を下げ、息子を抱き上げて去って行った。
 その後姿を見送った岐城君は亭屋に上がり、持って来た絵の道具を広げた。
「さあ、姫君、今日は何を描きましょうか」
 夫が言い終えると、妻は絵筆をとって絵具を含ませ、紙の上に描き始める。といってもただ短い線や点を打つだけなのだが、彼女はこれが楽しいようだ。
 姫君が“描き終える”と今度は岐城君が筆を取って妻が描いた点や線を利用して花を描く。妻は楽しそうにその様子を見ている。
「出来たぞ。最後に君と私の名前を書いて完成だ」
 小菊の群の片隅に岐城君は自身と妻の名を書き入れた。
「今回も見事な夫婦合作だ。明日、おじいさまとおばあさまがみえたら差し上げような」
 となりに座る妻の肩を抱きながら岐城君はいうのだった。

 翌日、大監夫妻は昼過ぎに屋敷を訪れた。
 岐城君は妻を背負って二人を出迎えた。
「遅かったな」
「午前中少し体調がすぐれなくて」
 大監の意外な言葉に岐城君は
「大丈夫か」
と心配そうに尋ねた。
「この子の顔を見たらすっかりよくなったよ」
 大監は孫の顔を見ながら嬉しげに応えるのだった。
 奥の客間に入り、皆が腰を下ろすと岐城君は側に控えていた小尚宮に言った。
「例のものを…」
「かしこまりました」
 彼女はすぐに部屋を出て、すぐに戻って来た。手にしていた紙を主人に渡した。
「大監、奥方、見てくれ」
 岐城君は二人の前に紙を広げた。
「これは」
「見事な小菊の絵ですねぇ」
 感心する夫妻に岐城君は
「私と姫の合作だ。ここに二人の名を記した」
と脇に寄りかかるように座る妻の肩を抱きながら言った。
「まぁ」
 夫妻は孫娘が絵筆をおもちゃにしているのは、知っていたのだが…。
「この花の芯と葉先、茎の部分を姫が描いてくれたのだ」
 示された部分をよく見ると殴り描きの点と線のようだ。
「そうか、そうか、お前は絵も描けるようになったのだな」
 大監は姫君に話しかけ、奥方は彼女の頭を撫でた。
 その後、いつものようにあれこれ話しているうちに日が暮れてきた。
「今日は夕食を用意したので召し上がっていってくれ」
 岐城君が言うと、すぐに膳が運ばれてきた。
「姫や、おじいさまにご飯を差し上げて」
 祖父の前に妻を連れて行った岐城君は匙を手に持たせ御飯をすくわせた。姫君は大監の口元に匙を差し出した。
「大監、姫の御飯を食してくれ」
 岐城君に言われるままに孫の差し出した匙の御飯を口にいれた。
「次はおばあさまだ」
 今度は奥方の前に行き同じことをさせた。
 二人が自分の席に戻ると、姫君は自分の膳にあった匙をとって御飯をすくって岐城君に差し出した。彼は口を寄せてそれを食した。
「ありがとう、姫君。今度は私がやりましょう」
と岐城君は匙で姫君に御飯を食べさせた。
「大監、奥方、召し上がってくれ」
 婿君は二人に促した。
「これはいったい…」
 奥方が言うと
「姫は毎日、私が食事を与えているのをみて自分でも同じことをするようになったのだ」
と説明した。もちろん、上手く使えないので相変わらず岐城君が食べさせているのだが、食事の時は、まず姫君が匙で御飯を夫君に食べさせるのが恒例になった。
「おおそうか、孫はいろいろなことが出来るようになったのだなぁ」
 大監が嬉しそうに言うと奥方は
「本当に…」
と涙ぐむのだった。
 寝たきりで何も出来なかった孫娘は絵を描き、他の者にも何かをしてやることが出来るようになったのだ、それがささやかなことでも。
「姫はちゃんと夫である私に仕えてくれるんだ」
 岐城君がいうと姫君は笑顔になり、奥方は涙をぬぐうのだった。
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