薔花紅蓮伝

鶏林書笈

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 世宗大王の時代(1418~50)のことである。平安道鉄山郡に裴武龍〈ペ―ムリョン〉という士大夫が住んでいた。人柄が温厚で人望もあった彼は、この地方の士大夫たちの組織である郷所の長に相当する座首の職を務めていた。官職には就いていないが、家産があるため暮らし向きは豊かで夫婦仲も良く、誰もが裴座首のことを羨ましく思っていた。
 しかし彼にも一つだけ悩みがあった。それは子供が無いことである。裴座首夫妻は、いつもこのことに胸を痛めていた。
 そんなある日、妻である張夫人が気分がすぐれず床に伏せっていたところ天から仙官が降りてきて、夫人に一輪の花を手渡そうとした。彼女が手を伸ばしてそれを受け取ろうとすると、一陣の風が起こり花は仙女に変わった。仙女は、にっこりと微笑むと夫人の懐に入ろうとしたが、その瞬間、夫人は目を覚ました。すべては夢だったのである。あまりにも不思議なものだったため、夫人はすぐにその内容を夫である裴座首に話した。話を聞き終えた裴座首は
「これは、きっと天がわしら夫婦を哀れに思って子供を遣わせてくれたのだろう」
と嬉しそうに言って妻の手を取った。妻の顔に喜びの色が浮かんだのはいうまでもない。
 裴座首の予測は的中し、張夫人は間もなく身篭もり、数ヵ月後、玉のような女の子を産んだ。夫婦は大喜びし、子供に薔花〈チャンファ〉と名付けた。両親は薔花をとても慈しんだ。
 薔花が二歳になった時、張夫人は再び身篭もった。夫婦は、今度は男の子をと願ったが、生まれてきたのは女の子だった。しかし両親は、この子に紅蓮〈ホンニョン〉と名付け、薔花ともども大切に育てた。
 姉妹は、賢く、美しく、そして心優しい娘に成長した。ただ年令よりも少し大人びていたのが両親とっては気掛かりだった。
 裴座首一家は順風満帆の生活を送っていたが、それは突然に終わってしまった。妻の張夫人が病床についてしまったのである。夫や娘たちの必死の看病にもかかわらず、症状は日に日に悪化していった。既に自分の寿命が尽きたことを悟った夫人は枕元にいた夫に次のように言った。
「私のこの世での縁はこれまでのようです。死ぬことは別に悲しくありませんが、ただ気掛かりなのは、この子たちのことです……」
 夫人は裴座首の傍らにいた娘たちの手を握りながら言葉を続けた。
「もし旦那さまが後添いをお迎えしたら、お心が変わってしまい薔花と紅蓮のことなど顧みなくなってしまうでしょう。それを思うとこの身が魂魄になっても安らぐことは出来ません。旦那さま、どうぞ、この二人の娘を不憫に思われ、後室など迎え入れないようお願いいたします。そして二人が成長した暁には良き伴侶を娶せて下さい。このようにして頂けたら、その御恩を忘れず、安心して冥途に発つことが出来ます……」
 ここまでいっきに言うと、夫人はそのまま息を引き取ってしまった。
 母親が不帰の客となったことを知った薔花姉妹は肩を抱き合って嘆き悲しんだ。こんな娘たちの姿を見ていた裴座首も胸を痛め、慰めの言葉すら掛けることが出来なかった。
 葬儀が終わると、張夫人の亡骸は一族の墓地に埋葬された。裴座首父娘は、その後三年の間喪に服し、朝に夕に真心込めて亡き人の冥福を祈った。三年喪が明けても、薔花姉妹の心は癒されることはなく、母親のいない悲しみを改めて感じてしまうのだった。
 一方、裴座首は、妻の今際のきわの言葉にも拘らず、後継ぎの男子の無いことが気に掛かり、後妻を迎えることにした。しかし、なかなかこれといった女性が見つからなかった。そして、ようやく探し得た許家の娘は、その容貌が示すように気が強く、性格の悪い女だった。これまで何処からも婚姻の話が来なかったのも当然と言えるだろう。
 裴座首のもとに嫁いだ許氏は三人の男の子を続けて生んだ。それをいいことに、彼女は先妻の子供たちに何かとつらくあたった。それでも孝行心の厚い薔花姉妹は、継母に尽くした。しかし、自室に戻り二人きりになると姉妹は手を取り合って継母の仕打ちを悲しみ、生母のいないことを嘆くのだった。
 こうした娘たちの有様を見かねた裴座首は、ある日妻に次のように言った。
「我が家がまがりなりにもそれなりの生活が出来るのは、先妻の遺産があるためだ。本来なら、それに感謝すべきところを、何故その遺児たちをあのように苦しめるのだ」
 しかし、許氏は心を入れ替えることなく、以前にも増して薔花姉妹に意地悪く接した。
 ついに意を決した裴座首は、娘たちを前にしてこう言った。
「お前たちも立派に成長したな。お母さんが生きていたら、どれほど喜んだことか……」
 裴座首が涙ぐむと娘たちも啜り泣きをした。
「わしは、お前たちの母親の遺言にも拘らず、あのような者を家に入れ、お前たちを苦しめる結果となってしまった。今後、あの者が心を改めるのならいざ知らず、このままでいるのなら出ていって貰うつもりだ」
 部屋の外で裴座の話を盗み聞いていた許氏は、まずいことになったと舌打ちをした。もともと財産目的で嫁いできた彼女は、常々、薔花姉妹が結婚する際に、財産を全て持っていくのではないかと危惧していた。しかし、ここで追い出されてしまったら一文も得られない。何としてもこの家に居座り、邪魔な先妻の娘たちを亡き者にしなくは……。
 許氏は、あれこれ思案した。数日後、名案が浮かび、さっそく長男であるチャンスェを呼び、大振りの鼠を捕まえてくるよう言った。間もなく、よく肥えた鼠を持って来たチャンスェに、今度は皮を剥ぐよう命じた。
 血みどろになった“物体”を手にした許氏は、夜が更けると薔花姉妹の部屋に忍び込み、寝ている薔花の足元にそっと物体を置くとそのまま主人の部屋に向かった。
「旦那さま、一大事でございます」
部屋に入るなり、許氏は低い声でこう告げた。
「こんな夜更けに一体何事だ!」
これから休もうとした座首が不快そうに応じると、許氏はいつに無く神妙な表情で続けた。
「とにかく来てください。」
 本人の意向など構うことなく彼女は、主人を薔花姉妹の部屋に行かせた。
 座首が静かに部屋の戸を開けると、薄明りの中でぐっすりと眠っている娘たちの姿が見えた。足音を忍ばせて室内に入ると、許氏は薔花の掛け布団の足元をそっと捲った。そこには丸っこい血塗れの“物体”があった。座首は驚きのあまり顔から血の気が引き、そのまま部屋を出ていった。
 許氏は、その“物体”を取り上げると掛け布団を元通りにして部屋を出た。そして密かに部屋の外に待たせておいたにチャンスェに“物体”を渡し埋めるように言った。再び主人の部屋に行った許氏は、茫然として坐り込んでいる座首の前に端座すると悲痛な面持ちで口を開いた。
「このまま薔花を処分すれば、世間の人々は継母である私が計りごとを巡らせたと言い立てるでしょう。かといって、このことが世間に知られてしまえば、家門に大きな傷がつくでしょう」
 ここで言葉を区切ると許氏は、懐刀を取り出した。
「いずれにしろ私は生きている訳にはいきません。薔花の処分は私が死んだ後に行なって下さい。そうすれば旦那さまも私も体面を損なうことはないでしょう……」
 こう言いながら刀を抜いた許氏は自決しようとした。とっさに座首は彼女から懐刀を奪い取った。
「お前のせいではない。悪いのは薔花だ。」
 すっかり騙されてしまった座首の姿を見ながら許氏は、その表情とは裏腹に内心ほくそ笑んだ。
 そうとは知らぬ座首は、陰欝な表情のまま頭を抱えていた。
 重い沈黙の後、許氏は押さえた声で口火を切った。
「私にいい考えがあります」
「どのようなものだ?」
 主人が先を促すと彼女は、ゆっくりと話始めた。全てを聞き終えた裴座首の顔色は蒼白になったが、
「いたしかたない、お前の言う通りにしよう」
と苦渋に満ちた決断を下した。
「では薔花を呼んで来ましょう」
 許氏は下女を呼ぶと、薔花を連れてくるよう命じた。
 その頃、薔花は目を覚まし眠れぬまま床の中であれこれと思いを
巡らせていた。そんな彼女の耳に自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「何事ですか?」
 隣に寝ている妹を起こさないように小声で外に向かって言った。
「旦那さまが御呼びでございます」
- こんな夜更けに何用だろう。
不審に思いながらも彼女は
「すぐに行くわ」
と応え、身仕度を始めた。
「お姉さま……」
 目を覚ました紅蓮が起き上がり、不安そうな表情で姉を見詰めた。
「大した用事ではないでしょう。すぐに戻るから、お前は休んでいなさい。」
姉は微笑みながら妹に言った。
 しかし、しきりと胸騒ぎのする紅蓮は薔花の裳裾を掴みながら
「何かとても悪い予感がするの。行かない方がいい、行かないで、お姉さま……」
と哀願した。困った表情を浮かべた薔花は、腰を下ろすと妹の肩を抱き、なだめるように言った。
「何をそんなに心配しているの。お父さまに呼ばれたのだから行かないわけにはいかないでしょう。別に大した用ではないと思うわ。さあ、まだ真夜中なのだから休みなさい。」
薔花は妹を床に寝かせ布団を掛けてやった。そして、そっと部屋を出ていった。これを最後に姉妹は生きて再び顔を合わせることはなかった。
 主人の部屋に入った薔花は、父の顔がいつになく険しいのを目にして、ひどく不安になった。
 一方、目の前にきちんと座った娘の姿を見た裴座首の脳裏には亡き妻の面影が浮かんだ。
― 本当に、この子が不義を行った末、堕胎をしたのだろうか…?
 信じられないが自分の目で確かめた以上、認めざるを得なかった。
「叔父さんが用事があるそうなので、今すぐ行きなさい」
 冷たく言い放たれた言葉に、薔花は見る見るうちに顔から血の気が引いていった。
「……か弱き女の身で、このような真夜中に外出せよと仰有るのですか。お父さまも御存知のように、私はお母さまが亡くなって以来家の外には一歩も出たことがありません。又、余所の人にどのように応対していいのかも分かりません……。」
 娘の反発に座首は不快さを隠さなかった。
「叔父さんの家はさほど遠くは無いのだし、弟のチャンスェが供に行くのだから問題は無かろう」
「お父さまの仰せなら死ぬことも厭いません。しかし暗闇は恐ろしゅうございます。どうか夜が明けてからにして下さい」
 涙ながらに訴える薔花の顔を見た座首の心は憐憫の情に溢れてきた。
 先程からずっと二人のやりとりを部屋の外で盗み見ていた許夫人は、座首が仏心を起こされてはまずいと思い、戸を蹴飛ばして中に入り、薔花に向かって罵るように言った。
「お父さまの言い付けが聞けないのかい!」
 すっかり怯えてしまった薔花は
「分かりました。仰せの通りにいたします。出掛ける前に紅蓮の顔を見たいのですが…」
と哀願するように言ったが、許夫人は耳を貸さず
「ぐすぐずしてないで、さっさとお行き!」
と薔花を部屋から追い立てた。庭には馬の手綱を持って立っているチャンスェの姿があった。観念した薔花が馬に乗るとチャンスェはすぐに歩き始めた。
 家の大門を出て少し行くと民家はほとんど見られなくなり、間もなく山道に入っていった。ほのかな月明かりと松明(たいまつ)によって映し出される風景は、欝蒼とした木々のみであり、聞こえてくるのは足元に生い茂る草の風になびく音とフクロウの陰欝な鳴き声ばかりだった。
 どれくらいの時が経ったのだろうか、彼らは大きな池の辺に辿り着いた。松林に囲まれたこの池は向こう側まで四十里ほどありそうで、深さは測り知れないほどだった。チャンスェは、ここで馬を停めると薔花に降りるよう言った。驚いた薔花は思わず
「ここで降りろとは、いったいどういうこと!」
と大声で叱責した。するとチャンスェは平然と次のように言い放った。
「姉さんは自分の犯した罪を分かっているのかい。あんたが堕胎したことは既に明らかになったんだ。それゆえ、こんなふしだらな娘は家において置けないと言って、母さんは俺に入水させるよう言ったんだ。」
「堕胎って、いったい……」
 薔花にとって、チャンスェの言葉は初耳であり、まさに晴天の霹靂だった。
「……お前の母さんは、私に無実の罪を被らせて亡き者にしようというのね。ああ、なんて非道いことをするのでしょう」
 チャンスェに無理矢理引き摺り下ろされた薔花は、地面に坐り込むと空を仰いだ。
「天はどうしてこんなにも無情なのでしょう。この身に何の罪があって永遠に雪(そそ)ぐことの出来ない濡れ衣を着せられたまま、この深い池に沈めて冤魂にしてしまうのでしょう。天よ、どうかお聞き届け下さいませ。私は、この世に生を受けてより、世間のことには関わったことはありません。なのに今日こうして無実の罪をこうむるのは、前世の行いがそれだけ悪かったのでしょうか。幼くして母を亡くし、寂しい日々を送った挙げ句、奸悪な人間の謀にかかり、虫けらのように死んでいくことは仕方ありません。ただ、この汚名が果たして晴らされるのか、そして一人残された妹・紅蓮の身がどうなるのかが気掛かりです……」
 薔花の慟哭する有様を眺めていたチャンスェは特に心動かされることもなく
「どっちみち死ぬんだから、ずべこべ言ってないで、さっさと池に入りな」
と急かすだけだった。
「お前と私は、たとえ異腹といえども同じ骨肉でしょう? 黄泉に発つ前に、どうか亡き母の墓前と叔父さまの家と紅蓮のもとへ別れの挨拶に行かせて頂戴」
 薔花の懇願など耳に入らないチャンスェは、彼女の腕を掴むと立ち上がらせ、池の淵に連れていった。
「乱暴はしないで。」
 チャンスェの手を振り解くと薔花は、沓を脱ぎ池の中へと身を投じた。
― 可哀相な紅蓮。お前一人残して行く姉をどうか許してね。
 最後まで妹の身を案じつつ薔花は池に沈んでいった。と同時に、突然、池の水が立ち上り、冷たい風が吹き抜け、月は光を失った。そして山中より大きな虎が現われてチャンスェを一喝した。
「お前の母親の無道により罪無き者が謀殺されるのを、どうして天が見過ごそうか!」
 猛り狂った虎はチャンスェに襲いかかると、その両耳、片腕、片足を噛みちぎり、そのまま姿を消した。
 この光景に驚き入った薔花を乗せてきた馬は、一目散に家へと戻っていった。
 その頃、許夫人は眠れぬままチャンスェの帰りを待っていた。とその時、外から蹄の音が聞こえてきた。薔花の始末が成功したのだと喜んだ夫人は、戸を開けて庭を見た。しかし、そこには汗だらけの馬がいるだけだった。息子の身に異変があったことを感じた彼女は下僕たちに馬の蹄跡をたどるよう命じた。
 松明を手にした下僕たちは山道に入っていった。間もなく池の辺に辿り着いた彼らは血塗れになって倒れているチャンスェを発見した。驚いた彼らは、チャンスェを背負うと大急ぎで来た道を戻っていった。
 変わり果てた息子の姿に、許夫人は腰を抜かさんばかりに驚いたが、すぐに気を取り直し医者を呼んで怪我の手当てをした。暫らくして意識を取り戻したチャンスェは、その間のことを逐一母親に告げた。これを聞き終えた許夫人は、ひどく腹を立て、薔花の骨肉である紅蓮も始末することを決意した。
 一方、チャンスェの話から薔花に罪が無いことを悟った裴座首はその死を深く悲しみ嘆いた。
 許夫人の謀(はかりごと)など一切知らない紅蓮は、継母に詳細を訊ねると
「チャンスェが、お前の姉の供をして出掛けて行く途中に虎に襲われたんだ」
と忌ま忌ましそうに応えた。継母の言葉に合点のいかない紅蓮が
「それで薔花お姉さまは、どうなったのです?」
と再度訊ねると
「うるさい子ね!お黙りなさい」
と怒鳴り付けた。
 訳も分からぬまま継母の怒りを買ってしまった紅蓮は、胸を痛め自室に入っていった。
 いつもなら姉・薔花もいる部屋に一人座った紅蓮は、心細さに耐えられなくなり、声を上げて泣き始めた。泣き疲れて意識が朦朧(もうろう)とした彼女の前に、突然、黄龍に乗った薔花が現われた。
「お姉さま!」
 紅蓮の呼び掛けに薔花は素知らぬ顔をして行き過ぎた。
「お姉さま! どうして知らん顔をするのですか?!」
 紅蓮の涙混じりの訴えに、薔花は振り向きながら応えた。
「私は今、玉帝陛下の命を受け三神山に薬草を掘りに行く途中で忙しいの。でも怒らないでね。近いうちに必ず、お前を迎えに行くからね。」
 薔花の言葉が終わるや否や、黄龍が声を上げた。紅蓮は、吃驚(びっくり)すると同時に目を醒ました。すべては一場の夢だったのである。
 全身に冷たい汗をかき、頭の中もぼんやりとしていた紅蓮だったが、すぐに父親のもとへ行き、この不思議な夢を告げた。そして
「……お姉さまが、このように夢に現われたのは、きっと何か訳があって禍を被り、それを私に報せようとしたのではないでしょうか……?」
と声を上げて泣き始めた。
 何も言わず娘の話を聞いていた座首は、沈痛な面持ちで涙を流すばかりだった。
 この時、いきなり部屋の戸が乱暴に開けられ、許夫人が現われた。彼女は、部屋の外で紅蓮の話を盗み聞きしていたのである。
「この子ったら、どうしてつまらぬことを言って、お父さまを悲しませるのだろう!」
 許夫人は大声で紅蓮を怒鳴り付け、その背中を押して父親の部屋から追い出した。
 泣きながら自室に戻った紅蓮はふと考えた。
- 私が夢の話をしたら、お父さまは悲しみのあまり何もおっしゃられなくなり、お義母さまは血相を変えて怒った……。これには、何か理由があるはず。
 真相を知ろうと決心した紅蓮は、ある日、許夫人の出掛けた隙にチャンスェを呼び寄せ、薔花の行方を訊ねた。最初はいい加減に応えたチャンスェも、紅蓮の筋道の通った追求に、これ以上偽りを言えないと観念し、すべてを告白した。
 チャンスェの話を聞き終えた紅蓮は、あまりの酷さにその場に気絶してしまった。しばらくして意識を取り戻した彼女は、無念の思いを抱いたまま世を去った姉のことが改めて思われ、溢れる涙を堪えることが出来なかった。
「ああ可哀相なお姉さま! 凶悪な継母の手に掛かって濡れ衣を着せられた挙げ句、水に埋められてしまうなんて。骨の髄まで刻み込まれた怨恨をいったいどうやって晴らせと言うの」
 紅蓮は床を叩き、姉の名を呼びながら泣き続けた。
「ああ、お姉さま。どうして私一人残して行ってしまったの。公明正大な天よ、どうぞお聞き届け下さい。三つの時に母を失い、姉を頼って暮らしてきたこの身の罪がどれほど深かったと言うのでしょう。その姉すらも去っていってしまったのですから。ああ、私もお姉さまのように貶められるのでしたら、いっそのこと死んで、魂となってお姉さまの後を追って黄泉の国に行ってしまいたい……」
 既に、この世に何の未練も無くなった紅蓮は、姉の後を追うことを決心し、彼女の死に場所を訪ねることにした。だが、家の門より一歩も外に出たことの無い身で、一体どうやってその場所を探し出せようか? 紅蓮は自分の無能さを嘆き、日々溜め息をつくばかりだった。
 そんなある日、ふと庭を見ると花が満開の木の枝の間を青鳥が飛び廻っているのが目に入った。
- あの青鳥は、お姉さまの亡くなった場所が分からず昼も夜も苦しんでいる私の心を知っているのかしら。もし知っているのなら、どうか私をその場所に連れて行っておくれ。
 紅蓮の胸の内を知ってか知らずか、青鳥は飛び去ってしまった。
 翌日、夜明けとともに庭に目を遣った紅蓮は、青鳥の来るのを待っていたが、日の暮れるまで遂に姿を見せなかった。彼女は鳥にまで見捨てられたと思うと悲しくなり、その場に泣き伏してしまった。
 しかし、いつまでも泣いていても仕方の無いことと考え、
- こうなったら、私一人ででもお姉さまの亡くなった場所を探しに行こう。
と決心した。
 家を出る前に紅蓮は、父親に宛てた遺言状をしたためた。
『お父さまへ
 既に御存知のことと思いますが、お母さま亡き後、お互い支え合って暮らしてきた薔花姉さまが、邪な人間のために無実の罪を着せられた上、死に到らしめられてしまいました。何と酷く悲しいことでしょう。寄る辺の無くなった私は、これから一人でどのように生きていったらいいのでしょう。今日、私は冤魂となったお姉さまの後を追うことにしました。十余年の間、慈しんで下さったお父さまの御顔は今後は拝見できず、その御声も二度と耳にすることはないでしょう。それを思うと涙の出るのを禁じ得ません。しかし、お父さまは、この不孝な娘のことなどお忘れになって、どうか長生きなさってください。
紅蓮より』
 筆を置いた紅蓮は、墨の乾くのも待たずに書き付けを壁に貼った。そして、静かに戸を開け庭に出た。夜は既に更け、月の光が辺りを照らしていた。涼しい風が吹き抜け、それに乗るようにして青鳥が飛来し木の枝に止まった。鳥は紅蓮の方を向くと嬉しそうにさえずった。
「お前は、もしかするとお姉さまの亡くなった場所を知っているのではないの?」
 紅蓮の問い掛けに答えるように、青鳥は啼いた。
「知っているのなら、私をそこへ案内しておくれ」
 青鳥は首肯くような仕草をすると枝を離れた。紅蓮は、その後に続いて歩き始めた。家の門を出た時、紅蓮は振り向き涙を流した。
「さよなら、お父さま。私は、二度とこの門をくぐることはないでしょう……」
 涙を拭うと紅蓮は前を向き、再び青鳥の後に従った。数里も行かないうちに早くも東の空は白んできた。視界が開け、周囲を見回すと、青い山々は重なるように聳え、松は重苦しい姿を現わした。どこからか人の心を寂しくするような白鳥の鳴き声も聞こえて来た。
 やがて池の辺に辿り着くと青鳥は降りてきて翼を休めた。紅蓮も立ち止まり左右を見渡した。すると水面より五色の雲が立ち上り、中から紅蓮を呼ぶ悲しげな泣き声が響いてきた。
「お前は何故、千金に値する貴重な生命を空しく捨てようとするの? 人は一度死んでしまったら、二度と生き返れないのよ。ああ、可哀相な紅蓮。世の中は先のことなど分からないのだから、つまらぬことなど考えず、家に戻り親孝行なさい。そして良き伴侶を得て息子、娘を生み育て、亡くなったお母さまの魂を慰めて差し上げて。」
 声が姉のものであることを知った紅蓮は池に向かって叫んだ。
「お姉さまは前世にどんな罪を犯して妹である私を残して、こんなところで一人哀しんでいらっしゃるのでしょう? こんなお姉さまを見捨て私一人生きていくことなど出来ません。どうぞ戻れないなんておっしゃらないで」
 空中からは、泣き声が聞こえてきた。紅蓮は胸が痛み耐えられなくなったが、なんとか気を取り直し、天を仰ぎ両手を合わせ
「天神地祇(てんのかみちのかみ)よ、どうか我が願いをお聞き届け下さい。氷や玉のように清らかで美しいお姉さまに着せられた濡れ衣をどうぞ晴らさせて下さい」
と祈りを捧げた。そして、右手で下裳を掴み上げると池の淵に駆けていき、そのまま水面に身を踊らせた。深紅の下裳はゆっくりと水中に消えていった。
 その後、池の中からは昼夜を問わず、薔花姉妹の啜り泣く声が聞こえてきた。それは継母のために罪を着せられたまま死に到らしめられたことを切々と訴えるもので、声を耳にした周辺の村人たちは、皆、薄幸なこの姉妹に深く同情した。

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