漆黒の碁盤

渡岳

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第四章 安土宗論

安土宗論での信長の仏教観

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【四】
天正七年(一五七九年)の五月中旬、法華宗と浄土宗とで論争があるとのことで、日海は、叔父であり師でもある日淵のお供で安土城下の浄厳院に向かった。
浄土宗の老僧が安土の町中で説法をしていたおり、日蓮宗徒の若衆が議論を吹っ掛け、お互い引くに引けない言い争いとなってしまったとのこと。遂には、信長の指示で、両宗の正式な代表者を出して議論させ、信長指定の審判者に判定させるということになった。
この宗論に、叔父の日淵が代表者の一人に選ばれたことで日海もお供をせざるを得なくなった。
浄厳院で宗論が行われると伝え聞き、京都や安土の多くの聴衆が、浄厳院の前に群れ集まっている。
宗論は、浄土宗側四名、法華宗側四名で始まった。日海は対坐する場の端で雑用のため横に侍っていた。
宗論も始まって間もなく何度かの質問の応酬の後、突然、浄土宗側が、
「四十余年法を説いて民衆を感得させらなかったら、経典中の『妙』の字を捨てるのか捨てないのか」と、尋ねてきた。
法華宗側はこの質問が何のことわからず、しかも突然『妙』の言葉を使ってきたので、質問の意図探ろうと、しばしの沈黙の後、いずれの『妙』のことかを尋ね返した。
すると、審判者の一人が、突然、
「捨てるのか捨てないのかを聞いておる、法華宗側の返答はないとみなす。法華宗側の負けである」と、議論を打ち切ってしまった。 
始まって間もないのに、議論の勝ち負けも定かでない中、一時の沈黙の上げ足を取り、審判者の一人はいきなりこちら側に負けの判定を出してきた。
この打ち切り方、審判者は浄土宗側と事前に謀って、最初から浄土宗の勝ちありきで不可解な質問を仕組んでいたのではないか、日海はそう感じざるを得なかった。
叔父も含め、法華宗側四名は寺院の一室に押し込められると、群衆に嘲笑されるだけでなく打擲され、法華八巻は聴衆の目の前で破り捨てられてしまった。

信長は、安土城で宗論の結果報告を受けると、時を移さず、浄厳院に出向いて来て、改めて宗論の当事者を召し出した。
日海は、信長に見つかると何かの巻き添えを食らうのではと恐れふと身を隠した。信長の御前から見えないところで、聴衆に紛れて端から状況を見守った。
「信長様自らおいでになった。浄土宗側の石山本願寺と抗争の渦中で、自らが裁いて早々に騒ぎを沈めるおつもりなのじゃ」
 聴衆の一部がひそひそと小声で話しているのが聞こえる。
日海の頭の中で、何か突飛なことが起きるのではないかと、不安な気持ちがもたげてくる。
信長は、浄土宗を褒めたたえたうえで、聴衆の面前で法華側代表者の四名のうちの一人、妙国寺の普伝和尚を目の前に曳き連れ出し、強引に膝をつかせた。
「お、お助けくださりませ」
身をかがめ、体は小刻みに震え慄き、額をすり減らさんばかりに平伏している。
そして、信長は、前に進み出ると慈悲を乞う罪なき一人の人間の首を、境内にもかかわらず、法衣のまま聴衆の面前で躊躇なく刎ねた。あたり一面に返り血が飛び散る。あちらこちらから悲鳴が聞こえ、聴衆は後ずさりした。
「彼の者は、博識で聞こえ大金を積まれ他宗から日蓮宗に改宗したばかりと聞く。にもかかわらず、宗論の場では自らは発言せず、他人に問答をさせ、法華宗側の議論が優勢だと思えたらしゃしゃり出ようと待ち構えていた。卑怯であった」
信長は、聴衆に聞こえるように叫ぶ。
さも自らが現場にいたような言いよう、発言しないことが罪と言えるのか、しかも一方的に打ち切ったのは信長の審判者の方ではないか。
日海は強く憤った。
叔父達は、今後は他宗を誹謗しない旨の誓約書を出させられた上に、法華再興の礼金として金子を二百枚も要求された。法華経の良し悪しを判断するわけでもなく、法華の勢力拡大を嫌った仕組まれた一方的な宗派弾圧としか思えなかった。
信長は、自分とは碁を通して懇意にしてもらっているが、真摯に仏の教えを聞いてくれるわけでもない。宗祖日蓮のお言葉を伝えても不愉快そうであった。碁打ちとして、碁の交誼は続けてもらっている。仮に、今ここで普伝和尚の取り成しを願い出ても、所詮は芸事の一手合いの身、自分の頸が宙に浮くだけであっただろう。
信長は、そもそも仏門に仕える者に尊崇の念を抱いているわけでもない。単なる金づるか、いや、むしろ理解しがたい奇妙な輩と思っている節がある。法華だろうが何であろうが、その実興味はないのだ。
支配に役に立つのか立たないのか、強すぎれば邪魔となる、それだけが信長の関心事なのではないか。
碁に興味を持ってくれるのは良い、しかし一仏門の徒としてこれからも信長に従っていて大丈夫なのであろうか。
日海は不安と畏怖の念を拭い去ることができなかった。
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