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温泉のこと
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体を温める。適度な体温の上昇は、恒温・変温問わず動物の体細胞の活動を活性化させる。体調を崩した際に布団を被って横になるのも然り、温かい食事を摂ることもまた然り。
中国医学において、身体整調という理由から温度の高いものを食することが推奨されている。とりわけ四川省では、体の内側から暖を取るため麻婆豆腐といった辛みのある料理が好んで食されている。
中国文化の影響を色濃く受ける日本においても然りである。その最たる例が「湯治」であろう。湯治の効能は泉質での差異はあるものの、疲労回復や、肩こり腰痛といった神経痛、また皮膚病といった血行の改善により治癒するものがほとんどである。
しかし湯のぬくもりが癒すのは、身体の不調だけでなく心の不調もまた然りであった。露天の湯船に抱かれ、湯煙に陰る目前をふと眺めると、海であれ山であれ天然の絵画を独占しているような趣が日々の疲れを心の芯から治癒していくのだ。
*
「なんじゃこりゃ」
富士河口湖町。行楽シーズンを外し有給休暇を取得してやってきた山梨の片隅の、現在閑散としたこの町の比較的高級な温泉旅館の一室での、開口一番榎本武士のセリフである。
「部屋風呂だよ」
武士の背中に、一頭の雌のドラゴンが赤い瞳を流しながら投げかける。宿泊費の八割を出資している赤い瞳の、白銀の体色のドラゴンこと逢川綾は、フィッシング用の黒い袖なしナイロンベストを着た肩から下げたエナメルバッグを畳の部屋の隅に投げて置いた。
武士の目前に広がるは、各部屋に備え付けの所謂部屋風呂、小さな露天風呂だった。広縁の奥のバルコニーを開けると、滾々と源泉が注ぎ込む半畳程度の湯船。目前には西日を受けてきらきらと輝く河口湖と、その向こう側にうっすら黒岳が、我こそが富士でございと言わんばかりに夕陽を背にたたずんでいた。
「富士山も見えやしねえ」
「背後になるからねえ」
綾は部屋の反対側にある備え付けのテレビの隣の戸棚を開けながら言う。武士が振り返ると、富士山ではなく綾の背中の一対の翼と、太い白い尻尾が左右に動くのが見えた。
「でも河口湖は見えるじゃん」
「ああ、絶景だよ、これは」
武士は相変わらず富士山のふりをして西日を浴びている黒岳に怒鳴るように言った。河口湖の畔を、棒切れを持って孤独に歩いていた子供のドラゴンがこちらを振り返ったのが小さく見えた。
「俺が聞きたいのはそう言うことじゃなくてさ、なんで部屋風呂なんだって聞きたいの」
「カップル割にしたらこの形態が一番安くてさぁ」
綾は右手に浴衣とタオルを一対持って振り返った。
ああ、なるほど。だからロビーの従業員は自分たちを見るなり怪訝な表情を浮かべたのか。そうは思ったものの今回の旅費のほとんどは高給取りの綾が負担しているため飲み込まざるを得なかった。
「共同浴場は」
「ない」
武士が綾を振り返るまでもなく即答が跳ね返ってきた。
「最寄りの温泉は3キロ先。歩く? タクシー代は出さないけど」
ぬぅ、と、武士は唸った。本日は徒歩で天上山を上ったり、河口湖のクルージングに参加したりと、実に有意義な休暇を過ごした。それゆえ武士は非常に快い疲労に困憊していた。山道ではなくてもこの土地勘のない田舎町を3キロ行軍する心の余裕など、往復のタクシー運賃を出す余裕とともに残っていなかった。
また本日10月中旬。今でこそまだ日は出ているものの、湯を楽しんだ後戻る頃には、街灯もろくすっぽないこの町は瞬く間に漆黒の闇の中だ。そして武士は上毛の山間部出身である。10月も中旬ともなると、陽が落ちた山間の闇の中の気温はいかほどかを身に染みて理解していた。同じ山間部である足柄の生まれである、綾も言葉にこそしていないものの、よくよく理解しているであろう。
「疲労が蓄積し、湯冷めしちまう」
武士は自身の頭で考えた結論を、正面の黒岳に説明するように発言した。
「じゃあもう答えは一つだよね」
どさりと傍から音がする。視線を向けてみれば、綾が武士の左隣に浴衣とバスタオルと手ぬぐいをまとめて畳に叩きつけていた。
「一緒に入ろぉ」
黒岳の頭上の空は夕焼けで真っ赤になっていた。綾はそんな空と同じくらい紅い瞳を細めて、口角を上げて牙を覗かせてみせた。
*
10月は、その年の天候の差異はあれど、日本国においては概ね秋と呼ぶのに妥当な暦である。単純に説明すれば夏ほど暑くもなく、冬ほど寒くもない。中間の季節だ。
気温が高いと長時間の入浴は苦行である。不運な条件が重なれば命の危険性までもが浮上する。一方で気温が低いと、今度は湯船から上がることが苦痛となる。低い外気温に頭のみがさらされ、体が湯船の湯を吸ってふやけていく様は、時間が経つにつれ全身の感覚が鈍化していくかのような奇妙さを覚える。
故にそれらの条件が、どちらかに偏りすぎない秋という季節は実に入浴に適した季節なのだ。そんなことを考えながら衣類を脱ぎ去り、裸体を夕焼け空の下に晒した武士は山間から吹いた一陣の北風に身を縮こませた。
背後で綾がフィッシングベストを脱いでいるのが見えた。ドラゴンであるが故に普段は全裸で、本日は気温が少しばかり低いという理由でベストを羽織ってきていた。それだけに異性の脱衣というにはずいぶん味気がなかった。綾のベストはどう見ても通気性のよいメッシュ素材でできているが、果たして保温の用途を成していたのだろうかと思考を巡らす程度に感慨もない。
「おお、寒い寒い」
「そんな季節でもなくね?」
フィッシングベストを部屋の反対側に投げ捨て、バルコニーに小走りで躍り出てきた綾に武士はそう言う。
「外気に肌をさらすのは気持ちがいいね」
「普段全裸の奴が何言ってんだか」
武士は正面の黒岳を夕焼けごと抱き込まんばかりに両腕を広げる綾を尻目に、湯船の湯を手桶に掬って右肩にかけた。湯の通り道となった部分からふっと湯気が上がり、秋空に昇華されていく。
「貧相な体だよね」
「あんまり見るなよ」
武士の放った手桶を拾い上げながら綾が言う。
「お前の妹は見たがった体だぞ」
「ホント、何考えてたんだろーね」
綾はそう言いながら手桶に掬った湯を、豪快に頭から被った。綾の体全体から湯気が上がり、そして消えていく。
「そういうアヤはちったぁ痩せたらどうなんだ」
再び豪快に頭から湯を被る綾を眺めながら武士は言った。普段はあまり意識して見ないものだが、自身も一糸まとわぬ姿になっているためか綾の体をじっくりと見ていたことに気が付く。
街で見かけるドラゴンのおおよそは、映像媒体や写真で見るような整った体つきの者は当然少ないが、綾はそれを差し引いても首以外の凹凸が少なく腹が出ており、見るからに鈍重そうに見受けられる。
「ああ、そうそう、部屋風呂にした理由は他にはね」
綾の投げた手桶が湯船から部屋寄りに着地し、コーンと乾いた音を夕方の秋空に響かせた。武士の一言を聞き流すように綾は湯船に右足を漬ける。
綾は湯を腿でかき分けながら、湯船の一番奥に到達し、その肥えた体をゆっくりと湯気の上がる湯船に沈めた。
それと同時に湯船の中の容積が増し、表面張力を起こさんばかりに並々注がれていた湯船の湯が決壊して次々と溢れ出した。その様は一様に、洪水のようであった。
「アタシが浸かるとお湯があふれるから、他のお客からの視線が冷たくてね」
外気に晒され、冷えた湯が武士の両足をくすぐった。湯船の湯は半分以上逃げだしており、源泉が竹筒からドボドボ音を立てて負けじと注ぎ込まれていた。
そういえば武士も過去に銭湯にて入浴した際に、大柄なドラゴンが自身の隣で湯船に体を沈めた瞬間己の両肩が外気に触れてしまって冷ややかな視線を投げたことをふと思い出した。
「アヤでも人の視線が気になるんだな」
「入浴や禊は人間の生理行為だからね。アタシらはそれに乗っかってるだけだから、ヒトが優先」
綾はぼんやりと紫雲を眺めながら、太い尻尾を前方に投げだした尻を滑らせて両肩まで湯につかった。まだ湯が充足していないらしい。
「心無い視線で冷えた心は、入浴で温めればいい」
武士はそう言いながら、右足を湯につけて湯をかき分けながら綾の隣に腰を下ろした。昨今はドラゴンの入浴客も多いため、湯船の奥側は深度深めに作られていることが多い。この部屋風呂もその例に漏れなかったため、湯が満足にない今でも武士の両肩は十分に沈んだ。
「命の洗濯っていうの?」
「まあね」
武士はため息とともに相槌を漏らした。
湯気と源泉の王国は、武士の体温を瞬く間に上昇させた。体内で血液がごうと音を立てて流れるのを感じながら、火照った顔を湯気がたどり着こうとする夕焼けの空に上げた。紫色の雲が、相変わらず富士山のふりをしながら堂々と佇む黒岳の向こう側へとゆっくりと歩んでいくのが見えた。
ふうっと、綾が口吻の先の鼻から小さく息を漏らした。黒岳の後ろから未だ遠慮がちに顔を出す真っ赤な太陽のような瞳は、糸のように細められていた。
家路を急ぐ紫雲たちが河口湖に紫色の影を映す。太陽は、それを湖面越しに見守っているのが、湯気の向こう側にぼんやりと見えた。
*
「気持ちいーい」
綾が間延びした声で嘆息するかのように呟いた。湯が充足したため、ドラゴン用の水深の深い場所にいると座高の高い武士でも頭まで沈みかねないため、手前寄りの浅瀬に避難しながらそんな一言を聞く。
「生物が満たされたと感じるのは、原始的な三大欲求の解消だけど、それにこういった入浴や飲酒っていう三大欲求にほど近い場所に付随的な解消法を見つけたのは本当にすごい」
「人間はそうでもしねえとやっていけねえのよ。ただ生きればいいってもんじゃねえし」
「アタシらドラゴンはヒトと並ぶ知的生物だけど、どっちかというとまだ『ただ生きてる』ことに主軸を置いた一生だからね」
その一生に意味はない。と、言いながら綾は一笑した。湯からゆっくりと上げた太い両腕から水滴が滴り、夕陽を反射させて茜色にきらきら輝いた。
「この温泉旅館の宿泊費然りで、二次欲求を満たすハードルは高くなっている。ましてや一次欲求も然りでね。人間もただ生きてるだけ、一生に意味がないってのは同じだよ」
健康で文化的な最低限度の生活、学生時代に習った日本国憲法第二十五条の一文をぼんやりと続けて呟いた。綾は湯煙の陰りからちらと赤い瞳を武士に向けたが、すぐに正面の絶景に視線を戻した。
「アタシはドラゴンだからこの風景のよさはよくわからないけどさ、それでも口先では二次欲求について偉そうに講釈垂れることができてるってわけだけども」
綾の一言に武士は、バルコニーの際側の湯船までにじり寄った。目前の風景は相変わらず黒岳が傲慢に河口湖を見下ろす様が続いていたが、黒岳の背後を飾る夕陽が河口湖へ落とす赤光が程よく黒岳の威厳を上げ、かつ河口湖の水面を真っ赤に染め上げ、星を散りばめたように光を反射させていた。武士は飽きもせず、ほうっと息を吐いた。
「つまり一次欲求さえ満たせば生きていけるってことかい。そりゃ人間だっておんなじだよ。根本は生物的本能なんだよ。理性が身についても」
「くう、ねる、せいこう」
綾はそう呟くとため息を一つつき、顎を茜色の秋空に突き上げた。
「アヤはいつも食っちゃ寝して日々充実してるけど、ぶっちゃけ性欲はどう解消してるわけ?」
綾に向き直り、夕陽が織りなす絶景を背後に背負う形になった武士に、綾は突き上げていた顎を下げ、口を半開きにして牙を覗かせたまま瞳を向けた。
「普通に自慰だけども。発情期に多いかな」
「いつやってんのさ」
「タケに見えないようにしてるよ。見せもんじゃないんだから」
「えっ、どうやって」
「動画とか見てさ、ていうか」
綾は右手のひらを武士に向けて制して見せる。夕焼けに照らされてか、はたまた体温の上昇か、綾の白い顔が火照って見えた。
「なんでそんなこと聞くの」
うーん、と武士は唸ってみせる。本日の疲れのための思考能力の低下か、はたまた体温上昇で脳が湯だっているのか。もとより働きの良い方ではない頭を稼働させて思考する。そしてふとひらめき、あっと小さく呟く。
「裸の付き合いってやつ」
「あー、隠すものがないって言いたいわけ?」
綾は両掌を叩いて見せた。湿った破裂音が秋の山村に木霊し、湯しぶきが小さく飛散した。
「裸の付き合いってのは、男同士の付き合いの常套句なんだけどもさ」
「なるほどこういうことの言いあいなら、ヒトの女性は嫌がるかもね」
オスのドラゴンを女湯に入れないのはそう言うことね、と綾は一人合点する。
武士が今綾と入浴をしていること然りで、人間が他の動物に肌をさらすことに抵抗がないのと同じようにドラゴンも人間の肌を見ても特になんとも思わない。故にオスのドラゴンが女湯にて清掃に従事する姿が少し前まで散見できたが、人間の女性側の精神的苦痛を理由に分離されたという過去があった。綾の一人合点は狭義的にみると誤りかもしれないが、広義的に包括すると的外れではないだろうと、武士も同じく一人合点した。
「テレビ見てたら、カビバラとかニホンザルが温泉浸かってるじゃん。あれなんか寒さ除けとストレス解消、んで血行促進と生きるための生理行為だよね。アタシも現時点では彼らと同じわけよ」
そう言い終えると綾はカビバラのように瞳を閉じて見せた。
武士は相変わらず河口湖名物たちが夕陽とともに織りなす絶景に背を向けている。視界には湯煙と、目を閉じた綾のみが映っている。
「カビバラみてえに何にも考えず湯を楽しむのも乙だろ」
武士も綾に倣って両目を閉じてみせた。
「そうだね。若干のぼせてきて頭も働かなくなってきたところだし」
綾のそんな一言を最後に、ふたりの間を沈黙が支配した。瞳を閉じているふたりにとって、深淵の沈黙であった。
源泉が綾の傍らの竹筒から滾々と注がれる音だけが鼓膜を叩いた。体が温まっていくのに対し、冷たい外気は頭を冷やす。綾はそうはいったものの、頭の働きは血行促進もあり活性化されていく。
脳での思考を意図的に締め出し、全身の感覚を鋭敏化させることに努める。脳が体から適温にぬくもった血液を受け取り、快楽物質を源泉が如く流し続ける。
夕日がいよいよ黒岳の背後に沈む。最後のひと踏ん張りと言わんばかりに真っ赤に空を燃やす。ふたりの浸かる湯船もその光を反射し、赤色にきらきら輝いた。
真っ赤な水面と、温かい源泉。ふたりはそこに、溶けてしまいそうだった。
*
ふたりが宿泊した部屋にも、例に漏れず広縁があった。それは部屋風呂のあるバルコニーに面しており、風景と広縁の間に部屋風呂を挟んでしまっているため窓からは今一つ風景を楽しめないことがネックであった。完全に部屋風呂に重きを置いた作りになっているのだろう。
太陽もすっかり沈み切って、満月がぽっかり漆黒の空に浮かぶのを見ながら、浴衣を着た武士は自身の座る一見すると骨組みだけのように見える、広縁用椅子の前に置かれたテーブルの大きいガラスの灰皿をそばに引き寄せた。
「広縁っての? 旅館の奥のここさ。俺名前初めて知ったよ」
武士は食事の後片付けと同時に仲居さんが引いてくれた二人分の布団を見ながら言った。
「案外名前知らない人多いよね。好きな人多いけど」
俺も好き! と、言いながら武士は煙草を咥えた。アタシは今夜の夕食のが好きだったかな、と、綾は返事を返す。
本日の夕食は、甲斐名産の『ほうとう』をメインに、茶わん蒸しや冷ややっこなどが付いた若干変化に富んだものだった。ほうとうは温かく、腹に溜まる。健啖の綾を満足させたのもさることながら、湯上りの湯冷めを間を置かず再び体の芯から温もることができたことが非常に有難かった。
「かぼちゃのほうとうは昼間食べ損ねてたからね。助かったよ」
うまいもんだよかぼちゃのほうとう、と言いながら、綾は武士の正面に立った。ドラゴン用の大きい浴衣から突き出た右手には一対のグラス。左手にはこの地方の地ビールであることを示す緑色のラベルが貼られた小さめのビール瓶が握られていた。
「煙草に火を点けちまった」
「別にビールは逃げないよ」
武士が旅館の名前が書かれたマッチを卓上に放り出すと同時に、綾がビールの王冠を栓抜きで抜いた。
「富士山の青」
「おいおい、まだ一口も飲んでないのに酔ってるのか」
綾は自身の独り言に対する武士の相槌をいなしながら、二つのグラスにそれぞれビールを注いだ。程よく盛り上がった泡の下のビールは、透き通った金色をしていた。
武士を待つ気など毛頭なかったらしい綾は、置いたままの武士のグラスに自分のグラスを軽く打ち付けた。そして顎を天井に高らかに掲げ、一息に飲み干してしまった。
「深みのある味」
綾はそう言いながら空のグラスを卓上に置いた。
「このままじゃアヤに全部飲み干されちまうよ」
「じゃあアタシは外でも眺めてるよ」
天井に紫煙を噴き上げる武士を横目に、綾は窓の外に目を向けた。煙草は未だ半分ほど残っていた。
「これから寒くなるねぇ」
綾はぼんやりと月を眺めながら言った。
「寒くなれば、また温もりにこればいいさ」
武士は深呼吸するように煙草を深く吸い、ゆっくりと細い煙を口から吐いた。
「まあでも、ふたりいるから寒くはないでしょ」
武士は煙草を口に運びかけた手を止める。
「話していれば、寒くなる暇もないってか?」
「恒温だから寄り添ってれば温かいでしょ?」
綾はアハハと笑いながら二杯目のビールをグラスに注ぐ。そうかこいつにはこういうことわからなかったな、と、武士も苦笑しながら灰皿に煙草を押し付けた。そして少々泡が減ってしまったが、グラスに注がれたビールを一息に喉に流し込んだ。
ビールそのものの味はやや薄味だった。アルコール度数も所感としては低く感じる。しかし程よく冷えた水が、駆け抜けた食道に高原の風を一陣吹かせたようなさわやかさを覚えた。
ふと窓の外を見る。雲一つない夜空に、どこか寂し気に浮かぶ満月が、河口湖に心もとない月光を注いでいた。受け止める河口湖は昼と打って変わり人がおらず、孤独を感じているのか水面が鏡面のように凪いでおり、月光の姿をくっきりと映しだしていた。富士山のふりをしていた黒岳も、その姿を映すものがいなければその名の通り黒塗りのシルエットにならざるを得なかった。そして相も変わらず源泉を注ぎ続ける部屋風呂は、そんな富士の仲間たちを包括して、満月とともに湯船にその姿を浮かべていた。
「深みのある味わい」
「ほら、アタシの言った通りでしょ」
綾は三杯目をグラスに注いでいた。半分ほどグラスを覆ったところで、500mlしかなかった瓶の中身は空となってしまった。
「地ビールだからさ、地元の風景をそのままビールに凝縮したんじゃないかな」
綾は顎を斜め上に持ち上げて、右目を閉じて人差し指を立てて見せた。武士は煙草を咥えて、マッチを擦った。
「アヤにもようやくそういうのわかるようになったの?」
「いいや。タケが言いそうなこと先に言っただけ」
だろうな、という武士の一言を聞き流しながら、綾は席を立ち、部屋の奥側にある冷蔵庫に小走りで駆けて行った。
「回数重ねりゃわかるもんじゃないの?」
「アタシもそう思ったよ」
綾は緑ラベルの小さなビールを、今度は両手に一本ずつ持って着席した。
「作家や芸術家ってのは、回数重ねてもできるようにならないセンスみたいなのがあるから成り立ってるもんじゃないの? 回数重ねてわかったのはタケの発言の傾向だけだよ」
綾は瓶の王冠を抜いて、四杯目をグラスに注ぎ始めた。
綾の満たされていくグラスから、ふと武士は外の満月に目をやった。墨汁を垂らしたかの如く真っ黒な空に孤独に浮かぶ満月は、河口湖と部屋風呂の水面に相変わらず自身を反映させていた。武士は煙を細く立てる煙草をゆっくりと口から離した。
「月がきれいですね」
「死んでもいい」
夏目漱石は読んだよね、と、綾はアハハと笑ってみせた。
「俺の発言傾向からの返答か?」
「さぁ?」
綾は小首を傾げてみせると、グラスのビールを一息に煽った。武士もそれを見ながら煙草を再び口の端に咥える。
河口湖の水面は相変わらず凪いでいる。そんな湖面には同じく相変わらず満月が一人寂しく映っていた。
しかし部屋風呂の湯船には、とめどなく源泉が滾々と注がれており、水面は揺らいでいた。静かに波打つ水面の反射する月光は、星屑のようにキラキラと光り輝き、湯気の立つ中に満点の星空が映っているように見えた。
fin
中国医学において、身体整調という理由から温度の高いものを食することが推奨されている。とりわけ四川省では、体の内側から暖を取るため麻婆豆腐といった辛みのある料理が好んで食されている。
中国文化の影響を色濃く受ける日本においても然りである。その最たる例が「湯治」であろう。湯治の効能は泉質での差異はあるものの、疲労回復や、肩こり腰痛といった神経痛、また皮膚病といった血行の改善により治癒するものがほとんどである。
しかし湯のぬくもりが癒すのは、身体の不調だけでなく心の不調もまた然りであった。露天の湯船に抱かれ、湯煙に陰る目前をふと眺めると、海であれ山であれ天然の絵画を独占しているような趣が日々の疲れを心の芯から治癒していくのだ。
*
「なんじゃこりゃ」
富士河口湖町。行楽シーズンを外し有給休暇を取得してやってきた山梨の片隅の、現在閑散としたこの町の比較的高級な温泉旅館の一室での、開口一番榎本武士のセリフである。
「部屋風呂だよ」
武士の背中に、一頭の雌のドラゴンが赤い瞳を流しながら投げかける。宿泊費の八割を出資している赤い瞳の、白銀の体色のドラゴンこと逢川綾は、フィッシング用の黒い袖なしナイロンベストを着た肩から下げたエナメルバッグを畳の部屋の隅に投げて置いた。
武士の目前に広がるは、各部屋に備え付けの所謂部屋風呂、小さな露天風呂だった。広縁の奥のバルコニーを開けると、滾々と源泉が注ぎ込む半畳程度の湯船。目前には西日を受けてきらきらと輝く河口湖と、その向こう側にうっすら黒岳が、我こそが富士でございと言わんばかりに夕陽を背にたたずんでいた。
「富士山も見えやしねえ」
「背後になるからねえ」
綾は部屋の反対側にある備え付けのテレビの隣の戸棚を開けながら言う。武士が振り返ると、富士山ではなく綾の背中の一対の翼と、太い白い尻尾が左右に動くのが見えた。
「でも河口湖は見えるじゃん」
「ああ、絶景だよ、これは」
武士は相変わらず富士山のふりをして西日を浴びている黒岳に怒鳴るように言った。河口湖の畔を、棒切れを持って孤独に歩いていた子供のドラゴンがこちらを振り返ったのが小さく見えた。
「俺が聞きたいのはそう言うことじゃなくてさ、なんで部屋風呂なんだって聞きたいの」
「カップル割にしたらこの形態が一番安くてさぁ」
綾は右手に浴衣とタオルを一対持って振り返った。
ああ、なるほど。だからロビーの従業員は自分たちを見るなり怪訝な表情を浮かべたのか。そうは思ったものの今回の旅費のほとんどは高給取りの綾が負担しているため飲み込まざるを得なかった。
「共同浴場は」
「ない」
武士が綾を振り返るまでもなく即答が跳ね返ってきた。
「最寄りの温泉は3キロ先。歩く? タクシー代は出さないけど」
ぬぅ、と、武士は唸った。本日は徒歩で天上山を上ったり、河口湖のクルージングに参加したりと、実に有意義な休暇を過ごした。それゆえ武士は非常に快い疲労に困憊していた。山道ではなくてもこの土地勘のない田舎町を3キロ行軍する心の余裕など、往復のタクシー運賃を出す余裕とともに残っていなかった。
また本日10月中旬。今でこそまだ日は出ているものの、湯を楽しんだ後戻る頃には、街灯もろくすっぽないこの町は瞬く間に漆黒の闇の中だ。そして武士は上毛の山間部出身である。10月も中旬ともなると、陽が落ちた山間の闇の中の気温はいかほどかを身に染みて理解していた。同じ山間部である足柄の生まれである、綾も言葉にこそしていないものの、よくよく理解しているであろう。
「疲労が蓄積し、湯冷めしちまう」
武士は自身の頭で考えた結論を、正面の黒岳に説明するように発言した。
「じゃあもう答えは一つだよね」
どさりと傍から音がする。視線を向けてみれば、綾が武士の左隣に浴衣とバスタオルと手ぬぐいをまとめて畳に叩きつけていた。
「一緒に入ろぉ」
黒岳の頭上の空は夕焼けで真っ赤になっていた。綾はそんな空と同じくらい紅い瞳を細めて、口角を上げて牙を覗かせてみせた。
*
10月は、その年の天候の差異はあれど、日本国においては概ね秋と呼ぶのに妥当な暦である。単純に説明すれば夏ほど暑くもなく、冬ほど寒くもない。中間の季節だ。
気温が高いと長時間の入浴は苦行である。不運な条件が重なれば命の危険性までもが浮上する。一方で気温が低いと、今度は湯船から上がることが苦痛となる。低い外気温に頭のみがさらされ、体が湯船の湯を吸ってふやけていく様は、時間が経つにつれ全身の感覚が鈍化していくかのような奇妙さを覚える。
故にそれらの条件が、どちらかに偏りすぎない秋という季節は実に入浴に適した季節なのだ。そんなことを考えながら衣類を脱ぎ去り、裸体を夕焼け空の下に晒した武士は山間から吹いた一陣の北風に身を縮こませた。
背後で綾がフィッシングベストを脱いでいるのが見えた。ドラゴンであるが故に普段は全裸で、本日は気温が少しばかり低いという理由でベストを羽織ってきていた。それだけに異性の脱衣というにはずいぶん味気がなかった。綾のベストはどう見ても通気性のよいメッシュ素材でできているが、果たして保温の用途を成していたのだろうかと思考を巡らす程度に感慨もない。
「おお、寒い寒い」
「そんな季節でもなくね?」
フィッシングベストを部屋の反対側に投げ捨て、バルコニーに小走りで躍り出てきた綾に武士はそう言う。
「外気に肌をさらすのは気持ちがいいね」
「普段全裸の奴が何言ってんだか」
武士は正面の黒岳を夕焼けごと抱き込まんばかりに両腕を広げる綾を尻目に、湯船の湯を手桶に掬って右肩にかけた。湯の通り道となった部分からふっと湯気が上がり、秋空に昇華されていく。
「貧相な体だよね」
「あんまり見るなよ」
武士の放った手桶を拾い上げながら綾が言う。
「お前の妹は見たがった体だぞ」
「ホント、何考えてたんだろーね」
綾はそう言いながら手桶に掬った湯を、豪快に頭から被った。綾の体全体から湯気が上がり、そして消えていく。
「そういうアヤはちったぁ痩せたらどうなんだ」
再び豪快に頭から湯を被る綾を眺めながら武士は言った。普段はあまり意識して見ないものだが、自身も一糸まとわぬ姿になっているためか綾の体をじっくりと見ていたことに気が付く。
街で見かけるドラゴンのおおよそは、映像媒体や写真で見るような整った体つきの者は当然少ないが、綾はそれを差し引いても首以外の凹凸が少なく腹が出ており、見るからに鈍重そうに見受けられる。
「ああ、そうそう、部屋風呂にした理由は他にはね」
綾の投げた手桶が湯船から部屋寄りに着地し、コーンと乾いた音を夕方の秋空に響かせた。武士の一言を聞き流すように綾は湯船に右足を漬ける。
綾は湯を腿でかき分けながら、湯船の一番奥に到達し、その肥えた体をゆっくりと湯気の上がる湯船に沈めた。
それと同時に湯船の中の容積が増し、表面張力を起こさんばかりに並々注がれていた湯船の湯が決壊して次々と溢れ出した。その様は一様に、洪水のようであった。
「アタシが浸かるとお湯があふれるから、他のお客からの視線が冷たくてね」
外気に晒され、冷えた湯が武士の両足をくすぐった。湯船の湯は半分以上逃げだしており、源泉が竹筒からドボドボ音を立てて負けじと注ぎ込まれていた。
そういえば武士も過去に銭湯にて入浴した際に、大柄なドラゴンが自身の隣で湯船に体を沈めた瞬間己の両肩が外気に触れてしまって冷ややかな視線を投げたことをふと思い出した。
「アヤでも人の視線が気になるんだな」
「入浴や禊は人間の生理行為だからね。アタシらはそれに乗っかってるだけだから、ヒトが優先」
綾はぼんやりと紫雲を眺めながら、太い尻尾を前方に投げだした尻を滑らせて両肩まで湯につかった。まだ湯が充足していないらしい。
「心無い視線で冷えた心は、入浴で温めればいい」
武士はそう言いながら、右足を湯につけて湯をかき分けながら綾の隣に腰を下ろした。昨今はドラゴンの入浴客も多いため、湯船の奥側は深度深めに作られていることが多い。この部屋風呂もその例に漏れなかったため、湯が満足にない今でも武士の両肩は十分に沈んだ。
「命の洗濯っていうの?」
「まあね」
武士はため息とともに相槌を漏らした。
湯気と源泉の王国は、武士の体温を瞬く間に上昇させた。体内で血液がごうと音を立てて流れるのを感じながら、火照った顔を湯気がたどり着こうとする夕焼けの空に上げた。紫色の雲が、相変わらず富士山のふりをしながら堂々と佇む黒岳の向こう側へとゆっくりと歩んでいくのが見えた。
ふうっと、綾が口吻の先の鼻から小さく息を漏らした。黒岳の後ろから未だ遠慮がちに顔を出す真っ赤な太陽のような瞳は、糸のように細められていた。
家路を急ぐ紫雲たちが河口湖に紫色の影を映す。太陽は、それを湖面越しに見守っているのが、湯気の向こう側にぼんやりと見えた。
*
「気持ちいーい」
綾が間延びした声で嘆息するかのように呟いた。湯が充足したため、ドラゴン用の水深の深い場所にいると座高の高い武士でも頭まで沈みかねないため、手前寄りの浅瀬に避難しながらそんな一言を聞く。
「生物が満たされたと感じるのは、原始的な三大欲求の解消だけど、それにこういった入浴や飲酒っていう三大欲求にほど近い場所に付随的な解消法を見つけたのは本当にすごい」
「人間はそうでもしねえとやっていけねえのよ。ただ生きればいいってもんじゃねえし」
「アタシらドラゴンはヒトと並ぶ知的生物だけど、どっちかというとまだ『ただ生きてる』ことに主軸を置いた一生だからね」
その一生に意味はない。と、言いながら綾は一笑した。湯からゆっくりと上げた太い両腕から水滴が滴り、夕陽を反射させて茜色にきらきら輝いた。
「この温泉旅館の宿泊費然りで、二次欲求を満たすハードルは高くなっている。ましてや一次欲求も然りでね。人間もただ生きてるだけ、一生に意味がないってのは同じだよ」
健康で文化的な最低限度の生活、学生時代に習った日本国憲法第二十五条の一文をぼんやりと続けて呟いた。綾は湯煙の陰りからちらと赤い瞳を武士に向けたが、すぐに正面の絶景に視線を戻した。
「アタシはドラゴンだからこの風景のよさはよくわからないけどさ、それでも口先では二次欲求について偉そうに講釈垂れることができてるってわけだけども」
綾の一言に武士は、バルコニーの際側の湯船までにじり寄った。目前の風景は相変わらず黒岳が傲慢に河口湖を見下ろす様が続いていたが、黒岳の背後を飾る夕陽が河口湖へ落とす赤光が程よく黒岳の威厳を上げ、かつ河口湖の水面を真っ赤に染め上げ、星を散りばめたように光を反射させていた。武士は飽きもせず、ほうっと息を吐いた。
「つまり一次欲求さえ満たせば生きていけるってことかい。そりゃ人間だっておんなじだよ。根本は生物的本能なんだよ。理性が身についても」
「くう、ねる、せいこう」
綾はそう呟くとため息を一つつき、顎を茜色の秋空に突き上げた。
「アヤはいつも食っちゃ寝して日々充実してるけど、ぶっちゃけ性欲はどう解消してるわけ?」
綾に向き直り、夕陽が織りなす絶景を背後に背負う形になった武士に、綾は突き上げていた顎を下げ、口を半開きにして牙を覗かせたまま瞳を向けた。
「普通に自慰だけども。発情期に多いかな」
「いつやってんのさ」
「タケに見えないようにしてるよ。見せもんじゃないんだから」
「えっ、どうやって」
「動画とか見てさ、ていうか」
綾は右手のひらを武士に向けて制して見せる。夕焼けに照らされてか、はたまた体温の上昇か、綾の白い顔が火照って見えた。
「なんでそんなこと聞くの」
うーん、と武士は唸ってみせる。本日の疲れのための思考能力の低下か、はたまた体温上昇で脳が湯だっているのか。もとより働きの良い方ではない頭を稼働させて思考する。そしてふとひらめき、あっと小さく呟く。
「裸の付き合いってやつ」
「あー、隠すものがないって言いたいわけ?」
綾は両掌を叩いて見せた。湿った破裂音が秋の山村に木霊し、湯しぶきが小さく飛散した。
「裸の付き合いってのは、男同士の付き合いの常套句なんだけどもさ」
「なるほどこういうことの言いあいなら、ヒトの女性は嫌がるかもね」
オスのドラゴンを女湯に入れないのはそう言うことね、と綾は一人合点する。
武士が今綾と入浴をしていること然りで、人間が他の動物に肌をさらすことに抵抗がないのと同じようにドラゴンも人間の肌を見ても特になんとも思わない。故にオスのドラゴンが女湯にて清掃に従事する姿が少し前まで散見できたが、人間の女性側の精神的苦痛を理由に分離されたという過去があった。綾の一人合点は狭義的にみると誤りかもしれないが、広義的に包括すると的外れではないだろうと、武士も同じく一人合点した。
「テレビ見てたら、カビバラとかニホンザルが温泉浸かってるじゃん。あれなんか寒さ除けとストレス解消、んで血行促進と生きるための生理行為だよね。アタシも現時点では彼らと同じわけよ」
そう言い終えると綾はカビバラのように瞳を閉じて見せた。
武士は相変わらず河口湖名物たちが夕陽とともに織りなす絶景に背を向けている。視界には湯煙と、目を閉じた綾のみが映っている。
「カビバラみてえに何にも考えず湯を楽しむのも乙だろ」
武士も綾に倣って両目を閉じてみせた。
「そうだね。若干のぼせてきて頭も働かなくなってきたところだし」
綾のそんな一言を最後に、ふたりの間を沈黙が支配した。瞳を閉じているふたりにとって、深淵の沈黙であった。
源泉が綾の傍らの竹筒から滾々と注がれる音だけが鼓膜を叩いた。体が温まっていくのに対し、冷たい外気は頭を冷やす。綾はそうはいったものの、頭の働きは血行促進もあり活性化されていく。
脳での思考を意図的に締め出し、全身の感覚を鋭敏化させることに努める。脳が体から適温にぬくもった血液を受け取り、快楽物質を源泉が如く流し続ける。
夕日がいよいよ黒岳の背後に沈む。最後のひと踏ん張りと言わんばかりに真っ赤に空を燃やす。ふたりの浸かる湯船もその光を反射し、赤色にきらきら輝いた。
真っ赤な水面と、温かい源泉。ふたりはそこに、溶けてしまいそうだった。
*
ふたりが宿泊した部屋にも、例に漏れず広縁があった。それは部屋風呂のあるバルコニーに面しており、風景と広縁の間に部屋風呂を挟んでしまっているため窓からは今一つ風景を楽しめないことがネックであった。完全に部屋風呂に重きを置いた作りになっているのだろう。
太陽もすっかり沈み切って、満月がぽっかり漆黒の空に浮かぶのを見ながら、浴衣を着た武士は自身の座る一見すると骨組みだけのように見える、広縁用椅子の前に置かれたテーブルの大きいガラスの灰皿をそばに引き寄せた。
「広縁っての? 旅館の奥のここさ。俺名前初めて知ったよ」
武士は食事の後片付けと同時に仲居さんが引いてくれた二人分の布団を見ながら言った。
「案外名前知らない人多いよね。好きな人多いけど」
俺も好き! と、言いながら武士は煙草を咥えた。アタシは今夜の夕食のが好きだったかな、と、綾は返事を返す。
本日の夕食は、甲斐名産の『ほうとう』をメインに、茶わん蒸しや冷ややっこなどが付いた若干変化に富んだものだった。ほうとうは温かく、腹に溜まる。健啖の綾を満足させたのもさることながら、湯上りの湯冷めを間を置かず再び体の芯から温もることができたことが非常に有難かった。
「かぼちゃのほうとうは昼間食べ損ねてたからね。助かったよ」
うまいもんだよかぼちゃのほうとう、と言いながら、綾は武士の正面に立った。ドラゴン用の大きい浴衣から突き出た右手には一対のグラス。左手にはこの地方の地ビールであることを示す緑色のラベルが貼られた小さめのビール瓶が握られていた。
「煙草に火を点けちまった」
「別にビールは逃げないよ」
武士が旅館の名前が書かれたマッチを卓上に放り出すと同時に、綾がビールの王冠を栓抜きで抜いた。
「富士山の青」
「おいおい、まだ一口も飲んでないのに酔ってるのか」
綾は自身の独り言に対する武士の相槌をいなしながら、二つのグラスにそれぞれビールを注いだ。程よく盛り上がった泡の下のビールは、透き通った金色をしていた。
武士を待つ気など毛頭なかったらしい綾は、置いたままの武士のグラスに自分のグラスを軽く打ち付けた。そして顎を天井に高らかに掲げ、一息に飲み干してしまった。
「深みのある味」
綾はそう言いながら空のグラスを卓上に置いた。
「このままじゃアヤに全部飲み干されちまうよ」
「じゃあアタシは外でも眺めてるよ」
天井に紫煙を噴き上げる武士を横目に、綾は窓の外に目を向けた。煙草は未だ半分ほど残っていた。
「これから寒くなるねぇ」
綾はぼんやりと月を眺めながら言った。
「寒くなれば、また温もりにこればいいさ」
武士は深呼吸するように煙草を深く吸い、ゆっくりと細い煙を口から吐いた。
「まあでも、ふたりいるから寒くはないでしょ」
武士は煙草を口に運びかけた手を止める。
「話していれば、寒くなる暇もないってか?」
「恒温だから寄り添ってれば温かいでしょ?」
綾はアハハと笑いながら二杯目のビールをグラスに注ぐ。そうかこいつにはこういうことわからなかったな、と、武士も苦笑しながら灰皿に煙草を押し付けた。そして少々泡が減ってしまったが、グラスに注がれたビールを一息に喉に流し込んだ。
ビールそのものの味はやや薄味だった。アルコール度数も所感としては低く感じる。しかし程よく冷えた水が、駆け抜けた食道に高原の風を一陣吹かせたようなさわやかさを覚えた。
ふと窓の外を見る。雲一つない夜空に、どこか寂し気に浮かぶ満月が、河口湖に心もとない月光を注いでいた。受け止める河口湖は昼と打って変わり人がおらず、孤独を感じているのか水面が鏡面のように凪いでおり、月光の姿をくっきりと映しだしていた。富士山のふりをしていた黒岳も、その姿を映すものがいなければその名の通り黒塗りのシルエットにならざるを得なかった。そして相も変わらず源泉を注ぎ続ける部屋風呂は、そんな富士の仲間たちを包括して、満月とともに湯船にその姿を浮かべていた。
「深みのある味わい」
「ほら、アタシの言った通りでしょ」
綾は三杯目をグラスに注いでいた。半分ほどグラスを覆ったところで、500mlしかなかった瓶の中身は空となってしまった。
「地ビールだからさ、地元の風景をそのままビールに凝縮したんじゃないかな」
綾は顎を斜め上に持ち上げて、右目を閉じて人差し指を立てて見せた。武士は煙草を咥えて、マッチを擦った。
「アヤにもようやくそういうのわかるようになったの?」
「いいや。タケが言いそうなこと先に言っただけ」
だろうな、という武士の一言を聞き流しながら、綾は席を立ち、部屋の奥側にある冷蔵庫に小走りで駆けて行った。
「回数重ねりゃわかるもんじゃないの?」
「アタシもそう思ったよ」
綾は緑ラベルの小さなビールを、今度は両手に一本ずつ持って着席した。
「作家や芸術家ってのは、回数重ねてもできるようにならないセンスみたいなのがあるから成り立ってるもんじゃないの? 回数重ねてわかったのはタケの発言の傾向だけだよ」
綾は瓶の王冠を抜いて、四杯目をグラスに注ぎ始めた。
綾の満たされていくグラスから、ふと武士は外の満月に目をやった。墨汁を垂らしたかの如く真っ黒な空に孤独に浮かぶ満月は、河口湖と部屋風呂の水面に相変わらず自身を反映させていた。武士は煙を細く立てる煙草をゆっくりと口から離した。
「月がきれいですね」
「死んでもいい」
夏目漱石は読んだよね、と、綾はアハハと笑ってみせた。
「俺の発言傾向からの返答か?」
「さぁ?」
綾は小首を傾げてみせると、グラスのビールを一息に煽った。武士もそれを見ながら煙草を再び口の端に咥える。
河口湖の水面は相変わらず凪いでいる。そんな湖面には同じく相変わらず満月が一人寂しく映っていた。
しかし部屋風呂の湯船には、とめどなく源泉が滾々と注がれており、水面は揺らいでいた。静かに波打つ水面の反射する月光は、星屑のようにキラキラと光り輝き、湯気の立つ中に満点の星空が映っているように見えた。
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