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一つ目の命

1日目

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 ふと、独特な臭いが鼻孔をついて意識が浮上する。
 冷たい床に無造作に転がされたらしい身体はあちこちが痛みを訴えている。そっと目を開いて、もう一度閉じて、恐る恐るもう一度開いた。

(……なんだ、これ…)

 信じ難いことだが、どうやら自分は檻の中にいるようだ。己の目を疑いながらもゆっくりと身を起こす。檻は立ち上がれないほど低く、それでいて横になれる程度には広かった。薄暗い中で鈍く光るソレは、ろくに運動もしてこなかった細腕で曲げられるはずもない。足掻けば足掻く程、悪戯に体力を消耗するだけだろう。
 そう理解していながら現実逃避のように数分間、無駄な足掻きに時間を割き、漸く諦めて一息つく。鉄格子の間からぐるりと部屋を見回し、既に慣れ始めてしまった臭いに納得する。

 (…病室…)

 壁一面の薬棚に簡易的なベッド。檻の脇にある金属製の机は、恐らく手術台だろう。この檻の中から机上を見ることはできないが、その上で行われた、もしくは行われる行為を想像して思わず身震いした。汚れた蛍光灯は、一本も点いておらず、白いカーテンを透かして侵入する光のみがぼんやりと家具の輪郭を浮き立たせている。

(…逃げなくちゃ…)

 漠然とそんな考えが浮かぶ。とは言え、檻から出ることも難しい現状を考えると、檻の中から見える出入口から逃げるなんてことは夢のまた夢。到底成し得ない事だろう。
 絶望と不安に押し潰されそうになっていると、敏感になった聴覚に小さな音が響いた。硬いものが床にあたる音が規則的に、そして徐々に大きくなりながら響く。それが恐らく足音だろうと理解した瞬間、心臓が早鐘のように打ち始めた。檻は部屋の真ん中に置かれている。隠れる場所も逃げる場所もないが、廊下に面した窓は幸いカーテンで覆われている。

(…通り過ぎますように…!)

両手で口を塞ぎ、荒くなる呼吸音を必死で抑える。神か仏か、誰ともなしに心底願った祈りは呆気なく無視された。
 
足音が、扉の前で止まった。

心の準備など待ってくれるはずも無く、無遠慮に扉が開く。心臓が大きく跳ねた。

「こんにちは。」

 現れた初老の男が、無愛想に告げた。
 シワのついてよれた白衣から、恐らく『医者』だろうと推測できる。しかし、突然のことに頭がついていかない。両手で口を塞いだまま固まる。数秒間の沈黙。男は数歩檻に近づいて、少し大きな声でもう一度告げた。
 
「こんにちは。」

やっと自分に言われていると気づいて、震える両手を口から引き剥がした。なんと返せばいいかわからず、はくはくと口を開閉させる。

「こ ん に ち は。」

男は表情を変えないままに、口を大きく開き、発声練習でもするかのように大きな声を出した。ようやっと声を絞り出し、蚊の鳴くような声で、こんにちは、と返すと、男は呆れたように肩をすくめた。

「こりゃダメだ。『難あり』だな。」

困った困った、と呟きながら薬棚に向かう男の背中に勇気を振り絞って声をかける。

「っ、あ、あの、その、何が、『難あり』、何でしょうか…!」

つっかかりながらもそう問いかけると、男は一度口を開いてから何かに気付いたように一つ手を打ち、よれた白衣の大きなポケットからメモ帳を取り出して何かを書き付けた。そして、そのページを破いて檻の中へ落とし、再び薬棚へ足を向けた。
 頭に疑問符を浮かべながら乱雑に破かれたメモを拾い、首を傾げる。
 
『聴力検査
 レベル1 応答なし
 レベル2 応答なし
 レベル3 応答あり(非常に曖昧)
 検査結果
 難あり(要治療)』
 
 ここに『聴力検査』と記されているのは先程の挨拶のことだろう。それは理解できる。しかし、『要治療』とは…?
 器具のぶつかり合う音が煩く響く。薬棚の引き出しから男が引きずり出しているソレは、明らかに『開く』ものばかり。鋸、細身のドリル、長い錐…。呆然としている間に、狂気に満ちた器具類が手術台の横にズラリと並べられた。
 
「…さて、やろうか。」
 
 独り言のようにポツリと男が呟いた。鍵を外す音がして、狭い檻の天井に当たる部分がずらされる。当然逃げようと藻掻くが、見た目からは想像できないほどの力で無理やり手術台に乗せられ、固定された。恐怖に引き攣った喉は不規則に痙攣を繰り返すだけで、なんの役にも立たない。
 
「大丈夫、大丈夫。すぐ治療してあげるからね。」

 始終無愛想だった男の口角が緩やかに上がっていくのを最後に、僅かに残った自己防衛本能が意識を手放した。
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