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正義の心

名もなき作者

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 瞳の奥をのぞき込む。
 
 と、じりじり距離を取られていくじゃないか。ふたたび警戒されてしまったかもしれない。逃がしやしないけどねと近付く。

「本当は三つめの小説を。最後の、先輩の書いたオリジナル小説を読ませるためだけに利用したんじゃないんですか?」

 一冊目、二冊目の本になった小説はプロの小説家が書いたものを改変しただけのものだった。いわば原作があるものだった。

 だけど、どれだけ探してみても三冊目の本だけは元になった小説が見つからなかったのだ。おそらくは先輩がいちから書いたオリジナルの作品なんじゃないかと思う。

 その作品で最後だった。あとは空白のページを残すのみ。だったら先輩の目的は、その最後の小説にあったんじゃないのか。

 プロの小説を写したのは練習なんじゃないかなと思う。小説を書く模倣。もしそうだとしたなら本番はもちろん自分の小説。初めての作品かどうかは定かじゃないけれど、たぶんそれに近いものなんだろう。

 初めて書き下ろした小説。だれかに読んでもらいたくなるのは必然のことだろう。見るからに臆病そうな先輩は、はて、面と向かってだれかに読ませれたのだろうか。

 持ち主の名前が書かれていない、匿名性を秘めたあのノート。図書室にぽつんと放置されていたあのノートは、いったいだれの目に触れたというのだろう。

 図書の利用者、忘れ物に気付いた善者、図書の当番にあたっている、ぼくら委員。

 なんだこれはと興味をそそるのもヨシ。だれの持ち物だと良心をくすぐるもヨシ。委員の仕事だからと義務感を弄ぶもヨシ。

 読者には事欠かなかったかもしれない。

「そ、そ、そんなこと、ない、ないわよ。しょ、証拠はあるの?」
 
 先輩は目に見えて動揺しだす。おや、図星だったりするのかな。

「探偵が言ってました。あの告発の内容は古いと。一年前のものもあったそうです」

 一年間。あの告発文は人知れず、ひと目にさらされ続けてきたのだろう。ひとつは鬼柳ちゃんが解決するまで、もうひとつは自然に風化してしまうまで。

「小説を読ませるきっかけにしただけで、いじめの解決自体はどうでも良かったんじゃないですか。一年放置した位です。助ける気もとくになかった。そうですよね?」

 そもそもが小説である必要もないのだ。誰が誰をいじめている。たったそれだけで済んでしまうほどの単純な告発だった。

 小説を最後まで読みきり、わずかな違和感に気付き、なおかつ問題の解決を図る。そんな探偵のようなひとが、さて、これまでに何人もいたとするのならば。ぼくはこの世界を見誤っていたと認めざる得ない。

 そんなわけないよね。にへらと自嘲していると、いつの間にか先輩のオドオドとした態度はすっかりとなくなっていた。キッとした瞳で、睨み返してくる始末である。

「悪い? それが何か問題でもあるの? 何か行動しなきゃいけないの? 何さ、 勝手に本になんかにしてくれちゃってさ」

 どうやらぼくは怒られているようだな。今度は先輩が視線を外してくれないので、ポリポリと頬をかきながらそっと逃れる。

 先輩の態度は豹変してしまった。

 どっちが本来の先輩なんだろうかなと、ちょっぴり戸惑ってしまう。書籍化は物書きの悲願なのかとも思っていたけれど、案外そういうわけでもなかったらしいや。

 ふぅむ、覚えておくとしようかな。

 勝手な書籍化はトラブルの元になるのだと。勝手に商品化までしてしまう小人は訴えられてもおかしくない存在だったのか。靴屋の店主がやさしいひとだったようで、羨ましいかぎりだよ。

 ぼくは苦笑しながら、あの日、先輩が置いていったであろうノートを取り出した。

 このノートはずっと繰り返し使われてきたのだろう。届くかどうかもあやふやな形だけの告発に。オリジナル小説を読ませたあとの反応を見るための道具として。

 偽りの正義の心で。
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