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一輪の花

赤い花

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 言うが早いか鬼柳ちゃんが飛び出しそうになったので、思わず彼女の腕を掴んだ。

「待った待った。探偵はきちんと証拠を掴まないと」

 いつか見た鬼の形相をしている。怒りを抑えているのだろう。身をわなわなと震わせていた。

 まあ、ぼくの目からみても松永先輩達がただの友人関係には見えなかったけどね。それでも一応は調べないと。

 ふたりの様子を覗き見る。

 松永先輩は手ぶらのまま、スッと教室に向かってしまった。残った男は傘を片付けているようだ。おや、傘があったにしては、彼はずいぶんと濡れているな。

 松永先輩は濡れているようには見えなかったけれど。傘を片付け終わった彼は、そのまま三年の下駄箱に消えていった。

「そう言えばこの前も、先輩は手ぶらだったな」

 迂闊な発言だった。

「この前ってなに」

 鋭い視線を向けられた。火に油を注ぐ事にならないかと、ひやひやしてしまう。

「この前の雨の日にね。松永先輩は間違えて、二年生の下駄箱に来たんだよ」

「その時も相合い傘をしていたの?」

「それは見てないけど。手ぶらだったね」

「まだ先の話があるだろう」
 と、無言でじっと見つめられている。

「……いっしょにいた相手は二年生だったよ」

「そう」

 低く、静かな声。静かな怒りは怖いものだ。弟思いのお姉ちゃんが暴走しないと良いけれど。

『彼女が歩けば、晴れるんだ』

 中原先輩の言葉を思い出した。晴れ女の意味がなんとなく分かってきたね。彼女の歩く道は勝手に晴れるのだろう、男たちの手によって。彼らは自分が濡れながらも、松永先輩の道を晴らしている。

 そういえば松永先輩は、ひとりでいる事がほとんどなかった。そして隣りにいたのは、いつも男だったな。それも別々の。

 あの雨の日の狂犬は、松永先輩の彼氏だと名乗っているそうだけれど。一也くんの事もある。彼らの肩書きは、いったい何なのだろうか。

 友人? 
 彼氏? 
 それとも──。

 完全な証拠をつかもうと、松永先輩を見張っていたぼくと鬼柳ちゃんだったが。それは放課後、思ったよりも早く動きがあった。雨はしとしと振り続け、水泳部の練習は中止となった。

「傘を忘れたので送って欲しい」
 というお誘いが一也くんに届いたそうだ。すぐに下駄箱に向かうかと思ったが、松永先輩は人気を避けてある男と会っていた。

 元々一緒に帰る予定だった男だろうか。帰りの挨拶を交わしたのだろうか。男はひと目もはばからずに去り際、先輩とキスをした。

 男と別れ、先輩はスマホを取り出しながら歩き出した。一也くんと連絡を取る気だろうか。

 あっと、思った時にはもう遅かった。今度は腕をつかむ暇もなく、鬼柳ちゃんは走り出していた。先輩の元にたどり着いたと同時に。

 パシンッ。

 鬼柳ちゃんは先輩の頬を打っていた。

「いった。なにすんのよ!誰よあんた?」

 頬を押さえたまま怒鳴る先輩と、声を荒げる鬼柳ちゃん。

「一也に謝って!」

 キッと睨みつけ、小さな肩が怒りの為だろうか震えている。ぼくもふたりの元にようやくたどり着いた。まあまあと宥めるも、一触即発の睨み合いだ。

「こちら一也くんのお姉さんです。先輩、さっきの人は誰なんですか?」

「一也? ああ、あの一年の。ふんっ」

 あの人懐っこい笑顔は何処へやら、ふてぶてしい態度だ。まるで別人のようじゃないか。まあ、仕方ないのかな。

「どうも先輩は、おモテになるようで。本命はいったい誰なんですか?」

「うるさいなあ。何よ。彼氏のひとりや、ふたり」

 もっといた気もするけれど、気のせいだろうか。ふむ、先輩はモテるんだなあ。

「弟を弄ばないで!」

「告ってきたの、そっちじゃんか。それに合う、合わないがあるんだし。付き合って、試してみないとわかんないじゃん。何? ずっとその人じゃないとダメなの?」

 その言葉が口火を切った。鬼柳ちゃんは先輩に飛びかかり、先輩の荷物は辺りに飛び散った。おお、キャットファイトだ。はじめて見たよ。

 男のぼくは手出し無用だろう。勝てる気も、止めれる気もしないからね。人目を避けた場所だから、ほかに頼れる人もいなさそうだ。

 ……飛び散った先輩の荷物でも、まとめといてあげようかな。

 拾いながら、先輩の言葉を振り返る。先輩の言うことも実は一理ある。まあ、派手にやり過ぎだとは思うけれど。ひとりひとりキチンと終わらせていれば、世の中的には正しい事とされるのだろうな。

 個人的には気に入らない考えだけどね。愛した人はやっぱり特別だと、ぼくはそう思いたいものだよ。

 気付けばキャットファイトは終わっていた。お互いに距離を取っている。すこし服も乱れ、お互い涙目になったものの、意見は並行線のままのようだ。

「頭おかしいんじゃないの!」
 と捨て台詞を吐く先輩に、まとめておいた荷物をお渡しした。ひったくるように荷物を受け取り、先輩は去っていった。お礼も当然なかった。

 鬼柳ちゃんは、ぺたんと地面に座り込んでいる。すこし落ち着くのを待とうか。グスグスと涙をぬぐいながら、鬼柳ちゃんはぼくを見上げてきた。

「さっき先輩のスマホで何をしてたの?」

 目ざといね。あの状態でよく見えたものだ。

「そうだね。見に行ってみようか」

 二階の踊り場からは、昇降口がよく見える。昇降口周りには黒い花がたくさん咲いていた。ぼくが呼んだ方々だ。

「一也くんに送ってあったお誘いの文を、登録してある男の名前全員にグループ送信してみたんだけど。思っていたよりも集まったね」

 ちょうど松永結愛もたどり着いたようだ。彼女を中心に黒い花が輪になって咲き乱れている。男達も気付き始め、揉めだした。

 さてさて、誰が先輩の彼氏なのだろうか。

 彼女が一歩前に進むと、黒い花も一歩下がり、輪は決して崩れなかった。しばらく揉めた後に、黒い花はバラバラに散り始めた。

 最後に残ったのは、松永結愛だけだったようだ。

「みんな知らなかったのかな」

「そうみたいね」

 下駄箱で立ち尽くしていた松永先輩のすぐそばで、小さく赤い花がパッと咲いた。

「あっ。あれ、わたしの傘」

 鬼柳ちゃんは驚きの声を上げた。

「一也くんは、まだ傘を買ってなかったの?」

「うん、あの子バカだから。傘のお金も、デート代に使っちゃったみたいなの」

 鬼柳ちゃんは、はあ、とため息をついて階段の手摺に肘を置いた。そして、ふたりを眺めている。

「一也にも送ったの? グループ送信」

「うん、送ったよ」

「そう。本当にバカなんだから、あの子」

 そう言いながらも、鬼柳ちゃんは優しい横顔をしていた。

 花束が作れるほどの花なんて、なくたっていいじゃないか。花なんてものは、ほんの一輪あればそれで充分じゃないだろうかと、ぼくはそう思う。

 鬼柳ちゃんは去っていく一輪の赤い花を見送りながら、
「もう。お姉ちゃんは、どうやって帰るのよ」
 と言った後、目をつむりすこし考え、
「守屋くんは傘を持ってきてるの?」
 と笑顔で聞いてきた。

 ぼくも傘を奪われないようにしないといけないな。雨は、まだしとしと振り続けていた。
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