Escape from 底辺(EFT)

一条 千種

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第32話 もとには戻れない

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 週が変わって月曜日。
 愛凛は登校した。

 木内さんたちは神妙にお悔やみを伝え、愛凛も彼女たちと抱き合って感謝を示した。

 ただ、愛凛をれ物のように見るのも最初のうちだけで、少しすると、愛凛の変わることない明るさに、クラス全体が次第に慣れて、教室はいつもの楽天的な喧騒けんそうを取り戻した。
 ビッグ4も10日ぶりに全員集合し、常にその中心にいる愛凛が戻ってきて、しきりと笑いさざめいている。

 一見すると、すべてがもとの姿に戻ったようだ。

 俺と愛凛の関係も、変化はない。

 ホームルームの直前、愛凛は俺の席まで来て、ぽんぽん、と頭を叩いた。

 それだけだった。
 愛凛からすれば、それだけでも分かり合える関係だからそうしたのかもしれない。

 だが、俺はまだ、気持ちの整理がついていない。
 というより、整理できることとは思えなかった。

 この教室で、俺だけが、もとには戻れていない。

 憂鬱だ。

 数日、俺はぼんやり過ごした。

 清水と最上さんが付き合っているらしい。愛凛から聞いた話ではあるが、登下校の際にも並んで歩く姿をよく見かける。以前であれば、それをうれしく思ったり、微笑ましくながめたり、あるいはうらやましく感じたりしたかもしれないが、とてもそんな気分になれなかった。見たくもないものを見せつけられているようで、やりきれないし、さらにはどうでもよかった。

 毎日続けていた自分磨きも、あの日以来、やめた。といって、勉強や、ゲームをするわけでもない。ひたすら部屋にこもって、クソみたいなニュースやつぶやきを流し見るか、バカしか見ないようなゴミ動画をだらだらとながめるか、あるいはその合間、うつろに、愛凛との甘く切ない夢のような時間を思い返すだけだった。

 なんだか、もうどうでもいい。

 愛凛は以前と同様、日に一度か二度、俺の席に来る。
 彼女ほどに鋭敏でそして優しい人ならば、俺のそうした変化に気づかないわけもない。

「みーちゃ、どうしたの? 最近ずっと、うわの空じゃない?」
「うん……いや、そうでもないよ。お母さんの件、よかったね」

 お母さんの件、というのは、お父さんの急逝きゅうせいをきっかけに、愛凛のお母さんが働き方を見直し、週の半分くらいはリモートで勤務し、これまで頻繁に発生していた土日の出勤もなくすことになったという件だ。

「パパがいなくなって、母一人、娘一人になっちゃったからね。少しでも一緒にいられる時間が増えるのはいいかもって、私も思うよ」
「元気になってくれて、俺も安心だよ」
「みーちゃのおかげだよ」

 俺のおかげ、と言ってくれるのは、つまり、あの日の出来事はまぎれもなく愛凛の心に残っているということだ。なかったことにしようとも思っていない。だが、あの日の出来事をもってして、ふたりの関係を変えるものではないと、そう定義しているということだ。

 俺と愛凛が愛し合ったこと。
 それは、あの部屋の、あの時間だけにあったこと。

 なにも、変わりはしない。

 鬱々として、楽しまぬ日常を無為に送った。
 12月に入り、後期中間考査が迫るなかでも、俺の気分は一向に晴れない。

 そんな日々の、日曜日。

 昼間、俺がベッドに横になってぼーっと天井てんじょうの模様をながめていると、窓ガラスになにかぶつかる気配がする。
 鳥か風のしわざだろうと一度目は気にしなかったが、数秒おいてまたガラスを叩く音が聞こえる。
 窓からのぞくと、門の外でクロスバイクにまたがり、赤と黒のジャージを着込んだ愛凛が、こちらを見上げていた。

 玄関から出てゆくと、愛凛はお手玉の要領で、石をくるくると操って遊んでいる。

「連絡もなしに、どうしたんだよ」
「それはこっちのセリフ。最近、みーちゃ返事くれないもん」

 ぷい、と愛凛は唇を突き出して、不満げな表情を浮かべた。
 確かに、俺は最近、気乗りがせず愛凛からの連絡にも返信をしないことが多い。

「放置プレイだよ」
「なぁにそれ。みーちゃはここんとこ元気ないって、あすあすたちも心配してたよ」
「……別に、変わりないよ」
「ラブリー様にはお見通し。教室でも背中丸めて、姿勢が悪いからよくため息ついてる。トレーニングもサボってるでしょ」

 (よく分かるな……)

 愛凛には嘘は通用しそうにない。

「ほら、駒沢公園、走りに行くよ。すぐに着替えてきなさい」
「えっ、これから?」
「だからこうしてトレーニングウェアで来たんじゃん。走るとスカッとするよ。女の子を待たせるんじゃないの」

 俺は愛凛のこういう、強気で、強引で、傍若無人ぼうじゃくぶじんで、気の向くままに俺を振り回してくれるとこが、たまらなく好きだ。

 俺をあくまで親友として扱い、男として愛してくれようとしない愛凛とともにいることには、苦みと痛みがある。
 といって、彼女の誘いを断ることなどできるはずもない。

 なまった体でする久しぶりの運動には少し不安があったが、すぐにペースをつかんで、結局は前回と同様、10km強を走りきることができた。

 ジョギング終わり、ベンチに座って話をする。

「一緒に走ると気持ちいいね。みーちゃも、気分少しはアガった?」
「うん、ちょっとアガった……かな?」
「みーちゃ、話してごらん」
「なにを?」
「みーちゃの胸につかえてること。私、みーちゃがつらいときはそばにいるよ」

 愛凛の表情に、あの日、あの部屋で見たような優しげな瞳や甘い微笑み、そして愛情はない。
 それらは、どれも、彼女の愛を独占するひとだけに向けられるものだ。

 俺にはその資格がない。

 彼女に、どう言えばいいというのだろう。
 なにを伝えればいい?

 その迷いが、俺を沈黙させた。

「私にも、言えないことで悩んでるの?」
「……というより」
「というより?」

 (お前だから言えないんだよ)

 俺はなおも迷った。
 言えば、愛凛との関係はすべて、氷が溶けたように跡形あとかたもなくなってしまうかもしれない。もう、彼女とこうして一緒に過ごすことも、あるいは話すことも目を合わせることさえもできなくなってしまうかもしれない。
 そうなったら俺は。

 だが、俺は同時に言うべきだとも思っていた。
 言わねばならなくなるだろうと、分かっていた。

 このまま、自分の気持ちを隠し、隠し続けて、愛凛とこれまで通りの友達付き合いを続けるのは無理だ。

 自分の想いを伝えないままに、いつか、愛凛がほかの誰かを愛するようになったら。

 俺は、気が狂うかもしれない。

 確かに一度は、もとのズッ友に戻ろうと思った。それが、自分のためにも、彼女のためにもいいだろうと。

 でも、俺はもう、今のこの関係には耐えられそうにない。

 彼女に、愛を伝えたかった。

 これを言えば、もう本当に、もとには戻れなくなってしまう。
 それでも。

「俺は……」
「うん、俺は?」
「……愛凛」

 そう呼ぶと、彼女の瞳は動揺したように激しく揺れた気がした。
 愛凛は、とっくに、俺の気持ちに気づいている。
 その確信が、俺に最後の勇気を与えた。

「愛凛のこと、好きだよ」

 時間が止まったようだった。

 俺も、それから愛凛も、まるで時間が止まったように、まばたきさえせず、12月のやわらかい日差しのささやきと、ひんやりとした風のざわめきのなかにいた。
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