Escape from 底辺(EFT)

一条 千種

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第26話 美しくかなしい涙

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「みーちゃ、ちょっといい?」

 2時間目が終わってすぐ、木内さんが遠藤さんと最上さん、いつものメンバーで連れ立って話しかけてきた。
 なんの話か、おおよそは分かる。
 俺もこの日、ホームルームで担任から愛凛のことを聞かされてから、ずっと彼女のことばかりを考えていた。

「うん……」
「ラブリーから、なにか連絡あった?」
「いや……」
「最近、ラブリーに変わったことはなかった?」
「ううん。昨日も昼間に会ったんだけど、いつもと変わらなかった。だから、本当に突然のことだったんだと思う」
「そう……」

 いつも明るく楽しそうなビッグ4の面々が、このときばかりはしんみりと沈んだ顔をしている。最上さんにいたっては、目に涙をいっぱいに浮かべている。

「私たち、先生の言う通り、こっちから連絡はしないつもり」
「うん、それがいいと思う」
「ラブリー、よくお父さんの話をしてた。パパのこと大好きだって、いつも言ってたよ」
「私、お父さんのこと嫌いで、臭いから近寄るなっていつも言っちゃうけど、それでもお父さんが死んだらって想像したら耐えられない。ラブリーがどんな気持ちでいるかって考えると」
「私も、ほんとだったらラブリーのそばにいてあげたい」

 あぁ、優しい世界だな、と俺は思った。愛凛が友達として彼女たちをしたっているだけのことはあるよ。

 思わず涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえつつ、

「みんなと話したくなったら、きっとラブリーの方から連絡くれると思うよ」
「うん、そうだね……」

 木内さんが離れていったすぐあとだ。

 クラスで大騒動が巻き起こった。中心は、意外にも俺だ。

 俺の少し前の席に、村田というやつがいる。ウチは全国最難関の高校ということもあって、真面目で頭脳明晰めいせきで育ちがいい連中が多いが、村田はそのなかでも珍しく出来の悪いやつだった。しかも露悪ろあく趣味があって、本物の不良にさえなりきれないなんちゃってヤンキーだ。
 こいつが、愛凛について話しているのが聞こえた。

「高岡ってさ、いつも冷たい目してて人間の心ないじゃん。父親が死んでもなんとも思わないんじゃん?」

 俺は完全にキレてしまった。
 いくら、俺が温厚で善良で上品で格調高い人格者だといっても、我慢の限界というものがある。いや、俺自身のことならまだいい。だが、この場にいない彼女のことを侮辱ぶじょくすることだけは許せなかった。

 あいつに、愛凛に人間の心がないだと?
 バカなことを言うな。

 あいつがどれだけ優しくて、どれだけあたたかい心を持っているのか、俺は誰よりもよく知っている。
 俺が人がましくなれたのは、というより、クラスの一軍だとか二軍だとか三軍だとか、あるいは自分が底辺ヲタクだとか、そんなくだらないことにしばられず、一人の人間として成長できるきっかけをくれたのは、彼女だった。
 好きな人に告白できたのも、その人にフラれた失意から立ち直ることができたのも、彼女が勇気をくれたからだ。

 俺にとって大切な人だ。

 だから、彼女への誹謗ひぼうは絶対に許せない。

 俺は無言で村田に近づき、振り返りざま、したたかに頬を殴りつけた。
 村田を含め、誰もが俺の突飛とっぴな行動に、従順な犬が突然え始めたほどの驚きと意外さをもって視線を向けた。

 次の瞬間、村田が俺の少なくとも倍以上の力を込めて殴り返してきて、視界が急回転し、口内に独特で不快なにおいが広がった。
 血の味がする。

 教室は騒然となり、俺たちはすぐに引き離された。

 3時間目の授業は、何事もなかったかのように始められた。村田がやり返してこなかったら、俺の立場は相当まずいものになっていただろうが、互いに一発ずつの応酬おうしゅうだった分、おあいこだ。
 村田も村田で、俺がキレた理由が分かっていただろうし、分かるだけに、それなりに忸怩じくじたる思いがあるのか、被害者ぶってチクることはしなかった。
 クラスメイトの多くも、俺が村田を殴るにいたった事情を忖度そんたくしてくれているらしく、教師に報告が上がることはなかったようだ。

 終業のホームルームで担任が言ったのは、まったく別の件だった。

「明日の夜、高岡さんのお宅近くの斎場で、お通夜が営まれます。みんなで押しかけると迷惑になるので、クラスから代表して何名か、参列してもらいたいと思います。希望者はいますか?」
「はい」

 と、木内さんがすぐに手を上げた。

「僕も行きます」

 俺も木内さんに続いて挙手した。
 顔を伏せ気味にしていたのだが、担任は俺の頬のれに気づいたらしい。

「ん、高杉、口の横、どうかしたか?」
「いえ、別に。親知らずが痛むだけで」

 親知らずで口の横が腫れるかよ、とも思ったが、担任はあっさり納得したか、さらに追及されることもなかった。

 クラスからは俺と木内さん、最上さん、学級委員長の色川の4名が代表してお通夜に参列することに決まった。

 放課後。

「みーちゃ」
「あぁ、木内さん。なに?」
「ほっぺた、もう痛くない?」
「こんなの、かすり傷だから」
「そうは見えないけど」
「……ありがとう、大丈夫だよ。俺なんかより、もっとつらい思いしてるやつがいるから」
「明日の放課後、4人で一緒に斎場に行こ」
「うん、そうしよう」
「私、みーちゃの気持ち分かるよ」

 木内さんは、そう言ってくれた。

 (俺の気持ち……)

「私もあの時、許せないって思った。ただ、みーちゃがいきなり殴りかかるとは思わなかったけど」
「バカなことしたよ。後悔はしてないけどね」
「みーちゃも、怒ることあるんだね」
「そりゃあね」

 木内さんへの想いはもう封じ込めることができているが、それでも彼女には見せたくない姿ではあった。どれほどのクズであっても、クラスメイトを殴った姿、殴り返されて無様な傷をつくった姿も。

 翌日の放課後。

 (あいつ、結局ずっと連絡くれなかったな……)

 木内さんや最上さんにも、連絡はなかったそうだ。
 俺はそれをさびしいと思った。

 友達なんだから、頼ってくれればいいのに。
 どんな気持ちでいるのか、教えてくれればいいのに。

 勝手な話だ。

 会場に入ると、正面に故人の遺影と祭壇、その手前に遺族が向かい合うように並んで、こちらに横顔を向けている。

 俺は誰かにそうされたわけでもないのに、激しく脳が揺れるような感覚を味わった。まるで、脳みそが頭蓋骨の壁に何度も当たって、豆腐のかけらのようにはがれ落ちてゆくようだ。
 それほどの衝撃だった。

 愛凛が、泣いている。
 参列者の方には目もくれず、ただじっとうつむいて、涙を幾筋も流している。

 あの、強くて凛々しい愛凛が。

 漆黒しっこくの喪服に身を包み、静かに涙に暮れる彼女は、美しかった。
 それ以上に、悲しい姿だった。

 俺は、愛凛のあんな顔を見たことがない。

 いつも、どんなときでも強くて、ひんやりした瞳の奥にぬくもりと包容力を秘め、唇は常に赤いリップで色づき、ときにその唇の端がやわらかい微笑みを浮かべる。

 が、今はそうした愛凛の顔つき、表情がすっかり力を失い、瞳は伏せ、唇もはだかのままゆがみ、無論、微笑みの気配もない。

 俺はついに、愛凛と目線を合わせることもかなわず、しくしくともらい泣きをする木内さんや最上さんとともに、斎場を後にすることとなった。

 愛凛から連絡があったのは、次の日の夜になってからだった。
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