Escape from 底辺(EFT)

一条 千種

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第19話 甘いスープと苦いコーヒー

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 駅の改札で待つこと、20分くらいだろうか。
 愛凛はすでに電車に乗って帰り道の途中だったようだが、俺のために引き返して、駆けつけてくれた。

 そのまま、この日みんなで待ち合わせたファミレスに再び入る。
 最初、彼女はボックス席で向かいに座ったが、俺の様子がよほどあわれだったか、わざわざ隣に座り直した。

「とりあえず、コーンクリームスープと、ドリンクバーをふたつ!」

 オーダーのあとで、愛凛はブラックコーヒーと、オレンジジュースを持ってきた。

「はい、ジュースが好きなみーちゃはこれ飲んでね」
「ありがとう……」
「それで、あすあすとのこと、詳しく教えてくれる?」
「うん……」
「私に悩みを話すと、誰でも気持ちが軽くなって、楽になるんだって。評判なんだよ。だからみーちゃも、あったことと、それから今の自分の気持ち、全部話してごらん。ゆっくりでいいから」

 その評判は、決して誇張こちょうではないだろう。
 彼女にはそういう能力があるし、俺も無意識のうちにそれを期待して、彼女に連絡をとったのだと言っていい。

 俺はオレンジジュースに一口だけ口をつけ、まずは事実を述べた。今日あったこと、俺が言ったこと、木内さんに言われたこと。

 愛凛はそれらを邪魔することなく、随所でうなずきながら聞いてくれた。

「それで、木内さんからは、できればこれからも友達でいたいって言われた。俺とラブリーみたいな」
「そう、友達でいたいって」
「うん。俺は、分かった、ありがとうって。また学校でねって木内さんが言って、それでバイバイしたよ」
「そっか。それで、みーちゃはどんな気持ち?」
「……なんて言えばいいか」
「自分のなかでうまく整理して伝えようなんて思わなくていいよ。思いつくまま、教えて」
「……なんだろう。絶望感……?」
「うんうん。ほかにもありそう?」
「……無力感。喪失感。悲しい。つらい。不安。世の中の、なにもかも全部、意味も価値もないように感じる」
「そうだね。そういう気持ちに、なるよね」

 注文していたコーンスープが、目の前に置かれた。

「ほら、スープ飲みなさい。あったかくて甘いもの飲むと、安心するよ」
「……食欲ない……けど、飲んでみる」
「時間は気にしなくていいから、ゆっくり飲んで」

 スプーンでスープをすくい、口に運ぶ。
 あったかくて、甘い。
 なるほど、安心感がある。絶望的な気持ちのなかでも、確かなぬくもりが感じられる。

 黙々とスープを飲みながら、俺はこらえきれず泣いた。
 幾筋か、涙が頬をつたって皿のなかへとこぼれ落ちた。

 ひどい、情けない姿だったろう。
 それでも、愛凛はなにも言わず、隣に座って、俺のことをじっと見ていた。

 飲み終わってからようやく、彼女は話の続きを始めた。

「少し、落ち着いた?」
「うん……たぶん。おかげさまで」
「失恋したときは、あんまり深く考えないで、静かに音楽聞いたり、お散歩して自然に触れたり、思いっきり体を動かしたり、とにかく色んなことをするといいみたいだよ。それから、自分を愛してくれる人、信頼できる人と一緒にいるといいんだってさ」
「最後のは、今やってる」
「頼れる友達、いてよかったじゃん」
「ラブリーも、失恋したことあるの?」
「うーん……失恋なのかなぁ」

 愛凛はおもむろに靴を脱ぎ、ソファの上に体育座りをした。

 彼女にしては珍しく歯切れの悪い、うれいをおびた声だったように思われた。

「私、中2のときに初めて彼氏ができてさ。バスケ部のOBで、3つ上の高校生だったんだ。私はその人が初恋で、めちゃくちゃ好きになっちゃってさ。その人が一緒に死のうって言ったら、迷わずうんて言えるくらいには好きだった」
「そんなに」
「バカだし、子どもだよね。自分よりも相手の方が無条件で大切、相手が望むことには全部応える。それが恋だし、愛だって思ってた。そんなの、お互いを不幸にするだけなのにね」

 (そういうものか)

 俺にはよく分からない。自分より相手が無条件で大切、相手の望みにすべて応えるというのが、互いにとってよくない結果につながることがあるのだろうか。

 分からない。
 分からないが、俺よりも利口で、俺よりも大人な愛凛が言うのなら、そうなのかもしれないと思った。

「それで、中2の12月に、初めて彼とセックスしたの」
「お、おう。セックスをね……」
「心の準備できてたつもりだったし、彼に求められることもうれしかった。うれしいと思いたかったんだろうね。控えめに言って最悪だったよ。ただ痛くて、つらいだけ。それ以上に、彼が私を愛していないっていうのが分かって、消えてなくなりたいくらいむなしくなった」
「どうして、愛していないって分かったの?」
「分かるんだよね。なんとなくだけど、少なくとも私は愛されてないって確信した。この前、証明されない優しさは勘違いでしかないって言ったでしょ。相手を愛してれば、自然と優しくなれるし、自然とその証明もできるけど、愛がなければ」
「……優しさも生まれない?」
「そういうこと」

 俺は、まさにほんの小一時間ほど前に自分が失恋した身でありながら、当時の愛凛の気持ちを想像し、胸が痛くなった。

 いつも強気で、生意気で、わがままで、上から目線で、傷つくことなどないというような凛々りりしい顔をして、そのくせ頭がよく、人の痛みの分かる、思いやりと優しさにあふれた愛凛だが、彼女は彼女なりにそのクールな表情や愛らしい笑顔の裏に背負っているものがあるのだ。

「私、そのあとも何度か彼とセックスしたよ。毎回、痛くて、血が出た。ゴムもしてくれなかった。イヤだったし、強引だったけど、それでも拒否はしなかった。嫌われたくなかったし、私が我慢してれば、そのうち彼も本気で愛してくれると思ったから。でも結局、別れた。その時間だけじゃなくて、一緒にいるだけで苦痛になってきたから」
「……つらいもんだね」

 彼女に比して、自分の言葉の、なんと幼稚で味気あじけないことか。
 だが俺には、それ以上に言えることが見つからなかった。

「2月くらいになってから、保健の先生に相談した。パパは大好きだけど男だから話しにくいし、ママはいつも仕事が忙しくて。それに、怒られたり、嫌われたり、見捨てられるの、怖かった。で、先生の勧めで、妊娠と性病の検査をした。結果はなんともなかったけど、次は本当にあなたを愛してくれる人を好きになりなさいって言われたよ。優しい先生だったなぁ」

 俺は自分自身の失恋よりも、愛凛の思い出話の方に、感情が向いてしまった。

 異様な感覚だった。

 たった今、好きな人にあなたとは付き合えないと言われたばかりだというのに、それがどうでもいいことのように思われてしまっている。

 しかも、愛凛はこうも言った。

「この話、誰にもしたことなかったんだけどね。パパにも、ママにも、ほかの友達、仲良しにも言ったことない。失恋したみーちゃに、今だけの出血大サービスだね」
「そうだったんか。なんか、ありがと、話してくれて」
「ううん。てか、私の話はどうだっていいんだよ」

 ミルクも砂糖も入れないブラックコーヒーを静かに飲み、それから彼女はあえて場を明るくするように、陽気な声を出した。

「それで、これからどうすんの?」
「ん、これから?」
「そう。みーちゃはこれからどうしたいの?」

 これから、と言われても。

 俺はフラれたんだ、どうしようもないだろう。
 なんだよ。

 俺に、今後の選択肢があるのか?
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