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第12話 君のいる世界
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定期演奏会当日。
『おはよう。今日、本番だね。きっとこの前みたいにうまくいくよ。君らしくね』
朝、幸太はそのようにメールを送った。
まったく、彼自身、祈るような気持ちだった。
今日という日が、美咲にとって悔いなく終わるといい。
『ありがとう。見ててね』
美咲からはそのように返事があった。
演奏会は学校からほど近いホールで、日曜日の15時から行われる。
幸太らが通う学校の吹奏楽部は、都内ではなかなかの強豪として知られている。美咲はその部のリードサックスだから、実力は折り紙つきだ。
幸太は開場の3時間前から並んで、最前列の右寄りの席を確保した。このあたりが、会場のなかで最もアルトサックスに近い。
開演が近づくにつれ観客の数も増え、特に部員の友人や家族と思われる人の姿が多く見られる。幸太が鼻と口周りをパンフレットで隠しつつちらちらと振り向くと、彼と美咲のクラスメイトも顔を見せているようだ。
照明が落とされ、部員たちが楽器を手に入場する。
美咲はすぐ、幸太に気づいた。緊張感に包まれつつ、その表情には笑顔が咲いた。
黒のシンプルな揃いの衣装に身を包んだ美咲は、いつものセーラー服とはまた少し違ったシックな印象だ。
幸太はポンポン、と右手で左胸を叩いた。
「大丈夫、落ち着いて。君らしく、楽しんで」
幸太のそのメッセージを、美咲はどこまで感じ取れただろう。
彼女は自分を落ち着かせるように、左胸を二度、軽く叩いた。
演奏はさすが、都内有数の高校吹奏楽部だけあって、レベルが高い。
まずは古典的な吹奏楽曲から始まり、次にポップミュージックとしてアニメーション映画『〇の豚』や『魔〇の宅急便』、キング・オブ・ポップことマイケル・ジャ〇ソンのメドレー、ゲーム『ロマンシング 〇・ガ2』バトルBGM、最後のジャンルがジャズで、『My Favorite Things』と、トリが『Sing Sing Sing』。
いくつかの曲で、美咲はソロを務めた。
「本番に弱い」
と語っていたのが嘘のように、彼女は自信いっぱいに、自分らしい音を表現した。
少なくとも、幸太にはそう見えた。
幸太は多くの観衆と一緒に、大きな拍手を送った。美咲に。
その日、メールにはあえて、
『お疲れ様。今日はうまくいってよかったね。また水曜日に話そう。ゆっくり休んで』
と、それだけを送った。
週の真ん中水曜日。
幸太は毎週、水曜日だけは放課後に下り電車に乗り込む。学校は東京都下(23区外)にあり、下り電車はこの時間は人がまばらで、どこでも好きな席に座ることができる。
そこで、幸太は偶然、美咲と同じ車両に乗り合わせた。
美咲は何がそんなにおかしいのか、斜向かいに座った幸太の顔をちらちらと盗むように見ながら、しきりと笑いをこらえている。
幸太も、そういう美咲のあどけない姿を見ると、口元が緩むのをおさえられない。
この車両には、不審人物が二人もいるらしい。
駅に着くと、美咲は不自然におすましした表情をつくって、先に車両を降り、ホームからエスカレーターを使い、改札を出た。
幸太はそのあとを、じっと尾行した。
公園に入り、美咲は早足になり、幸太がついてくる気配を察知すると、ついに走り出した。
幸太も走る。
走りに走り、小さな橋を渡ったところで、美咲の姿を見失った。
(あれ、どこだ……?)
幸太は慌てて周囲をぐるぐる見回した。
(トイレの裏か……?)
公衆トイレの方へ近づいてゆくと、案の定、美咲が笑い声とともに飛び出してきて、また逃げた。
ずっと逃げていって、原っぱの真ん中の大きな樹まで行って、太い幹を盾のようにした。
「つかまえてやるっ!」
「ダメ、来ないでっ!」
言葉と裏腹に、美咲はいたずらっぽく目を輝かせている。
幸太が動くと、悲鳴を上げた。何周も何周も、幹の周りを走り回り、先に目が回った幸太が体を支えられず根元で大の字になると、美咲もぜぇぜぇと激しい呼吸を繰り返し、膝を曲げ上半身をぐらぐらと揺らしながら、涙を流して笑った。
彼女は幸太のすぐそばで幹に寄りかかりながら、なおも腹を押さえて笑っている。
「ダメ、おなかつりそう……!」
幸太の様子がよほど無様だったのだろう。追いかけたら逃げられ、撒かれ、最後はこのように目が回って倒れ込んでいる。
幸太はしかし、美咲が自分を相手にこれほど笑ってくれたことがたまらなくうれしかった。
彼女には、誰よりも自分のそばで、こうして笑っていてほしい。
めまいと笑いがようやく落ち着いて、ふたりは同じ樹の幹にもたれて話をした。美咲は話したいことがたくさんあって、うずうずしているようだ。
「早川君、この前は来てくれてありがとう。最前列で、ずっと私のこと見てたでしょ」
「え、ばれてた?」
「うん、すぐばれたよ」
「ばれてないかと思ってた」
「すごくうれしかったし、勇気がわいたよ」
「俺がいて?」
「そう。本番前は、震えるくらい緊張してたんだけど、早川君の顔を見て、この公園でソロコンサートやったの、思い出したの。そしたら、不思議なくらい、肩の力が抜けて。今までで一番、うまくいった気がする」
「実力を出せたんだよ。松永の、音楽を好きな気持ちが、演奏に乗ったんじゃないかな。君のソロのあとに起こった拍手が一番大きかったのは、そういうことだと思うよ」
美咲は一瞬、声を失ったように黙った。
体育座りをした膝の上に腕を乗せ、そこへさらに頬を預けて、彼女は幸太の横顔をのぞき込むようにして尋ねる。
「ねぇ」
「ん?」
「私のこと、そんなに好き?」
「好きだよ」
「どれくらい?」
静かな問いに、幸太は美咲の目を見つめ返した。いつも浮かんでいる口元の微笑が、消えていた。
じっと、幸太の答えを待っている。
幸太は、今の気持ちをそのまま伝えた。
「君がいない世界は、もう考えられないくらいに好きだよ」
美咲はしばらく表情を変えず、やがて口元に微笑を刻んだ。だが、唇が細かく震えている。緊張しているのか、恥ずかしいのか、あるいはうれしいからなのか、それは幸太には分からなかった。
美咲は目線を前に戻し、幸太も同じようにした。
「早川君は、まっすぐだね。私も、大切な人に、ちゃんと気持ちを伝えたい」
(大切な人……)
それは自分のことだろうか、と幸太は思った。
ただ、美咲の次の言葉が、幸太の疑問を、確信に変えた。
「もうちょっと、待っててね」
彼女は幸太の返事を待たず、いつものようにサックスを吹き鳴らし始めた。
『おはよう。今日、本番だね。きっとこの前みたいにうまくいくよ。君らしくね』
朝、幸太はそのようにメールを送った。
まったく、彼自身、祈るような気持ちだった。
今日という日が、美咲にとって悔いなく終わるといい。
『ありがとう。見ててね』
美咲からはそのように返事があった。
演奏会は学校からほど近いホールで、日曜日の15時から行われる。
幸太らが通う学校の吹奏楽部は、都内ではなかなかの強豪として知られている。美咲はその部のリードサックスだから、実力は折り紙つきだ。
幸太は開場の3時間前から並んで、最前列の右寄りの席を確保した。このあたりが、会場のなかで最もアルトサックスに近い。
開演が近づくにつれ観客の数も増え、特に部員の友人や家族と思われる人の姿が多く見られる。幸太が鼻と口周りをパンフレットで隠しつつちらちらと振り向くと、彼と美咲のクラスメイトも顔を見せているようだ。
照明が落とされ、部員たちが楽器を手に入場する。
美咲はすぐ、幸太に気づいた。緊張感に包まれつつ、その表情には笑顔が咲いた。
黒のシンプルな揃いの衣装に身を包んだ美咲は、いつものセーラー服とはまた少し違ったシックな印象だ。
幸太はポンポン、と右手で左胸を叩いた。
「大丈夫、落ち着いて。君らしく、楽しんで」
幸太のそのメッセージを、美咲はどこまで感じ取れただろう。
彼女は自分を落ち着かせるように、左胸を二度、軽く叩いた。
演奏はさすが、都内有数の高校吹奏楽部だけあって、レベルが高い。
まずは古典的な吹奏楽曲から始まり、次にポップミュージックとしてアニメーション映画『〇の豚』や『魔〇の宅急便』、キング・オブ・ポップことマイケル・ジャ〇ソンのメドレー、ゲーム『ロマンシング 〇・ガ2』バトルBGM、最後のジャンルがジャズで、『My Favorite Things』と、トリが『Sing Sing Sing』。
いくつかの曲で、美咲はソロを務めた。
「本番に弱い」
と語っていたのが嘘のように、彼女は自信いっぱいに、自分らしい音を表現した。
少なくとも、幸太にはそう見えた。
幸太は多くの観衆と一緒に、大きな拍手を送った。美咲に。
その日、メールにはあえて、
『お疲れ様。今日はうまくいってよかったね。また水曜日に話そう。ゆっくり休んで』
と、それだけを送った。
週の真ん中水曜日。
幸太は毎週、水曜日だけは放課後に下り電車に乗り込む。学校は東京都下(23区外)にあり、下り電車はこの時間は人がまばらで、どこでも好きな席に座ることができる。
そこで、幸太は偶然、美咲と同じ車両に乗り合わせた。
美咲は何がそんなにおかしいのか、斜向かいに座った幸太の顔をちらちらと盗むように見ながら、しきりと笑いをこらえている。
幸太も、そういう美咲のあどけない姿を見ると、口元が緩むのをおさえられない。
この車両には、不審人物が二人もいるらしい。
駅に着くと、美咲は不自然におすましした表情をつくって、先に車両を降り、ホームからエスカレーターを使い、改札を出た。
幸太はそのあとを、じっと尾行した。
公園に入り、美咲は早足になり、幸太がついてくる気配を察知すると、ついに走り出した。
幸太も走る。
走りに走り、小さな橋を渡ったところで、美咲の姿を見失った。
(あれ、どこだ……?)
幸太は慌てて周囲をぐるぐる見回した。
(トイレの裏か……?)
公衆トイレの方へ近づいてゆくと、案の定、美咲が笑い声とともに飛び出してきて、また逃げた。
ずっと逃げていって、原っぱの真ん中の大きな樹まで行って、太い幹を盾のようにした。
「つかまえてやるっ!」
「ダメ、来ないでっ!」
言葉と裏腹に、美咲はいたずらっぽく目を輝かせている。
幸太が動くと、悲鳴を上げた。何周も何周も、幹の周りを走り回り、先に目が回った幸太が体を支えられず根元で大の字になると、美咲もぜぇぜぇと激しい呼吸を繰り返し、膝を曲げ上半身をぐらぐらと揺らしながら、涙を流して笑った。
彼女は幸太のすぐそばで幹に寄りかかりながら、なおも腹を押さえて笑っている。
「ダメ、おなかつりそう……!」
幸太の様子がよほど無様だったのだろう。追いかけたら逃げられ、撒かれ、最後はこのように目が回って倒れ込んでいる。
幸太はしかし、美咲が自分を相手にこれほど笑ってくれたことがたまらなくうれしかった。
彼女には、誰よりも自分のそばで、こうして笑っていてほしい。
めまいと笑いがようやく落ち着いて、ふたりは同じ樹の幹にもたれて話をした。美咲は話したいことがたくさんあって、うずうずしているようだ。
「早川君、この前は来てくれてありがとう。最前列で、ずっと私のこと見てたでしょ」
「え、ばれてた?」
「うん、すぐばれたよ」
「ばれてないかと思ってた」
「すごくうれしかったし、勇気がわいたよ」
「俺がいて?」
「そう。本番前は、震えるくらい緊張してたんだけど、早川君の顔を見て、この公園でソロコンサートやったの、思い出したの。そしたら、不思議なくらい、肩の力が抜けて。今までで一番、うまくいった気がする」
「実力を出せたんだよ。松永の、音楽を好きな気持ちが、演奏に乗ったんじゃないかな。君のソロのあとに起こった拍手が一番大きかったのは、そういうことだと思うよ」
美咲は一瞬、声を失ったように黙った。
体育座りをした膝の上に腕を乗せ、そこへさらに頬を預けて、彼女は幸太の横顔をのぞき込むようにして尋ねる。
「ねぇ」
「ん?」
「私のこと、そんなに好き?」
「好きだよ」
「どれくらい?」
静かな問いに、幸太は美咲の目を見つめ返した。いつも浮かんでいる口元の微笑が、消えていた。
じっと、幸太の答えを待っている。
幸太は、今の気持ちをそのまま伝えた。
「君がいない世界は、もう考えられないくらいに好きだよ」
美咲はしばらく表情を変えず、やがて口元に微笑を刻んだ。だが、唇が細かく震えている。緊張しているのか、恥ずかしいのか、あるいはうれしいからなのか、それは幸太には分からなかった。
美咲は目線を前に戻し、幸太も同じようにした。
「早川君は、まっすぐだね。私も、大切な人に、ちゃんと気持ちを伝えたい」
(大切な人……)
それは自分のことだろうか、と幸太は思った。
ただ、美咲の次の言葉が、幸太の疑問を、確信に変えた。
「もうちょっと、待っててね」
彼女は幸太の返事を待たず、いつものようにサックスを吹き鳴らし始めた。
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