ミネルヴァ大陸戦記

一条 千種

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第27章 旅は終わらず

第27章-② 気高く、強く

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 教国軍の第三師団長として、今次こんじ遠征においても武功を残したルーカス・レイナート将軍。
 彼は帝国にはいささかの因縁がある。
 いや、その表現は控えめに過ぎるであろう。
 人は彼を教国軍の将軍として認識するところが大きいが、実際には帝国生まれ帝国育ち、軍籍ももとは帝国軍にあり、20代で中佐の階級を得ていた。つまり、彼はれっきとした帝国の人間である。
 彼が教国にあるのは、ヘルムス総統による祖国支配を疑問とし、民衆のためには害がはるかに多く、これを変えるためには内圧よりも外圧をもってすべきで、自らは隣国である教国に亡命し、そこで新たな祖国と古き祖国のために力を尽くそうと志したからである。
 教国亡命後はよそ者ということもあり、その才覚を必ずしも活かせるだけの地位を与えられなかったが、クイーンの信頼を得て、一躍、師団長へと進んだ。大小いくつかの戦いにおいて、彼は帝国軍に対して一度も引けをとらず、振り返ると彼の足跡そくせきには赫々かっかくたる戦果が記されている。
 そして、彼の尽力もあり、ヘルムス政権は倒れた。これから帝国がどのように生まれ変わるのか、それは未知数だが、少なくとも彼の当初の志はここに遂げられたことになる。
 連合軍による帝都陥落後、4月26日。
 この日、帝都には冷たい雨が降った。シェラン河畔及び帝都での戦い以降、初めて降った雨である。雨粒は徐々に集まって流れをつくり、石や土、レンガにこびりついた血を洗った。戦争終結を喜ぶ兵や市民たちも、この日は騒ぐことなく、静かな時間を送っている。
 帝都ヴェルダンディ郊外、フェルステンフェルト地区の墓地。
 レイナートは単身、この街における最も大きな埋葬地を訪れている。彼の前にある墓石には、「クララ・ウェーバー」の名が刻まれている。遺族はこの墓を建てるのに、よほどの金を積んだのであろう。よく磨き込まれた最上級の大理石が使われている。まだ新しく、手入れも定期的にされているらしい。
 帽子や外套がいとうをずぶ濡れにしながらも飽くことなくたたずむ彼の背後から、不意に声をかけた者がある。
「やはり、来ていたか」
 振り向いた先に、墓の下の住人の、その兄がいる。
「ウェーバー少将」
「久しぶりだな。妹が亡くなって、今日でちょうど8年になる」
「クララを忘れたことは、この8年、一度もありません」
「そうか。クララも懐かしい顔が見られて、喜ぶだろう」
 ウェーバーは、目元に穏やかなしわを浮かべた。レイナートが知っている当時に比して、顔には彫りが増え、声からは若さが消え、瞳にも感情の激しさより安定的な理性が強く感じられる。8年という歳月は、人の姿を変えるには充分な期間であろう。その分、彼自身も変わっているだろうし、ウェーバーからも同様に見えたかもしれない。
「改めて、お悔やみを。それと、心からの謝罪を。私が亡命などしなければ、クララは命を断つことはなかったはず」
「ルーカス、後悔はするなよ」
 レイナートは返答に困り、沈黙した。
「貴様がやったことは正しい。いや、誰よりも正しい。少なくとも、俺よりはな。俺は上官を見捨て、確実に負けると分かってから、合衆国軍に投降した。帝都に戻ってからは、妻や子とも再会できた。妻は俺が捨てた上官の娘だから、罵声を覚悟していたが、生きて戻ってくれてよかったと、それだけを言ってくれた。中途半端で、何も成し遂げていない。成し遂げるための志もない。そんな俺や、俺に似た大多数の人々に比べれば、貴様は誰よりも正しい。だから、後悔だけはするな。後悔すれば、クララも傷つくだろう」
「後悔はあります。志を伏せ、彼女とともに生きる道もあったのではないかと」
「いや、これでよかったんだ。それに、妹が死んだのは貴様のせいじゃない。俺のせいだ」
「どういうことですか」
 レイナートの率直な問いに、ウェーバーは表情の陰影を濃くした。
「貴様が亡命した直後、帝都ではちょっとした騒ぎになった。何しろ、現役の国防軍中佐が隣国に亡命したんだ。上官、同僚、家族、もちろんクララも俺も憲兵隊の聴取を受けた。誰もが寝耳に水だったわけだし、関与を否定したが、ひとりクララだけはすべてを正直に話した。貴様がどのような志を抱いて亡命をしたのか、自分はそれを知りともに亡命することを願ったが貴様に止められたこと。憲兵隊の知り合いから、クララの供述内容を聞いて、俺は自殺行為だと思った。何も知らなかったと言っておけば、国防軍士官の妹でもあるし、それ以上の追及はなかっただろう。だが、クララはすべてを話すことを選んだ。どうしてだろうな。俺は未だに分からない」
「それで、彼女は」
「表向き、罪に問われることはなかった。教唆きょうさも、幇助ほうじょも立証されなかったからな。だが、永久的に憲兵隊の監視がつくことになった。監視と言っても、実際には悪質な嫌がらせさ。四六時中、身辺をついて回る。監視の目は家族にも及ぶから、俺や両親も監視対象になった。俺はクララに言ったさ、ルーカスとお前のせいで、家族はめちゃくちゃだとな」
 レイナートも、憲兵隊による監視がどういうものかは知っている。公然の監視、非公然の監視とがあり、前者に関しては監視しているということを本人とその周囲の者たちに伝えることで、圧力をかけ、孤立に追い込む。家族や友人、近隣の住民などは憲兵隊と関わりたくないから、本人と距離をとるようになる。人間関係が破壊され、生活に支障をきたし、あらゆる面で悪影響が出る。一種の精神的拷問であり、事実上の刑罰である。しかもそれが永遠に続くと宣告されているわけだから、苦痛は並ではない。それが憲兵隊のやり口である。
「俺も、出世欲があったからな。両親にも言って、クララと縁を切ることにした」
 縁を切ったあと、クララの周囲には人が寄りつかず、相変わらず憲兵隊の監視員だけが残った。しばらくして、絶望したクララは、監視員の前でシェラン川に身を投げた。監視員は止めようともしなかったという。そして、下流の河原に流れ着いた遺体を確認し、ごく事務的に、ウェーバーのもとへ連絡を寄越した。
 彼は慟哭どうこくし、この墓を建てた。
 墓には、名前とともに銘が刻まれている。
「気高く、強く生きた」
 無骨なほどに簡潔だが、ウェーバーとクララ、それぞれの人柄をよく表しているように、レイナートには思われた。
 二人はしばし、故人との思い出やその生きざまについて思いをせ、やがてウェーバーが未来についての話を始めた。
「それで、これからどうする。帝国に帰ってくるのか」
「分かっていることは、まだ何もありません。ただ、クイーンは私の志が果たされるのに協力していただいたと、少なくとも私はそのように理解しています。私としては、恩返しにクイーンの大志の実現に微力ながら尽くしたいとも思っています。そのために、帝国に戻るのがよいか、それとも教国に留まるのがよいのか。いずれにしても私自身が何かを選択し決定できる余地は、さほど広くないように思います」
「それもそうだな。帝国も、体制が変われば政府からも軍からもヘルムス色を排除するような人事が断行されるだろう。そうなれば一時的にでも人材が欠乏する。まずは骨格を決めなければな。これからどうなるにせよ、ともに力を尽くそう。クララのためにもな」
 ウェーバーが差し出した手を、レイナートが握る。雨に濡れそぼってはいたが、ぬくもりのある、力強い感触が掌から腕にまで伝わった。この握手で、彼も8年越しのわだかまりを解くことができたか、どうか。
 少なくとも彼の歩む道に、ひとつの大きな変化をもたらす予感を与える、これは握手であった。
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