ミネルヴァ大陸戦記

一条 千種

文字の大きさ
上 下
190 / 230
第24章 氷雪に閉ざされし大地

第24章-⑤ 前途は予見せざりし

しおりを挟む
 マヤの仕掛けたトラバサミの罠によって、アオバはついに意識を失った。
 彼女はこの時点で、自分の生命が終わったことを確信していた。だが実際には、マヤは幼馴染であるアオバの命を断つことをためらい、結局、アオバの愛用している髪紐を奪っただけであった。里に戻ったら、それをアオバを殺した証とするつもりだったのであろうか。
 マヤは忍びとしての素質に恵まれ、鍛錬の期間においてもアオバとは比較にならない。だが、それでも頭領のミナヅキはマヤの器量をあやぶみ、里の外の仕事には出さなかったという。才能は豊かだが人間が甘い。例えば、ともに育った幼馴染が相手では首をとることすらできぬ。ミナヅキはマヤのそうした一面を見抜いていたのかもしれない。
 アオバが目を覚ましたのは、自力によってではない。犬が、彼女の頬をねぶる、その生温かくもむずがゆい感触によってであった。
 覚醒した瞬間、彼女の周囲はすでに朝の白い光によって満たされていた。それが少しずつ晴れ、状況が視覚的に把握できるようになり、まず気づいたのは、かたわらに座る犬の存在であった。アオバの知っている犬ではない。アマギの里では、番犬、猟犬、任務の補助役として多くの犬が飼われていたが、それらの犬種とは顔つきが違う。恐らく王国の原産ではあるまい。教国か、帝国あたりで産まれた犬かもしれない。
 それに、野犬ではなさそうだ。明らかに人の訓練が入った立ち居振る舞いがあり、それにどことなく表情や目線が聡明である。態度も、まるで新たな主人にかしずく忠犬のようだ。
 アオバはけだるさの残る体を起こしつつ、この犬の右前脚に巻かれたこよりを発見し、直感的にそれが自分に宛てたものであると悟った。
 こうある。
「名はサギリ、役に立つ」
 この書面の送り主は、アオバの身の上について知った上で、これからの逃避行に犬を役立てるように言ってきている。間違いなく、里の者の仕業しわざであろう。
 アオバは、その正体について確信に近い心当たりがあった。里の年寄の一人、ハグロに間違いはない。年寄とは里の庶政を担当する、頭領の補佐役のことである。そして、彼はアオバの母であるナカの弟、すなわちアオバの叔父おじであった。異常に無口な男で、姪のアオバともほとんど言葉を交わすことはなかったが、里にあっては一方の重鎮として信望を得ていた。
 送り主がハグロであると断定したその根拠は、手紙の文字にあった。筆跡ではない。墨の濃さである。ハグロは極端な吝嗇りんしょく家としても知られており、倹約のために墨をわずかしか使わず、このため彼の筆跡は水のように淡いのが常であった。
 (叔父上……)
 ハグロが、義理の兄で頭領でもあるミナヅキを殺した彼女になぜ助力をするのかは分からない。だが、マヤに一度は奪われかけ、拾った命である。
 生きられるだけ、生きてみようと思った。
「お前、サギリというのね。よろしく」
 精悍な顔立ちの犬だが、声をかけ、頭を撫でると、舌を出した。笑っているようにも見える。
 マヤは去ったが、周辺には里の忍びどもがうろついている。サギリは卓抜した嗅覚で捜索の網をことごとくかいくぐり、人の気配のない獣道を先導して数日、ついにアルタイ街道に出た。
 アオバは街道沿いの商家に厄介になり、やむなく自身の体と引き換えにしばらくの衣食住を得た。トラバサミにかかった際、骨にまで達する傷を負ったため、療養が必要だったのである。
 傷が癒え、連邦民風の防寒服を手に入れ、さらに隊商から馬を盗んで、彼女は一路アルタイ街道を北へ向かった。ミコトらがポリャールヌイへ向かったことまでは、父から聞いている。ポリャールヌイへ向かうには、連邦首都イズマイールを必ず通る。まずはイズマイールを目指し、そこでミコトらとの合流をかくするしかない。
 たった一人の孤独で危険な旅は、幾度か挫折の危機に陥りながらも、2月15日には当面の目的地であるイズマイールに到着することができた。この数週間は、アオバの人生においても最も困難な期間だったと言えるだろう。背後には里の追っ手の気配を感じつつ、こごえるように寒い異国の地を、居所の知れぬ知人を探し求め、単独で走破するというのは、並大抵の者では不可能である。それは、体力よりはむしろ精神力の問題がある。アオバがかろうじて正気を保てたのは、サギリという仲間がいたからであった。なるほど、忍びが育てただけあって実に役立つ犬で、周囲の警戒や護衛、食料の調達、そしてときに話し相手になってくれることで、アオバはどれだけ救われたか分からない。サギリも、まるでアオバとともに育ったかのような従順さでもって、何事も以心伝心、通じ合っているように見える。
 そして連邦国内の事情について最もよく知る機関、秘密警察こと国家保安委員会の本部に潜入し、根気強く情報収集をしてミコトやサミュエルの消息をつかみ、チェレンコフ邸への作戦に合わせて後方から陽動作戦を行った。アオバは弓の腕にはさほど自信がなかったが、夜陰、樹上から矢を射られてはたとえ訓練を積んだ特殊部隊でも混乱するものだ。実際、彼らは背後の敵がまさか一人とは思わず、必要以上に警戒して、意識がミコトらの捕縛ではなく襲撃への対処に向いてしまった。この陽動が奏功し、サミュエルの術もあって、ミコトらは脱出に成功したということになる。
 チェレンコフ邸から退避したミコトらを発見したのは、まさにサギリのお手柄と言える。サギリは恐らく里でミコトのにおいをいでいたのであろう、足どりをたどってゆくと、案の定、ミコトとサミュエルと再会することができた。ミョウコウもいる。
「あの長い道のりを、よくここまで追いついて」
 ミコトは、アオバの話に、その凄絶なまでの覚悟と忍耐力、そして運命とに思わず涙を流した。どれほど憎しみつのろうと、我が父をあやめるというだけで、どれほどの重荷をその心に背負うことであろう。まして、ともに育ち、ともに暮らした仲間から追われ、戦わねばならないのは耐えがたい苦しみのはずだ。そして、ミコトはアオバに伝えるべきことがある。
「アオバ、マヤは私がこの手で」
 殺した、という言葉を口にするのが痛ましく、ミコトはただそっと、手首に身につけていた髪紐を差し出した。マヤは確かにアオバを殺そうとしたが、ついに手を下すことができず、髪紐だけを奪い、トラバサミを外して彼女が逃げられるようにした。たとえ忍びとして生きようとも、仲間の情を捨てることができなかったということであろう。そのマヤに対して、アオバも複雑な心情を抱いているであろうことは想像にかたくない。たとえ返り討ちであろうと、マヤを討ったことを伝えるのは、ミコトにとって断腸の思いがある。
 だが、そのようなことをわざわざ言葉にせずとも、アオバは透き通るような微笑を浮かべ、理解してくれた。10年以上、彼女たちは主人と侍女として過ごしてきた。アオバの方には間諜かんちょうとしての役目があったことがのちに分かったが、それでも家族同然の親愛と信頼で結ばれていたことに嘘偽りはない。たとえ間諜の役目が終わろうと、なんの利害上の必要性がなくとも、里を抜け、バブルイスク連邦という大国までも敵に回し、同じ道を歩もうとしてくれている。
 連邦領内に入って以来、慣れない風土に厳しい天候、よそ者に対する寒々しい扱い、秘密警察の脅威、そしてチェレンコフの愚にもつかぬ要求と、ミコトの心はかき乱され、ついに悲鳴を上げたくなるほどに疲れてしまっていたが、ここでようやくアオバという心強い同行者を再び得たことで、旅を続けるための精神的活力を取り戻したかのようである。
 安堵のため、緊張の糸がぷつりと切れてしまったのか、ミコトはへたへたと座り込み、少々、呆然とした。
 サミュエルは笑顔で、そしてミョウコウも、片膝をついた姿でともにアオバの合流を喜んだ。ミョウコウはアオバが頭領を殺したことをすでに聞かされていたが、どういうつもりでいるのか、ミコトの元を離れようともしないし、アオバに対しても頭領の娘に対する礼節を崩そうとはしない。不思議な男である。
 アオバは、まだ里に住んでいた頃、すでに優秀な忍びとしての片鱗を見せ、里の若党どもから兄貴分として慕われていたミョウコウを知っている。聴覚を失ったために忍びとしての第一線からはしりぞかねばならなくなったが、その誠実さと忠実さに疑いは持っていない。懐かしそうな顔で、目礼を交わした。
 首都イズマイールに着いてから、秘密警察やチェレンコフのために余計な苦労をさせられたが、アオバを加えたことによって、一行はポリャールヌイ行きを再開する運びとなった。
 もっとも、その道中は険しい。アオバの提案で、「この地で春を待たずとも、進むうち、道の氷雪ひょうせつは消えますから」と、首都で秘密警察の捜索を受ける危険を避けて北へ向かうこととなったが、行く先は冬は厚い氷、夏はその氷がけて湿地となるために、馬車も踏み入ることができない永久凍土上の不毛地帯である。それに、連邦の秘密警察や里の忍びどもから追跡を受ける身である。たった四人と一匹で、切り抜けられるものであろうか。
 一同は3月6日、アオバの奔走の甲斐もあり、極寒のポリャールヌイへと向かう支度を完全に整え、隊商団をよそおってイズマイールを発した。
 彼らの目指す地にどのような人々、どのような事態が待ち受けているのかは、この時点では予見のしようもない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

イクメン王配に転生したら、妻は気弱な戦争狂でした〜冷徹女王と転生王配の溺愛ラブストーリー

白猫
恋愛
男性客室乗務員だった神居裕介が転生したのは、最後まで攻略できなかった育成ゲーム「ジェンティエーナ・ビルド」の世界。主人公カミーユ・ルエルグランとして公爵家のベッドで目を覚ますと、ゲームの世界を実世界として新たな人生を歩み始める。ゲームの中ではバッドエンドしか経験できず何度も死んだことから、ストーリーを変えようと手を尽くすが、運命には逆らえないようだ。戦争狂と謳われる妻ジェンティエーナの本当の姿を知ったカミーユが腹を括って王家に婿入りし、かけがえのない家族になっていくラブストーリー。さぁ!この世界で神居裕介は妻と子を立派に育て上げることができるのか?そして、王配カミーユとして女王と白髪になるまで愛し合うことができるのか?どうぞお楽しみに。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

異世界でも男装標準装備~性別迷子とか普通だけど~

結城 朱煉
ファンタジー
日常から男装している木原祐樹(25歳)は 気が付くと真っ白い空間にいた 自称神という男性によると 部下によるミスが原因だった 元の世界に戻れないので 異世界に行って生きる事を決めました! 異世界に行って、自由気ままに、生きていきます ~☆~☆~☆~☆~☆ 誤字脱字など、気を付けていますが、ありましたら教えて頂けると助かります! また、感想を頂けると大喜びします 気が向いたら書き込んでやって下さい ~☆~☆~☆~☆~☆ カクヨム・小説家になろうでも公開しています もしもシリーズ作りました<異世界でも男装標準装備~もしもシリーズ~> もし、よろしければ読んであげて下さい

特殊部隊の俺が転生すると、目の前で絶世の美人母娘が犯されそうで助けたら、とんでもないヤンデレ貴族だった

なるとし
ファンタジー
 鷹取晴翔(たかとりはると)は陸上自衛隊のとある特殊部隊に所属している。だが、ある日、訓練の途中、不慮の事故に遭い、異世界に転生することとなる。  特殊部隊で使っていた武器や防具などを召喚できる特殊能力を謎の存在から授かり、目を開けたら、絶世の美女とも呼ばれる母娘が男たちによって犯されそうになっていた。  武装状態の鷹取晴翔は、持ち前の優秀な身体能力と武器を使い、その母娘と敷地にいる使用人たちを救う。  だけど、その母と娘二人は、    とおおおおんでもないヤンデレだった…… 第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。

ナイナイづくしで始まった、傷物令嬢の異世界生活

天三津空らげ
ファンタジー
日本の田舎で平凡な会社員だった松田理奈は、不慮の事故で亡くなり10歳のマグダリーナに異世界転生した。転生先の子爵家は、どん底の貧乏。父は転生前の自分と同じ歳なのに仕事しない。二十五歳の青年におまるのお世話をされる最悪の日々。転生チートもないマグダリーナが、美しい魔法使いの少女に出会った時、失われた女神と幻の種族にふりまわされつつQOLが爆上がりすることになる――

解体の勇者の成り上がり冒険譚

無謀突撃娘
ファンタジー
旧題:異世界から呼ばれた勇者はパーティから追放される とあるところに勇者6人のパーティがいました 剛剣の勇者 静寂の勇者 城砦の勇者 火炎の勇者 御門の勇者 解体の勇者 最後の解体の勇者は訳の分からない神様に呼ばれてこの世界へと来た者であり取り立てて特徴らしき特徴などありません。ただひたすら倒したモンスターを解体するだけしかしません。料理などをするのも彼だけです。 ある日パーティ全員からパーティへの永久追放を受けてしまい勇者の称号も失い一人ギルドに戻り最初からの出直しをします 本人はまったく気づいていませんでしたが他の勇者などちょっとばかり煽てられている頭馬鹿なだけの非常に残念な類なだけでした そして彼を追い出したことがいかに愚かであるのかを後になって気が付くことになります そしてユウキと呼ばれるこの人物はまったく自覚がありませんが様々な方面の超重要人物が自らが頭を下げてまでも、いくら大金を支払っても、いくらでも高待遇を約束してまでも傍におきたいと断言するほどの人物なのです。 そうして彼は自分の力で前を歩きだす。 祝!書籍化! 感無量です。今後とも応援よろしくお願いします。

【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる

三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。 こんなはずじゃなかった! 異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。 珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に! やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活! 右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり! アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。

プラス的 異世界の過ごし方

seo
ファンタジー
 日本で普通に働いていたわたしは、気がつくと異世界のもうすぐ5歳の幼女だった。田舎の山小屋みたいなところに引っ越してきた。そこがおさめる領地らしい。伯爵令嬢らしいのだが、わたしの多少の知識で知る貴族とはかなり違う。あれ、ひょっとして、うちって貧乏なの? まあ、家族が仲良しみたいだし、楽しければいっか。  呑気で細かいことは気にしない、めんどくさがりズボラ女子が、神様から授けられるギフト「+」に助けられながら、楽しんで生活していきます。  乙女ゲーの脇役家族ということには気づかずに……。 #不定期更新 #物語の進み具合のんびり #カクヨムさんでも掲載しています

処理中です...