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第23章 白き旗を掲げて
第23章-③ 勝利のための敗北
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エーデルの宿駅。
と、人は言う。
帝国の中枢である帝都ヴェルダンディは、クライフェルト川とその分流であるシェラン川に三方を囲まれた要害の地で、この大都市からシェラン川を越え東へ伸びるのがモハーベ街道である。東へ東へと続き、やがて国境線を越えたところで、オクシアナ合衆国第三の都市オリスカニーに達する。
モハーベ街道は帝国領内で南に分岐し、この街道をダンツィヒ街道と称する。ダンツィヒ街道はベルヴェデーレ要塞近くのシェーンブルンの町を貫き、そのままヌーナ街道との交点、いわゆる「エイクスュルニルの迷い」へと続く。
エイクスュルニルの迷い付近はダンツィヒ街道とヌーナ街道が交わる交通の要衝だが、一帯が不毛の荒野で町や村は存在しない。一方、モハーベ街道とダンツィヒ街道の交点にはささやかながら宿場町がある。ただし大きな川がないので、さほど栄えてはいない。旅人を泊め、馬車や隊商の中継拠点としての機能を有している、といった程度である。
だが町としての規模にかかわらず、軍事的見地におけるその地理的重要性はきわめて大きく、エーデルの宿駅を掌握することは、帝国領を分断し、特に帝都ヴェルダンディを政治的、経済的、軍事的に孤立させることになる。
「しかし、背後にはシュマイザー中将の第六軍が健在です」
それが、西の帝都方面から迫る帝国軍主力への対応に集中しきれない理由である。ベーム中将の率いる帝国軍と戦っているうち、背後からシュマイザー中将の第六軍に挟撃されることだけは避けねばならない。
そのため、クイーンは近衛兵団からおびただしい数の斥候をエーデルから東に放射状にばらまいている。
「第六軍に不穏の動きがあれば、場合によってはエーデルを放棄し、ベルヴェデーレ要塞までしりぞくことも考えなければなりません。その上で、改めて合衆国軍との連絡を緊密にとらなければ」
この時点で、クイーンはレイナート将軍が第六軍の参謀長ウェーバー少将へ宛てた書簡の効果について、期待を持っていない。クイーンはシュマイザー中将と直接に対峙したことがなく、情報が少ない。リヒテンシュタイン中将のように投降することも考えづらく、少なくともベーム中将と同様、その志操は堅固であろうとみなしている。要するに、教国軍に対してはあくまで抵抗するであろうと見ていい。
背後に一抹の不安を抱きつつ、教国軍はエーデル西の平野に布陣した。このあたりは先のクライフェルト川沿いと大いに異なって、起伏が少なく、ケヤキ、アカマツ、白樺などがいくつか樹林をなしている以外は、変哲のない地形である。風景としては広闊で面白みに欠けるが、大軍を展開させるには申し分のない地勢である。
両軍とも兵力分散の愚を恐れて、ごく正統的に正面から接近した。
教国軍は南の左翼側から、第三師団、第一師団、第二師団、遊撃旅団、突撃旅団と並び、近衛兵団は第一軍と第二軍のあいだ、やや後方に位置している。帝国軍とすれば起死回生の戦術として、教国軍の本営を狙いたいところだが、正面から直進すれば、第一軍と第二軍の分厚い防御陣に包囲され、たちまち押しつぶされてしまうであろう。また指揮官の性格や能力から、左翼側に防御を得意とする将軍、右翼側に攻撃を得意とする将軍を配置して、基本的には右翼側から積極的に戦線を拡大、浸透させていこうという意図がある。
これに対し、帝国軍は南の右翼側から、メッテルニヒ中将の第一軍、ベーム中将の第二軍、シュテルンベルク中将の第三軍、そしてレーウ中将の第八軍の順で布陣した。
「第八軍は旗の動きも乱れ、兵卒はまとまりがなく、腰を抜かしたように座り込む者、軍令に背いて酒を飲む者、仲間と逃亡をささやく者で満ち、まるで死人の群れです」
偵察員からの報告で、帝国軍の左翼こそ最大の弱点であると断定したクイーンは、すぐ右翼のコクトー将軍に前進を命じた。先のナッツァの会戦では、帝国第八軍の乱れが最終的に全軍の崩壊を招いている。指揮官はキティホークでも対峙したレーウ中将。その無能ぶりはすでに充分以上に証明されている。
戦いにおいては、敵に弱点があればそこを攻撃し、圧迫し、突き崩して、攻勢を浸透させ、敵軍全体を瓦解に持ち込むのが常套手段である。わざわざ敵の強い部分と積極的に戦う必要はない。第八軍を粉砕し、それによって敵の士気を大いに挫き、戦意を喪失して撤退してくれれば、これ以上ない望ましい展開である。
クイーンとしてはそのような希望的観測のもとで、突撃旅団に前進命令を下したわけであるが、あるいは彼女自身、そして教国軍全体に、無意識ながら驕りが生じていたのかもしれない。帝国軍は弱すぎた。勝って当然、問題はいかに被害を少なくして勝つか、その点に気をとられていたのは否めない。だが帝国軍にも帝国軍なりの勝算があり、無論だが勝機もある。
まるで冬に時を戻したかのような冷たい小雨がしつこく降り続く3月16日の朝、コクトー将軍の突撃旅団は景気のいい太鼓の音とともに一斉に進軍を開始した。直線的に攻めかかるのではなく、やや右に膨れるようにしてゆっくりと円運動を続け、目前の帝国第八軍の側面まで移動し、そこからペースを変えて一挙に突進をかけようという構想である。突撃旅団の左方には、遊撃旅団がいる。コクトー、ドン・ジョヴァンニの両将軍は、特に先日のナッツァの会戦で抜群の連携を見せ、呼吸が合っている。統率のまともにとれない第八軍を、正面から遊撃旅団、左側面から突撃旅団が同時に突っ込めば、枝から果実をもぎ取るよりも容易に勝てるであろう。
が、戦況は意外な展開を見せる。
ナッツァでの戦いと同様、弱兵揃いで士気も低い第八軍であるからそれこそ鎧袖一触と侮っていたところ、いざ戦闘となるとこの部隊はまるで嘘のように強い。第一撃で突破できず、第二撃も効かず、さらに新手を繰り出し繰り出しすれども破れない。
この時点で、千軍万馬のドン・ジョヴァンニは、
「これは、まさかまったく別の部隊ではないか」
と、そのことに気づきつつあった。目の前の部隊が真実、レーウ中将の指揮する第八軍であるなら、これほど粘り強く、堅固に守れるはずがない。事前の偵察が誤りだったのか。だが先刻まで、確かにこの部隊は見るからに統率がとれず、兵どもも落ち着かない様子が見られた。
「弱く見せていたのは、擬態だったのかもしれない」
この時点で危機感を抱いたというのは、むしろドン・ジョヴァンニの並々ならぬ見識を示すものであったろう。彼は先鋒に急速後退を命じ、この方面からの攻勢を停止するとともに、逆襲に備えて中軍に防御陣形を組ませた。しかし、突撃旅団はあくまで攻撃を続行する構えに見える。
「あの青二才、功に逸ってやがる」
ドン・ジョヴァンニは歯噛みして、僚友の迂闊を罵った。すぐに自重を促す伝令を出したが、間に合わない。
急転直下。
分厚い防御壁の前に攻勢を阻まれ、戦力を段階的に投入していくうち、すっかり陣の乱れた突撃旅団に対し、帝国軍は機を見て反撃に転じた。それは苛烈で、重厚で、整然たる逆攻勢であった。並の指揮官、並の兵卒にできる芸当ではない。
第八軍は突撃旅団の先頭部隊を押し包んで叩き、そのまま左翼を展開させて、逆に教国軍をこの方面から半包囲しようと動いた。突撃旅団は大いに崩れ、隣接する遊撃旅団にも動揺が走った。
クイーンは戦況を望見し、攻勢を継続して戦闘を主導すべき右翼が思わぬ不利に陥っていることに意外の念を持った。当然であろう。コクトーもドン・ジョヴァンニも優れた将帥である。だから、彼らが押されているとすれば、帝国軍の左翼がレーウ中将率いる第八軍であるという事前の分析に誤りがあったということになる。そのことに気づくのは、クイーンにとってはさほど難しいことではない。
すぐ、両旅団に後退命令を下した。
間の悪いこともあるものだ。
「東方より帝国軍が接近中。軍旗は第六軍のもの」
その報告をもたらしたのは、近衛兵団の旗本クレアである。
クイーンは憂いを含んだ表情を浮かべ、いくつかの質問を発した。
「位置と兵力を教えてください」
「位置は東方20kmほど、兵力は少なくとも1万以上」
「合衆国軍との戦闘で被害を受けた形跡はありましたか。つまり、負傷兵を抱えていたり、装備や輜重の損耗の様子など」
「見受けられませんでした」
「合衆国軍から追撃を受けている様子は」
「ありません。陣は整い、足取りは急ですがよく統率されています」
「とすれば、第六軍はただ単に帝都方面へと移動しているだけということでしょうか。あるいは、帝国軍本隊と我が軍を挟撃する算段か。いずれにしても合衆国軍は一体なにをしているのでしょう」
沈着冷静なエミリアでさえ、合衆国軍の予想を大きく裏切る動きの鈍さに苛立ちと不審を隠せないでいる。
クイーンも同様に冴えない顔色であったが、今は逡巡《しゅんじゅん》や停滞が一瞬ごとに事態を加速度的に悪化させる。迷いはあっても長くはなかった。
彼女は進撃を命じるのと同等かそれ以上の果断と明快をもって、撤退を決定した。
教国軍は戦闘を継続しつつ、撤退の準備を開始した。前線の将軍たちは右翼の突撃旅団および遊撃旅団を除いて前面の敵に対し有利に戦いを進めていたが、東方に第六軍が迫っていることを知ると、状況の困難さに戦慄した。全軍は負傷兵や兵器、輸送部隊を優先的に後退させ、エーデルの宿駅も放棄して南下し、ベルヴェデーレ要塞を目指した。帝国領攻略作戦の開始以来、初めて帝国軍に対し後れをとったことになるが、雑然と敗走するのは教国軍の将軍たちのよくするところではない。むしろその引き際の鮮やかさは、ベーム中将はじめ帝国軍の諸将が舌を巻くに充分で、特に殿軍のレイナート率いる第三師団は粘り強く抗戦し、最後まで戦場にとどまって、味方の撤退を完全ならしめた。
また教国軍の将軍たちも、のちに当時の戦略的状況を振り返って、
「あと半日でも撤退の判断が遅かったら、我が軍は東西から挟撃され、敵地深くで包囲されて、ついに全滅していたかもしれない」
「クイーンは進むも速く、引くときも速い。まさに神業だな」
と評して、改めてその戦略眼に畏敬の念を持った。つまり、教国軍の士気は衰えず、遠征軍諸部隊の戦力も健在である。
一方、エーデルで第六軍を吸収し、戦勝に意気騰る帝国軍も、第六軍の後背に合衆国軍の大部隊の姿を発見し、連戦となることを恐れてこの地を捨て、帝都へと帰還した。教国軍と合衆国軍が連絡し、エーデルにて初めて会したのが、4月7日。
クイーンが初めて戦場において負けた、とされたことも、結果として戦略的にはほとんど意味をもたらさず、帝都ヴェルダンディの陥落まで、ついにあと一押しというところまで迫ったわけである。
帝国軍は局地戦においてかたちの上では勝利を得たが、気づけばさらに不利な状況に陥っている。
どうも、不思議なこともあるものだ。
と、人は言う。
帝国の中枢である帝都ヴェルダンディは、クライフェルト川とその分流であるシェラン川に三方を囲まれた要害の地で、この大都市からシェラン川を越え東へ伸びるのがモハーベ街道である。東へ東へと続き、やがて国境線を越えたところで、オクシアナ合衆国第三の都市オリスカニーに達する。
モハーベ街道は帝国領内で南に分岐し、この街道をダンツィヒ街道と称する。ダンツィヒ街道はベルヴェデーレ要塞近くのシェーンブルンの町を貫き、そのままヌーナ街道との交点、いわゆる「エイクスュルニルの迷い」へと続く。
エイクスュルニルの迷い付近はダンツィヒ街道とヌーナ街道が交わる交通の要衝だが、一帯が不毛の荒野で町や村は存在しない。一方、モハーベ街道とダンツィヒ街道の交点にはささやかながら宿場町がある。ただし大きな川がないので、さほど栄えてはいない。旅人を泊め、馬車や隊商の中継拠点としての機能を有している、といった程度である。
だが町としての規模にかかわらず、軍事的見地におけるその地理的重要性はきわめて大きく、エーデルの宿駅を掌握することは、帝国領を分断し、特に帝都ヴェルダンディを政治的、経済的、軍事的に孤立させることになる。
「しかし、背後にはシュマイザー中将の第六軍が健在です」
それが、西の帝都方面から迫る帝国軍主力への対応に集中しきれない理由である。ベーム中将の率いる帝国軍と戦っているうち、背後からシュマイザー中将の第六軍に挟撃されることだけは避けねばならない。
そのため、クイーンは近衛兵団からおびただしい数の斥候をエーデルから東に放射状にばらまいている。
「第六軍に不穏の動きがあれば、場合によってはエーデルを放棄し、ベルヴェデーレ要塞までしりぞくことも考えなければなりません。その上で、改めて合衆国軍との連絡を緊密にとらなければ」
この時点で、クイーンはレイナート将軍が第六軍の参謀長ウェーバー少将へ宛てた書簡の効果について、期待を持っていない。クイーンはシュマイザー中将と直接に対峙したことがなく、情報が少ない。リヒテンシュタイン中将のように投降することも考えづらく、少なくともベーム中将と同様、その志操は堅固であろうとみなしている。要するに、教国軍に対してはあくまで抵抗するであろうと見ていい。
背後に一抹の不安を抱きつつ、教国軍はエーデル西の平野に布陣した。このあたりは先のクライフェルト川沿いと大いに異なって、起伏が少なく、ケヤキ、アカマツ、白樺などがいくつか樹林をなしている以外は、変哲のない地形である。風景としては広闊で面白みに欠けるが、大軍を展開させるには申し分のない地勢である。
両軍とも兵力分散の愚を恐れて、ごく正統的に正面から接近した。
教国軍は南の左翼側から、第三師団、第一師団、第二師団、遊撃旅団、突撃旅団と並び、近衛兵団は第一軍と第二軍のあいだ、やや後方に位置している。帝国軍とすれば起死回生の戦術として、教国軍の本営を狙いたいところだが、正面から直進すれば、第一軍と第二軍の分厚い防御陣に包囲され、たちまち押しつぶされてしまうであろう。また指揮官の性格や能力から、左翼側に防御を得意とする将軍、右翼側に攻撃を得意とする将軍を配置して、基本的には右翼側から積極的に戦線を拡大、浸透させていこうという意図がある。
これに対し、帝国軍は南の右翼側から、メッテルニヒ中将の第一軍、ベーム中将の第二軍、シュテルンベルク中将の第三軍、そしてレーウ中将の第八軍の順で布陣した。
「第八軍は旗の動きも乱れ、兵卒はまとまりがなく、腰を抜かしたように座り込む者、軍令に背いて酒を飲む者、仲間と逃亡をささやく者で満ち、まるで死人の群れです」
偵察員からの報告で、帝国軍の左翼こそ最大の弱点であると断定したクイーンは、すぐ右翼のコクトー将軍に前進を命じた。先のナッツァの会戦では、帝国第八軍の乱れが最終的に全軍の崩壊を招いている。指揮官はキティホークでも対峙したレーウ中将。その無能ぶりはすでに充分以上に証明されている。
戦いにおいては、敵に弱点があればそこを攻撃し、圧迫し、突き崩して、攻勢を浸透させ、敵軍全体を瓦解に持ち込むのが常套手段である。わざわざ敵の強い部分と積極的に戦う必要はない。第八軍を粉砕し、それによって敵の士気を大いに挫き、戦意を喪失して撤退してくれれば、これ以上ない望ましい展開である。
クイーンとしてはそのような希望的観測のもとで、突撃旅団に前進命令を下したわけであるが、あるいは彼女自身、そして教国軍全体に、無意識ながら驕りが生じていたのかもしれない。帝国軍は弱すぎた。勝って当然、問題はいかに被害を少なくして勝つか、その点に気をとられていたのは否めない。だが帝国軍にも帝国軍なりの勝算があり、無論だが勝機もある。
まるで冬に時を戻したかのような冷たい小雨がしつこく降り続く3月16日の朝、コクトー将軍の突撃旅団は景気のいい太鼓の音とともに一斉に進軍を開始した。直線的に攻めかかるのではなく、やや右に膨れるようにしてゆっくりと円運動を続け、目前の帝国第八軍の側面まで移動し、そこからペースを変えて一挙に突進をかけようという構想である。突撃旅団の左方には、遊撃旅団がいる。コクトー、ドン・ジョヴァンニの両将軍は、特に先日のナッツァの会戦で抜群の連携を見せ、呼吸が合っている。統率のまともにとれない第八軍を、正面から遊撃旅団、左側面から突撃旅団が同時に突っ込めば、枝から果実をもぎ取るよりも容易に勝てるであろう。
が、戦況は意外な展開を見せる。
ナッツァでの戦いと同様、弱兵揃いで士気も低い第八軍であるからそれこそ鎧袖一触と侮っていたところ、いざ戦闘となるとこの部隊はまるで嘘のように強い。第一撃で突破できず、第二撃も効かず、さらに新手を繰り出し繰り出しすれども破れない。
この時点で、千軍万馬のドン・ジョヴァンニは、
「これは、まさかまったく別の部隊ではないか」
と、そのことに気づきつつあった。目の前の部隊が真実、レーウ中将の指揮する第八軍であるなら、これほど粘り強く、堅固に守れるはずがない。事前の偵察が誤りだったのか。だが先刻まで、確かにこの部隊は見るからに統率がとれず、兵どもも落ち着かない様子が見られた。
「弱く見せていたのは、擬態だったのかもしれない」
この時点で危機感を抱いたというのは、むしろドン・ジョヴァンニの並々ならぬ見識を示すものであったろう。彼は先鋒に急速後退を命じ、この方面からの攻勢を停止するとともに、逆襲に備えて中軍に防御陣形を組ませた。しかし、突撃旅団はあくまで攻撃を続行する構えに見える。
「あの青二才、功に逸ってやがる」
ドン・ジョヴァンニは歯噛みして、僚友の迂闊を罵った。すぐに自重を促す伝令を出したが、間に合わない。
急転直下。
分厚い防御壁の前に攻勢を阻まれ、戦力を段階的に投入していくうち、すっかり陣の乱れた突撃旅団に対し、帝国軍は機を見て反撃に転じた。それは苛烈で、重厚で、整然たる逆攻勢であった。並の指揮官、並の兵卒にできる芸当ではない。
第八軍は突撃旅団の先頭部隊を押し包んで叩き、そのまま左翼を展開させて、逆に教国軍をこの方面から半包囲しようと動いた。突撃旅団は大いに崩れ、隣接する遊撃旅団にも動揺が走った。
クイーンは戦況を望見し、攻勢を継続して戦闘を主導すべき右翼が思わぬ不利に陥っていることに意外の念を持った。当然であろう。コクトーもドン・ジョヴァンニも優れた将帥である。だから、彼らが押されているとすれば、帝国軍の左翼がレーウ中将率いる第八軍であるという事前の分析に誤りがあったということになる。そのことに気づくのは、クイーンにとってはさほど難しいことではない。
すぐ、両旅団に後退命令を下した。
間の悪いこともあるものだ。
「東方より帝国軍が接近中。軍旗は第六軍のもの」
その報告をもたらしたのは、近衛兵団の旗本クレアである。
クイーンは憂いを含んだ表情を浮かべ、いくつかの質問を発した。
「位置と兵力を教えてください」
「位置は東方20kmほど、兵力は少なくとも1万以上」
「合衆国軍との戦闘で被害を受けた形跡はありましたか。つまり、負傷兵を抱えていたり、装備や輜重の損耗の様子など」
「見受けられませんでした」
「合衆国軍から追撃を受けている様子は」
「ありません。陣は整い、足取りは急ですがよく統率されています」
「とすれば、第六軍はただ単に帝都方面へと移動しているだけということでしょうか。あるいは、帝国軍本隊と我が軍を挟撃する算段か。いずれにしても合衆国軍は一体なにをしているのでしょう」
沈着冷静なエミリアでさえ、合衆国軍の予想を大きく裏切る動きの鈍さに苛立ちと不審を隠せないでいる。
クイーンも同様に冴えない顔色であったが、今は逡巡《しゅんじゅん》や停滞が一瞬ごとに事態を加速度的に悪化させる。迷いはあっても長くはなかった。
彼女は進撃を命じるのと同等かそれ以上の果断と明快をもって、撤退を決定した。
教国軍は戦闘を継続しつつ、撤退の準備を開始した。前線の将軍たちは右翼の突撃旅団および遊撃旅団を除いて前面の敵に対し有利に戦いを進めていたが、東方に第六軍が迫っていることを知ると、状況の困難さに戦慄した。全軍は負傷兵や兵器、輸送部隊を優先的に後退させ、エーデルの宿駅も放棄して南下し、ベルヴェデーレ要塞を目指した。帝国領攻略作戦の開始以来、初めて帝国軍に対し後れをとったことになるが、雑然と敗走するのは教国軍の将軍たちのよくするところではない。むしろその引き際の鮮やかさは、ベーム中将はじめ帝国軍の諸将が舌を巻くに充分で、特に殿軍のレイナート率いる第三師団は粘り強く抗戦し、最後まで戦場にとどまって、味方の撤退を完全ならしめた。
また教国軍の将軍たちも、のちに当時の戦略的状況を振り返って、
「あと半日でも撤退の判断が遅かったら、我が軍は東西から挟撃され、敵地深くで包囲されて、ついに全滅していたかもしれない」
「クイーンは進むも速く、引くときも速い。まさに神業だな」
と評して、改めてその戦略眼に畏敬の念を持った。つまり、教国軍の士気は衰えず、遠征軍諸部隊の戦力も健在である。
一方、エーデルで第六軍を吸収し、戦勝に意気騰る帝国軍も、第六軍の後背に合衆国軍の大部隊の姿を発見し、連戦となることを恐れてこの地を捨て、帝都へと帰還した。教国軍と合衆国軍が連絡し、エーデルにて初めて会したのが、4月7日。
クイーンが初めて戦場において負けた、とされたことも、結果として戦略的にはほとんど意味をもたらさず、帝都ヴェルダンディの陥落まで、ついにあと一押しというところまで迫ったわけである。
帝国軍は局地戦においてかたちの上では勝利を得たが、気づけばさらに不利な状況に陥っている。
どうも、不思議なこともあるものだ。
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