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第22章 虚々実々
第22章-③ 虚誘掩殺の計
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役者が違いすぎる、と言っていいであろう。
敵将が無能すぎるのか、それともやはりクイーンが神のごとき用兵家だからなのか。
少なくとも帝国のシュトラウス上級大将は、それほど無能な男ではない。前線でも後方でも任務にそつはないし、人格も劣悪との評判が立ったことはない。上には忠実で、部下の面倒見もいい。多少、融通が利かず面白みのないところがあるが、生来の痢病持ちで、よく胃痛と下痢に見舞われている。それもことさら兵卒どもから嫌われたり軽蔑されたりしているわけでもなく、どちらかといえば罪のない揶揄の材料として使われているだけである。
とすればやはり、クイーンがどこまでも上手ということなのであろう。シュトラウスがあれこれと考えをめぐらせ、行動に移す都度、それはすべて彼女の掌の上で踊っているに過ぎない。
交戦2日目、太鼓の音とともに真っ先に鬨の声を上げて走り出したのは、コクトー将軍の突撃旅団8,000名である。
リアム・コクトー将軍は、この年41歳になる。背丈は並の男よりも低いが、膂力はむしろ人の数倍はあり、その証拠に巨大な大斧を軽々と操ることができた。大軍に臆せず切り込む度胸にも恵まれており、まさに生まれながらの切込み隊長といったところである。異名は「パミエの虎」で、パミエとは彼の出身の小農村のことである。もとは文字も読めない無学の青年将校でしかなかったが、当時の第一師団長ラマルク将軍にその剛勇と実直さを愛され、千人長に引き上げられた。クイーンからの評価も高く、ほかに幾人もの候補がおりながら、彼を新設された突撃旅団の長に任じている。
突撃旅団は、その名の通り敵軍に強襲をかけることを想定して編成された部隊で、ほかの師団などと比べて騎兵の割合が高い。戦局を一挙に手繰り寄せるためには、ある程度の犠牲を覚悟で突進を試みる部隊が必要で、それにはコクトー将軍のような、遮二無二敵へと向かっていく猛将こそがふさわしい。
攻撃型の彼に要所のナッツァを守らせたのは、シュトラウスの読み通り、クイーンの罠である。いわば、これが美人局の女であり、餌であると言える。突撃旅団は通常の師団の半数ほどしか兵を持たない。まず最初はナッツァと両翼の関係にあるグリューンヒュッテ村の教国軍本営へと攻撃を集中させ、しかるのち転じて、攻撃の重心をナッツァへと向ける。優位な兵力でナッツァを包囲し攻め立てて、電撃的にナッツァの小山を奪い取る。そこまでの構想を読み、さらに帝国軍の夜間行軍を察知して、クイーンは瞬時に包囲しようとする敵を逆包囲する布陣を描き、その通りに軍が動いた。夜中、突撃旅団は山を下り、帝国軍の右翼である第七軍の右手に移動し、ナッツァには代わって第二師団が入った。ドン・ジョヴァンニ将軍の遊撃旅団はさらに大きく迂回して、ナッツァに矛先を向ける第七軍の後背に陣取っている。
シュトラウスの企図した「偽撃転殺」に対抗したクイーンの「虚誘掩殺」が、見事に完成されたと言っていい。
コクトー将軍率いる突撃旅団は、まるで真っ黒な猛牛の群れのような速度と圧迫感で第七軍に迫り、衝突部分を粉砕し、そのまま錐のように揉み込んで、激闘30分あまり、先鋒はついに敵陣を貫通した。先頭には、コクトー将軍がいる。パミエの虎の異名にふさわしく、彼が敵陣を噛み破り、大斧を振るうたび、その乗馬の蹄のあとには、文字通りの屍山血河が残された。彼自身の身長よりも大きい超重量の斧は、遠心力も相俟って、触れる者すべてを薙ぎ払い、両断する。特に機先を制され、兵に動揺が広がる帝国第七軍にあって、彼にあえて立ち向かおうとする者は少なかった。実際、彼の大斧による帝国兵の傷痕は、半分以上が背中か後頭部にある。逃げ惑うところを、背後から一撃されたのである。ほとんどが即死であった。
突撃旅団とともに第七軍に迫る第二師団と遊撃旅団も、手をこまねいてはいない。コクトーによって粉砕され分断された敵を、彼らはさらに別方向から急襲して、殲滅を図った。第七軍のフルトヴェングラー中将も必死に立て直しに努めたが、布陣も、士気、指揮官の能力、そして勢いも、何もかもが劣勢で、彼一人がいくら大声を張り上げたところで、焼け石に水というものであった。
第七軍は、大混乱に陥った。
となれば、ここは第七軍に隣接する第八軍が割り込むなり、援護するなりせねばならないであろう。
さて、第八軍の司令官レーウ中将が示した事態に対する反応は、不可解と言うほかない。彼は左右の友軍と歩調を合わせ、目前のナッツァへと攻め上るべく軍を整えているところであった。にわかに右翼側に位置する第八軍に騒乱が生じたため、幕僚が彼に注意を促した。
レーウは、神経が過敏で、しかも他人を容易に信じず、すべてを自分一個の判断に頼ろうとするきらいがあった。
「私が見に行く」
彼は軍司令官の身でありながら、自らの指揮すべき部隊を放置して、自分の目で状況を確かめに行くと言い出したのである。幕僚どもは無論、止めた。
が、彼は副官と護衛の将校数名だけを連れて、第八軍の方へと馬を走らせた。第八軍は指揮官不在のまま、待機となった。
後世、多くの歴史研究者、軍事専門家らが首をひねるのが、どうもレーウにとっての軍組織とは、最高指揮官とその幕僚だけが思考し、中級指揮官以下の連中はその命令に従い機械的に動くべきもので、自ら考えたり感じたりすることなどないはずだと思い込んでいたらしいことである。彼は戦争を、チェスかなにかのように理解していたのであろうか。ありうるかもしれない。彼は一貫して後方勤務、具体的には補給、人事、分析、教育、そして軍全体の作戦方針の策定といった分野に力を発揮してきた。そのような人間にとって、人と人とが血を流して戦い、命のやりとりをする戦場というのは所詮、チェスの盤面くらいの実感でしか迫ってこないのかもしれない。なるほどチェスならば、状況を分析し、判断を下すのはすべてプレイヤーの意のままである。もし、意志も感情もない単なる駒であるべきルークやビショップやナイトが、プレイヤーの意図から離れて動き出すことがあれば、それはチェスではない。盤上のゲームの世界ではそういったことは起こりえないのである。
それが起こるのが、戦争の世界である。本物の戦いでは、何もかもが生きている。指揮官だけが生きているのではない。兵らの一人ひとりに命があり、そのすべてが意志や感情を持っている。指揮官に対する信頼感や、戦いに対する不安、死に対する恐怖もある。状況が悪くなれば臆病になるし、狼狽もする。混乱が深刻化すれば、たとえ充分な兵力が残っていても、指揮官の命令は届かず、部隊としての機能を失う。そうなれば持ち直すのは至難の業であり、いかに命を安全な場所に持ち帰るべきかを全員が考え始める。
このことは、レーウ自身、キティホークという戦場の経験によって充分に体得する機会があったはずだ。あの会戦では、彼が自らの意図を誰にも説明することなく、後方の教国軍別動隊に直営部隊をもって対応しようと単独で考え、単独で動いた結果、前線の諸将は彼の行動を敵前逃亡と理解し、命令なく陣を払って撤退を開始し、ために戦線の全面崩壊を招いた。
彼は、自らのその愚かしい前例を、懲りもせず再現しようとしている。
レーウが第七軍の様子を見に行っている間も、状況は刻一刻と変化している。友軍の騒ぎはまだ早暁の薄闇が残る頃合いであったが、空が明け、第七軍の置かれた状況が白日のもとに晒されると、誰の目にも事態の異常なることが察せられた。こればかりは、どれほど有能な指揮官であっても隠しようがない。
隣接する第七軍は、教国軍の攻撃を受け、劣勢に陥っている。攻め立てられ、押しまくられ、一部はすでに潰走を始め、彼らにとって唯一の退路である第八軍を目がけて逃げ出してくる者もいる。
一方、これを望見している第八軍というのは、司令官が少なくとも前線指揮官としては致命的と言っていいほどに無能で、しかも持ち場を離れて不在にしており、そして第八軍自体、そっくりそのまま大都市から緊急徴兵した新兵揃いの部隊なのである。
そのため、ここで前代未聞の恐慌が発生した。敵と接触していない段階の第八軍の兵どもが、第七軍の崩れを見て肝をつぶし、逃走を始めたのである。一人逃げ出せば三人逃げ、三人逃げればさらに五人が逃げと、崩壊はたちまち第八軍全体に波及した。
この光景には、第七軍が教国軍の苛烈な襲撃を受け劣勢にあることを確認し、急いで戻ろうとしていたレーウを呆然とさせた。まだ戦ってもいないのに、自分が指揮すべき兵がごっそりと向こうへ向こうへと一目散に逃げてゆく。
「まだ戦いは始まっていない、戻れ、戻れ!」
レーウは叫んだが、怯えきった兵らの背中には到底、効果がない。普段どれだけ度胸自慢、剛勇自慢をしている戦い慣れた者であっても、いざ味方が総崩れで逃げ出すなかにいると、どうしても腰が浮いてしまう。まして、彼の麾下にいるのは、戦況の悪化にともなって強制的に駆り出された新兵であり、戦意や士気はきわめて鈍い。
第八軍の逃亡には、直接の指揮官であるレーウは無論のこと、総司令官であるシュトラウス上級大将も呆然とするほかなかった。苦戦する味方を救うどころか、恐れをなして我先に逃げ出す部隊があったら、確かに総指揮官としては呆然とするほかない。まさに、真に恐れるべきは有能な敵ではなく、無能な味方であるという、最適な実例であると言えるだろう。
そして、教国軍の直接の襲撃を受けている第七軍の将兵の絶望も、計り知れない。彼らを援護するべき友軍が、味方を救い出そうとするどころか逆に背中を向け、奥へ奥へとしりぞいてゆくのである。
第八軍に続き、第七軍も潰走を始めた。
後者に関しては、ほとんど不可抗力であったと言えるだろう。指揮官がフルトヴェングラーでなく、例えば教国軍のデュラン将軍やドン・ジョヴァンニであっても、敵軍に三方を囲まれ、頼むべき友軍も背を見せて逃げ出しているようでは、粘り強く抗戦することなど到底、不可能である。
本来、第七軍、第八軍は帝国軍の右翼を形成して、ナッツァの小山に側面から猛攻をかけこの要所を奪い取る役目を持っていたはずだ。それが今や、両軍とも戦闘部隊としての継戦能力を喪失してしまっている。
数的優位にあるはずの帝国軍が、このとき、圧倒的な劣勢に陥った。
敵将が無能すぎるのか、それともやはりクイーンが神のごとき用兵家だからなのか。
少なくとも帝国のシュトラウス上級大将は、それほど無能な男ではない。前線でも後方でも任務にそつはないし、人格も劣悪との評判が立ったことはない。上には忠実で、部下の面倒見もいい。多少、融通が利かず面白みのないところがあるが、生来の痢病持ちで、よく胃痛と下痢に見舞われている。それもことさら兵卒どもから嫌われたり軽蔑されたりしているわけでもなく、どちらかといえば罪のない揶揄の材料として使われているだけである。
とすればやはり、クイーンがどこまでも上手ということなのであろう。シュトラウスがあれこれと考えをめぐらせ、行動に移す都度、それはすべて彼女の掌の上で踊っているに過ぎない。
交戦2日目、太鼓の音とともに真っ先に鬨の声を上げて走り出したのは、コクトー将軍の突撃旅団8,000名である。
リアム・コクトー将軍は、この年41歳になる。背丈は並の男よりも低いが、膂力はむしろ人の数倍はあり、その証拠に巨大な大斧を軽々と操ることができた。大軍に臆せず切り込む度胸にも恵まれており、まさに生まれながらの切込み隊長といったところである。異名は「パミエの虎」で、パミエとは彼の出身の小農村のことである。もとは文字も読めない無学の青年将校でしかなかったが、当時の第一師団長ラマルク将軍にその剛勇と実直さを愛され、千人長に引き上げられた。クイーンからの評価も高く、ほかに幾人もの候補がおりながら、彼を新設された突撃旅団の長に任じている。
突撃旅団は、その名の通り敵軍に強襲をかけることを想定して編成された部隊で、ほかの師団などと比べて騎兵の割合が高い。戦局を一挙に手繰り寄せるためには、ある程度の犠牲を覚悟で突進を試みる部隊が必要で、それにはコクトー将軍のような、遮二無二敵へと向かっていく猛将こそがふさわしい。
攻撃型の彼に要所のナッツァを守らせたのは、シュトラウスの読み通り、クイーンの罠である。いわば、これが美人局の女であり、餌であると言える。突撃旅団は通常の師団の半数ほどしか兵を持たない。まず最初はナッツァと両翼の関係にあるグリューンヒュッテ村の教国軍本営へと攻撃を集中させ、しかるのち転じて、攻撃の重心をナッツァへと向ける。優位な兵力でナッツァを包囲し攻め立てて、電撃的にナッツァの小山を奪い取る。そこまでの構想を読み、さらに帝国軍の夜間行軍を察知して、クイーンは瞬時に包囲しようとする敵を逆包囲する布陣を描き、その通りに軍が動いた。夜中、突撃旅団は山を下り、帝国軍の右翼である第七軍の右手に移動し、ナッツァには代わって第二師団が入った。ドン・ジョヴァンニ将軍の遊撃旅団はさらに大きく迂回して、ナッツァに矛先を向ける第七軍の後背に陣取っている。
シュトラウスの企図した「偽撃転殺」に対抗したクイーンの「虚誘掩殺」が、見事に完成されたと言っていい。
コクトー将軍率いる突撃旅団は、まるで真っ黒な猛牛の群れのような速度と圧迫感で第七軍に迫り、衝突部分を粉砕し、そのまま錐のように揉み込んで、激闘30分あまり、先鋒はついに敵陣を貫通した。先頭には、コクトー将軍がいる。パミエの虎の異名にふさわしく、彼が敵陣を噛み破り、大斧を振るうたび、その乗馬の蹄のあとには、文字通りの屍山血河が残された。彼自身の身長よりも大きい超重量の斧は、遠心力も相俟って、触れる者すべてを薙ぎ払い、両断する。特に機先を制され、兵に動揺が広がる帝国第七軍にあって、彼にあえて立ち向かおうとする者は少なかった。実際、彼の大斧による帝国兵の傷痕は、半分以上が背中か後頭部にある。逃げ惑うところを、背後から一撃されたのである。ほとんどが即死であった。
突撃旅団とともに第七軍に迫る第二師団と遊撃旅団も、手をこまねいてはいない。コクトーによって粉砕され分断された敵を、彼らはさらに別方向から急襲して、殲滅を図った。第七軍のフルトヴェングラー中将も必死に立て直しに努めたが、布陣も、士気、指揮官の能力、そして勢いも、何もかもが劣勢で、彼一人がいくら大声を張り上げたところで、焼け石に水というものであった。
第七軍は、大混乱に陥った。
となれば、ここは第七軍に隣接する第八軍が割り込むなり、援護するなりせねばならないであろう。
さて、第八軍の司令官レーウ中将が示した事態に対する反応は、不可解と言うほかない。彼は左右の友軍と歩調を合わせ、目前のナッツァへと攻め上るべく軍を整えているところであった。にわかに右翼側に位置する第八軍に騒乱が生じたため、幕僚が彼に注意を促した。
レーウは、神経が過敏で、しかも他人を容易に信じず、すべてを自分一個の判断に頼ろうとするきらいがあった。
「私が見に行く」
彼は軍司令官の身でありながら、自らの指揮すべき部隊を放置して、自分の目で状況を確かめに行くと言い出したのである。幕僚どもは無論、止めた。
が、彼は副官と護衛の将校数名だけを連れて、第八軍の方へと馬を走らせた。第八軍は指揮官不在のまま、待機となった。
後世、多くの歴史研究者、軍事専門家らが首をひねるのが、どうもレーウにとっての軍組織とは、最高指揮官とその幕僚だけが思考し、中級指揮官以下の連中はその命令に従い機械的に動くべきもので、自ら考えたり感じたりすることなどないはずだと思い込んでいたらしいことである。彼は戦争を、チェスかなにかのように理解していたのであろうか。ありうるかもしれない。彼は一貫して後方勤務、具体的には補給、人事、分析、教育、そして軍全体の作戦方針の策定といった分野に力を発揮してきた。そのような人間にとって、人と人とが血を流して戦い、命のやりとりをする戦場というのは所詮、チェスの盤面くらいの実感でしか迫ってこないのかもしれない。なるほどチェスならば、状況を分析し、判断を下すのはすべてプレイヤーの意のままである。もし、意志も感情もない単なる駒であるべきルークやビショップやナイトが、プレイヤーの意図から離れて動き出すことがあれば、それはチェスではない。盤上のゲームの世界ではそういったことは起こりえないのである。
それが起こるのが、戦争の世界である。本物の戦いでは、何もかもが生きている。指揮官だけが生きているのではない。兵らの一人ひとりに命があり、そのすべてが意志や感情を持っている。指揮官に対する信頼感や、戦いに対する不安、死に対する恐怖もある。状況が悪くなれば臆病になるし、狼狽もする。混乱が深刻化すれば、たとえ充分な兵力が残っていても、指揮官の命令は届かず、部隊としての機能を失う。そうなれば持ち直すのは至難の業であり、いかに命を安全な場所に持ち帰るべきかを全員が考え始める。
このことは、レーウ自身、キティホークという戦場の経験によって充分に体得する機会があったはずだ。あの会戦では、彼が自らの意図を誰にも説明することなく、後方の教国軍別動隊に直営部隊をもって対応しようと単独で考え、単独で動いた結果、前線の諸将は彼の行動を敵前逃亡と理解し、命令なく陣を払って撤退を開始し、ために戦線の全面崩壊を招いた。
彼は、自らのその愚かしい前例を、懲りもせず再現しようとしている。
レーウが第七軍の様子を見に行っている間も、状況は刻一刻と変化している。友軍の騒ぎはまだ早暁の薄闇が残る頃合いであったが、空が明け、第七軍の置かれた状況が白日のもとに晒されると、誰の目にも事態の異常なることが察せられた。こればかりは、どれほど有能な指揮官であっても隠しようがない。
隣接する第七軍は、教国軍の攻撃を受け、劣勢に陥っている。攻め立てられ、押しまくられ、一部はすでに潰走を始め、彼らにとって唯一の退路である第八軍を目がけて逃げ出してくる者もいる。
一方、これを望見している第八軍というのは、司令官が少なくとも前線指揮官としては致命的と言っていいほどに無能で、しかも持ち場を離れて不在にしており、そして第八軍自体、そっくりそのまま大都市から緊急徴兵した新兵揃いの部隊なのである。
そのため、ここで前代未聞の恐慌が発生した。敵と接触していない段階の第八軍の兵どもが、第七軍の崩れを見て肝をつぶし、逃走を始めたのである。一人逃げ出せば三人逃げ、三人逃げればさらに五人が逃げと、崩壊はたちまち第八軍全体に波及した。
この光景には、第七軍が教国軍の苛烈な襲撃を受け劣勢にあることを確認し、急いで戻ろうとしていたレーウを呆然とさせた。まだ戦ってもいないのに、自分が指揮すべき兵がごっそりと向こうへ向こうへと一目散に逃げてゆく。
「まだ戦いは始まっていない、戻れ、戻れ!」
レーウは叫んだが、怯えきった兵らの背中には到底、効果がない。普段どれだけ度胸自慢、剛勇自慢をしている戦い慣れた者であっても、いざ味方が総崩れで逃げ出すなかにいると、どうしても腰が浮いてしまう。まして、彼の麾下にいるのは、戦況の悪化にともなって強制的に駆り出された新兵であり、戦意や士気はきわめて鈍い。
第八軍の逃亡には、直接の指揮官であるレーウは無論のこと、総司令官であるシュトラウス上級大将も呆然とするほかなかった。苦戦する味方を救うどころか、恐れをなして我先に逃げ出す部隊があったら、確かに総指揮官としては呆然とするほかない。まさに、真に恐れるべきは有能な敵ではなく、無能な味方であるという、最適な実例であると言えるだろう。
そして、教国軍の直接の襲撃を受けている第七軍の将兵の絶望も、計り知れない。彼らを援護するべき友軍が、味方を救い出そうとするどころか逆に背中を向け、奥へ奥へとしりぞいてゆくのである。
第八軍に続き、第七軍も潰走を始めた。
後者に関しては、ほとんど不可抗力であったと言えるだろう。指揮官がフルトヴェングラーでなく、例えば教国軍のデュラン将軍やドン・ジョヴァンニであっても、敵軍に三方を囲まれ、頼むべき友軍も背を見せて逃げ出しているようでは、粘り強く抗戦することなど到底、不可能である。
本来、第七軍、第八軍は帝国軍の右翼を形成して、ナッツァの小山に側面から猛攻をかけこの要所を奪い取る役目を持っていたはずだ。それが今や、両軍とも戦闘部隊としての継戦能力を喪失してしまっている。
数的優位にあるはずの帝国軍が、このとき、圧倒的な劣勢に陥った。
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