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第18章 平和を求めて
第18章-① 教国脱出
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「サミュエルの姿がない」
その報がクイーンのもとへ上げられたのは、翌日の早朝であった。
クイーンは驚き、直ちに捜索を開始させた。昼まで宮殿内をくまなく探したが、痕跡さえも見当たらない。
サミュエルを監視していたのは旗本のサミア、ヘレナら六名であったが、このうちの五名は夜明け時分にヴァネッサから警備状況について聴取すべく呼び出しを受けている。残ったのはサミアだけであったが、彼女は仲間が戻ったときには部屋の前の廊下に横たわっており、室内を確認すると案の定、サミュエルが消えていた。
ヴァネッサはサミアを厳しく叱責したが、元はと言えばヴァネッサが報告のため監視を手薄にしたからであり、サミアには処分を加えず、自らに3ヶ月の無給処分を課して、クイーンに陳謝した。
クイーンも、逃走を許した背景は恐らくサミュエルの術によるものであり、たとえ監視をつけている一人が六人でも、結果は同じであったろうとして、咎め立てはしなかった。
彼女は術者サミュエルについて正式に公表することを決意し、術者が実在したこと、何らかの理由で彼が近衛兵を傷つけ、さらにクイーンを害そうとしたこと、王宮内にいた別の術者が彼を止めたこと、近衛兵団によって意識を失った彼を保護・監視していたが逃げられたこと、もとは温厚で善良な性格のため、民衆に害を及ぼすとは考えづらいこと、クイーンは彼との平和的な対話を望んでいるため、彼を見つけたら殺害や捕縛は決して考えず、最寄りの官憲に通報すべきこと、そして最後に情報の公開が遅れ、かつ近衛兵団の失態で臣民に不安と不信を与えたことを心より申し訳なく、残念に思うと添えて、教国全土へと布達した。
その後、国都の様子を注意深く観察していたところ、当然のこと民衆は術者再来の噂で持ちきりであったが、動揺はさほど大きくはなく、互いに猜疑心を持ったり、政府へ不信感を持つ者もほとんど見られなかった。政府からの情報に、多くの民衆が納得しているためだろうと考えられた。
つまり、事態としては収束に向かっている。
サミュエルが王宮から消えておよそ1ヶ月後。
「サミュエルさん、それでは参りましょう」
国都アルジャントゥイユの東方、ベンチュリー海に面した港町シェーヌに、サミュエルの姿があった。だがその体は木箱の中にある。彼はこれから貨物として貿易される。行き先はオユトルゴイ王国の西海岸に位置する商港グイリンである。
木箱から、声がする。
「はい、よろしくお願いします」
「積み込みが完了すれば、貨物室に出られます。少しの辛抱ですよ」
そう言って励ますのは、傘を目深にかぶり、王国の女商人に化けた姿のアオバであった。
彼女は銀や錫、あるいは雑鉱石を詰め込んだ貨物群のあいだを抜け、別の木箱の前で立ち止まった。怪しまれぬよう、少し俯き、ほんのわずかに唇を動かして、
「ミコト様、それでは起ちますよ。お覚悟はよろしいですね」
「えぇ、役目を果たせばいずれまた戻ります。腐った王国に長居するつもりはない」
アオバはさらに歩き、積み荷置き場から往来の激しい通りへと出た。そこではまだ若いが凛とした気品を漂わせる貴婦人が、彼女を待っていた。
「色々とお世話になりました。心より、感謝申し上げます」
「アオバ殿。これからどうなるか分かりませんが、どうかご健在で」
「えぇ、いずれまたお会いできることを心待ちに」
貨物船が出港してしまえば、少しは気分が楽になる。今回は近衛兵団肝煎りの船荷であるというので、港の検査官も確認をしなかったし、船員にも貨物について詮索しないようにとの近衛兵団のお墨付きがある。王国のグイリン港に着いたら、向こうの役人というのは腐敗した小悪党ばかりだから、金さえ渡せば入国は造作もない。
貨物室でサミュエルとミコトの木箱を開け、三人は小声で談合した。サミュエルはここしばらく、人の目に触れないような生活を続けてきたために、さすがに疲労の色が濃い。それに生まれ育った教国を離れるためか、どことなく心細く、さびしそうである。同盟領への出兵の際は、クイーンやエミリア、多くの同胞たちと一緒であった。その意味では、同じ術者の血を持つとはいえ、同行するのはミコトとアオバの二人だけ。不安のないはずもない。それに、向かうのは王国、つまりサミュエルを闇の術によって操り、危うく彼を女王殺しに仕立てようとしたスミンの支配する国なのである。教国に留まるのとは別の意味で大きな危険がある。
「すでに私たちはシェーヌを出てグイリンに向かっておりますが、今一度、状況を整理しておきたいと思います」
貨物室のなかは日光がわずかしか入らず、やや息苦しい。それでも、金属としてはほぼ無臭の銀や錫がほとんどの船荷であるために、いくらか救いがある。ミコトたちが教国へ逃れてくるときにまぎれ込んだ荷物はごま油やじゃがいもであったから、ミコトは頭痛がひどかったし、ミスズは毎日のように吐いていたものである。このあたりも、近衛兵団の心配りであったのかもしれない。
「私たちはこれから、私の故郷でもありますアマギの里へと向かいます。アマギはグイリンから徒歩で20日間ほど、途中は道の悪いところを通りますし、念のために官憲の目も避けねばなりませんので、それ以上はかかるでしょう。私の父ミナヅキが治めており、高地に築かれたいわゆる忍びの里です」
「忍び?」
「王国の事情に不案内なサミュエルさんはご存じないでしょうが、忍びとは、主に王国の東部を出身とする傭兵集団のことでございます。ただ、その働きとしてはイシャーン王の使うアサシンにも似ており、単なる槍働きもありますが、諜報や工作活動を主任務とし、さらには暗殺に従事することもあります。忍びには大小いくつもの流派があり、その流派ごとに里を持っております。アマギの里はそのなかでも大きい方で、現在は600を超える人口を持っています」
「その全員が、忍びなのでしょうか」
「男は無論、女もその多くが幼少より忍びとしての訓練を受けます。成年に達したあとは、出稼ぎに出る者、里を守る者、足を洗って堅気の仕事に就く者、女ならばほかの土地へ嫁に行く者、そして抜け忍といって、里の掟を破り逃げ出す者、さまざまです。また忍びは、忍者とも呼ばれています」
「詳しく教えていただき、ありがとうございます。そしてアオバさんのご一門は、術者の子孫なのですね」
「えぇ、ミコト様やミスズ様の血筋であるヤノ家から分家した傍流で、術は受け継いでおりませんが」
「つまりここにいるのは、全員が術者の末裔ということになりますね」
なるほど、サミュエルの言う通り、この場にいるのはいずれも術者の血を引いている。違うのは、サミュエルは火の術者ムングの、ミコトとアオバは風の術者アルトゥの子孫ということ。またサミュエルは導きを受けているために彼自身が術者であるが、ミコトとアオバは術者の末裔としての血統と多少の知識を引き継いでいるに過ぎない。
ミコトは最前から、黙ってサミュエルとアオバのやりとりを見ている。彼女としては、サミュエルの身柄を彼女が引き取り、アオバの話に乗ってアマギの里へ向かうこととしたわけだが、その選択が正しかったかどうか、まだ分からない。
ただ、彼女の目の前にいる青年は、実に素朴で穏和な性格で、つい先日、恐るべき術によって王宮に恐怖と災厄をもたらした術者と同一人物とも思えない。その彼を守り、新たな道を見つける手助けができるのが彼女しかいないのならば、それも自らのさだめであろうと考えて、この役目を引き受けたのであった。
ミコトは、暗く狭くかび臭い貨物室から翼が生えたように意識を飛び立たせて、王宮レユニオンパレスの一室へと向けた。その部屋はクイーンの私室で、これまでに立ち入った客人は一人もいないという。まもなく就寝しようという時分に、彼女は自室にダフネ近衛兵の訪問を受け、その部屋へと内密に導かれたのであった。
あの夜、クイーンとエミリア、そして彼女だけの三人で語り合ったことを、ミコトは永遠に忘れることはないであろう。
多くの場合、人生の分岐点というものはその当時においては分からないものである。人はただ、流れのなかで夢中になって選択し決断するだけであるからだ。だが、彼女はその対話のなかで、これが自分の人生や、あるいはほかの多くの人々、そしてもしかすると歴史に対してさえ、決定的な影響を与えうる決断になるであろうことを自覚していた。
(いったいこれから、どうなるのか)
ミコトは再び意識を我が視界に引き戻し、サミュエルとアオバの横顔を交互に見つつただぼんやりと、想像さえもつかない未来の影を脳裏に追った。
その報がクイーンのもとへ上げられたのは、翌日の早朝であった。
クイーンは驚き、直ちに捜索を開始させた。昼まで宮殿内をくまなく探したが、痕跡さえも見当たらない。
サミュエルを監視していたのは旗本のサミア、ヘレナら六名であったが、このうちの五名は夜明け時分にヴァネッサから警備状況について聴取すべく呼び出しを受けている。残ったのはサミアだけであったが、彼女は仲間が戻ったときには部屋の前の廊下に横たわっており、室内を確認すると案の定、サミュエルが消えていた。
ヴァネッサはサミアを厳しく叱責したが、元はと言えばヴァネッサが報告のため監視を手薄にしたからであり、サミアには処分を加えず、自らに3ヶ月の無給処分を課して、クイーンに陳謝した。
クイーンも、逃走を許した背景は恐らくサミュエルの術によるものであり、たとえ監視をつけている一人が六人でも、結果は同じであったろうとして、咎め立てはしなかった。
彼女は術者サミュエルについて正式に公表することを決意し、術者が実在したこと、何らかの理由で彼が近衛兵を傷つけ、さらにクイーンを害そうとしたこと、王宮内にいた別の術者が彼を止めたこと、近衛兵団によって意識を失った彼を保護・監視していたが逃げられたこと、もとは温厚で善良な性格のため、民衆に害を及ぼすとは考えづらいこと、クイーンは彼との平和的な対話を望んでいるため、彼を見つけたら殺害や捕縛は決して考えず、最寄りの官憲に通報すべきこと、そして最後に情報の公開が遅れ、かつ近衛兵団の失態で臣民に不安と不信を与えたことを心より申し訳なく、残念に思うと添えて、教国全土へと布達した。
その後、国都の様子を注意深く観察していたところ、当然のこと民衆は術者再来の噂で持ちきりであったが、動揺はさほど大きくはなく、互いに猜疑心を持ったり、政府へ不信感を持つ者もほとんど見られなかった。政府からの情報に、多くの民衆が納得しているためだろうと考えられた。
つまり、事態としては収束に向かっている。
サミュエルが王宮から消えておよそ1ヶ月後。
「サミュエルさん、それでは参りましょう」
国都アルジャントゥイユの東方、ベンチュリー海に面した港町シェーヌに、サミュエルの姿があった。だがその体は木箱の中にある。彼はこれから貨物として貿易される。行き先はオユトルゴイ王国の西海岸に位置する商港グイリンである。
木箱から、声がする。
「はい、よろしくお願いします」
「積み込みが完了すれば、貨物室に出られます。少しの辛抱ですよ」
そう言って励ますのは、傘を目深にかぶり、王国の女商人に化けた姿のアオバであった。
彼女は銀や錫、あるいは雑鉱石を詰め込んだ貨物群のあいだを抜け、別の木箱の前で立ち止まった。怪しまれぬよう、少し俯き、ほんのわずかに唇を動かして、
「ミコト様、それでは起ちますよ。お覚悟はよろしいですね」
「えぇ、役目を果たせばいずれまた戻ります。腐った王国に長居するつもりはない」
アオバはさらに歩き、積み荷置き場から往来の激しい通りへと出た。そこではまだ若いが凛とした気品を漂わせる貴婦人が、彼女を待っていた。
「色々とお世話になりました。心より、感謝申し上げます」
「アオバ殿。これからどうなるか分かりませんが、どうかご健在で」
「えぇ、いずれまたお会いできることを心待ちに」
貨物船が出港してしまえば、少しは気分が楽になる。今回は近衛兵団肝煎りの船荷であるというので、港の検査官も確認をしなかったし、船員にも貨物について詮索しないようにとの近衛兵団のお墨付きがある。王国のグイリン港に着いたら、向こうの役人というのは腐敗した小悪党ばかりだから、金さえ渡せば入国は造作もない。
貨物室でサミュエルとミコトの木箱を開け、三人は小声で談合した。サミュエルはここしばらく、人の目に触れないような生活を続けてきたために、さすがに疲労の色が濃い。それに生まれ育った教国を離れるためか、どことなく心細く、さびしそうである。同盟領への出兵の際は、クイーンやエミリア、多くの同胞たちと一緒であった。その意味では、同じ術者の血を持つとはいえ、同行するのはミコトとアオバの二人だけ。不安のないはずもない。それに、向かうのは王国、つまりサミュエルを闇の術によって操り、危うく彼を女王殺しに仕立てようとしたスミンの支配する国なのである。教国に留まるのとは別の意味で大きな危険がある。
「すでに私たちはシェーヌを出てグイリンに向かっておりますが、今一度、状況を整理しておきたいと思います」
貨物室のなかは日光がわずかしか入らず、やや息苦しい。それでも、金属としてはほぼ無臭の銀や錫がほとんどの船荷であるために、いくらか救いがある。ミコトたちが教国へ逃れてくるときにまぎれ込んだ荷物はごま油やじゃがいもであったから、ミコトは頭痛がひどかったし、ミスズは毎日のように吐いていたものである。このあたりも、近衛兵団の心配りであったのかもしれない。
「私たちはこれから、私の故郷でもありますアマギの里へと向かいます。アマギはグイリンから徒歩で20日間ほど、途中は道の悪いところを通りますし、念のために官憲の目も避けねばなりませんので、それ以上はかかるでしょう。私の父ミナヅキが治めており、高地に築かれたいわゆる忍びの里です」
「忍び?」
「王国の事情に不案内なサミュエルさんはご存じないでしょうが、忍びとは、主に王国の東部を出身とする傭兵集団のことでございます。ただ、その働きとしてはイシャーン王の使うアサシンにも似ており、単なる槍働きもありますが、諜報や工作活動を主任務とし、さらには暗殺に従事することもあります。忍びには大小いくつもの流派があり、その流派ごとに里を持っております。アマギの里はそのなかでも大きい方で、現在は600を超える人口を持っています」
「その全員が、忍びなのでしょうか」
「男は無論、女もその多くが幼少より忍びとしての訓練を受けます。成年に達したあとは、出稼ぎに出る者、里を守る者、足を洗って堅気の仕事に就く者、女ならばほかの土地へ嫁に行く者、そして抜け忍といって、里の掟を破り逃げ出す者、さまざまです。また忍びは、忍者とも呼ばれています」
「詳しく教えていただき、ありがとうございます。そしてアオバさんのご一門は、術者の子孫なのですね」
「えぇ、ミコト様やミスズ様の血筋であるヤノ家から分家した傍流で、術は受け継いでおりませんが」
「つまりここにいるのは、全員が術者の末裔ということになりますね」
なるほど、サミュエルの言う通り、この場にいるのはいずれも術者の血を引いている。違うのは、サミュエルは火の術者ムングの、ミコトとアオバは風の術者アルトゥの子孫ということ。またサミュエルは導きを受けているために彼自身が術者であるが、ミコトとアオバは術者の末裔としての血統と多少の知識を引き継いでいるに過ぎない。
ミコトは最前から、黙ってサミュエルとアオバのやりとりを見ている。彼女としては、サミュエルの身柄を彼女が引き取り、アオバの話に乗ってアマギの里へ向かうこととしたわけだが、その選択が正しかったかどうか、まだ分からない。
ただ、彼女の目の前にいる青年は、実に素朴で穏和な性格で、つい先日、恐るべき術によって王宮に恐怖と災厄をもたらした術者と同一人物とも思えない。その彼を守り、新たな道を見つける手助けができるのが彼女しかいないのならば、それも自らのさだめであろうと考えて、この役目を引き受けたのであった。
ミコトは、暗く狭くかび臭い貨物室から翼が生えたように意識を飛び立たせて、王宮レユニオンパレスの一室へと向けた。その部屋はクイーンの私室で、これまでに立ち入った客人は一人もいないという。まもなく就寝しようという時分に、彼女は自室にダフネ近衛兵の訪問を受け、その部屋へと内密に導かれたのであった。
あの夜、クイーンとエミリア、そして彼女だけの三人で語り合ったことを、ミコトは永遠に忘れることはないであろう。
多くの場合、人生の分岐点というものはその当時においては分からないものである。人はただ、流れのなかで夢中になって選択し決断するだけであるからだ。だが、彼女はその対話のなかで、これが自分の人生や、あるいはほかの多くの人々、そしてもしかすると歴史に対してさえ、決定的な影響を与えうる決断になるであろうことを自覚していた。
(いったいこれから、どうなるのか)
ミコトは再び意識を我が視界に引き戻し、サミュエルとアオバの横顔を交互に見つつただぼんやりと、想像さえもつかない未来の影を脳裏に追った。
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