ミネルヴァ大陸戦記

一条 千種

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第10章 不毛の地

第10章-⑤ 女王と暗殺者

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 シュリアは無事にナジュラーンの宿へと投宿した。1月24日である。 
 この時代の流れとして、中央集権的体制、すなわち国家による国民の管理という近代国家の特徴が徐々に各国でその兆候を強めつつあるが、その統制はなお徹底できておらず、例えば貿易などの大衆レベルでの経済的交流は戦争中であっても完全に途切れることはない。貿易の停止による経済的攻撃を行うこともあるが、多くの指導者はその選択肢を選ばない。圧倒的大国が小国に対してするならまだしも、この時期のミネルヴァ大陸のように力の拮抗きっこうした国同士が均衡を保っているなかでそれをやっても、敵国と同様、自国にも同程度の不利益があるからである。特に、相手国に及ぼす効果に比して、自国の民衆の不満が大きくなりすぎる。不審な荷がないか、各関所などで確認は入るが、それ以上の手荒な真似はされない。 
 まして、シュリアの組んだ隊商は、旧ブリストル公国領の大商人ボールドウィン家の配下とその手下、ということになっている。旧ブリストル公国は同盟に対して友好的であったし、当然、貿易も盛んであったから、疑われることはない。 
 すらすらと、ラドワーン王の根拠地ナジュラーンへと入ることができた。 
「砂の都」とあだ名されるこの都は、名前の通り同盟領南部から西部にかけて広がるキサンガニ砂漠の最西端にあって、タルトゥース川の河口部に位置する。この都市はその通り名のわりには巨大な港町でもあって、ロンバルディア教国のシェーヌ港、オユトルゴイ王国のグイリン港とのあいだに三角貿易を結んでいる。同盟領内で産出される米、砂糖、香辛料、綿花、宝石、銅、翡翠ひすい、象牙、毛皮などをこの港で船に積み込み、両国へ届けるとともに、両国からの荷をこの港でさばくのである。その活発な貿易からもたらされる富の蓄積と循環たるや莫大なもので、ラドワーン王の貧弱な領土を充分に補うほどの財源となっている。 
 さて、教国軍はナジュラーン宮殿に入って以降、風土に慣れるためと、負傷兵の回復のため、この地にしばらく留まることとなった。領内西方で帝国軍の動向を監視するラフィークからは、敵軍は進撃を停止し、性急にナジュラーンまでは攻め寄せないということで、反攻の態勢を整えてから出撃することになっている。 
 そのため、市街には教国軍の兵が出歩いている。風紀は乱れず、市民とも平和的に共存している様子がうかがえた。 
 このような状況で、シュリアとしてはラドワーン王とロンバルディア女王を同時に亡き者にしたい。一方の暗殺に成功したとしても、もう一方の王が暗殺の対象となることを恐れて警戒を強めてしまえば、機会を得るのは難しい。だから、二人が同じ場所に同席している状況で狙うのが、最も都合がよい。 
 しかし、そのような好都合な状況は、宮殿外ではまずない。となると、彼が宮殿に入り込むしかないであろう。何らかの手段で宮殿に潜り込み、二人の王がともにあるとき、彼が躍り込んで急所を刺して殺す。十中八九は彼もその場で死ぬであろう。だが十のうちの一つは生き残るかもしれん、と彼はどこかで思っている。彼はそれほど、自らの暗殺剣に自信を持っていた。これまで、絶対に不可能とまで言われた任務をやり遂げたことが幾度もある。 
 一計を案じた。 
 彼はまず宮殿の出口近くにある適当な家を訪ねて、手下とともに家人を密かに皆殺しにした。そしてこの家で自分を待ち、五日が過ぎても戻らなければ暗殺は失敗したと、そうイシャーン王に復命するように手下どもに命じた。 
 一人の方が、身軽でいい。 
 夜、彼は月が隠れる刻限に、二本のククリを突き立て突き立てしながら石壁をよじ登って、宮殿内へと潜入した。ククリとは同盟領の一部地域で見られる両刃の短剣で、ブーメランのように大きく湾曲した刀身に特徴がある。シュリアが最も得意とする得物えものである。 
 目くらましの黒衣をさらさらと脱ぎ、粗末な麻の衣服一枚になると、どこからどう見ても奴隷の召使いである。 
 階級社会の厳格な同盟では、奴隷に人格や名前や顔はない。イシャーン王に顔や名前を覚えてもらっているシュリアはまったくの例外と言うべきで、宏壮な宮殿に見知らぬ奴隷が一人紛れ込んでも、誰も気づかない。 
 不用心なものだ。 
 不用心、といえばロンバルディア教国の女王もそうで、シュリアが内情を探ったところ、彼女は常に五人前後の護衛しか伴っておらず、宮殿の外へ巡察に出向く際でも、大仰な警護を断っているという。理由としては、大勢の護衛を連れて歩くことが客人の身でありながら威圧的と映ることに配慮しているというのと、単純に人が多いと気軽に動きづらい、ということらしかった。もっとも、少数ではあるがその護衛らはいずれも相当な手練てだれであるらしい。ロンバルディア女王の警護は、女王の神聖性を保つためすべて女性で構成されているというのは有名な話だが、いずれも屈強な男どもに引けを取らぬ身のこなしと厳しい目つきと張りつめた緊張感とを持っている。 
 数日、女王の動向を見守った。夜は真っ暗な庭園の片隅で侵入に使った黒衣をまとって眠り、夜明けとともにごそごそと這い出て、さらに探る。いずれ、ラドワーン王と会食なり会談なりがあるであろう。護衛が油断を見せた隙に風とともに襲撃し、首の動脈を切ってすかさず風の吹き過ぎるように逃げればよい。 
 が、シュリアは一流の暗殺者らしくなく、迂闊なことをした。宮殿内の掃除を装っている際、はしなくも標的の女王に近づきすぎた。中庭に面した白亜の廊下で、正面から顔を女王の一団にさらすという失態を犯してしまったのだ。この仕事では、一度顔を覚えられてしまったら、成功が途端に難しくなる。 
 幸い、この国では不可触民は貴人の目を見てはならぬということになっている。もしその法を犯した場合、その貴人の気分によっては殺されても文句は言えない。不可触民は人間ではないのだから、犬ころのように殺され捨てられるなどは珍しいことでもないのである。シュリアは廊下の端に寄り、じっとつむじを女王一行に見せてやり過ごそうとした。 
 しかし思わぬ気配とともに、視界の上方から黒い長靴ちょうかが近づいてくる。 
「こんにちは、よくお見かけしますね」 
 えっ、と声が出るのをかろうじて吞み込んだが、思わず顔を上げるのを止めることができなかった。 
 女王と、目が合った。 
 無論、我に返ってすぐに目を伏せたが、彼はこの時点で、この任務は失敗するのではないかと感じた。全身の毛穴から冷や汗が噴き出している。 
 側近の一人が、女王の言葉を聞き捨てならぬと思ったのか、 
「クイーン、どういうことですか」 
 と尋ねた。その側近は、衣服の左の袖がだらりと垂れ下がっていた。 
「この方、近頃よく見かけるのです。毎日、一日に何度も。今日は、花壇の近くと、柘榴ざくろ、それから広間の大階段でも」 
「そこの召使い、顔を上げよ」 
 側近が命じるとともに、ほかの護衛が無言でシュリアを取り囲むように広がった。この側近、片腕ながら手をベルトのバックルにかけ、瞬時に剣を抜けるよう備えている。ちょうど女王の前に立ちはだかるように位置をとっている上に、満身からすさまじい殺気を発していて、ほかの者も腰の帯剣を引き寄せており、この状況ではシュリアの背中に羽が生えても逃げられはしまい。 
「早く顔を上げて、両手を広げよ。不審があるので、お前を調べる」 
 彼は、窮地に陥った。 
 だが意外なことに、女王が彼をかばった。 
「エミリア、失礼ですよ。困ってるじゃない」 
「執拗にクイーンのお姿を盗み見ていたとすれば、間諜か刺客の恐れがあります。調べた上で、宮殿の警備責任者であるスレイマーン殿に引き渡します」 
「そこまでしなくても。物珍しくて、つい見たくなっただけかもしれません」 
「顔を上げんかッ!」 
 一喝された瞬間、シュリアは意を決し、内膝の隠しポケットから小刀をつかみ、手首を旋回させた。隻腕せきわんの側近は抜刀した剣の刀身でナイフをはじき返し、さらにシュリアを一刀両断にしようと一歩を踏み出した。 
 が、シュリアの首はそこにはない。彼女の剣は、自分の身長ほども飛び上がったシュリアの足首をわずかにかすめただけであった。 
 シュリアはまるで猿か何かのような軽快な身ごなしで、廊下の軒先に手をかけ、跳躍し、そのまま屋根を伝って逃げ去った。 
(俺は、しくじった) 
 人気ひとけのない倉庫に身を隠し、右足を確かめると、くるぶしのあたりを幅3cmほどにわたって斬られている。幸い、傷はごく浅いが、任務中に負傷するのは初めてのことである。 
 こうなっては、彼はその人相とともに、宮殿内で手配されていることであろう。今までのようには思い思いに動くことはできないし、二人の王を同時に殺すというのは限りなく難しくなった。ただ、あきらめるにはまだ早いことも確かである。 
 打開策を考えようとして、どういうわけか彼の脳裏に浮かんだのは、暗殺の標的であるはずのロンバルディア女王の容貌であった。「アポロンの蒼いバラ」というラドワーン王の賛辞は飛ぶようにナジュラーン市内に広まっていて、誰もがその高貴な美しさを想像せずにはいられない。 
 だが、シュリアの印象は少し違った。典雅で優美な深窓の住人といったような、女王然たる印象はない。もっと気さくで、おおらかで、人懐っこいような人柄が、彼の見たその人のかんばせと表情からは垣間見えたのであった。 
 見間違いでなければ、女王は彼に笑顔を向けていた。奴隷階級の召使いに対して、よく見かけるからという理由で声をかけ、微笑みかけるというのは、どういうことであろうか。 
 シュリアはぼんやりと、女王のその相貌とまなざしとを反芻はんすうした。 
 殺意が、鈍っている。 
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