38 / 230
第4章 新しき時代
第4章-⑤ 尽きせぬ歓呼
しおりを挟む
この時代のロンバルディア教国人口は、700万人とも、あるいは800万人ほどであったとも言われる。統計としては国都アルジャントゥイユの人口が80万人程度だったとされ、数字としてはこちらの方がより信憑性が高い。
ただこの日は、一時的にその数が140万人を超えたのではないかと考えられている。ロンバルディア教国に住む者のうち、2割ほどが国都に集まったことになる。この当時、大陸で最も人口の多い都市はオユトルゴイ王国の首都トゥムルであったが、それでも100万人前後であったから、いかに人が殺到したかが分かる。
無論、エスメラルダ女王の即位セレモニーがレユニオンパレス及び国都アルジャントゥイユで開催されるからである。これだけの人々が集まったのは、突き詰めれば新女王のセレモニーでの姿を見たいという動機からであった。
天を衝くような人気と言っていい。
セレモニーは、より形式的な戴冠式とは性質を異にしていて、文武の主立つ者を従えた上で新女王の姿を披露し、馬車で国都のあちこちを練り歩くという盛大な式典である。もっとも市民の感情としては、式典よりは祭りに近い。
国都のホテルは値段が普段の10倍にまで跳ね上がり、また早朝から大通りには人があふれ、家の屋根に陣取って新女王の姿を望見しようとする者も続出した。道のあちこちに屋台が構えられ、持ち込まれたピザやブルスケッタが飛ぶように売れた。
この空前の好景気にごった返す街を、宮殿廊下の窓から興味深そうに眺めている少女がいる。いや、少女と形容するにはその容貌やアッシュブロンドの髪はいささか大人びているが、まだ15歳であることを考えれば、そう呼んでも差支えはあるまい。特に好奇心が強く、目を丸くして外の様子を眺める表情には、あどけなさが残っている。
「外はすごい人です。こんなににぎやかな街並みは初めて見ました」
少女はルース・エルナンデスという名前で、近衛兵団で最も若い将校である。十人長や百人長のように部下を率いているわけではないが、クイーンの旗本の一人として名を連ねている。平時では交代でクイーンの護衛任務に従事し、戦時は近衛兵団の旗本として本営の守備にあたる。一兵卒ではあるものの、旗本としてクイーンの最も近くに仕えているという意味では羨望の的になる地位である。近衛兵団の旗本は時期により人数が変わるが、少ない頃で60人、多いと200人を超えることもあった。
ルースは何度か登場している。彼女はエミリアが左腕を失う重傷を負ってファエンツァで療養していた際、付き添いとして残された。そのため大規模叛乱の鎮圧作戦で功を立てる機会を逸したが、以来、エミリアの個人的な信頼を得ている。
盲人の術者サミュエルに介助者を選ぶ段になって、エミリアが推薦したのが彼女であった。素直で、よく気がつき、芯が強く、一方で少女らしい可憐さもあり、何より任務に対して忠実なことはこの上ない。
そのような性分からして、姉を失い悲嘆に沈む盲人のそばにいるには適役であろうと判断されたのである。
ルースはエミリアを経由したクイーンの特別命令を拝受して、懸命に務めを果たそうと思った。術者である、とはまさか聞かされない。それはクイーンとエミリア、近衛兵団の最高幹部しか知らない国家機密だからだ。
クイーンの大切な客人である、身内に不幸があってしばらく王宮で保護するから、気の晴れるよう話し相手になるとともに、警護の任務も兼ねるように。
大切な客人と聞いて、ルースは生一本といった感じでぴたりとそばを離れず仕えた。彼女には何事にも生真面目すぎるほど真摯で懸命なところがあったし、また上級近衛兵は外国使節や国賓のエスコートも務めるから、社交的で儀礼にも通じていなければならない。士官候補生を経たルースには当然、心得がある。
サミュエルは盲人で目が見えないから、せめて街の殷賑ぶりを言葉で伝えようと思ったらしく、先ほどから細かく実況している。サミュエルは相変わらず気が晴れなかったが、ルースのことは煩わしく思ってはいない。彼自身、姉との生活が長く続き常に弟の立場でいたから、にわかに妹ができたような気分も持った。姉の制限があったから半ば世捨て人ではあったが、もともと人と関わるのが好きなのである。
「サミュエルさんは、国都は初めてでいらっしゃいますか?」
「はい、初めてです」
「今日はクイーンの即位セレモニーなので、人が屋根に上ってまで見物しています。見渡す限りの市民が、クイーンのお姿を見に来ているのですよ」
「どれくらいの人でしょう」
「分かりません。とにかくすごい人出で、私はこんなにたくさんの人を初めて見ました」
ひどく貧困な語彙と表現力であったが、サミュエルは呆れることもなく、じっと国都の雰囲気や、物音や人の声が織りなす雑踏と賑わいを想像した。
外に出てみたい、と思った。今は姉を失った悲しみと痛みが生々しいが、生来のばねのある精神と豊かな感情とが、クイーンやルースとの接触を通して回復の兆しを見せているのかもしれない。
しばし、国都の活気に満ちた様子を想像していたが、やがてすべての準備が整ったとの知らせがあって、二人は広間へと向かった。
クイーンが、文武と近衛の幹部を連れ、セレモニーに備えている。彼女はサミュエルの姿を見つけるなり、にっこりと微笑んで、わざわざ足を運んだ。
サミュエルは人の多さに落ち着かない気持ちだったが、耳から伝わる人の流れから、空気の中心が自らに近づいてくることを知った。
「サミュエルさん、お越しくださったのですね。少しお元気になられましたか?」
「はい、ありがとうございます」
「昨日はラザニアを召し上がりに?」
「はい、おいしかったです」
「よかった、安心しました」
喜色満面でさらに会話を続けようとしたクイーンだったが、ヴァネッサに招かれて宮殿正面のバルコニーへと向かった。後に続くマルケス議長、アンナ近衛兵団長がそれぞれ微妙な彩りを帯びた視線を彼へと送った。
前者は得体の知れぬ盲人が場違いにも王宮に紛れ込みクイーンと親しげに言葉を交わしていることの不審、後者はさらに複雑であった。アンナは兄から、この盲人の正体のいかに恐るべきかを知らされている。クイーンやエミリア、ヴァネッサらとは異なる色彩で、サミュエルの姿が見えるのは当然であろう。
サミュエルは、そうした人々の視線には気づかない。
やがてクイーンがマルケス議長、フェレイラ副議長、ロマン神官長、アンナ近衛兵団長、ヴァネッサ近衛兵団副団長、そしてエミリアを連れてバルコニーに姿を現すと、市民の歓声は熱狂の度を一気に増した。
オフホワイトのロングドレスに、上は戴冠式と同じ臙脂に金の刺繍を入れたローブを肩に羽織り、短めの髪には銀のティアラを載せ、豪奢な権杖を手にした姿は、地上において最も華麗で光輝にあふれた存在であった。
しかしクイーンは女王に即位しても少しも偉ぶることなく、相変わらず気さくで屈託のない人柄そのままであった。レユニオンパレスは国都アルジャントゥイユを南に臨む高台に築造された宮殿で、バルコニーはその3階に位置しているため、|豁然(かつぜん》として市街を眺望できる。彼女はそのバルコニーから身を乗り出すようにして、市民たちに飽くことなく手を振った。晴天に恵まれた国都は、王宮に面した北の一角だけ、吸い寄せられたように人が密集して、街路も屋根も人でいっぱいである。
王宮は市街地からは弓矢の届かぬ距離とはいえ、近衛としては警戒を怠れない。アンナもヴァネッサもそしてエミリアも、目を細め眉を寄せ、油断なく市民の動きを観察していたが、ふと特別な感懐を覚えるのをどうすることもできない。彼女らはいずれもまだ若いが、かつてこれほどまでに市民に愛された女王はいなかったのではないかと思う。市街地から送られる割れんばかりの歓呼と拍手とがそう実感させる。
「さぁ陛下、そろそろ参りましょう」
枢密院副議長のフェレイラ子爵に促され、クイーンは一旦、王宮へと姿を消す。
慣例ではこのまま馬車に乗って国都市街を巡回することになるが、ファッションにこだわりの強いクイーンはここで着替えを挟むことになっていた。
専用のドレッシングルームで、アンナとヴァネッサの手により衣装を変えて再登場した姿には、マルケス議長はじめ皆が息を呑んだ。
クイーンが着用したドレスはこの時代では極めて異風と言えるもので、色はディープブルーのシルク生地、上半身はノースリーブで腕が大きく露出し、下半身はティアードと呼ばれるフリルを重ねた特異なデザインになっている。肩から下へ続く細く華奢なラインが、腰を境に不規則なフリルの連続とともに緩やかに広がってゆく様は、優雅でしなやかな女性美に満ちている。
しかし一同が瞠目したのは、その美しさよりもその奇抜さであった。貴人の肌をむやみに見せるような意匠は、当代の宮廷の正装にはない。また女性本来の体型を主張するような被服も一般的ではなく、コルセットを用いることで体の線を保っていた。またラフと呼ばれる襞状の襟が流行ったり、宝石や鳥の羽根、花飾りなどの装身具で全身をきらびやかに装飾することが上流階級における美と認知されていたが、その意味でクイーンの装いはシンプルすぎる。権丈やティアラは預けてしまい、ドレス以外はコルセットもラフもアクセサリーも一切身につけていない。宮廷人の常識として、民衆の前に立つにはあまりにも略装なのである。
マルケス議長がいたたまれぬ様子でいそいそとエミリアに駆け寄った。
「マルティーニ兵団長、陛下のお姿はどうしたことか。あれで市中を回られるつもりか」
「マルケス議長、ご冷静に。クイーンはお美しくあられます」
「それは否定せぬが、しかしあまりに略式な出で立ちである。王家の伝統と格式が疑われ、鼎の軽重を問われるであろう」
「そうはならないでしょう。何故なら、クイーンご自身が、この国の伝統と格式を変え、新しい品位を定義づけるからです」
エミリアの批評とも予言とも言えるようなその言葉は、遠からず現実となる。クイーンは特にこの日を境に、教国のいわばファッションリーダーとしても君臨することになり、アルジャントゥイユ市街を中心にクイーンの好きな青系統の服が爆発的に流行し、またこれまで宮廷衣装の主流であったベルラインやプリンセスラインといった腰から裾にかけて大きく広がるドレスから、いわゆるAラインのドレスが急速に浸透することとなった。宮廷はもとより平民のあいだでも広まり、長期的には服飾文化の近しいレガリア帝国やオクシアナ合衆国でも定着するようになった。
根幹にあるのは、何よりもそのシンプルさであった。アクセサリーのような装飾品や、コルセットのような補正具を「余計なもの」ととらえ、女性のより本来的な美を追求したファッションセンスは画期的と言うべきであったろう。後世の批評家は、クイーン・エスメラルダを不世出の政治家・将軍として評するが、実はファッションリーダーとしても世界に冠たる人物であったと評価する向きも多い。
結局、正面切って止める者もなく、クイーンはエミリアや近衛兵とともに馬車に乗って市街へと出た。
「クイーンは市街へ出られました。恐らく夕方まではお帰りにならないでしょう。よろしければ、宮殿をご案内いたしますが」
クイーンが出払った王宮は文武百官が交流を深めるサロンの場と化し、居場所のないサミュエルを気遣うように、ルースが提案した。
しかし案内といっても、盲人だから歩き回ってもつまらない。
「できれば、本を読みたいです。声に出して、聞かせていただけますか」
「もちろんです。本がお好きなのですね」
「はい、好きです」
「では、東棟の書庫に参りましょう!」
ルースは、彼女自身、その正体を聞かされていないこの目の見えぬ客人が初めて自発的な言葉を口にしたのが嬉しく、ややもすれば早足になるのを抑えつつ、彼の腕を引いて書庫へと向かった。
盲人は少しずつ、彼自身もそれに気づくほどに、ルースに心を開きつつあるようであった。
ただこの日は、一時的にその数が140万人を超えたのではないかと考えられている。ロンバルディア教国に住む者のうち、2割ほどが国都に集まったことになる。この当時、大陸で最も人口の多い都市はオユトルゴイ王国の首都トゥムルであったが、それでも100万人前後であったから、いかに人が殺到したかが分かる。
無論、エスメラルダ女王の即位セレモニーがレユニオンパレス及び国都アルジャントゥイユで開催されるからである。これだけの人々が集まったのは、突き詰めれば新女王のセレモニーでの姿を見たいという動機からであった。
天を衝くような人気と言っていい。
セレモニーは、より形式的な戴冠式とは性質を異にしていて、文武の主立つ者を従えた上で新女王の姿を披露し、馬車で国都のあちこちを練り歩くという盛大な式典である。もっとも市民の感情としては、式典よりは祭りに近い。
国都のホテルは値段が普段の10倍にまで跳ね上がり、また早朝から大通りには人があふれ、家の屋根に陣取って新女王の姿を望見しようとする者も続出した。道のあちこちに屋台が構えられ、持ち込まれたピザやブルスケッタが飛ぶように売れた。
この空前の好景気にごった返す街を、宮殿廊下の窓から興味深そうに眺めている少女がいる。いや、少女と形容するにはその容貌やアッシュブロンドの髪はいささか大人びているが、まだ15歳であることを考えれば、そう呼んでも差支えはあるまい。特に好奇心が強く、目を丸くして外の様子を眺める表情には、あどけなさが残っている。
「外はすごい人です。こんなににぎやかな街並みは初めて見ました」
少女はルース・エルナンデスという名前で、近衛兵団で最も若い将校である。十人長や百人長のように部下を率いているわけではないが、クイーンの旗本の一人として名を連ねている。平時では交代でクイーンの護衛任務に従事し、戦時は近衛兵団の旗本として本営の守備にあたる。一兵卒ではあるものの、旗本としてクイーンの最も近くに仕えているという意味では羨望の的になる地位である。近衛兵団の旗本は時期により人数が変わるが、少ない頃で60人、多いと200人を超えることもあった。
ルースは何度か登場している。彼女はエミリアが左腕を失う重傷を負ってファエンツァで療養していた際、付き添いとして残された。そのため大規模叛乱の鎮圧作戦で功を立てる機会を逸したが、以来、エミリアの個人的な信頼を得ている。
盲人の術者サミュエルに介助者を選ぶ段になって、エミリアが推薦したのが彼女であった。素直で、よく気がつき、芯が強く、一方で少女らしい可憐さもあり、何より任務に対して忠実なことはこの上ない。
そのような性分からして、姉を失い悲嘆に沈む盲人のそばにいるには適役であろうと判断されたのである。
ルースはエミリアを経由したクイーンの特別命令を拝受して、懸命に務めを果たそうと思った。術者である、とはまさか聞かされない。それはクイーンとエミリア、近衛兵団の最高幹部しか知らない国家機密だからだ。
クイーンの大切な客人である、身内に不幸があってしばらく王宮で保護するから、気の晴れるよう話し相手になるとともに、警護の任務も兼ねるように。
大切な客人と聞いて、ルースは生一本といった感じでぴたりとそばを離れず仕えた。彼女には何事にも生真面目すぎるほど真摯で懸命なところがあったし、また上級近衛兵は外国使節や国賓のエスコートも務めるから、社交的で儀礼にも通じていなければならない。士官候補生を経たルースには当然、心得がある。
サミュエルは盲人で目が見えないから、せめて街の殷賑ぶりを言葉で伝えようと思ったらしく、先ほどから細かく実況している。サミュエルは相変わらず気が晴れなかったが、ルースのことは煩わしく思ってはいない。彼自身、姉との生活が長く続き常に弟の立場でいたから、にわかに妹ができたような気分も持った。姉の制限があったから半ば世捨て人ではあったが、もともと人と関わるのが好きなのである。
「サミュエルさんは、国都は初めてでいらっしゃいますか?」
「はい、初めてです」
「今日はクイーンの即位セレモニーなので、人が屋根に上ってまで見物しています。見渡す限りの市民が、クイーンのお姿を見に来ているのですよ」
「どれくらいの人でしょう」
「分かりません。とにかくすごい人出で、私はこんなにたくさんの人を初めて見ました」
ひどく貧困な語彙と表現力であったが、サミュエルは呆れることもなく、じっと国都の雰囲気や、物音や人の声が織りなす雑踏と賑わいを想像した。
外に出てみたい、と思った。今は姉を失った悲しみと痛みが生々しいが、生来のばねのある精神と豊かな感情とが、クイーンやルースとの接触を通して回復の兆しを見せているのかもしれない。
しばし、国都の活気に満ちた様子を想像していたが、やがてすべての準備が整ったとの知らせがあって、二人は広間へと向かった。
クイーンが、文武と近衛の幹部を連れ、セレモニーに備えている。彼女はサミュエルの姿を見つけるなり、にっこりと微笑んで、わざわざ足を運んだ。
サミュエルは人の多さに落ち着かない気持ちだったが、耳から伝わる人の流れから、空気の中心が自らに近づいてくることを知った。
「サミュエルさん、お越しくださったのですね。少しお元気になられましたか?」
「はい、ありがとうございます」
「昨日はラザニアを召し上がりに?」
「はい、おいしかったです」
「よかった、安心しました」
喜色満面でさらに会話を続けようとしたクイーンだったが、ヴァネッサに招かれて宮殿正面のバルコニーへと向かった。後に続くマルケス議長、アンナ近衛兵団長がそれぞれ微妙な彩りを帯びた視線を彼へと送った。
前者は得体の知れぬ盲人が場違いにも王宮に紛れ込みクイーンと親しげに言葉を交わしていることの不審、後者はさらに複雑であった。アンナは兄から、この盲人の正体のいかに恐るべきかを知らされている。クイーンやエミリア、ヴァネッサらとは異なる色彩で、サミュエルの姿が見えるのは当然であろう。
サミュエルは、そうした人々の視線には気づかない。
やがてクイーンがマルケス議長、フェレイラ副議長、ロマン神官長、アンナ近衛兵団長、ヴァネッサ近衛兵団副団長、そしてエミリアを連れてバルコニーに姿を現すと、市民の歓声は熱狂の度を一気に増した。
オフホワイトのロングドレスに、上は戴冠式と同じ臙脂に金の刺繍を入れたローブを肩に羽織り、短めの髪には銀のティアラを載せ、豪奢な権杖を手にした姿は、地上において最も華麗で光輝にあふれた存在であった。
しかしクイーンは女王に即位しても少しも偉ぶることなく、相変わらず気さくで屈託のない人柄そのままであった。レユニオンパレスは国都アルジャントゥイユを南に臨む高台に築造された宮殿で、バルコニーはその3階に位置しているため、|豁然(かつぜん》として市街を眺望できる。彼女はそのバルコニーから身を乗り出すようにして、市民たちに飽くことなく手を振った。晴天に恵まれた国都は、王宮に面した北の一角だけ、吸い寄せられたように人が密集して、街路も屋根も人でいっぱいである。
王宮は市街地からは弓矢の届かぬ距離とはいえ、近衛としては警戒を怠れない。アンナもヴァネッサもそしてエミリアも、目を細め眉を寄せ、油断なく市民の動きを観察していたが、ふと特別な感懐を覚えるのをどうすることもできない。彼女らはいずれもまだ若いが、かつてこれほどまでに市民に愛された女王はいなかったのではないかと思う。市街地から送られる割れんばかりの歓呼と拍手とがそう実感させる。
「さぁ陛下、そろそろ参りましょう」
枢密院副議長のフェレイラ子爵に促され、クイーンは一旦、王宮へと姿を消す。
慣例ではこのまま馬車に乗って国都市街を巡回することになるが、ファッションにこだわりの強いクイーンはここで着替えを挟むことになっていた。
専用のドレッシングルームで、アンナとヴァネッサの手により衣装を変えて再登場した姿には、マルケス議長はじめ皆が息を呑んだ。
クイーンが着用したドレスはこの時代では極めて異風と言えるもので、色はディープブルーのシルク生地、上半身はノースリーブで腕が大きく露出し、下半身はティアードと呼ばれるフリルを重ねた特異なデザインになっている。肩から下へ続く細く華奢なラインが、腰を境に不規則なフリルの連続とともに緩やかに広がってゆく様は、優雅でしなやかな女性美に満ちている。
しかし一同が瞠目したのは、その美しさよりもその奇抜さであった。貴人の肌をむやみに見せるような意匠は、当代の宮廷の正装にはない。また女性本来の体型を主張するような被服も一般的ではなく、コルセットを用いることで体の線を保っていた。またラフと呼ばれる襞状の襟が流行ったり、宝石や鳥の羽根、花飾りなどの装身具で全身をきらびやかに装飾することが上流階級における美と認知されていたが、その意味でクイーンの装いはシンプルすぎる。権丈やティアラは預けてしまい、ドレス以外はコルセットもラフもアクセサリーも一切身につけていない。宮廷人の常識として、民衆の前に立つにはあまりにも略装なのである。
マルケス議長がいたたまれぬ様子でいそいそとエミリアに駆け寄った。
「マルティーニ兵団長、陛下のお姿はどうしたことか。あれで市中を回られるつもりか」
「マルケス議長、ご冷静に。クイーンはお美しくあられます」
「それは否定せぬが、しかしあまりに略式な出で立ちである。王家の伝統と格式が疑われ、鼎の軽重を問われるであろう」
「そうはならないでしょう。何故なら、クイーンご自身が、この国の伝統と格式を変え、新しい品位を定義づけるからです」
エミリアの批評とも予言とも言えるようなその言葉は、遠からず現実となる。クイーンは特にこの日を境に、教国のいわばファッションリーダーとしても君臨することになり、アルジャントゥイユ市街を中心にクイーンの好きな青系統の服が爆発的に流行し、またこれまで宮廷衣装の主流であったベルラインやプリンセスラインといった腰から裾にかけて大きく広がるドレスから、いわゆるAラインのドレスが急速に浸透することとなった。宮廷はもとより平民のあいだでも広まり、長期的には服飾文化の近しいレガリア帝国やオクシアナ合衆国でも定着するようになった。
根幹にあるのは、何よりもそのシンプルさであった。アクセサリーのような装飾品や、コルセットのような補正具を「余計なもの」ととらえ、女性のより本来的な美を追求したファッションセンスは画期的と言うべきであったろう。後世の批評家は、クイーン・エスメラルダを不世出の政治家・将軍として評するが、実はファッションリーダーとしても世界に冠たる人物であったと評価する向きも多い。
結局、正面切って止める者もなく、クイーンはエミリアや近衛兵とともに馬車に乗って市街へと出た。
「クイーンは市街へ出られました。恐らく夕方まではお帰りにならないでしょう。よろしければ、宮殿をご案内いたしますが」
クイーンが出払った王宮は文武百官が交流を深めるサロンの場と化し、居場所のないサミュエルを気遣うように、ルースが提案した。
しかし案内といっても、盲人だから歩き回ってもつまらない。
「できれば、本を読みたいです。声に出して、聞かせていただけますか」
「もちろんです。本がお好きなのですね」
「はい、好きです」
「では、東棟の書庫に参りましょう!」
ルースは、彼女自身、その正体を聞かされていないこの目の見えぬ客人が初めて自発的な言葉を口にしたのが嬉しく、ややもすれば早足になるのを抑えつつ、彼の腕を引いて書庫へと向かった。
盲人は少しずつ、彼自身もそれに気づくほどに、ルースに心を開きつつあるようであった。
0
お気に入りに追加
35
あなたにおすすめの小説
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
ReBirth 上位世界から下位世界へ
小林誉
ファンタジー
ある日帰宅途中にマンホールに落ちた男。気がつくと見知らぬ部屋に居て、世界間のシステムを名乗る声に死を告げられる。そして『あなたが落ちたのは下位世界に繋がる穴です』と説明された。この世に現れる天才奇才の一部は、今のあなたと同様に上位世界から落ちてきた者達だと。下位世界に転生できる機会を得た男に、どのような世界や環境を希望するのか質問される。男が出した答えとは――
※この小説の主人公は聖人君子ではありません。正義の味方のつもりもありません。勝つためならどんな手でも使い、売られた喧嘩は買う人物です。他人より仲間を最優先し、面倒な事が嫌いです。これはそんな、少しずるい男の物語。
1~4巻発売中です。
アリーシャ・ヴェーバー、あるいは新井若葉と、歴史の終わり
平沢ヌル
SF
29歳の疲れた歴史オタク女、新井若葉は、17歳のメイド、アリーシャ・ヴェーバーに転生したと思っていた。だがそれは、彼女の予想とは全く違う物語の幕開けだった。
もとの世界とは似ても似つかないこの世界で暗躍する、災厄と呼ばれる存在。
介入者への修正機構の不気味な影。その中に見え隠れする、元の世界の歴史の残骸。
知識はちょっと博識な雑学オタク、見た目は少し可愛い、それ以上でもそれ以下でもない主人公、アリーシャ=若葉が、この世界の真実に立ち向かうことができるのか。
運命に抗え。そして終わらせろ、無限に繰り返す時空と歴史、その歪みの連鎖を。
*********************************
従来エブリスタやカクヨムに投稿していた作品でしたが、この度満を持してアルファポリスに登場です。
異世界転生かと思いきや、歴史改変スペクタクルSFです。コアなSF要素あり、宮廷政治あり、恋愛あり。
異世界恋愛的な要素はありつつも、あくまでもジャンルはSFです。
キャラデザイン:あかねこ様
https://x.com/redakanekocat
旧版
https://estar.jp/novels/25978664
先行連載・イラスト無し版
https://kakuyomu.jp/works/16817330666308142925
並行連載版
https://estar.jp/novels/26237780
https://www.alphapolis.co.jp/novel/308494732/60887150
https://novelup.plus/story/843978475
英雄召喚〜帝国貴族の異世界統一戦記〜
駄作ハル
ファンタジー
異世界の大貴族レオ=ウィルフリードとして転生した平凡サラリーマン。
しかし、待っていたのは平和な日常などではなかった。急速な領土拡大を目論む帝国の貴族としての日々は、戦いの連続であった───
そんなレオに与えられたスキル『英雄召喚』。それは現世で英雄と呼ばれる人々を呼び出す能力。『鬼の副長』土方歳三、『臥龍』所轄孔明、『空の魔王』ハンス=ウルリッヒ・ルーデル、『革命の申し子』ナポレオン・ボナパルト、『万能人』レオナルド・ダ・ヴィンチ。
前世からの知識と英雄たちの逸話にまつわる能力を使い、大切な人を守るべく争いにまみれた異世界に平和をもたらす為の戦いが幕を開ける!
完結まで毎日投稿!
『収納』は異世界最強です 正直すまんかったと思ってる
農民ヤズ―
ファンタジー
「ようこそおいでくださいました。勇者さま」
そんな言葉から始まった異世界召喚。
呼び出された他の勇者は複数の<スキル>を持っているはずなのに俺は収納スキル一つだけ!?
そんなふざけた事になったうえ俺たちを呼び出した国はなんだか色々とヤバそう!
このままじゃ俺は殺されてしまう。そうなる前にこの国から逃げ出さないといけない。
勇者なら全員が使える収納スキルのみしか使うことのできない勇者の出来損ないと呼ばれた男が収納スキルで無双して世界を旅する物語(予定
私のメンタルは金魚掬いのポイと同じ脆さなので感想を送っていただける際は語調が強くないと嬉しく思います。
ただそれでも初心者故、度々間違えることがあるとは思いますので感想にて教えていただけるとありがたいです。
他にも今後の進展や投稿済みの箇所でこうしたほうがいいと思われた方がいらっしゃったら感想にて待ってます。
なお、書籍化に伴い内容の齟齬がありますがご了承ください。
軍艦少女は死に至る夢を見る~戦時下の大日本帝国から始まる艦船擬人化物語~
takahiro
キャラ文芸
『船魄』(せんぱく)とは、軍艦を自らの意のままに操る少女達である。船魄によって操られる艦艇、艦載機の能力は人間のそれを圧倒し、彼女達の前に人間は殲滅されるだけの存在なのだ。1944年10月に覚醒した最初の船魄、翔鶴型空母二番艦『瑞鶴』は、日本本土進攻を企てるアメリカ海軍と激闘を繰り広げ、ついに勝利を掴んだ。
しかし戦後、瑞鶴は帝国海軍を脱走し行方をくらませた。1955年、アメリカのキューバ侵攻に端を発する日米の軍事衝突の最中、瑞鶴は再び姿を現わし、帝国海軍と交戦状態に入った。瑞鶴の目的はともかくとして、船魄達を解放する戦いが始まったのである。瑞鶴が解放した重巡『妙高』『高雄』、いつの間にかいる空母『グラーフ・ツェッペリン』は『月虹』を名乗って、国家に属さない軍事力として活動を始める。だが、瑞鶴は大義やら何やらには興味がないので、利用できるものは何でも利用する。カリブ海の覇権を狙う日本・ドイツ・ソ連・アメリカの間をのらりくらりと行き交いながら、月虹は生存の道を探っていく。
登場する艦艇はなんと57隻!(2024/12/18時点)(人間のキャラは他に多数)(まだまだ増える)。人類に反旗を翻した軍艦達による、異色の艦船擬人化物語が、ここに始まる。
――――――――――
●本作のメインテーマは、あくまで(途中まで)史実の地球を舞台とし、そこに船魄(せんぱく)という異物を投入したらどうなるのか、です。いわゆる艦船擬人化ものですが、特に軍艦や歴史の知識がなくとも楽しめるようにしてあります。もちろん知識があった方が楽しめることは違いないですが。
●なお軍人がたくさん出て来ますが、船魄同士の関係に踏み込むことはありません。つまり船魄達の人間関係としては百合しかありませんので、ご安心もしくはご承知おきを。かなりGLなので、もちろんがっつり性描写はないですが、苦手な方はダメかもしれません。
●全ての船魄に挿絵ありですが、AI加筆なので雰囲気程度にお楽しみください。
●少女たちの愛憎と謀略が絡まり合う、新感覚、リアル志向の艦船擬人化小説を是非お楽しみください。またお気に入りや感想などよろしくお願いします。
毎日一話投稿します。
もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる