ミネルヴァ大陸戦記

一条 千種

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第4章 新しき時代

第4章-⑤ 尽きせぬ歓呼

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 この時代のロンバルディア教国人口は、700万人とも、あるいは800万人ほどであったとも言われる。統計としては国都アルジャントゥイユの人口が80万人程度だったとされ、数字としてはこちらの方がより信憑しんぴょう性が高い。 
 ただこの日は、一時的にその数が140万人を超えたのではないかと考えられている。ロンバルディア教国に住む者のうち、2割ほどが国都に集まったことになる。この当時、大陸で最も人口の多い都市はオユトルゴイ王国の首都トゥムルであったが、それでも100万人前後であったから、いかに人が殺到したかが分かる。 
 無論、エスメラルダ女王の即位セレモニーがレユニオンパレス及び国都アルジャントゥイユで開催されるからである。これだけの人々が集まったのは、突き詰めれば新女王のセレモニーでの姿を見たいという動機からであった。 
 天をくような人気と言っていい。 
 セレモニーは、より形式的な戴冠たいかん式とは性質を異にしていて、文武の主立つ者を従えた上で新女王の姿を披露し、馬車で国都のあちこちを練り歩くという盛大な式典である。もっとも市民の感情としては、式典よりは祭りに近い。 
 国都のホテルは値段が普段の10倍にまで跳ね上がり、また早朝から大通りには人があふれ、家の屋根に陣取って新女王の姿を望見しようとする者も続出した。道のあちこちに屋台が構えられ、持ち込まれたピザやブルスケッタが飛ぶように売れた。 
 この空前の好景気にごった返す街を、宮殿廊下の窓から興味深そうに眺めている少女がいる。いや、少女と形容するにはその容貌やアッシュブロンドの髪はいささか大人びているが、まだ15歳であることを考えれば、そう呼んでも差支えはあるまい。特に好奇心が強く、目を丸くして外の様子を眺める表情には、あどけなさが残っている。 
「外はすごい人です。こんなににぎやかな街並みは初めて見ました」 
 少女はルース・エルナンデスという名前で、近衛兵団で最も若い将校である。十人長や百人長のように部下を率いているわけではないが、クイーンの旗本の一人として名を連ねている。平時では交代でクイーンの護衛任務に従事し、戦時は近衛兵団の旗本として本営の守備にあたる。一兵卒ではあるものの、旗本としてクイーンの最も近くに仕えているという意味では羨望の的になる地位である。近衛兵団の旗本は時期により人数が変わるが、少ない頃で60人、多いと200人を超えることもあった。 
 ルースは何度か登場している。彼女はエミリアが左腕を失う重傷を負ってファエンツァで療養していた際、付き添いとして残された。そのため大規模叛乱の鎮圧作戦で功を立てる機会を逸したが、以来、エミリアの個人的な信頼を得ている。 
 盲人の術者サミュエルに介助者を選ぶ段になって、エミリアが推薦したのが彼女であった。素直で、よく気がつき、芯が強く、一方で少女らしい可憐さもあり、何より任務に対して忠実なことはこの上ない。 
 そのような性分からして、姉を失い悲嘆に沈む盲人のそばにいるには適役であろうと判断されたのである。 
 ルースはエミリアを経由したクイーンの特別命令を拝受して、懸命に務めを果たそうと思った。術者である、とはまさか聞かされない。それはクイーンとエミリア、近衛兵団の最高幹部しか知らない国家機密だからだ。 
 クイーンの大切な客人である、身内に不幸があってしばらく王宮で保護するから、気の晴れるよう話し相手になるとともに、警護の任務も兼ねるように。 
 大切な客人と聞いて、ルースは生一本きいっぽんといった感じでぴたりとそばを離れず仕えた。彼女には何事にも生真面目すぎるほど真摯で懸命なところがあったし、また上級近衛兵は外国使節や国賓こくひんのエスコートも務めるから、社交的で儀礼にも通じていなければならない。士官候補生を経たルースには当然、心得がある。 
 サミュエルは盲人で目が見えないから、せめて街の殷賑いんしんぶりを言葉で伝えようと思ったらしく、先ほどから細かく実況している。サミュエルは相変わらず気が晴れなかったが、ルースのことはわずらわしく思ってはいない。彼自身、姉との生活が長く続き常に弟の立場でいたから、にわかに妹ができたような気分も持った。姉の制限があったから半ば世捨て人ではあったが、もともと人と関わるのが好きなのである。 
「サミュエルさんは、国都は初めてでいらっしゃいますか?」 
「はい、初めてです」 
「今日はクイーンの即位セレモニーなので、人が屋根に上ってまで見物しています。見渡す限りの市民が、クイーンのお姿を見に来ているのですよ」 
「どれくらいの人でしょう」 
「分かりません。とにかくすごい人出で、私はこんなにたくさんの人を初めて見ました」 
 ひどく貧困な語彙と表現力であったが、サミュエルは呆れることもなく、じっと国都の雰囲気や、物音や人の声が織りなす雑踏と賑わいを想像した。 
 外に出てみたい、と思った。今は姉を失った悲しみと痛みが生々しいが、生来のばねのある精神と豊かな感情とが、クイーンやルースとの接触を通して回復の兆しを見せているのかもしれない。 
 しばし、国都の活気に満ちた様子を想像していたが、やがてすべての準備が整ったとの知らせがあって、二人は広間へと向かった。 
 クイーンが、文武と近衛の幹部を連れ、セレモニーに備えている。彼女はサミュエルの姿を見つけるなり、にっこりと微笑んで、わざわざ足を運んだ。 
 サミュエルは人の多さに落ち着かない気持ちだったが、耳から伝わる人の流れから、空気の中心が自らに近づいてくることを知った。 
「サミュエルさん、お越しくださったのですね。少しお元気になられましたか?」 
「はい、ありがとうございます」 
「昨日はラザニアを召し上がりに?」 
「はい、おいしかったです」 
「よかった、安心しました」 
 喜色満面でさらに会話を続けようとしたクイーンだったが、ヴァネッサに招かれて宮殿正面のバルコニーへと向かった。後に続くマルケス議長、アンナ近衛兵団長がそれぞれ微妙な彩りを帯びた視線を彼へと送った。 
 前者は得体の知れぬ盲人が場違いにも王宮に紛れ込みクイーンと親しげに言葉を交わしていることの不審、後者はさらに複雑であった。アンナは兄から、この盲人の正体のいかに恐るべきかを知らされている。クイーンやエミリア、ヴァネッサらとは異なる色彩で、サミュエルの姿が見えるのは当然であろう。 
 サミュエルは、そうした人々の視線には気づかない。 
 やがてクイーンがマルケス議長、フェレイラ副議長、ロマン神官長、アンナ近衛兵団長、ヴァネッサ近衛兵団副団長、そしてエミリアを連れてバルコニーに姿を現すと、市民の歓声は熱狂の度を一気に増した。 
 オフホワイトのロングドレスに、上は戴冠式と同じ臙脂えんじに金の刺繍を入れたローブを肩に羽織り、短めの髪には銀のティアラを載せ、豪奢な権杖けんじょうを手にした姿は、地上において最も華麗で光輝にあふれた存在であった。 
 しかしクイーンは女王に即位しても少しも偉ぶることなく、相変わらず気さくで屈託のない人柄そのままであった。レユニオンパレスは国都アルジャントゥイユを南に臨む高台に築造された宮殿で、バルコニーはその3階に位置しているため、|豁然(かつぜん》として市街を眺望ちょうぼうできる。彼女はそのバルコニーから身を乗り出すようにして、市民たちに飽くことなく手を振った。晴天に恵まれた国都は、王宮に面した北の一角だけ、吸い寄せられたように人が密集して、街路も屋根も人でいっぱいである。 
 王宮は市街地からは弓矢の届かぬ距離とはいえ、近衛としては警戒を怠れない。アンナもヴァネッサもそしてエミリアも、目を細め眉を寄せ、油断なく市民の動きを観察していたが、ふと特別な感懐を覚えるのをどうすることもできない。彼女らはいずれもまだ若いが、かつてこれほどまでに市民に愛された女王はいなかったのではないかと思う。市街地から送られる割れんばかりの歓呼と拍手とがそう実感させる。 
「さぁ陛下、そろそろ参りましょう」 
 枢密院副議長のフェレイラ子爵に促され、クイーンは一旦、王宮へと姿を消す。 
 慣例ではこのまま馬車に乗って国都市街を巡回することになるが、ファッションにこだわりの強いクイーンはここで着替えを挟むことになっていた。 
 専用のドレッシングルームで、アンナとヴァネッサの手により衣装を変えて再登場した姿には、マルケス議長はじめ皆が息を呑んだ。 
 クイーンが着用したドレスはこの時代では極めて異風と言えるもので、色はディープブルーのシルク生地、上半身はノースリーブで腕が大きく露出し、下半身はティアードと呼ばれるフリルを重ねた特異なデザインになっている。肩から下へ続く細く華奢なラインが、腰を境に不規則なフリルの連続とともに緩やかに広がってゆく様は、優雅でしなやかな女性美に満ちている。 
 しかし一同が瞠目どうもくしたのは、その美しさよりもその奇抜さであった。貴人の肌をむやみに見せるような意匠は、当代の宮廷の正装にはない。また女性本来の体型を主張するような被服も一般的ではなく、コルセットを用いることで体の線を保っていた。またラフと呼ばれるひだ状の襟が流行ったり、宝石や鳥の羽根、花飾りなどの装身具で全身をきらびやかに装飾することが上流階級における美と認知されていたが、その意味でクイーンの装いはシンプルすぎる。権丈やティアラは預けてしまい、ドレス以外はコルセットもラフもアクセサリーも一切身につけていない。宮廷人の常識として、民衆の前に立つにはあまりにも略装なのである。 
 マルケス議長がいたたまれぬ様子でいそいそとエミリアに駆け寄った。 
「マルティーニ兵団長、陛下のお姿はどうしたことか。あれで市中を回られるつもりか」 
「マルケス議長、ご冷静に。クイーンはお美しくあられます」 
「それは否定せぬが、しかしあまりに略式なで立ちである。王家の伝統と格式が疑われ、かなえ軽重けいちょうを問われるであろう」 
「そうはならないでしょう。何故なら、クイーンご自身が、この国の伝統と格式を変え、新しい品位を定義づけるからです」 
 エミリアの批評とも予言とも言えるようなその言葉は、遠からず現実となる。クイーンは特にこの日を境に、教国のいわばファッションリーダーとしても君臨することになり、アルジャントゥイユ市街を中心にクイーンの好きな青系統の服が爆発的に流行し、またこれまで宮廷衣装の主流であったベルラインやプリンセスラインといった腰から裾にかけて大きく広がるドレスから、いわゆるAラインのドレスが急速に浸透することとなった。宮廷はもとより平民のあいだでも広まり、長期的には服飾文化の近しいレガリア帝国やオクシアナ合衆国でも定着するようになった。 
 根幹にあるのは、何よりもそのシンプルさであった。アクセサリーのような装飾品や、コルセットのような補正具を「余計なもの」ととらえ、女性のより本来的な美を追求したファッションセンスは画期的と言うべきであったろう。後世の批評家は、クイーン・エスメラルダを不世出の政治家・将軍として評するが、実はファッションリーダーとしても世界に冠たる人物であったと評価する向きも多い。 
 結局、正面切って止める者もなく、クイーンはエミリアや近衛兵とともに馬車に乗って市街へと出た。 
「クイーンは市街へ出られました。恐らく夕方まではお帰りにならないでしょう。よろしければ、宮殿をご案内いたしますが」 
 クイーンが出払った王宮は文武百官が交流を深めるサロンの場と化し、居場所のないサミュエルを気遣うように、ルースが提案した。 
 しかし案内といっても、盲人だから歩き回ってもつまらない。 
「できれば、本を読みたいです。声に出して、聞かせていただけますか」 
「もちろんです。本がお好きなのですね」 
「はい、好きです」 
「では、東棟の書庫に参りましょう!」 
 ルースは、彼女自身、その正体を聞かされていないこの目の見えぬ客人が初めて自発的な言葉を口にしたのが嬉しく、ややもすれば早足になるのを抑えつつ、彼の腕を引いて書庫へと向かった。 
 盲人は少しずつ、彼自身もそれに気づくほどに、ルースに心を開きつつあるようであった。 
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