ミネルヴァ大陸戦記

一条 千種

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第2章 教国内戦始末記

第2章-③ 戦わずして勝つ

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 ボルドー街道の戦場からトルドー侯爵夫妻の根拠地までは、大人の足では3日ほどである。武装集団でも急行すればこれを2日に縮めることができるが、第三師団のデュラン将軍は、プリンセスの指示によりあえて通常速度で進軍した。 
 性急に攻め寄せると、トルドー侯爵夫人はかえって恐慌のあまり徹底抗戦を叫ぶかもしれない。兵士たちも窮鼠と化して抵抗する恐れがある。むしろ歩武をゆるめ、堂々と、かつ整然と進撃すれば、彼らの心理を急進的にさせることはなかろうとの判断である。 
「戦って勝つよりも、戦わずして勝つを目指す」 
 のが、プリンセスの方針であった。 
 デュラン将軍は、プリンセスに対しても、任務に対しても忠実な男である。 
 彼自身も、できることなら戦いたくない。戦う相手である以上、敵には違いないが、もとを正せば同じ教国人である。いたずらに同胞を傷つけることはしたくない。 
 最善は、トルドー侯爵が夫人を説得し、無血開城を申し出てくることであった。 
 しかし事態は、彼らの期待したものとは違った展開を見せることとなった。 
 居城に舞い戻ったトルドー侯爵は、従軍して彼よりも先に逃げ延びていた息子のフィリップ、そして夫人のマルチーヌと再会した。夫人は無論、敗残兵から経過を聞いている。 
「降伏しよう」 
 と、侯爵は力なく言った。フィリップも同調した。フィリップは戦場から逃亡する際、乗馬が矢を受け落馬したために、あちこちに打撲を負い鼻の骨も折るなどの傷を負っていたので、ひどく弱気になっていた。侯爵もその息子も、貴族として生きてきて、戦場に一敗地いっぱいちまみれる経験は初めてである。決して英明とは言いがたい連中ではあったが、到底、征討軍に抗しえないことを敗北の経験から悟ったのであろう。 
「慮外なことを」 
 夫人は言下に拒絶した。 
 彼女は自軍がほとんど壊滅したのにも関わらず、征討軍はほぼ無傷であるということを信じられない。彼我ひがの戦力差や士気の違いについても無知だから、このに及んで勝機があると未だに考えていた。 
 まず、戦場では確かに敗れたが、カロリーナ王女の軍や頼みの綱である第二師団は健在である。それに自軍とてその兵が全滅したわけではなく、おっつけ敗残兵も戻ってくる。聞けば、征討軍は戦勝ののち掃討作戦を行わず、戦場における死傷者は少ないであろうというではないか。残兵を収容すれば2,000人程度は残るのではないか。それだけの兵力があれば、征討軍を引きつけている間に、味方が国都を奪取し、征討軍を殲滅せんめつすることも、これは不可能ではない。 
 また、王女の降伏の勧めも、夫人は感情的に受け入れがたかった。言うに事欠いて、生活に困らぬだけの財産は保証するから、武装を放棄せよ、階級も市民に落とすとは何事か。 
 トルドー侯爵夫人マルチーヌも、カロリーナ王女と同様、プリンセスを嫌い、憎悪していた。彼女の権力を確立するためには、有能で人望の高いプリンセスは邪魔なことこの上ないのである。 
 侯爵は手を尽くしてなだめたが、夫人は聞き分けなかった。この夫妻、夫人が元王族であるだけに、夫の発言力がやや弱い。 
 やがて第三師団が城から肉眼で視認できるまでに寄せてきた。 
 しかし、夫人が楽観視したほどには、敗残兵は戻らなかった。末端の兵にも、この内戦の行く末が見えたのであろう。翌朝には、城内から兵の姿がごっそり消えていた。脱走したのである。憎いことに、第三師団は城下の目と鼻の先にまで迫っていながら、城を包囲しようとはしない。兵が脱走し、城が内部から自壊するのを待っているのである。まるで、降伏する以外に道はないと無言で示しているかのように。数えてみると、城内には300人も兵は残っていなかった。士気もいたってふるわず、城のあちこちで腰を抜かしたように座り込んでいて、とても武器をとって戦える勇壮さはない。次の朝にはさらに数を減らしていることであろう。 
 この状態では、城がもともとはトルドー侯爵の邸宅としての機能が優先され、決して難攻不落の要害とは言えないだけに、第三師団が総攻撃を開始すれば、あっという間に揉み潰されてしまう。 
 侯爵夫人もようやく観念し、降伏の意志と、城明け渡し及び私兵の解散の準備のため一日の猶予ゆうよを第三師団デュラン将軍宛に求めた。 
 城内の調度品が整理され、続々と兵が退去するなかで、夫人は夫と一人息子のフィリップと、貴族としての最後の会食を開いた。葬式のような雰囲気だった、と侯爵家に仕えたメイドはのちに述懐している。 
 そして三人が揃ってスープに手をつけてしばらく、たちまち彼らはもがき苦しんで、テーブルの下へと崩れ落ちた。死んでいる。 
 仔細に検証して、夫人による服毒心中であるとされた。 
 デュラン将軍は侯爵家の執事から事情を聞くと直ちに城内へ進駐し、同時にプリンセスへも急報した。 
 プリンセスは陣中でこの愚かで哀れな叛逆者どもの末路を聞き、彼らのため落涙した。 
 だが、喪に服して故人の回想にひたる時間は彼らにはない。プリンセスの用兵に優れた点があるとすれば、まずは機動力であった。これは、例えば2倍の速度で移動できる軍は、2倍の兵力を有しているのに等しい、という思想からきている。このために、彼女は迅速な用兵に追いつけない足弱の兵を見捨てた。足の遅い者に行軍を合わせると、進撃は鈍重になり、敵に対して先手を打てない。素早く移動できるほどに、彼らは勝利に近づく。この神速の用兵術が、すなわちこの内戦において征討軍を常に有利な状況下で戦わせることとなった。 
 本来、叛乱軍は三方向から国都の征討軍を包囲していたのである。しかし、プリンセスはまず偽報で第二師団をその根拠地であるカスティーリャ要塞に封じ込め、そのあいだに強行軍をもってトルドー侯爵軍を各個撃破の対象とした。そして、旗頭のカロリーナ王女を捕える。叛乱の大義名分を失った第二師団は、数だけは国内最大の武力集団だが、統制を失って衰弱し自滅するであろう。 
 作戦は、その最も重要な分岐点に到達している。 
 征討軍はボルドー街道での戦いのあと、即座にバルレッタ地方へと転進した。カロリーナ王女とその軍は、まったく用意された脚本の筋書き通りに踊っているかのようなあどけなさで戦場へと向かっており、その行動線を読み切った征討軍と、正面から会敵した。 
 カロリーナ王女も、居ても立っても居られなかったのであろう、馬車に乗って陣頭に旗を翻らせていたが、想定よりあまりに早い征討軍との遭遇に狼狽ろうばいし、馬車から身を乗り出して誰彼となく周囲の者に尋ねた。 
「あれは敵か、敵の別働隊か。数はどちらが多い」 
 彼女は、トルドー侯爵からの早馬で、征討軍と遭遇したとの報告は確かに受けた。だがそれ以上の情報を集めようともしなかったし、征討軍の動きを予測することもしなかった。ただ、カスティーリャ要塞へ征討軍の本隊が向かったというのはどうやら陽動で、侯爵軍が征討軍に対しては数的には不利だから、それを救援せねばならない、と直感に従って動き回っているだけなのである。 
 不幸なことに、カロリーナ王女の側近には、兵法や軍事に精通した専門家がいなかった。いるのはカロリーナ王女の家政を取り仕切る執事や、宮廷向きの雑事や国事行為に詳しい顧問などばかりで、戦場内外の駆け引きについては無知である。むしろ3,000人もの兵を統率して戦いに臨めたのが快挙と言うべきであったろう。 
 しかしそれは、もはや戦いと呼べるようなものではなかったが。 
 プリンセスは、彼我の姿を目視できる距離まで接近してから、移動陣形から包囲陣形へと陣を組み替えるように指令した。第一師団のラマルク将軍は軍の指揮能力にかけては名うての達人で、わずか20分で、師団を鶴の翼のように大きく横に広げることに成功した。正面のカロリーナ軍からは、敵の姿が倍化したようにも見え、大いに威圧的な光景であったと言えよう。 
 一方、カロリーナ軍は陣形と呼べるものもなく、立ちすくんだようにその場に留まっている。 
 その陣へ、白旗を掲げた大柄な将校が一騎、駆け寄り呼ばわった。白い旗は、軍使の共通規格である。 
「私は第一師団のシセ百人長である。我が師団長は卑しくもロンバルディア教国にさる人ありと言われたジェレミー・ラマルク。カロリーナ王女に申し上げる。既に戦いの帰趨きすうは決した。トルドー侯爵夫妻は既に亡くなり、第二師団はマジョルカバレーより国都には近づけぬ。この上は国の分裂を終結させ、民衆に無用に困苦を与えぬためにも、早々に講和に応じられ、ともに再建の道を歩まれよ。プリンセスは寛大な処遇を約束されておられる。無論、ご謀反に加担の者どもにも罪は問わぬ。我らは同胞である、いたずらに同胞の血を流すのはやめようではないか!」 
 シセ百人長の声は万雷のように轟いて、カロリーナ軍の全将兵の耳に届いたであろう。容儀、口上の実に見事な男で、軍使にはうってつけである。 
 その内容も、将士には深く響いた。もともと自軍の指揮官に対して期待や信頼を抱いていない兵士たちである。トルドー侯爵軍と同様、彼らは戦う前から戦意を喪失した。勝てぬ戦いと分かりきっていてなお闘志を燃やしていられる兵はそうはいないし、特殊な状況、特殊な指揮官のもとでしか、そうした兵、そうした軍は生まれないものである。 
「彼女が降伏の道を選択してくれればよいのですが」 
 プリンセスは馬上、左の掌を胸に当てて、祈るように呟いた。一面、敵の士気を落とし、確実に勝てる状況にしてから戦うという、奸智ともいえる策略を施しながらも、このように心から義妹や将兵のことを考えて苦悩している。 
 そうした姿に、近衛兵団長代理のアンナは「冷徹な判断と深い慈悲をあわせ持つ、まことの聖君である」と敬愛し、第一師団長のラマルク将軍は「この甘さが、この方の唯一の弱点かもしれない」と危ぶみ、近衛兵団副団長代理のヴァネッサは、「自分に刃を向けた者にも情けをかける、お優しい方だ」とただただ信仰の眼差しで見た。人によって感想は微妙に異なるが、プリンセスがどうやら用兵の天才であるらしいことについては衆目の一致する見解であった。 
 さて、降伏勧告を耳にしたカロリーナ王女である。 
 彼女は彼女の敵を前に、まず戦うか、逃げるか、降伏するかを即決しなければならなかったが、その決断も下さずに、ただ感情を爆発させ、プリンセスの悪態をつくなどして時間を浪費していた。 
 そもそも挙兵の動機からして、感情の産物であったのだ。彼女は確かに女王になりたかった。だがそれ以上に激しかったのは、プリンセスへの異常とも言える憎悪であった。彼女の地位への欲求は、背景に志などはない。ただプリンセスを蹴落としたいだけなのである。 
「あの孤児院育ちの卑賎の輩め」 
 明確な指示を出さぬまま、愚にもつかぬ悪口雑言を並べていると、やがて彼女にとって思いもよらぬ事態が出来しゅったいした。 
 カロリーナ軍の右翼部隊の一部が、くるりと向きを変え、先ほどまでの味方を裏切って、無防備な本隊に突撃を開始したのである。 
 同士討ちであった。プリンセスの降伏勧告が、敵味方にとって計算外の効果を発揮したらしい。 
 プリンセスにとって、必ずしも本意ではない。彼女が最も望んだのは、カロリーナが降伏を受け入れ、これ以上、一滴の血も流すことなく内戦を終結させることであった。しかしこのような事態となっては、無益な流血が続いてしまう。 
「プリンセス、いかがされます」 
 ラマルク将軍が決断を求めた。彼の指揮する第一師団は、この戦場で前衛部隊の位置にあったが、もはや彼の前線指揮を必要とする状況でもないため、プリンセスにわれて近衛兵団の本営にいる。 
 プリンセスは憂いの深い表情で、やや迷った末、やむをえない、といった心情を言外に込めてため息をついた。 
「不意を突かれて敵軍は総崩れとなるでしょう。直ちに攻勢をかけて、カロリーナを保護してください。たとえ乱戦のなかでも、彼女を殺してはなりません。また戦意のない敵兵をむやみに殺傷することも禁じます」 
「ここは戦場です。戦場では不測の事態が起こるもので、必ずしも御意に添えるとは限りません」 
「分かっています。分かっていますが、そうしたいのです。私に協力して戦ってくださる皆さんにも、分かってほしいのです」 
「承知しました。命令、徹底させます」 
「ありがとうございます」 
 こうして戦いは、まだ一戦も交えぬうちから、追撃戦へと移行した。 
 カロリーナ王女は、味方が裏切ったことを知ると、馬車をその居城へ向け、我先に逃げ出した。驚くべきことに、戦場に踏みとどまって、王女の逃走を援護しようとする者は、一人もいなかった。半数以上は、その場で武器を捨て降伏した。残った彼女の手勢は皆、馬車とともに逃亡し、騎兵のなかには、馬車を追い抜いて逃げる者も数多かった。 
 征討軍は、王女の転進があまりに素早かったことと、降伏する者たちで道をふさがれたこと、これまでの進軍と戦闘の疲労が蓄積していたことなどあって、深追いを避け全軍を休止した。数日内にはカロリーナ王女が逃げ込むであろうバルレッタ地方へと到着できる。その時点で、この不毛な内戦は終結することであろう。つまりプリンセスの襲撃事件から、わずかひと月程度での終戦ということになる。 
 だが、予想だにせぬ悲劇が、それよりも早く訪れた。 
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