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第2章 教国内戦始末記
第2章-② 英雄の初陣
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機が熟しつつある。
征討軍の本隊は、彼らが全軍を挙ってカスティーリャ要塞へと向かった、との偽りの情報を受け取り必ず急行するであろうトルドー侯爵軍を要撃する。作戦行動が遅すぎてはならない。遅滞すれば、彼らが北へ向かったと見せかけるため迂回した隙を突かれ、国都を荒らされて宮殿も失いかねない。また早すぎてもいけない。侯爵軍が早期に要撃部隊の存在を察知すれば、彼らは自重し、逆に征討軍を自領内まで引き込み、第二師団を背後から動かして挟撃しようとするであろう。
おっとり刀でやってくる敵を限界まで引きつけ、一気に急襲して早期決着に持ち込むのが、戦略の大要である。
この時期、プリンセスにとって最も重要なのが情報であった。情報戦で負ければこの内戦は必ず負けるだろうと考えていた。逆に敵が情報に関して無知であればあるほど、この戦いは容易に、かつ国力への打撃を少なくして勝つことができる。
だから彼女は、一般兵による偵察活動ではなく、将校斥候という情報収集の手段を用いた。百人長、千人長といった高級将校を数人単位の集団で偵察に派遣し、敵軍の動向を探る。当然、指揮官としての目で偵察をするのだから、兵卒のそれよりは情報量も多く、精度も高い。彼女がいかに情報を重視していたかが分かる。
そしてこの内戦の決定的な鍵を握る情報が征討軍陣営内にもたらされたのは、7月1日のことであった。
「トルドー侯爵が、兵3,800ほどを率い、ドランシーの居城を出てボルドー街道を北上している。中軍にトルドー侯爵とその息子フィリップの姿を確認した」
乗った、と将軍たちは会心の笑みを浮かべた。こうもうまくいくというのは、彼らも予想外であった。征討軍の主力がトルドー侯爵軍を標的として動いている以上、敵の最善の策は征討軍を誘引して時間を稼ぎ、そのうちに第二師団による首都陥落を期待するほかないであろう。それが、彼らの持ちうる兵力のほぼすべてを挙げて出撃したということは、征討軍が全軍で北上したとの偽報に踊らされ、慌てて巣穴を出てきたということに相違ない。
「調って虎を山から離す、という軍法を、兵書で読んだことがあります」
そのように、プリンセスは作戦の骨子を説明した。充分な兵力を蓄えた敵に、城塞に籠城されたら、こちらがいかに大軍といえど被害は大きく、日数も必要になる。敵味方の損害も軽視できない。可及的速やかに内乱を鎮圧し、外国からの干渉や圧力を防ぐためにも、長期戦は避けたい。だから、敵を誘い出す。誘い出した敵の不意を突き、圧倒的な戦略的条件を活かして、撃砕する。戦うのは一度でいい。征討軍が有力で、到底抗しがたいことを敵に知らしめ、彼らを敗北の窮地に追い込めば、その勢力は自然と四散してこの内戦は早期終結するはずなのである。電撃的な勝利を一度おさめれば、敵は大義名分を欠き、もともとが一枚岩でもないだけに、あとは造作もない。寛大な条件のもとで降伏を勧めれば、戦いは終わる。
こうして7月3日朝、快晴。征討軍はその戦場となったボルドー街道において、侯爵軍のおよそ4倍の兵力を展開させることとなった。
この時刻、侯爵軍は朝の炊事にとりかかっていた。雑然としている。
侯爵軍と一括りに呼称しているが、純粋な彼の兵力はその半数もない。ほかは彼の縁に連なる一門や、彼の野心に共鳴する貴族たち、さらに挙兵に備えて契約した傭兵や山賊あがりの連中なども混ざっていた。また彼自身の兵力も、単なる私兵であって、征討軍のようなプロの戦闘集団ではない。要するに烏合の衆である。さらに深刻なのは優秀な指揮官の不在であった。トルドー侯爵自身、夫人と共謀して叛乱を企て、戦場での実戦指揮も行うほどに能動的でその動機となる野心もあったが、彼自身が単なる貴族の家に生まれた貴族、それだけでしかないため、全軍の総帥としての指揮能力など皆無に等しい。中級指揮官も同様で、トルドー侯爵一門の貴族や執事、傭兵や山賊の親分といった雑多な構成であったから、指揮系統と呼べるものもない。
それらが、無邪気に陣中食の準備をしているまさにその時に、征討軍が三方向から押し寄せたのである。
彼らが惰眠を貪っているあいだ、彼らの敵は眠ってはいなかった。
彼らが飯を食おうとしているとき、彼らの敵は槍を手にしていた。
侯爵軍に激震のような動揺が走った。前面に展開しているのは雲霞のような大軍であった。当初の想定では、征討軍は第二師団に誘引され、手薄となった国都を奪取する計画で、末端の兵もそのように聞いていた。ただ進撃するだけで勝てる戦いである。
しかし実際に彼らの目と鼻の先には、整然と布陣した敵の軍団が出現し、しかも包囲されている。
トルドー侯爵軍は、動揺し混乱する兵たちと、必死に統制を取ろうとする指揮官の怒号で、恐慌状態に陥った。
征討軍は布陣を終えたあとで、あえて一呼吸を置いた。
すると侯爵軍から早くも離脱者が現れた。軍の最後尾を守っていた山賊や傭兵で編成された部隊が、無断で退却を始めたのである。彼らは侯爵の譜代の家臣や血族ではない。ただ単に金で雇われ、大規模な戦闘は起こらず楽に勝てるとの見込みを信じ、しかも国都を奪う際には略奪なども黙認するという条件で、のこのことついてきただけなのである。
彼らはその職業柄、劣勢になると途端に脆くなる。もとより王家や雇い主に対する忠誠心もなく、信頼もないから、命令に対する服従心も弱い。戦って勝てるか、あるいは逃げた方がよさそうか、などと敏感に察知しようとする習性は、彼らの本能のようなものだ。
「ずらかろう」
誰ともなく発したその声はたちまち部隊全体に波及し、彼らは決意を即座に行動に移した。
その光景は、俯瞰すると、まるでかさぶたがごっそりと剥がれ落ちるような鮮やかさに見えた。侯爵軍の後衛が、一瞬にして壊滅したのである。
この動きが侯爵軍全体に第二次恐慌ともいうべき心理的効果を与えた。友軍が一戦もせず背中を見せて逃走を始めたのを望見し、侯爵軍の他の部隊も一様に戦意を喪失したのである。
プリンセスは、この崩れを秒単位の素早さで見逃さず、全軍に総攻撃を命じた。
彼女が下した静かな号令を、旗本の近衛兵が疾走して、右翼の第一師団、左翼の第三師団に伝える。両翼と同時に中央の近衛兵団も、侯爵軍を包み込むようにして突進を開始した。
鎧袖一触と言ってよかった。征討軍は遠距離攻撃で間合いを測りつつ進むような迂遠な攻めはせず、白兵戦から攻撃を仕掛けた。侯爵軍は及び腰である。及び腰の相手には動揺から立ち直る時間を与えず、一挙に突き崩すのがよい。
極端なまでに士気の低下した侯爵軍は、たちまち崩壊した。ラマルク将軍もデュラン将軍も百戦錬磨の名将だが、これほど一方的な戦闘をかつて経験したことはなかった。戦いと呼べるものはものの10分程度で、あとは追撃戦に移行した。戦場にこだまする喊声は、すべて征討軍が発している。悲鳴や叫喚は、侯爵軍の兵からである。
「逃げる兵士を殺してはなりません。もともとは同胞なのです。トルドー侯爵の行方のみを追ってください。戦乱の元凶を捕えれば、戦果としては充分です」
征討軍は隊列を乱しながらも、執拗に侯爵を追い、4時間あまりにわたる逃亡劇の末、第三師団のガルシアという十人長がついに侯爵を捕縛した。侯爵に縄をかけた時、その乗馬は口から泡を吹き、彼自身も尾羽打ち枯らして、失意と疲労と緊張のあまり朦朧としていた。
どうも、脱水症状も起こしていたらしい。
夕方になって、征討軍はようやく集結予定地域で軍を整え、休息に入るとともに、即座にプリンセスによる引見と論功行賞が行われた。
まずは、虜囚となったトルドー侯爵からである。
「叔父様」
と、プリンセスは彼をそう呼んだ。ぐるぐると粗雑に巻かれた荒縄を手ずからほどくのを、周囲の将軍や近衛兵、そしてトルドー侯爵本人も呆然として見守った。
彼女は陣中用の腰掛けを侯爵に与え、自らはその前に片膝をついて、土まみれになった彼の手を握って、
「このような事態になって、とても残念に思います。国を割って、叔父様や叔母様、妹と戦うのはもとより本意ではありませんでした。お二方とは、親しくお話しする機会に恵まれず、疎遠になってしまいました。今にして思えば、悔やまれてなりません。叔父様、叔母様を説得してくださいませんか。武装を解除して、私兵を解散していただくことを約束いただき、貴族ではなく市民として暮らすことにご納得いただければ、生活に困らぬだけの財産は保証します」
と言い出したので、全員が驚倒した。女王や王女の弑逆あるいは弑逆未遂、外患誘致、叛乱は、一族死罪とされている。助命する上に、一市民として余生を穏やかに暮らせるなどというのは、望外の条件である。
侯爵は戦いを続けるだけの気概を、この寛大すぎるほどの条件を与えられたことで、完全に失った。彼は夫人と同様、野心家ではあったが、事に臨んでは我が身の愛おしさがまさったのであろう。
呆気ないほどの容易さで、プリンセスの提案を了承した。
(この方は先を見通し、人の心を動かす名人のようだ)
第一師団長のラマルク将軍は、心中、意外の思いであった。当初、彼はプリンセスが作戦計画を主導することに懐疑的であった。軍事のことは、自分たちのような専門家に任せればよい。確かに教国全軍の最高指揮権は女王にあり、つまりは次期女王であるプリンセスにあるわけだが、それは多分に象徴的な権力であって、素人が軍務を専断するのは好ましくない。王権を持つ者は、大人しく宮廷に鎮座ましまし、軍人に対しては賞罰を明らかにしておけばよい。
そのように考えていたからこそ、今回の作戦案に対しても、あるいはプリンセス自らの出陣に関しても、彼は最後まで慎重派であったのだ。
しかし今はその彼にして、プリンセスの卓抜した器量を認めざるをえない。
トルドー侯爵は馬を与えられ、わずかな従者とともに居城を目指して帰っていった。ラマルク将軍はじめ、疑う者が多い。
「果たして、口約束通りに侯爵が動きますか。助命され解放されたのを幸い、夫人とつるんで捲土重来を期すことはないでしょうか」
「私は信じたいと思います」
甘いことを言うかと思えば、ラマルク将軍をぎくりとさせるようなことも言う。
「ところでラマルク将軍、第一師団ではコクトー千人長の姿が見えないそうですね」
「は、事実ですが、誰がそのようなことを」
「将校斥候として味方陣地を巡察した近衛兵団千人長のジュリエットから聞きました。戦う相手はもちろん、味方の状態を把握することも重要ですので」
「仰せの通りで」
「パミエの虎とまで呼ばれた勇将が、夜間行軍で迷子になるというのは意外ですね」
将軍は思わず顔の筋肉を硬直させ、畏怖のあまり俯いた。直接に指摘してしまうと、将軍の罪を暴露することになるから言わないのであろうが、恐らくプリンセスは彼が独断で兵を動かしたことを見抜いている。
(千里眼か、この方は)
プリンセスに彼を咎める風はない。
慣れない戦陣で、多少、容色に疲労の色が差しているが、変わらず穏やかで柔和な表情である。
彼の命令違反を知りながら、淡々とした態度でいるのが、かえって恐ろしい。歴戦の勇者をして己の非に恐怖させるとは、やはり只者ではない。
次いで、即席の論功行賞が行われた。戦陣ということもあり簡易的なものに過ぎないが、トルドー侯爵を捕えたガルシア十人長に加え、貴重な情報の数々をもたらした各師団の斥候らにも恩賞が下された。この会戦では情報こそが勝敗の最重要要素であった以上、確かに殊勲者とも言えるが、偵察活動に従事したことで恩賞を授かるのも異例のことではあった。
プリンセスの初陣は、鮮やかな快勝で終わった。
征討軍はこの日は当地で野営し、翌朝は第三師団のみ、解放されたトルドー侯爵を追及するかたちでドランシーへと南下し、近衛兵団と第一師団は向きを南東に変えてバルレッタ地方を目指し進軍した。
叛逆軍の旗頭であるカロリーナ王女を捕えるためである。
征討軍の本隊は、彼らが全軍を挙ってカスティーリャ要塞へと向かった、との偽りの情報を受け取り必ず急行するであろうトルドー侯爵軍を要撃する。作戦行動が遅すぎてはならない。遅滞すれば、彼らが北へ向かったと見せかけるため迂回した隙を突かれ、国都を荒らされて宮殿も失いかねない。また早すぎてもいけない。侯爵軍が早期に要撃部隊の存在を察知すれば、彼らは自重し、逆に征討軍を自領内まで引き込み、第二師団を背後から動かして挟撃しようとするであろう。
おっとり刀でやってくる敵を限界まで引きつけ、一気に急襲して早期決着に持ち込むのが、戦略の大要である。
この時期、プリンセスにとって最も重要なのが情報であった。情報戦で負ければこの内戦は必ず負けるだろうと考えていた。逆に敵が情報に関して無知であればあるほど、この戦いは容易に、かつ国力への打撃を少なくして勝つことができる。
だから彼女は、一般兵による偵察活動ではなく、将校斥候という情報収集の手段を用いた。百人長、千人長といった高級将校を数人単位の集団で偵察に派遣し、敵軍の動向を探る。当然、指揮官としての目で偵察をするのだから、兵卒のそれよりは情報量も多く、精度も高い。彼女がいかに情報を重視していたかが分かる。
そしてこの内戦の決定的な鍵を握る情報が征討軍陣営内にもたらされたのは、7月1日のことであった。
「トルドー侯爵が、兵3,800ほどを率い、ドランシーの居城を出てボルドー街道を北上している。中軍にトルドー侯爵とその息子フィリップの姿を確認した」
乗った、と将軍たちは会心の笑みを浮かべた。こうもうまくいくというのは、彼らも予想外であった。征討軍の主力がトルドー侯爵軍を標的として動いている以上、敵の最善の策は征討軍を誘引して時間を稼ぎ、そのうちに第二師団による首都陥落を期待するほかないであろう。それが、彼らの持ちうる兵力のほぼすべてを挙げて出撃したということは、征討軍が全軍で北上したとの偽報に踊らされ、慌てて巣穴を出てきたということに相違ない。
「調って虎を山から離す、という軍法を、兵書で読んだことがあります」
そのように、プリンセスは作戦の骨子を説明した。充分な兵力を蓄えた敵に、城塞に籠城されたら、こちらがいかに大軍といえど被害は大きく、日数も必要になる。敵味方の損害も軽視できない。可及的速やかに内乱を鎮圧し、外国からの干渉や圧力を防ぐためにも、長期戦は避けたい。だから、敵を誘い出す。誘い出した敵の不意を突き、圧倒的な戦略的条件を活かして、撃砕する。戦うのは一度でいい。征討軍が有力で、到底抗しがたいことを敵に知らしめ、彼らを敗北の窮地に追い込めば、その勢力は自然と四散してこの内戦は早期終結するはずなのである。電撃的な勝利を一度おさめれば、敵は大義名分を欠き、もともとが一枚岩でもないだけに、あとは造作もない。寛大な条件のもとで降伏を勧めれば、戦いは終わる。
こうして7月3日朝、快晴。征討軍はその戦場となったボルドー街道において、侯爵軍のおよそ4倍の兵力を展開させることとなった。
この時刻、侯爵軍は朝の炊事にとりかかっていた。雑然としている。
侯爵軍と一括りに呼称しているが、純粋な彼の兵力はその半数もない。ほかは彼の縁に連なる一門や、彼の野心に共鳴する貴族たち、さらに挙兵に備えて契約した傭兵や山賊あがりの連中なども混ざっていた。また彼自身の兵力も、単なる私兵であって、征討軍のようなプロの戦闘集団ではない。要するに烏合の衆である。さらに深刻なのは優秀な指揮官の不在であった。トルドー侯爵自身、夫人と共謀して叛乱を企て、戦場での実戦指揮も行うほどに能動的でその動機となる野心もあったが、彼自身が単なる貴族の家に生まれた貴族、それだけでしかないため、全軍の総帥としての指揮能力など皆無に等しい。中級指揮官も同様で、トルドー侯爵一門の貴族や執事、傭兵や山賊の親分といった雑多な構成であったから、指揮系統と呼べるものもない。
それらが、無邪気に陣中食の準備をしているまさにその時に、征討軍が三方向から押し寄せたのである。
彼らが惰眠を貪っているあいだ、彼らの敵は眠ってはいなかった。
彼らが飯を食おうとしているとき、彼らの敵は槍を手にしていた。
侯爵軍に激震のような動揺が走った。前面に展開しているのは雲霞のような大軍であった。当初の想定では、征討軍は第二師団に誘引され、手薄となった国都を奪取する計画で、末端の兵もそのように聞いていた。ただ進撃するだけで勝てる戦いである。
しかし実際に彼らの目と鼻の先には、整然と布陣した敵の軍団が出現し、しかも包囲されている。
トルドー侯爵軍は、動揺し混乱する兵たちと、必死に統制を取ろうとする指揮官の怒号で、恐慌状態に陥った。
征討軍は布陣を終えたあとで、あえて一呼吸を置いた。
すると侯爵軍から早くも離脱者が現れた。軍の最後尾を守っていた山賊や傭兵で編成された部隊が、無断で退却を始めたのである。彼らは侯爵の譜代の家臣や血族ではない。ただ単に金で雇われ、大規模な戦闘は起こらず楽に勝てるとの見込みを信じ、しかも国都を奪う際には略奪なども黙認するという条件で、のこのことついてきただけなのである。
彼らはその職業柄、劣勢になると途端に脆くなる。もとより王家や雇い主に対する忠誠心もなく、信頼もないから、命令に対する服従心も弱い。戦って勝てるか、あるいは逃げた方がよさそうか、などと敏感に察知しようとする習性は、彼らの本能のようなものだ。
「ずらかろう」
誰ともなく発したその声はたちまち部隊全体に波及し、彼らは決意を即座に行動に移した。
その光景は、俯瞰すると、まるでかさぶたがごっそりと剥がれ落ちるような鮮やかさに見えた。侯爵軍の後衛が、一瞬にして壊滅したのである。
この動きが侯爵軍全体に第二次恐慌ともいうべき心理的効果を与えた。友軍が一戦もせず背中を見せて逃走を始めたのを望見し、侯爵軍の他の部隊も一様に戦意を喪失したのである。
プリンセスは、この崩れを秒単位の素早さで見逃さず、全軍に総攻撃を命じた。
彼女が下した静かな号令を、旗本の近衛兵が疾走して、右翼の第一師団、左翼の第三師団に伝える。両翼と同時に中央の近衛兵団も、侯爵軍を包み込むようにして突進を開始した。
鎧袖一触と言ってよかった。征討軍は遠距離攻撃で間合いを測りつつ進むような迂遠な攻めはせず、白兵戦から攻撃を仕掛けた。侯爵軍は及び腰である。及び腰の相手には動揺から立ち直る時間を与えず、一挙に突き崩すのがよい。
極端なまでに士気の低下した侯爵軍は、たちまち崩壊した。ラマルク将軍もデュラン将軍も百戦錬磨の名将だが、これほど一方的な戦闘をかつて経験したことはなかった。戦いと呼べるものはものの10分程度で、あとは追撃戦に移行した。戦場にこだまする喊声は、すべて征討軍が発している。悲鳴や叫喚は、侯爵軍の兵からである。
「逃げる兵士を殺してはなりません。もともとは同胞なのです。トルドー侯爵の行方のみを追ってください。戦乱の元凶を捕えれば、戦果としては充分です」
征討軍は隊列を乱しながらも、執拗に侯爵を追い、4時間あまりにわたる逃亡劇の末、第三師団のガルシアという十人長がついに侯爵を捕縛した。侯爵に縄をかけた時、その乗馬は口から泡を吹き、彼自身も尾羽打ち枯らして、失意と疲労と緊張のあまり朦朧としていた。
どうも、脱水症状も起こしていたらしい。
夕方になって、征討軍はようやく集結予定地域で軍を整え、休息に入るとともに、即座にプリンセスによる引見と論功行賞が行われた。
まずは、虜囚となったトルドー侯爵からである。
「叔父様」
と、プリンセスは彼をそう呼んだ。ぐるぐると粗雑に巻かれた荒縄を手ずからほどくのを、周囲の将軍や近衛兵、そしてトルドー侯爵本人も呆然として見守った。
彼女は陣中用の腰掛けを侯爵に与え、自らはその前に片膝をついて、土まみれになった彼の手を握って、
「このような事態になって、とても残念に思います。国を割って、叔父様や叔母様、妹と戦うのはもとより本意ではありませんでした。お二方とは、親しくお話しする機会に恵まれず、疎遠になってしまいました。今にして思えば、悔やまれてなりません。叔父様、叔母様を説得してくださいませんか。武装を解除して、私兵を解散していただくことを約束いただき、貴族ではなく市民として暮らすことにご納得いただければ、生活に困らぬだけの財産は保証します」
と言い出したので、全員が驚倒した。女王や王女の弑逆あるいは弑逆未遂、外患誘致、叛乱は、一族死罪とされている。助命する上に、一市民として余生を穏やかに暮らせるなどというのは、望外の条件である。
侯爵は戦いを続けるだけの気概を、この寛大すぎるほどの条件を与えられたことで、完全に失った。彼は夫人と同様、野心家ではあったが、事に臨んでは我が身の愛おしさがまさったのであろう。
呆気ないほどの容易さで、プリンセスの提案を了承した。
(この方は先を見通し、人の心を動かす名人のようだ)
第一師団長のラマルク将軍は、心中、意外の思いであった。当初、彼はプリンセスが作戦計画を主導することに懐疑的であった。軍事のことは、自分たちのような専門家に任せればよい。確かに教国全軍の最高指揮権は女王にあり、つまりは次期女王であるプリンセスにあるわけだが、それは多分に象徴的な権力であって、素人が軍務を専断するのは好ましくない。王権を持つ者は、大人しく宮廷に鎮座ましまし、軍人に対しては賞罰を明らかにしておけばよい。
そのように考えていたからこそ、今回の作戦案に対しても、あるいはプリンセス自らの出陣に関しても、彼は最後まで慎重派であったのだ。
しかし今はその彼にして、プリンセスの卓抜した器量を認めざるをえない。
トルドー侯爵は馬を与えられ、わずかな従者とともに居城を目指して帰っていった。ラマルク将軍はじめ、疑う者が多い。
「果たして、口約束通りに侯爵が動きますか。助命され解放されたのを幸い、夫人とつるんで捲土重来を期すことはないでしょうか」
「私は信じたいと思います」
甘いことを言うかと思えば、ラマルク将軍をぎくりとさせるようなことも言う。
「ところでラマルク将軍、第一師団ではコクトー千人長の姿が見えないそうですね」
「は、事実ですが、誰がそのようなことを」
「将校斥候として味方陣地を巡察した近衛兵団千人長のジュリエットから聞きました。戦う相手はもちろん、味方の状態を把握することも重要ですので」
「仰せの通りで」
「パミエの虎とまで呼ばれた勇将が、夜間行軍で迷子になるというのは意外ですね」
将軍は思わず顔の筋肉を硬直させ、畏怖のあまり俯いた。直接に指摘してしまうと、将軍の罪を暴露することになるから言わないのであろうが、恐らくプリンセスは彼が独断で兵を動かしたことを見抜いている。
(千里眼か、この方は)
プリンセスに彼を咎める風はない。
慣れない戦陣で、多少、容色に疲労の色が差しているが、変わらず穏やかで柔和な表情である。
彼の命令違反を知りながら、淡々とした態度でいるのが、かえって恐ろしい。歴戦の勇者をして己の非に恐怖させるとは、やはり只者ではない。
次いで、即席の論功行賞が行われた。戦陣ということもあり簡易的なものに過ぎないが、トルドー侯爵を捕えたガルシア十人長に加え、貴重な情報の数々をもたらした各師団の斥候らにも恩賞が下された。この会戦では情報こそが勝敗の最重要要素であった以上、確かに殊勲者とも言えるが、偵察活動に従事したことで恩賞を授かるのも異例のことではあった。
プリンセスの初陣は、鮮やかな快勝で終わった。
征討軍はこの日は当地で野営し、翌朝は第三師団のみ、解放されたトルドー侯爵を追及するかたちでドランシーへと南下し、近衛兵団と第一師団は向きを南東に変えてバルレッタ地方を目指し進軍した。
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