8 / 230
序章 術士奇譚
術士奇譚-⑧
しおりを挟む
要塞付近はそれから数日間、日の出から深更にいたるまで、常に異常な現象を観測した。
以前から雷雲は毎日現れては周囲を荒らし回っていたが、このところは急激に冷え込み突如として氷山が出現したり、一夜にして目と鼻の先に河川が形成されたりなど、不可解な事象が多発した。
夜間、地下の監獄で4つの巨大な火の玉が浮かんだり消えたりしているのを目にした者もいる。その目撃談によれば、薄明かりの向こうで黄、青、紺、紫といった火の玉が明滅して、空気が鉛のように重かったという。
風説が飛び交った。
一説。エルスはセトゥゲルを愛するあまり、我が命を引き換えに彼に術を授けた。セトゥゲルはそれを奇貨として腹心の三人の部下にも力を分け与え、術を完全に我がものとすべく、鍛練を行っている。
一説。セトゥゲルはエルスの偉大なる力の秘密を知り、彼女を殺して、術者としての能力を奪った。彼はさらにアルトゥ、ムングの力を狙っていて、森羅万象を支配する絶対者にならんと欲している。
一説。エルスは不治の病に侵された。セトゥゲルはその死を大いに嘆き、その悲しみが彼を術者として目覚めさせた。彼はエルスの遺志を継いで、術者として生きるべく、その力を操ることに腐心している。
いずれも憶測から生まれた根も葉もない噂であったが、奇妙なことにどれも真実との接点があった。人間の想像力というものは案外、現実的な感覚の上に立脚しているものなのかもしれない。
セトゥゲルとしては、麾下にあるのがたかだか300人程度の歩兵であり、しかも後方要員として補給業務に従事する弱兵揃いであることから、もとより彼らの戦闘力には期待していなかった。
彼が頼みにするのは、術者として導いた腹心たちだけである。四人の術者で共闘すれば、あるいは互角以上に戦えるのではないか。
要塞内にはエルスの死について厳重な箝口令を敷いていたが、いずれどこかから漏れるであろう。あるいは、術者独特の嗅覚のようなもので、エルスの異変や新たな術者の誕生に気付くかもしれない。
だが、それが遅ければ遅いほどありがたい。アルトゥやムングが、前線の部隊とともに東奔西走しているあいだに、彼らは着々と実力を蓄えればよい。
早くともひと月、あるいは数年のちのことか。
しかし、彼の目論見は楽観的に過ぎた。
あまりにも早く、要塞の物見台からその恐るべき急報がもたらされたからである。
「西の方角、彼方に煌々たる火の群れが見える」
セトゥゲルはその時分、第一の腹心であるバルとともに思念を高める鍛練の途中であった。向かい合い、座禅を組みながらその報を聞いたとき、彼にはその本能か、あるいはこれが術者としての思念の働きによるものなのか、前線の味方の帰還とはまったく思わなかった。
「バル、聞いたか」
静かにまぶたを開くと、第一の腹心にして親友である氷の術者、バルが目を血走らせ、顔を土色にして微動だにもできずにいる。
「ムングが来たのだろう」
信頼する部下の手前、落ち着き払って言ったつもりが、語尾がわずかに震えた。
エルスが閨で話したことがある。アルトゥ、ムングは幼くして祖父に素質を見出され、その思念も極めて強力、アルトゥの慈悲は人々の犯したあらゆる罪を洗い流すに足り、ムングの勇気は人々のいかなる罪をも容赦なく指弾するであろう、と。
「バル、ドルジとカジュダルに伝えるのだ。ムングとは戦うな。私が囮になる。奴は恐らく新たな術者と妹の死を知っている。間違いなくこの要塞を急襲し、私を殺そうとする。勝ち目は万に一つあるかないかだろう。だから私が囮になって、奴の注意を引く。お前たち三人は気配を消し、隙を見て一斉にかかれ。私も機を逃さず、残った力を解放してとどめを刺してやる」
この日、エルスの死から未だ10日も出ていない。
セトゥゲルは予言した。
「陳腐な策だが、奴が死に、私が生き残れば、私の生涯においてこれが最高の作戦となるだろう。私が死ねば、最後の作戦となる」
城壁から物見台へと上った。探す必要もなく、西のその地点だけが、異様に明るい光を放っている。しかも奔馬のごとき勢いで、こちらに向かっているようだ。
戦慄し、歯の根が合わぬほどに震えながら、彼は全兵士に敵襲に備えよ、と号令した。
兵たちは動転するばかりであった。西に見える火の群れは、敵軍なのか。敵軍だとしたら、前線の味方はもはや敗走したのであろうか。そのわりに、敗残兵より敵の方が早く到着するとはどういうことか。そもそも、わずか300人程度の守備部隊しか駐屯していないこの要塞で、あれほど意気さかんな大部隊を食い止められるものなのか。
そうした兵たちの動転は全軍に波及して、上を下への混乱を招き、すぐに恐慌状態に陥った。指揮系統が乱れ、セトゥゲルの指令もほとんど行き渡らなくなった。
しかし、彼としてはむしろ望ましい。あえて味方に必要な情報を与えず混乱させ、彼の腹心たちが隠密裏に動きやすい状況を現出させたのである。
そうこうするうち、火の群れはみるみる大きくなり、その姿がはっきりと見えるまで近づいた。
ムングである。単騎であった。
大部隊に見えたのは、彼女の使役する焔の群れであった。その猛火に照らされて、要塞の城壁まで、まるで夜が昼かのように明るい。あれだけの炎を生み出すには、途方もない思念の強さが必要であろう。やはり彼女の術者としての力は、セトゥゲルらにわか仕込みの術者とは比較にならない。次元が違うと評しても過言ではなかろう。
ムングは、その細身の体からは想像もつかない大音声で、セトゥゲルを呼ばわった。
「エルスはどこだ、どこへやった!」
無駄と知りつつ、セトゥゲルも応じた。彼の出方次第でその運命も左右されるという切所だが、さすが場に出ると度胸がある。そのよく響く声にはわずかの乱れもなかった。
「ムングか。エルスは亡くなった。実に、悲しむべきことだ。詳しく事情を話すゆえ、気を静めて城内へ入れ」
「黙れ!貴様は人の皮をかぶった狼だ。妹を騙し、その命と引き換えに術者の力を手に入れたのだろう。姉妹と祖父に代わって、私が貴様を殺す!」
「誤解だ、私は確かに術者としての導きは受けたが、それはエルスの意志によるものだ。彼女の死も、事故によってである。とにかく今は言葉を尽くせぬから、中で静かに語り合おうではないか」
「この卑劣な毒虫め!私にはお前の邪悪な思念が見えている。人面獣心の貴様を城ごと燃やし尽くし、生きたまま火葬にしてくれる!」
聞くに堪えない罵詈雑言、すさまじい憎悪、悪鬼のごとき殺意と言うべきであった。
彼女の怒りが増すごと、熱風がセトゥゲルの頬をちりちりとかすめてゆく。
彼の周囲では既に、兵どもが逃げ出す気配がした。彼はそれを止めようともせず、むしろ煽りたいくらいであった。ムングの前では、腰抜けの兵が束になったところで、虫けら同然である。
セトゥゲルは説得が効かぬと知って一転、彼女を挑発することにした。彼女の怒気を極限まで高めれば、かえって乗じる隙も生まれるだろう。
「私とて術者の端くれだ、そう易々と殺されはせん。私にはエルスの加護もあるのだからな」
「妹の名を口にするな!」
その瞬間、ムングが発した思念の塊が、巨大な火竜となり、一直線に物見台のセトゥゲルを襲った。激烈な火勢を、セトゥゲルも思念を一気に解放して凌いだ。
彼は術者としての基本である「結界」を、この時完全に手に入れていた。
「結界」はすなわち、その術者の絶対の防御領域である。術者の周囲を球状の思念の防壁で覆い、外部からのあらゆる攻撃を中和することができる。セトゥゲルの周囲には黄金色の守護空間が広がり、その表面には無数の微細な雷光が閃いていた。
だが、この結界の生成には一定の体力と気力を消費するのも事実である。ムングの術にかかれば、いずれ彼の結界は食い破られてしまうに違いない。セトゥゲルは石の焦げるにおいを嗅ぎながら、物見台を下り要塞内へ逃げ込んだ。
そこへ、ムングの操る火竜が追い撃ちをかけた。
まさに、地獄の業火と見まごうばかりの、恐ろしい光景であった。
彼女の僕たる幾筋もの炎の竜は、風のような速さで要塞に殺到し取り囲んだかと思うと、逃げ惑う兵を手当たり次第に呑み込んでいった。兵らは次々と焼死体となって転がり、要塞はさながら巨大な火葬場となった。人体は骨屑と化してたちまち焦げ、木は炭になり、石さえも溶けた。
(術者、これほどの恐るべき力を持っているのか)
必死に結界を張って逃げながら、セトゥゲルはこれが真の恐怖かと思った。彼が一瞬でも思念を弱めれば、彼を守る雷の結界は脆くも火竜に食いちぎられ、その肉体は現世に跡形も残らないであろう。
ムングは、火竜を操ってセトゥゲルを追うことはしなかった。彼女はそれほど生易しいことはせず、要塞ごと棺にして、セトゥゲルを火葬にしようとしているらしかった。
彼は地下に逃れようとしたが、既に炎が回り込んで退路を断たれており、ひたすら結界の中に籠もってムングの苛烈な攻勢に耐えるほかなくなった。この状況では、彼の部下たちも反撃の機会なく既に朽ち果てているかもしれない。
やがて酷熱が結界を浸透し、セトゥゲルの意識を朦朧とさせた。耳が、ずいぶんと鈍くなっている。体重を支えられなくなり、両膝が折れ、手を床についてかろうじて昏倒するのを防いだ。その手も、焼けるように熱い。あるいは、焼けているかもしれない。それすら、判断する能力を失っていた。
「エルス」
まどろみ、視界がゆがみ、彼の強靭な思念もついには途切れかかって、すがるようにその名を呼んだ。
「エルス、許してくれ。助けてくれ」
残された意識の深奥で、エルスが蘇った。
小さな花壇をつくり、懸命にランの花を育てている。あの頃、毎日、その花壇の前で腰を下ろし話し込んだ。エルスははじめは緊張していたが、徐々に心を開くようになり、姉や祖父、故郷について楽しげに話すようになった。同時に、セトゥゲルのことも知りたがった。将軍たるセトゥゲルに、謹厳で好戦的であるという先入観を持っていたようだったが、彼が意外にも炊事係の老兵や要塞に生えるカタバミの茎の味について面白く話すので、エルスは夢中になって笑い、笑う都度、彼女の情愛が増してゆくのが分かった。
エルスがセトゥゲルを男として、あるいは女として受け入れた初めての夜、彼女は痛みと羞恥に耐えかね、涙をこぼしながらしがみついた。ただ一途に、セトゥゲルに愛されようと振舞った。その表情も、その肌も、その声も、セトゥゲルの体にしみ込むようにして残っている。あの時、エルスは彼に自分の全てを捧げたような想いだったのであろう。
そして、その短い命の最後の日、エルスは彼の腕の中で眠るようにして逝った。彼女が俗界に残したのは、優しく穏やかな微笑であった。死の間際、あふれる血に溺れながら、どれだけ苦しかったのであろうか。それでも確かに、彼女は微笑んでいた。あるいは彼女は、セトゥゲルの手で、その腕に抱かれながら、死にたいと願っていたのではないか。エルスの末期の表情を、彼はそのように解釈していた。願いを叶えられたことで、彼女は幸せだったのだろうか。
違う。
幸せとはもっと、彼女が欲した幸せはもっと別にあったはずだ。
「エルス、私が奪った、お前の全てを奪った。許してくれ」
吐き出すように、彼は哀願した。
すると、彼の周囲を取り巻いていた火炎が急速に収束し、わずかずつ、視覚や聴覚が戻り始めた。
(エルス、聞き届けたのか…?)
そうではなかった。
ひざまずいた彼のすぐ近くに、ムングがたどり着いたのであった。
力尽き、どうと仰向けになった視界の端で、ムングが片手に杖、もう一方の掌には人間の頭ほどの大きさの火の玉を乗せて佇んでいる。
術とともに生き、術とともに死す、真の術者の姿であった。
万に一つは勝ち目があるか、などとわずかでも期待をしたのが、今では度しがたいほど愚かであったと分かる。
ムングは、最後に目の前でこの不逞な野心家を抹消してやろうと思ったらしい。
(死ぬ)
確信をもって、彼は数秒後の未来を占った。
疲労と消耗で、全身が亀にでもなったようで、身動きもできない。抗う気ももはや起きなかった。思念をすっかり使い果たして、木偶人形も同然であった。
そして、ムングが火球をセトゥゲルに向けた、まさにその時だった。
大火のなかでどうやって侵入したのか、一匹の黒い大蛇がするすると音もなく忍び寄ったかと思うと、ムングの首筋に噛みついた。毒を注入するとともに、頚椎をも噛み砕こうという勢いである。
その衝撃で、ムングは杖を取り落とし、掌の火炎も消えた。
彼女は結界を張り、その守護力によって、この闖入者を叩き出そうとした。
瞬間、ムングの周囲に赤い障壁が出現しかけた。しかしそれは怒涛のような勢いで叩きつけられた水球によってかき消された。
ムングは逆上し、さらに思念を放出しようとしたが、そこへ次の術が殺到した。
鋭い氷の槍が、彼女の胸部を突き、背中までを貫いたのである。
その光景に、セトゥゲルはやにわに生への執着を取り戻し、豹のように飛びかかった。手にはエルスを殺めた短剣を握っている。
ムングの喉元に、深く突き立てた。
彼女は即死し、その術もたちまち消え去って、あとには暗い廃墟と化した要塞が残った。
セトゥゲルはムングの死骸に勢いのままのしかかり、それからぴくりとも動けなくなった。
ただ荒い呼吸を繰り返し、再び遠くなる意識のなかにあった。その呼吸の合間、何者かがどさりと倒れる音を聞いた。彼の腹心たちであろう。
(勝ったのか…?)
勝ったと言えるのであろうか。このまま眠ってしまえば、いわば相打ちとなって、彼も意識の戻らぬまま絶息してしまうかもしれない。
だが、眠かった。
彼はムングの血に染まったデールの帯に顔を埋めたまま、前後不覚に陥った。
以前から雷雲は毎日現れては周囲を荒らし回っていたが、このところは急激に冷え込み突如として氷山が出現したり、一夜にして目と鼻の先に河川が形成されたりなど、不可解な事象が多発した。
夜間、地下の監獄で4つの巨大な火の玉が浮かんだり消えたりしているのを目にした者もいる。その目撃談によれば、薄明かりの向こうで黄、青、紺、紫といった火の玉が明滅して、空気が鉛のように重かったという。
風説が飛び交った。
一説。エルスはセトゥゲルを愛するあまり、我が命を引き換えに彼に術を授けた。セトゥゲルはそれを奇貨として腹心の三人の部下にも力を分け与え、術を完全に我がものとすべく、鍛練を行っている。
一説。セトゥゲルはエルスの偉大なる力の秘密を知り、彼女を殺して、術者としての能力を奪った。彼はさらにアルトゥ、ムングの力を狙っていて、森羅万象を支配する絶対者にならんと欲している。
一説。エルスは不治の病に侵された。セトゥゲルはその死を大いに嘆き、その悲しみが彼を術者として目覚めさせた。彼はエルスの遺志を継いで、術者として生きるべく、その力を操ることに腐心している。
いずれも憶測から生まれた根も葉もない噂であったが、奇妙なことにどれも真実との接点があった。人間の想像力というものは案外、現実的な感覚の上に立脚しているものなのかもしれない。
セトゥゲルとしては、麾下にあるのがたかだか300人程度の歩兵であり、しかも後方要員として補給業務に従事する弱兵揃いであることから、もとより彼らの戦闘力には期待していなかった。
彼が頼みにするのは、術者として導いた腹心たちだけである。四人の術者で共闘すれば、あるいは互角以上に戦えるのではないか。
要塞内にはエルスの死について厳重な箝口令を敷いていたが、いずれどこかから漏れるであろう。あるいは、術者独特の嗅覚のようなもので、エルスの異変や新たな術者の誕生に気付くかもしれない。
だが、それが遅ければ遅いほどありがたい。アルトゥやムングが、前線の部隊とともに東奔西走しているあいだに、彼らは着々と実力を蓄えればよい。
早くともひと月、あるいは数年のちのことか。
しかし、彼の目論見は楽観的に過ぎた。
あまりにも早く、要塞の物見台からその恐るべき急報がもたらされたからである。
「西の方角、彼方に煌々たる火の群れが見える」
セトゥゲルはその時分、第一の腹心であるバルとともに思念を高める鍛練の途中であった。向かい合い、座禅を組みながらその報を聞いたとき、彼にはその本能か、あるいはこれが術者としての思念の働きによるものなのか、前線の味方の帰還とはまったく思わなかった。
「バル、聞いたか」
静かにまぶたを開くと、第一の腹心にして親友である氷の術者、バルが目を血走らせ、顔を土色にして微動だにもできずにいる。
「ムングが来たのだろう」
信頼する部下の手前、落ち着き払って言ったつもりが、語尾がわずかに震えた。
エルスが閨で話したことがある。アルトゥ、ムングは幼くして祖父に素質を見出され、その思念も極めて強力、アルトゥの慈悲は人々の犯したあらゆる罪を洗い流すに足り、ムングの勇気は人々のいかなる罪をも容赦なく指弾するであろう、と。
「バル、ドルジとカジュダルに伝えるのだ。ムングとは戦うな。私が囮になる。奴は恐らく新たな術者と妹の死を知っている。間違いなくこの要塞を急襲し、私を殺そうとする。勝ち目は万に一つあるかないかだろう。だから私が囮になって、奴の注意を引く。お前たち三人は気配を消し、隙を見て一斉にかかれ。私も機を逃さず、残った力を解放してとどめを刺してやる」
この日、エルスの死から未だ10日も出ていない。
セトゥゲルは予言した。
「陳腐な策だが、奴が死に、私が生き残れば、私の生涯においてこれが最高の作戦となるだろう。私が死ねば、最後の作戦となる」
城壁から物見台へと上った。探す必要もなく、西のその地点だけが、異様に明るい光を放っている。しかも奔馬のごとき勢いで、こちらに向かっているようだ。
戦慄し、歯の根が合わぬほどに震えながら、彼は全兵士に敵襲に備えよ、と号令した。
兵たちは動転するばかりであった。西に見える火の群れは、敵軍なのか。敵軍だとしたら、前線の味方はもはや敗走したのであろうか。そのわりに、敗残兵より敵の方が早く到着するとはどういうことか。そもそも、わずか300人程度の守備部隊しか駐屯していないこの要塞で、あれほど意気さかんな大部隊を食い止められるものなのか。
そうした兵たちの動転は全軍に波及して、上を下への混乱を招き、すぐに恐慌状態に陥った。指揮系統が乱れ、セトゥゲルの指令もほとんど行き渡らなくなった。
しかし、彼としてはむしろ望ましい。あえて味方に必要な情報を与えず混乱させ、彼の腹心たちが隠密裏に動きやすい状況を現出させたのである。
そうこうするうち、火の群れはみるみる大きくなり、その姿がはっきりと見えるまで近づいた。
ムングである。単騎であった。
大部隊に見えたのは、彼女の使役する焔の群れであった。その猛火に照らされて、要塞の城壁まで、まるで夜が昼かのように明るい。あれだけの炎を生み出すには、途方もない思念の強さが必要であろう。やはり彼女の術者としての力は、セトゥゲルらにわか仕込みの術者とは比較にならない。次元が違うと評しても過言ではなかろう。
ムングは、その細身の体からは想像もつかない大音声で、セトゥゲルを呼ばわった。
「エルスはどこだ、どこへやった!」
無駄と知りつつ、セトゥゲルも応じた。彼の出方次第でその運命も左右されるという切所だが、さすが場に出ると度胸がある。そのよく響く声にはわずかの乱れもなかった。
「ムングか。エルスは亡くなった。実に、悲しむべきことだ。詳しく事情を話すゆえ、気を静めて城内へ入れ」
「黙れ!貴様は人の皮をかぶった狼だ。妹を騙し、その命と引き換えに術者の力を手に入れたのだろう。姉妹と祖父に代わって、私が貴様を殺す!」
「誤解だ、私は確かに術者としての導きは受けたが、それはエルスの意志によるものだ。彼女の死も、事故によってである。とにかく今は言葉を尽くせぬから、中で静かに語り合おうではないか」
「この卑劣な毒虫め!私にはお前の邪悪な思念が見えている。人面獣心の貴様を城ごと燃やし尽くし、生きたまま火葬にしてくれる!」
聞くに堪えない罵詈雑言、すさまじい憎悪、悪鬼のごとき殺意と言うべきであった。
彼女の怒りが増すごと、熱風がセトゥゲルの頬をちりちりとかすめてゆく。
彼の周囲では既に、兵どもが逃げ出す気配がした。彼はそれを止めようともせず、むしろ煽りたいくらいであった。ムングの前では、腰抜けの兵が束になったところで、虫けら同然である。
セトゥゲルは説得が効かぬと知って一転、彼女を挑発することにした。彼女の怒気を極限まで高めれば、かえって乗じる隙も生まれるだろう。
「私とて術者の端くれだ、そう易々と殺されはせん。私にはエルスの加護もあるのだからな」
「妹の名を口にするな!」
その瞬間、ムングが発した思念の塊が、巨大な火竜となり、一直線に物見台のセトゥゲルを襲った。激烈な火勢を、セトゥゲルも思念を一気に解放して凌いだ。
彼は術者としての基本である「結界」を、この時完全に手に入れていた。
「結界」はすなわち、その術者の絶対の防御領域である。術者の周囲を球状の思念の防壁で覆い、外部からのあらゆる攻撃を中和することができる。セトゥゲルの周囲には黄金色の守護空間が広がり、その表面には無数の微細な雷光が閃いていた。
だが、この結界の生成には一定の体力と気力を消費するのも事実である。ムングの術にかかれば、いずれ彼の結界は食い破られてしまうに違いない。セトゥゲルは石の焦げるにおいを嗅ぎながら、物見台を下り要塞内へ逃げ込んだ。
そこへ、ムングの操る火竜が追い撃ちをかけた。
まさに、地獄の業火と見まごうばかりの、恐ろしい光景であった。
彼女の僕たる幾筋もの炎の竜は、風のような速さで要塞に殺到し取り囲んだかと思うと、逃げ惑う兵を手当たり次第に呑み込んでいった。兵らは次々と焼死体となって転がり、要塞はさながら巨大な火葬場となった。人体は骨屑と化してたちまち焦げ、木は炭になり、石さえも溶けた。
(術者、これほどの恐るべき力を持っているのか)
必死に結界を張って逃げながら、セトゥゲルはこれが真の恐怖かと思った。彼が一瞬でも思念を弱めれば、彼を守る雷の結界は脆くも火竜に食いちぎられ、その肉体は現世に跡形も残らないであろう。
ムングは、火竜を操ってセトゥゲルを追うことはしなかった。彼女はそれほど生易しいことはせず、要塞ごと棺にして、セトゥゲルを火葬にしようとしているらしかった。
彼は地下に逃れようとしたが、既に炎が回り込んで退路を断たれており、ひたすら結界の中に籠もってムングの苛烈な攻勢に耐えるほかなくなった。この状況では、彼の部下たちも反撃の機会なく既に朽ち果てているかもしれない。
やがて酷熱が結界を浸透し、セトゥゲルの意識を朦朧とさせた。耳が、ずいぶんと鈍くなっている。体重を支えられなくなり、両膝が折れ、手を床についてかろうじて昏倒するのを防いだ。その手も、焼けるように熱い。あるいは、焼けているかもしれない。それすら、判断する能力を失っていた。
「エルス」
まどろみ、視界がゆがみ、彼の強靭な思念もついには途切れかかって、すがるようにその名を呼んだ。
「エルス、許してくれ。助けてくれ」
残された意識の深奥で、エルスが蘇った。
小さな花壇をつくり、懸命にランの花を育てている。あの頃、毎日、その花壇の前で腰を下ろし話し込んだ。エルスははじめは緊張していたが、徐々に心を開くようになり、姉や祖父、故郷について楽しげに話すようになった。同時に、セトゥゲルのことも知りたがった。将軍たるセトゥゲルに、謹厳で好戦的であるという先入観を持っていたようだったが、彼が意外にも炊事係の老兵や要塞に生えるカタバミの茎の味について面白く話すので、エルスは夢中になって笑い、笑う都度、彼女の情愛が増してゆくのが分かった。
エルスがセトゥゲルを男として、あるいは女として受け入れた初めての夜、彼女は痛みと羞恥に耐えかね、涙をこぼしながらしがみついた。ただ一途に、セトゥゲルに愛されようと振舞った。その表情も、その肌も、その声も、セトゥゲルの体にしみ込むようにして残っている。あの時、エルスは彼に自分の全てを捧げたような想いだったのであろう。
そして、その短い命の最後の日、エルスは彼の腕の中で眠るようにして逝った。彼女が俗界に残したのは、優しく穏やかな微笑であった。死の間際、あふれる血に溺れながら、どれだけ苦しかったのであろうか。それでも確かに、彼女は微笑んでいた。あるいは彼女は、セトゥゲルの手で、その腕に抱かれながら、死にたいと願っていたのではないか。エルスの末期の表情を、彼はそのように解釈していた。願いを叶えられたことで、彼女は幸せだったのだろうか。
違う。
幸せとはもっと、彼女が欲した幸せはもっと別にあったはずだ。
「エルス、私が奪った、お前の全てを奪った。許してくれ」
吐き出すように、彼は哀願した。
すると、彼の周囲を取り巻いていた火炎が急速に収束し、わずかずつ、視覚や聴覚が戻り始めた。
(エルス、聞き届けたのか…?)
そうではなかった。
ひざまずいた彼のすぐ近くに、ムングがたどり着いたのであった。
力尽き、どうと仰向けになった視界の端で、ムングが片手に杖、もう一方の掌には人間の頭ほどの大きさの火の玉を乗せて佇んでいる。
術とともに生き、術とともに死す、真の術者の姿であった。
万に一つは勝ち目があるか、などとわずかでも期待をしたのが、今では度しがたいほど愚かであったと分かる。
ムングは、最後に目の前でこの不逞な野心家を抹消してやろうと思ったらしい。
(死ぬ)
確信をもって、彼は数秒後の未来を占った。
疲労と消耗で、全身が亀にでもなったようで、身動きもできない。抗う気ももはや起きなかった。思念をすっかり使い果たして、木偶人形も同然であった。
そして、ムングが火球をセトゥゲルに向けた、まさにその時だった。
大火のなかでどうやって侵入したのか、一匹の黒い大蛇がするすると音もなく忍び寄ったかと思うと、ムングの首筋に噛みついた。毒を注入するとともに、頚椎をも噛み砕こうという勢いである。
その衝撃で、ムングは杖を取り落とし、掌の火炎も消えた。
彼女は結界を張り、その守護力によって、この闖入者を叩き出そうとした。
瞬間、ムングの周囲に赤い障壁が出現しかけた。しかしそれは怒涛のような勢いで叩きつけられた水球によってかき消された。
ムングは逆上し、さらに思念を放出しようとしたが、そこへ次の術が殺到した。
鋭い氷の槍が、彼女の胸部を突き、背中までを貫いたのである。
その光景に、セトゥゲルはやにわに生への執着を取り戻し、豹のように飛びかかった。手にはエルスを殺めた短剣を握っている。
ムングの喉元に、深く突き立てた。
彼女は即死し、その術もたちまち消え去って、あとには暗い廃墟と化した要塞が残った。
セトゥゲルはムングの死骸に勢いのままのしかかり、それからぴくりとも動けなくなった。
ただ荒い呼吸を繰り返し、再び遠くなる意識のなかにあった。その呼吸の合間、何者かがどさりと倒れる音を聞いた。彼の腹心たちであろう。
(勝ったのか…?)
勝ったと言えるのであろうか。このまま眠ってしまえば、いわば相打ちとなって、彼も意識の戻らぬまま絶息してしまうかもしれない。
だが、眠かった。
彼はムングの血に染まったデールの帯に顔を埋めたまま、前後不覚に陥った。
0
お気に入りに追加
35
あなたにおすすめの小説
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
ReBirth 上位世界から下位世界へ
小林誉
ファンタジー
ある日帰宅途中にマンホールに落ちた男。気がつくと見知らぬ部屋に居て、世界間のシステムを名乗る声に死を告げられる。そして『あなたが落ちたのは下位世界に繋がる穴です』と説明された。この世に現れる天才奇才の一部は、今のあなたと同様に上位世界から落ちてきた者達だと。下位世界に転生できる機会を得た男に、どのような世界や環境を希望するのか質問される。男が出した答えとは――
※この小説の主人公は聖人君子ではありません。正義の味方のつもりもありません。勝つためならどんな手でも使い、売られた喧嘩は買う人物です。他人より仲間を最優先し、面倒な事が嫌いです。これはそんな、少しずるい男の物語。
1~4巻発売中です。
異世界で穴掘ってます!
KeyBow
ファンタジー
修学旅行中のバスにいた筈が、異世界召喚にバスの全員が突如されてしまう。主人公の聡太が得たスキルは穴掘り。外れスキルとされ、屑の外れ者として抹殺されそうになるもしぶとく生き残り、救ってくれた少女と成り上がって行く。不遇といわれるギフトを駆使して日の目を見ようとする物語
英雄召喚〜帝国貴族の異世界統一戦記〜
駄作ハル
ファンタジー
異世界の大貴族レオ=ウィルフリードとして転生した平凡サラリーマン。
しかし、待っていたのは平和な日常などではなかった。急速な領土拡大を目論む帝国の貴族としての日々は、戦いの連続であった───
そんなレオに与えられたスキル『英雄召喚』。それは現世で英雄と呼ばれる人々を呼び出す能力。『鬼の副長』土方歳三、『臥龍』所轄孔明、『空の魔王』ハンス=ウルリッヒ・ルーデル、『革命の申し子』ナポレオン・ボナパルト、『万能人』レオナルド・ダ・ヴィンチ。
前世からの知識と英雄たちの逸話にまつわる能力を使い、大切な人を守るべく争いにまみれた異世界に平和をもたらす為の戦いが幕を開ける!
完結まで毎日投稿!
『収納』は異世界最強です 正直すまんかったと思ってる
農民ヤズ―
ファンタジー
「ようこそおいでくださいました。勇者さま」
そんな言葉から始まった異世界召喚。
呼び出された他の勇者は複数の<スキル>を持っているはずなのに俺は収納スキル一つだけ!?
そんなふざけた事になったうえ俺たちを呼び出した国はなんだか色々とヤバそう!
このままじゃ俺は殺されてしまう。そうなる前にこの国から逃げ出さないといけない。
勇者なら全員が使える収納スキルのみしか使うことのできない勇者の出来損ないと呼ばれた男が収納スキルで無双して世界を旅する物語(予定
私のメンタルは金魚掬いのポイと同じ脆さなので感想を送っていただける際は語調が強くないと嬉しく思います。
ただそれでも初心者故、度々間違えることがあるとは思いますので感想にて教えていただけるとありがたいです。
他にも今後の進展や投稿済みの箇所でこうしたほうがいいと思われた方がいらっしゃったら感想にて待ってます。
なお、書籍化に伴い内容の齟齬がありますがご了承ください。
もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。
軍艦少女は死に至る夢を見る~戦時下の大日本帝国から始まる艦船擬人化物語~
takahiro
キャラ文芸
『船魄』(せんぱく)とは、軍艦を自らの意のままに操る少女達である。船魄によって操られる艦艇、艦載機の能力は人間のそれを圧倒し、彼女達の前に人間は殲滅されるだけの存在なのだ。1944年10月に覚醒した最初の船魄、翔鶴型空母二番艦『瑞鶴』は、日本本土進攻を企てるアメリカ海軍と激闘を繰り広げ、ついに勝利を掴んだ。
しかし戦後、瑞鶴は帝国海軍を脱走し行方をくらませた。1955年、アメリカのキューバ侵攻に端を発する日米の軍事衝突の最中、瑞鶴は再び姿を現わし、帝国海軍と交戦状態に入った。瑞鶴の目的はともかくとして、船魄達を解放する戦いが始まったのである。瑞鶴が解放した重巡『妙高』『高雄』、いつの間にかいる空母『グラーフ・ツェッペリン』は『月虹』を名乗って、国家に属さない軍事力として活動を始める。だが、瑞鶴は大義やら何やらには興味がないので、利用できるものは何でも利用する。カリブ海の覇権を狙う日本・ドイツ・ソ連・アメリカの間をのらりくらりと行き交いながら、月虹は生存の道を探っていく。
登場する艦艇はなんと57隻!(2024/12/18時点)(人間のキャラは他に多数)(まだまだ増える)。人類に反旗を翻した軍艦達による、異色の艦船擬人化物語が、ここに始まる。
――――――――――
●本作のメインテーマは、あくまで(途中まで)史実の地球を舞台とし、そこに船魄(せんぱく)という異物を投入したらどうなるのか、です。いわゆる艦船擬人化ものですが、特に軍艦や歴史の知識がなくとも楽しめるようにしてあります。もちろん知識があった方が楽しめることは違いないですが。
●なお軍人がたくさん出て来ますが、船魄同士の関係に踏み込むことはありません。つまり船魄達の人間関係としては百合しかありませんので、ご安心もしくはご承知おきを。かなりGLなので、もちろんがっつり性描写はないですが、苦手な方はダメかもしれません。
●全ての船魄に挿絵ありですが、AI加筆なので雰囲気程度にお楽しみください。
●少女たちの愛憎と謀略が絡まり合う、新感覚、リアル志向の艦船擬人化小説を是非お楽しみください。またお気に入りや感想などよろしくお願いします。
毎日一話投稿します。
30代社畜の私が1ヶ月後に異世界転生するらしい。
ひさまま
ファンタジー
前世で搾取されまくりだった私。
魂の休養のため、地球に転生したが、地球でも今世も搾取されまくりのため魂の消滅の危機らしい。
とある理由から元の世界に戻るように言われ、マジックバックを自称神様から頂いたよ。
これで地球で買ったものを持ち込めるとのこと。やっぱり夢ではないらしい。
取り敢えず、明日は退職届けを出そう。
目指せ、快適異世界生活。
ぽちぽち更新します。
作者、うっかりなのでこれも買わないと!というのがあれば教えて下さい。
脳内の空想を、つらつら書いているのでお目汚しな際はごめんなさい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる