上 下
23 / 39

決して勝てない

しおりを挟む
 新しくなった病院の食堂は患者さんにも好評だと前に聞いたことがある。俺が着いた時には、若先生は既に日替わり定食を食べ始めていた。
 俺は缶コーヒーが既に準備をされた若先生の席の前へ座り、時間がないとのことなのでさっさと用件を切り出した。

「大和から聞きました。俺が空手をしたいって、どうして嘘をついたんですか?」
「僕は嘘なんて言わないよ。ガクガク絵師は空手が好きでしょう?」
「……好きか嫌いかと聞かれれば好きですけど」
「うん、それならいい。僕は、君も知ってのとおり空手の師範代と、君たちのように空手でケガをする人をいつも診ている。だから一つだけ自信をもって言えることがある」
「何ですか」
「空手になんの未練もなくなった人はさっさとやめてしまうし、やめたいけど少しでも未練のある人は、ケガとか忙しいとかの理由を自分に言い聞かせてやめてしまう。だけど本当に好きな人は何があってもやめることはない」
「それが俺にどんな関係が?」
「ガクガク絵師はどんなに辛くても空手をやめなかった。つまり好きが上回ったんだ。そして好きな人は、すべからく上手くなりたいと思っているし、試合に出れば勝ちたいものだよ」

 それはまあそうだ。負けるために試合へ出る人間はいない。

「君が続けているのも好きというベクトルなら、必然的に強くなりたいし、試合にも出て勝ちたいだろうと僕は思っただけだ」
「勝手な思い込みではないですか?」
「何を言っているんだい、ガクガク絵師。君の踊り場の絵、あれは大輔だろう?」
「え、あ、な、何を」

 俺は本当に意表を突かれて、みっともないほどうろたえた。

「別に答えにくければ答えなくてもいい。だけどあれは大輔にしか見えない。君はあの時、とても打ちのめされていた。試合に出られなかったことをひどく悔やんでいた。あれだけ高橋君たちに大見得を切ったのだから、仕方ないと言ってしまえばそれまでだけど。そして負けない強さを心から欲して、その想いをキャンバスへ叩きつけて出来上がったのがあの絵だ。違うかな?」

 若先生は嫌味の一切ない澄んだ笑みで俺を見ている。

「実際のところ、君の三段昇段審査を見ていなければ気づけなかったかもしれない。君は大輔との組手で負けたにもかかわらず、最後の最後にたった一本だけ取れたことを本当に嬉しそうにしていた。僕が知る限り、道場での君のあのような表情は初めて見たと記憶している」

 確かに喜び過ぎて大先生にも大目玉をくらった。だけど抑えきれなかった。
 俺が空手を始めた一番の動機は熊沢をぶっ飛ばすためだった。
 実際に殴り合えば有無を言わさずコテンパンにやられて終わるだろうが、空手のルールにのっとって、やっとあいつに手が届くところまでこれた。 
 本当に実感できたんだ。

「何と言わせてもらえばいいのか少し複雑なところだけど、正も邪も併せて、君の大輔への想いの強さを感じた。そしてあの欠場試合のあとに出来上がった絵。静かな緑の重々しい彩りの中、大きく広い背中の男性が正拳を天へと振り上げている。横向きの顔は暗く下半分しか描かれていないけれど雄叫びが聞こえそうなほど猛々しい。体格は少なくとも君よりは大きく大人のもの。かといって親父や僕ではない。僕は君の絵のファン第二号だけど、第一号は君の空手のファン第一号でもあるんだよ」
「桜ちゃん――ですか?」
「そう。あの子は君が初めて会った時に描いてくれた似顔絵を、今でも大切に机の引き出しにしまっているんだよ」

 公園でなかなか泣き止まないので、苦し紛れに似顔絵を描いてあげたら泣き止んでくれたんだよな。
 おかげで懐かれて誘拐騒動になったのは、今となっては笑い話にできるけど当時は本当に悔しかった。
 その原因が熊沢だ。

「桜と僕はね、ガクガク絵師が展覧会で賞を受けたと聞いて、会場まで見に行ったんだ。そしてあれを見た瞬間の娘が『熊だ!』と指差して、とても嬉しそうに笑ったんだよ」
「……本当にまいりますね、桜ちゃんには」

 描いた俺自身に認めたくない気持ちもあるが、あれは間違いなく熊沢だ。
 考えたわけじゃない。思ったこと、欲した気持ちで筆を動かしたら出来上がっていた。
 若先生の分析に間違いはない。
 さらにあの嫌な思い出を共有しているだろう桜ちゃんが、あの絵を見て喜んでくれていた。
 誰にも言ってない絵のモデルを知られていたのは、嬉しいのか悔しいのか涙が溢れそうになる。

「私の娘ながら本当にいい子だと思うよ。そしてあの子が喜ぶことを何をしてでも叶えてあげたい。ガクガク絵師がまた空手をやる気になったのは、パパのおかげだよって自慢くらいさせてくれてもいいとは思わないか?」
「若先生、その言い方はズルいです」
「いいんだよ、大人なんだからズルくて」

 くっそ、やっぱりこの人は何もかもお見通しで面白がっている。
 俺は気持ちを奮い立たせるために勢いよく涙を拭いて顔を上げた。

「そうだ。桜のほかにもう一人、あの絵にどうしようもなく心を動かされた女の子を知っているよ」
「え?」
「その年で多くの女の子の心を弄ぶのは関心しないね」
「人聞きの悪いことを言わないでくださいっ!」
「女たらしになってもらっては困るけど、自信がなさすぎるのも考えもの、ってな感じの兼ね合いが難しいところかな」

 若先生は爽やかな笑顔で片目をつぶって見せる。
 だが俺にも少しだけ心当たりがある。その子はたぶん月島だろう。

「そこで少しは厳しい試練も必要かと思って用意をしてあるよ。今週から君たちのチームを特別にコーチしてあげよう」
「本当ですか?」
「僕は師範代だよ。道場から選抜メンバーを出すのに鍛えないなんてないでしょう」
「ぜひお願いします!」
「任せておいて。そうそう、ガクガク絵師には別にコーチを呼んでおいたから」

 ……なるほど、そういうことですか。
 若先生の表情と話の流れでわかってしまったが、念のため確認せずにはいられない。

「……熊沢ですよね」
「君の大好きな熊の大さんだ」
「どこかの蜂蜜好きのキャラクター熊みたいな呼び方をしても、あいつは全然かわいくないです」
「でも強いよ。本気でやったら僕でも勝てない」

 若先生は六段、熊沢は五段。しかし体格では熊沢のほうが恵まれているし、何より警察官として実戦経験が豊富だ。
 かと言って若先生が負けるとは口には出しづらかったので、俺はあいまいに笑ってごまかした。
 話が終わった若先生は急いで診療室へと戻られたが、俺はその場から動けなかった。
 また熊沢と手合せができる。ここしばらくは感じることのなかった不思議な高揚感が俺の身を包んでいた。

 数日後、道場では俺たちのために大会用の練習が始まった。大きく肩で息をする俺の目の前には、熊沢が面白くなさそうに太い首と肩を回して立っていた。
 俺は大和のように器用ではない。相手に対応して攻め方を変えるなんてできない。
 昔からやってきたのは、大先生も認めてくれるこの両足を起点にした戦い方だ。
 大先生はいつも言われている。どれだけ多種多様な技を修めようが、実際に試合で使いものになるのは血反吐ちへどくような鍛錬を積んで、無意識で出せるくらいまで身に着けたものと。
 一般的に空手は『せん』、つまり自らは攻撃を仕掛けず、相手が仕掛けたものへ応ずる武道とされてきたが、最近は先手を取ることも重視されている。大会のルールでも、攻める姿勢を見せないと警告をされて不利になる。
 そのため俺は、一般的な技のほかに攻め手で二つ、防御で一つの技を中学から磨いてきたが、ここしばらくの鍛錬不足が如実に表れていた。中三の時には決められた攻撃が今はまったく通用しない。
 同じ道場なので熊沢に手のうちを知られていることを考えても、俺の技の劣化は目に余るらしかった。

「お前、サボっていたから昇段審査の時より弱くなってるぞ」
「うるさいっ」
「口だけ達者なのは相変わらずか。そろそろいいか?」

 サボり魔のお前にだけは言われたくない、と憎まれ口を心で叩いても事実はそのとおりでしかない。
 熊沢がそれまでのだらしない姿勢から左手を前にして構えると一気に動いた。俺は蹴りを変形させた得意の足技による防御を試みる。熊沢は大きな体から想像がつかないほど素早く動いて俺の右前足をあっさりかわす。そのまま俺の左足を引っ掛けて倒し、かなり痛い一発を腹へと入れた。
 思わず息が詰まって涙が出る。

「隼人からお前に先鋒か中堅を任せたいと聞いているが、その実力ではお飾りの大将がせいぜいだ。いつまで過去を引きずっていい気でひたっているんだ?」

 寝転がっている俺を見下ろす熊沢の目がとても冷たかった。
 口の中に苦い鉄の味が広がる。
 こんな思いをしてまで何をやっているんだろう――だが今さら後には引けない。
 俺は急いで立ち上がる。ただひたすら目の前の男へ喰らいつき、倒されては殴られるだけの練習を終えて家に帰るを繰り返した。
 カラスの行水の俺が、ほぼ毎日、風呂へ入って体をほぐしたくなるほど疲れ果てていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。

スタジオ.T
青春
 幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。  そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。    ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。

マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました

東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。 攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる! そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

処理中です...