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第一章 訪れた転機

#02 インスタントコーヒー

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「晩ご飯は?」

「わかんね。一応作っといて」

「はいよ。ー」

 毎朝恒例の会話というわけではない。
ただ偶然同じ時間に起床したのでなんとなく、幸呼は出勤前の縁多にそう聞く。

 自宅を後にする縁多を珍しく見送り、幸呼の手はテレビのリモコンへと伸びる。

天気予報によると『本日は快晴、良いお洗濯日和となるでしょう! 午後は曇り、雲が多く出ますが雨の心配は要りません。――それでは今日も元気に……いってらっしゃい!』との事だった。

――午前中は晴れで午後は曇りか……よし!

「洗濯物干して散歩だ! たまにはカフェでも行ってみようかな? ……やっぱり止めとこう、そんな度胸ない。買い物、買い物」

 有言実行。

布団を干し、シーツと衣類を洗濯……そして身支度を整えると、独身時代から節約のために続けている家庭菜園の苗に水をやり、掃除の後布団を軽く数回叩いて取り込む。

予備のシーツを用意してベッドメイキングを済ませると空のご機嫌を確認。

 予報通り、とてもいい天気だ。
幸呼は快晴の空に白い歯を見せて笑うと、折り畳んだエコバッグをポケットに仕舞って自宅を飛び出した。

 食費とは別に、縁多から自由に使っていいと毎月一万円を受け取っている。

結婚当初、縁多は「毎月自由に使える金、五万でいいか?」と提案したが、幸呼は「助かる。でもそれじゃ多過ぎるから、一万円だけ」と首を振った。

「えー! マジかよお前! 高校生の小遣いじゃん!」と仰け反って驚いた縁多だが、化粧品やトレンドの洋服等、それらのものに一切の興味を示さない幸呼にはそれで充分だった。

――夕飯は……何にしよう? エンは冷めてたって文句は言わないし、別に何も言わないからな。テキトーでいいや! 何が安いかな?

 新聞を取っていない人善家……故に広告も入らない。それは幸呼の希望からだ。
実際にスーパーや商店街に赴き、その日安い食材を見て一般的なものから創作料理を想像し、それを実現させるのが密かな趣味であるためだ。

本日も鼻歌交じりに陽気な足取りで行きつけのスーパーへ向かう。

「今日の収穫は?」

 入口の野菜コーナーを通り過ぎた幸呼はふと昨夜の縁多との会話を思い出す……。



 * * *



「――コウ」

「んー?」

「明日買い物行くだろ? 缶コーヒー買っといてくんね? 俺朝じゃん? だからコンビニ寄る暇もぇからさぁ……出勤しながら飲みてぇのに間に合わねんだよ」

「はいよ、リョーカイ」



 * * *



――忘れないうちにコーヒーな。……メモも無しに思い出した私えらい!

 グッと拳を胸に迎えて大きく頷いた幸呼が気を取り直して顔を上げると、ドリンクコーナーに困った表情のスーツ姿の男性――御倉弥生みくらやよい――が何度も足を彷徨わせているのが目に入った。

サラリーマンだろうか、どうもだ。

キョロキョロと幾度も首を動かし、目を泳がせるその姿にいたたまれなくなった幸呼が声を掛ける。

「……何かお探し物ですか?」

 余程驚いたのだろう、弥生は大きく肩を跳ねさせて幸呼の声に反応すると更に困ったように眉を八の字にして笑って見せた。

「あ……ああ、そうなんです。お恥ずかしながら、あまりに来ないものですから、どうも勝手に疎くて……」

「そうなんですか」

――富裕層の人間の言葉は腹立つなぁ。

 そう思った幸呼だが勿論それは顔には出さず、何を探しているのか尋ねようとすると、突然慌てたように手をパタパタと上下させた弥生。
その額には冷や汗が滲んでいる。

「あ! お、お気を悪くされたならすみません!」

 幸呼は目を丸くして驚く。

「えっ!」

「いえ、その、先のという僕の言葉でお気を悪くされたのではないかと思いまして……。お恥ずかしながら僕は独身でして、スーパーで買い物をして自炊をするよりもコンビニで簡単に済ませる事が多いものですから……いや、本当にお恥ずかしい」

 段々と小さくなるその声に幸呼はくすりと笑った。
恐らく幸呼よりも年上だろう。しかし子供のように他人の表情に敏感で、男性であるが『可愛らしい』という印象を受ける。

「そうでしたか。私の事はどうぞお気になさらず……ところで何を探していらっしゃったんです?」

「ああ! そうです! インスタントコーヒーを探しているんですけど……」

「それなら、向こうに見える棚から手前に三つ数えた所ですよ。三つ目の棚です」

 弥生は幸呼の指す方を見ながら小さく「三つ目……」と零すと長く息を吐いて心底安心した様に、けれどどこか嬉しそうに微笑んだ。

「わかりました、ありがとうございます。貴女のような親切な女性にお会い出来てよかった」

『親切な女性』――未だかつて自分をそう呼ぶ男がいただろうか?
幸呼は何気ない弥生のその一言に気恥ずかしさと照れを感じ、ぎこちなく目を泳がせて「いえ、そんな」と笑う。

――そっか、私って『女』なんだ……。

 当然の事ではあるが、学生時代から現在に至るまでの殆どを男っ気なしに過ごしてきた幸呼にとって、は落雷が直撃したかの如く衝撃的なものだった。

そんな幸呼にはお構い無しに、弥生が「あ」と声を上げる。

「可愛らしいですね。そうして笑っていた方がずっと素敵ですよ」

 先程までのたどたどしさは何処へいったのだろうか。
さらりと言ってのける弥生に、今度は幸呼がたじろぐ。

「ああ! もうこんな時間! では、本当にありがとうございました。とても助かりました! 仕事があるので僕はこれで……」

 腕時計を確認した弥生は慌てた様にそう言うと足早に去って行った。
その場に残された幸呼は弥生の去って行った出入り口をポカンとした顔で見つめながら、弥生のような亭主ならさぞ温かい家庭を築けるだろうと考えていたが、別の思考がそれを遮り思い至る。

――コーヒー……買わないのか……。









『本日は快晴、良いお洗濯日和となるでしょう! 午後は曇り、雲が多く出ますが雨の心配は要りません』

 降り出した雨に幸呼が気付いたのは、買い物を済ませた後だった。
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