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四章
25話【地上での出会い】
しおりを挟む深い森の一角、地上から上空へ向かって閃光が走る。眩い光は瞬時に消失し、辺りには耳鳴りのような残響が尾を引いた。
豊かな緑に囲まれた日光を反射する湖に気泡が立つ。それは大きくなり、水面で影が揺れたかと思うと人が飛び出した。
『ぷはぁッ…はぁ、はぁ…!あのクソ野郎~~』
白髪の青年、スレインは悪態を吐きながら岸を目指す。突然多量の水に襲われ泳げなかったクルルを抱えて湖から這い出た。
『クルル!しっかりしろ!』
岸辺に寝かせた少女の頬に張り付く髪を拭う。そっと触れた肌は驚くほど冷たい。数回呼び掛けても応答せず、瞼を固く閉ざしたままピクリとも動かない。息をしていないと分かるや否や気道確保し人工呼吸を施す。
肺に空気が満たされるのを横目で確認する。焦燥に駆られながらもう一度息を吹き込む直前、少女の指先が動いた。
「けほっ…ケホッ…ハァ、」
華奢な体が上下し咳き込んだと同時に飲んだ水を吐く。
『クルル…』
安堵した青年はクルルを抱き寄せた。
「レイン…?」
『良かった…』
彼女の呼吸が止まってる間、生きた心地がしなかった。細い腕がレインの背中に回され、幼児を落ち着けるように上下する。濡れた服からじんわりと少女の体温を感じ、生きていると実感した。
地上への転移先を湖の底にしていたなど、冗談で済む話ではない。エドヴァンに対して並々ならぬ殺意が眉間の皺となって表れる。
『大丈夫か?』
「だいじょうぶ。びっくりしただけ。それより…」
ニコリと笑った少女の顔色はみるみるうちに良くなり、スレインは胸を撫で下ろす。
「ん」
『ん?』
スレインの服を引っ張り目を瞑る神獣は唇を突き出す。
人命救助の処置を熱い接吻だと受け取ったクルルの、期待に揺れた尻尾が視界の端に映る。
『あのねクルルさん、今のは呼吸を促す行為で…』
「ねつれつだった」
『…』
またいつの間にか覚えた言葉を披露する。死にかけたのもそっちのけで愛撫を欲する少女がのんき者で愛おしくて額にキスをした。
クルルは「むぅ」と額を押さえ、名残惜しそうにしている。
スレインは誤魔化すように立ち上がり周囲に視線を巡らせた。
湖の端。深い緑の中で、木々の背が高く力強い。コケが蔓延り木や地面を覆っていた。雄大な自然に行手を阻まれたのか、人の手はまったく入ってない未開の――
「もり」
『森だな』
「…ッ、へくち!」
小さなくしゃみが聞こえた。
『風邪引くから一先ず全部脱いでくれ』
「ッ!!」
待ってましたとばかりにクルルは嬉々として服を脱ぐ。衣類を着るには随分と時間が掛かる彼女でも脱ぐのは一瞬だ。
言いながらスレインも背広とベスト、シャツを脱いでいく。インナー姿の彼が濡れた前髪を掻き上げる仕草にクルルの期待値は急上昇した。鼻息荒く舌舐めずりをし、手をワキワキさせて青年に忍び寄る。
すると指輪から乾いたタオルを取り出したスレインに素肌をすっぽり隠されてしまった。柔らかな感触が体を包み水気を吸収する。
「…」
望んだ展開じゃない。クルルの虚無な瞳が物語っていた。
更に青年は手頃な枝を集めて火をつける。黒々とした炎は温かくクルルを照らしたが彼女は口をへの字に曲げて渋い顔をしていた。
『どしたん?寒い?』
「…」
譲り受けた大型二輪のガンマと木の枝にロープを張り、クルルの衣類を慣れた様子で干していく。自らの背広とベスト、ワイシャツも吊るして一息吐いた。
クルルの髪を拭く頃には彼女の機嫌は直り、ガンマに座って炎に当たりながら脚をパタパタ動かす。
『エドヴァンによれば、マーレの近くに出るって話だが…近くって言うよりど真ん中かもしれねーな…』
賢者を自称する胡散臭い人物だが、少なくとも古代魔術の使い手なのは間違いない。その転移先にズレが発生したか、はたまた彼が生きていた時代より森が成長したかだ。
マーレはファヴレット帝国で超危険区域とされ人は滅多に寄り付かない。手付かずの雄大な自然が広がり、木漏れ日が差す様は神々しさまで感じる。
刹那、スレインとクルルは同時に反応を示した。遠くの方が騒がしい。
気配がする方に注意を向けた青年は『クルルはここで休んでろ』と遙か頭上の枝へ飛び乗った。
「…わかった」
少女がコクリと頷くのを確認すると、スレインは忽然と姿を消した。彼が起こした風で葉っぱが舞う。
静まり返った水辺で、また小さなくしゃみが聞こえた。
◆◇◆◇◆◇
マーレの大魔境南部。武装した男たちが騒ぐ。
「盾になってでも御守りしろ!!」
「時間を稼ぐんだッ!」
出発時は白銀に輝いていた盾は今や見る影もない。新調された剣は強靭な爪によって弾かれ刃毀れしている。
防御壁を築いた内側で守られているのは褐色の肌の青年。
齢凡そ16、7歳。漆黒の髪と一碧を思わせる瞳を持っている。新品の防具は魔法が付与されていた。
彼らに群がるのはインピドゥ・ヒヒと呼ばれる魔物だった。人の半身ほどの身長で顔と手足の皮膚が黒く、茶色い体毛に覆われている。
脅威なのはその狡猾さと残虐性に加えて数がもはや暴力的なことだ。
6人の人間たちは夥しい数のヒヒに四方を包囲されていた。
甲高い鳴き声を上げる猿たちの上顎から伸びた2本の牙は長く鋭い。噛まれた数人は未だ出血が止まらず咬傷を庇って動作がぎこちなかった。
グレートウルフとの遭遇を避けるのに夢中で知らぬ間に縄張りに立ち入ってしまった。どれだけ移動しようとも癇癪を起こした猿たちの包囲網は突破できない。
その間絶え間ない投石を受けている。
悪質なのは人間に命中する度に歓声を上げ手を叩いて喜ぶ性格の良さだ。
「フィル・フレア!!」
中心に居た青年が魔術を放つ。最前列の猿たちの目の前で爆発が発生し吹き飛ぶが、直ぐに別の猿が辺りを囲む。
「こうも数が多いんじゃ…きりがねぇ!」
「くそ、これがマーレの魔物か…!」
猿の体は生半可な魔法では毛さえ焦げない。爪は刃を受け止め跳ね返す丈夫さだ。
「狼狽えるな!隙を与えず後退するんだ!」
「…っ、は!」
「承知しましたッ!」
青年の指示でその場の空気が引き締まる。
剣を向け牽制しながらジリジリと後退り、進路には魔術を叩き込むのを繰り返す。そのお陰で一団は着実に望む方向に進んでいた。
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「命あっての物種です!」
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森の外で対策を練るしかない。このままでは全滅する。
自らに言い聞かせて息を吐いた時、
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「キィキキー!」
次の瞬間、猿たちが一斉に飛び掛かって来た。誰もが死を予感し視界を閉ざす。しかし――
『っるせーな』
予想外の事態に陥る。猿たちの群れの中に突如現れた白髪の青年が、足元に居た猿を蹴飛ばした。
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唖然とする一同はすぐさま異変に気付く。インピドゥ・ヒヒが1匹残らず、突如現れた青年に釘付けになったまま異常なまでに震えていた。
「なん、なんだ…?」
先程まで弱火で炙るかの如く攻撃し、こちらの反応を嘲っていた態度とは一変して急に大人しくなっている。
白髪の男が煙草に火をつけようとしながら近付いて来る。森に不釣り合いな革靴が硬質な岩を踏む音が響いた。
着火に苦戦して煙は立ち昇らない。苛立たしげな小さな舌打ちが聞こえた。
その刹那、猿たちが一斉に走り出す。我先にともつれ合い絡まり合いながら死に物狂いで逃亡し、瞬く間に姿を隠した。
生唾を飲む一団の前まで来た男は第一声に『……あのさぁ、誰か煙草持ってねぇ?』と、まるで街なかのように話し掛けてきた。見れば彼が咥えた煙草は水気を含んでいる。
「な、何者だッ!?」
「人に化ける魔物の類か!?」
「下がれ!近付くな!」
剣を突き付けたは良いが、彼に刃が届く気が全くしない。魔境に居ながら丸腰(ほぼ半裸)で、軽快に歩くこの男は只者ではないと誰もが感じていた。
『…ア?…あんた貴族か?』
「こ、このお方を誰だと…ッ!」
「よせベラクール。彼に助けられたのはこちらだ」
手を上げて制止すると、鎧を着た大男は口を噤む。青年に突き付けられた刃の切先を逸らしながら歩み出たのは、この場で1番高い身分を持つ褐色の肌の青年だ。
彼は家臣たちの非礼を詫びた後、手を差し出した。
「助かった。僕の事はアルとでも呼んでくれ。君は…」
『……スレイン』
煙草をその辺に指で弾いて、白髪の青年は手を一瞥するだけで握りもしない。横に控える大男、ベラクールは怒りでこめかみに青筋を浮かべていた。
「スレインか。宜しく」
『貴族なんざと宜しくするつもりはねーな』
「はは、そうか!手厳しいな」
対するアルは気を悪くした様子もなく笑う。
白髪の青年の鋭い眼差しがこちらを観察しているようで、男たちは緊張に身を固くした。
「君は此処で何をしている?」
『…別に。居ちゃ悪ぃのかよ』
「気になっただけだ。此処は人が滅多に寄り付かない魔境だからな」
寄り付くとしたら自殺願望者か武者修行に励む命知らずか、余程腕に自信のある上級冒険者のいずれかだろう。マーレに立ち入ろうとする時点で正常な精神か疑われかねないが。
『そんな所に護衛を付けた貴族が居るってのも、妙な話だがな。……当ててやろうか?』
スレインは忌々しそうに顔を歪める。
『馬鹿げた習わしのアップシートだろ?貴族の意地か知らねーが反吐が出るわ』
堪忍袋の尾が切れた、とベラクールが身を乗り出す。怒りで鼻息荒くして白髪の青年に食ってかかった。
主人の手前、喉から暴言が飛び出そうとするのを必死に耐える男をアルが宥めて言葉を続ける。
「耳の痛い話だが、習慣なんだ。中でも僕は誰よりも大物を仕留めなければならない」
褐色の肌を持つ青年の言葉には揺るがない決意が滲むが、スレインは『ボナゴンで満足しとけ』と受け流す。
「スレイン、僕に協力する気はないか?」
『ないな』
「謝礼は支払う」
『…』
スレインとクルルは無一文だった。
エドヴァンの家には古びた骨董品や魔道具は大量にあったものの、金貨や銀貨、銅貨…その他紙幣やそれに付随する物は一切見当たらなかった。
金目になる装飾品の類もなく、青年は日記に文句を言ったのを思い出す。
物置にあった魔道具を幾つか持って来たのはエドヴァンの提案で、売って生活費の足しにしようとしていたからだ。
今まで間髪入れず返答していた青年が初めて押し黙ったのを見て、アルは彼に今必要なものの当たりをつけた。
「前金で10万シェル。残りは達成後でどうだ?勿論、煙草も渡してやろう」
堂々とした主人の後ろで、ベラクールが「な!?アル、…様…ッ本気ですか!?」と不服そうな声を出す。
言葉には出さないが、得体の知れない彼を主君に近付けて良いものか計りかねている様子だった。
『……乗った。ただし、話が嘘だったら全員殺して魔物の餌にしてやる』
スレインの人間不信は相当なもので、まず裏切られた際の事を考えている。約束を破るなら殺されても構わない、と言質を取る事で苛立つ心を抑えつけていた。
「良いだろう。交渉成立だな」
『…』
スレインは踵を返し『連れが居る』と言い残すと瞬きをする間に居なくなった。
白髪の青年が去った後、時が動き出したと錯覚する。
「良かったのですか!?あんな…無礼な…っどこの馬の骨とも分からない輩を…!」
「ああ。仮に奇跡が起きてあのまま生きて入り口まで戻れていたとしても、何の対策も打てず手詰まりだっただろう」
「しかし…」
アルの予測にぐうの音も出ない。彼を守る立場でありながらヒヒに翻弄されてしまった。
ベラクールは青年の意見を飲み込み、他者に頼らねばならない自らの脆弱さを恥じる。
「…あの者…何者なんでしょう?」
「さぁな…だが、さっきの猿たちを見ただろう?」
「はい……」
「あの生意気な猿たちを一瞬で…」
「魔術の類では?催眠に似た秘術かと」
仲間内で出た言葉に思考を巡らせる。
「……僕が思うに…猿たちのあれは純粋な恐怖心だろう」
充分な間を設けて考えを纏めた。
「インピドゥ・ヒヒは本能的に悟ったんじゃないかと思う」
「一体…なにを…」
「群れ全員で掛かっても彼が敵わない相手だとさ」
「はは…まさか!」
「ここの魔物は他の地域に棲息する魔物の比じゃ…」
「ミスチヴェス・ヒヒの上位種が1人の人間相手にそんな…」
何かの冗談だと乾いた笑いが漏れる。しかしアルの瞳には確信に近いものがあり、護衛の剣士たちは息を呑んだ。
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