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三章
21話【雪白の尾が揺れる】
しおりを挟む何者かの自室のクローゼットに掛けられたシャツを少女に着用してもらう。衣服を着る、という概念が無い少女は目をぱちぱちさせていた。ボタンすら掛けられず、結局スレインが彼女の身なりを整える。
その後少女はスレインの腕にしがみ付いて離れなくなった。
小さなダイニングテーブルに腰掛ける。少女は向かいの椅子を動かして態々スレインの横に座った。彼の手を取ると猫のように身を寄せ頬擦りする。
好きにさせていたスレインにはこの仕草に身に覚えがあった。彼の中の予感が確信に変わる。
『お前、レンヨウだな?』
「ん」
この少女は神獣レンヨウだ。太陽を反射させた海を思わせる瞳、雪白の髪と肌。2本の角と、長い尻尾。神獣が人型になれるとは知らなかったが、その姿は誰もが息を飲む程に秀美だった。
問題はその姿と、スペトラード伯爵家に囚われていた彼女が何故こんな所に居るのか。
「…レインが来なくなった。だから、檻から出て、ずっと探してた」
神獣を逃したなどエドワードは困憊している筈だ。彼は直ちに彼女の捜索と、新しい神獣の捕獲を命じているに違いない。
取り乱す伯爵家の慌ただしい様子を想像すると愉快だった。
『その姿は?』
「魔力封じのかせ、とれた」
細い手首に枷は付いていない。檻を出る際に外れたのだろうか。
『………』
レンヨウが姿を変えられるなど聞いた事もない。考えもしなかった。だが、節々に見られるレンヨウの特徴と、一緒に過ごしていた時の仕草が完全に一致する。
何より彼女と居ると心から安心する。これ程心穏やかなのはいつぶりだろう。
そういえば出会った時、彼女の肌には細かい傷があった。草木にぶつけて出来た裂傷は、まさか自分を探して身の安全を省みなかったから?
頬にも傷があった気がする。頬擦りされていた手をレンヨウの顎に添えると、彼女は全てを悟ったように目を閉じた。ウキウキと白い尾が揺れている。
『傷、ねぇな…』
「………」
顎を放すとジトっと湿った眼で睨まれた。
「…レインが眠って10日はたってる。あんな傷、すぐ治る」
『10日!?』
思っていたより時間が経過している。睡眠と言うより昏睡状態だったようだ。目覚めた事を知ったレンヨウの感極まった渾身のタックルも無理はない。
ジャミルの貯蔵庫に居る間、絶え間なく身体を揺らさねば鼠に食われていた。睡眠などとれる環境ではなかったので、実に3週間ぶりの安眠だった。
『俺の怪我は…』
流石に10日間眠ったからと言って完治するほど人間離れしていない。
「ちゆ魔法、少しは使える」
レンヨウは誇らしげに胸を張る。水属性は癒しの力を併せ持つ。その治癒魔法がなければスレインはとうに命を落としていた。
だが、目を伏せた少女の表情に影が落ちる。
「……腕、治せなかった。ごめん」
『――は、』
命を助けてくれたのに、何を謝る必要がある。
スレインは今までにない柔らかな声で『有り難うな』と素直に感謝を伝える。
怒られる前の子供のようだったレンヨウは目を見開き、嬉しそうに細めた。
『それにしても、よくあの場所が分かったな?確かマーレだろ』
「フフン」
鼻高々と胸を叩く。褒めてほしい、と手に擦り寄る彼女の仕草からマーキングという言葉が浮かぶが、口には出さなかった。
『俺の事も見分けがついてるみたいだったしな…』
出会った時、スレインは悍ましい怪物の形をしていた。寧ろ彼女を攻撃しようとしていた。それなのにレンヨウは身構えて受けるでもなく、無防備に両手を広げた。
彼女を傷付けていたらと、今更ながら恐ろしくなる。我を忘れ享楽に溺れた己が恨めしい。
「レインだけはどんな姿でも分かる」
『………』
「トロール、1匹仕留めてくれた。助けてくれた」
偶然だ。トロールよりレンヨウに槍を撃ち込んでいた可能性も捨て切れない。
世界の総てが敵に思えた。だから全部壊して、滅茶苦茶にしようと思った。
渦巻く憤怒を、憤懣を、瞋恚を、叩き付けてやろうとした。
奸悪な怪物になったとしても構わない。国を滅ぼしたって良い。
暗闇の中、彼女が手を差し伸べてくれなかったら、今頃――。
助けられたのは他でもないスレインの方だ。
右腕に抱き付くレンヨウの頭を撫でる。純白の髪は指通りが良く艶があった。彼女は快く受け入れて喉をクルクル鳴らす。
『あの後の事を教えてくれ』
彼女によればスレインが眠った後、身体が戻り、あの場に魔法陣が展開されたらしい。光に包まれ、気付いたらこの浮島に居たようだ。
魔法陣と言えば、ナタリア遺跡でも似た様な現象が起こった。恐らくマーレに居たのも転移魔法によるものだ。
移動対象者はスレインで、近くに居た彼女諸共移動させられたと考えるのが自然だ。
一体誰に?何の目的で…。
『そう言やぁ、何で俺裸なんだ?』
シーツを摘んで疑問を口にする。
「汚れてたから、洗った」
シンプルな答えが返って来た。
少女は血と泥に塗れた彼を庭にある小さな噴水で洗浄した。
彼女にとって青年に世話されていた時の沐浴のイメージだったが、実際には豪快な洗濯だった。
その後ベッドまで運んで寝かせ介抱していた。
そこまで話した時、スレインの腹が空腹を訴える。
するとレンヨウが「レインがいつ、起きても良いように食べれるもの作ってた」と待ってましたとばかりに起立した。
彼女はパタパタとキッチンへ回り込み、鍋に火を入れる。
くつくつと蓋から湯気が立ち上り、中を掻き回していた。
一体料理などいつ覚えたのかと、興味本位で台所を覗く。そして固まった。
この島で採れた野菜と野鳥が、鍋に入っている。下処理やカッティングなどはすっ飛ばして、素材のまま投げ込まれていた。
野鳥の羽根が浮かぶ、毒々しい具沢山の何かだ。
『なぁ、これ…』
「ここにあった本、色々描いてあった」
スレインが寝ている10日間、レンヨウは家にある本を読んで人間について勉強し、簡単な文字を読めるまでになった。
元々レンヨウは食材に火を通さずとも食べれる。それを加熱してスレインの好みに近付けようと努力していた。
『…俺も手伝うわ』
スレインは茹でた鳥の羽を毟り、首を切り落とす。血が固まっているので内臓と共に極力取り除き、骨と身を分けた。
スレインが手早く捌いていく様を、少女が後ろで見ている。時折「おー」や「わー」など目を輝かせ感嘆の声を上げるので悪い気はしなかった。
野菜は皮を剥き、それぞれ乱切りや一口大にしていく。
合間に2人で菜園へ足を運んだ。葉野菜やトマト、香草を収穫して戻り、再び調理に入る。
「…っ!!、!!」
目の前に並ぶ料理にレンヨウが唾を飲み込む。一仕事終えて椅子に座るスレインの方を向き、料理を見て、スレインの方へと視線が何度も往復した。
『…嗚呼、食べてくれ』
失笑しつつ促すと、彼女は満面の笑みで食べ始める。鳥と香草のトマト煮と野菜のスープ、菜園の野菜を使ったサラダ、戸棚にあった缶詰、と質素な献立だが仕方ない。
『もっと調味料が充実してたらなぁ』
「レインすごい!天才!」
この様子だとスレインが寝ている間まともな食事を摂ってなかったのが読み取れた。器を傾けて豪快にスープを飲んでいる。
頬が落ちると言わんばかりに頬っぺたを押さえ咀嚼し、掻き込む勢いで食べていた。
料理をしながら探ったので間違いないが、彼女と自分以外にこの島の住人は居ない。
誰が、一体何の目的でこんな辺境に家を建てたのか。此処に転移させた主は敵か味方か…。スレインは黙ったまま考える。
レンヨウがフォークの扱いに困っていたので見本を見せる為、葉野菜を刺して口に運んだ。独特の青味が口内の中に広がる。
少女は真似をして、拙い持ち方だがフォークで料理を食べ始めた。
『別に無理しなくて良いサ。どうせ俺しかいないんだ』
「………」
無理に人間に合わせなくて良いと示唆する。礼儀作法がなってないと鞭を取り出すクソッタレも居ない。
寧ろ手で食べても、獣の姿に戻って食べてもスレインは何とも思わない。
「それ、ここには2人っきりって言ってる?」
『嗚呼、…まぁ、そだな』
だからそんなに品行を気にせずとも良い。人間に近い姿をしていても彼女は獣だ。気兼ねなく自由に振る舞えば良い。
「…レイン」
『ん?』
「誘ってる?」
『どーして、んな事になるんだよ…』
頭を抱えているとレンヨウが身を乗り出して、太腿の際どい場所に触れてくる。
「据え膳食わぬは男の恥」
『何処でそんな言葉覚えた』
此処にはそんな本しか無いのか。家主の本の趣味をとやかく言いたくはないが、無垢な神獣に一体何を言わせるのだ。
『遊んでねーで、さっさと食っちまえ。腹減ってんだろ?』
「遊んでない…」
小さく抗議する少女は恨めしそうにスレインを睨む。
再びフォークを持ち直し、トマトの味が染み込んだ肉に齧り付く。
口に入れた肉がホロホロと柔らかく崩れていく。香草の仄かな香りが鼻に抜け、飲み込む頃には少女の機嫌は直っていた。
スレインは隣で器用にナイフを使い、レンヨウが食べやすいよう大きい肉を切り分ける。
『…缶は先に一口貰って良いか?』
念の為だ。匂いである程度の衛生判断は出来るが、見慣れていない保存食は実際に食べてみないと危険が無いと断言しにくい。
この浮島は今は無人だが、何者かが住んでいたのは間違いない。
レンヨウが寄せてくれた缶詰を開封する。
1つ目の缶は魚の塩漬けだ。2つ目はオリーブ漬け。3つ目は果物。毒味をしたが全てに問題はなかった。
『良いぞ、レンヨウ』
「………」
『どしたん』
ジッとしたまま動かない少女を訝る。覗き込むと非常に非愉快である、と顔に書いてあった。
ぷく、と頬が膨らみ「…レンヨウは種族名」と拗ねたように言われる。
『はぁ?』
「…名前で呼んでほしい」
『別に良いけど、何て名前よ?』
「ない。レインに付けてほしい」
スレインは飲んでいた白湯を吹き溢した。名前で呼んでくれと可愛いお願いかと思えば、命名など荷が重い。
だが確かに彼女は産まれたばかりの頃皇宮に連れて来られた。
レンヨウに名付けの習慣があるかは不明だが、この様子だと名前が無いのは事実なようだ。
本当に自分が名付けて良いのかと確認すると、少女は迷いなく「レインが良い」と真っ直ぐな目を向ける。
腕を組んで暫く考えたが、結局これ以外思い付かなかった。
『クルル』
「クルル…?」
『はは、安直だろ?』
レンヨウが獣型の時の鳴き声だ。甘える時や機嫌が良い時、よくクルルと鳴いて身を寄せてきた。
『まぁ、待ってくれ。3日くらい寝て過ごせば、良い名前が浮かんだりすっかもしれねぇ』
「――ううん。クルルがいい」
まるで最高の宝物を貰ったかの如く幸せそうに微笑む。
名付けたスレインの方が狼狽え、照れ臭くて視線を逸らした。誤魔化す為に話題を探す。
『そうだ。名前と言やぁ…俺をレインって呼ばないでくんね?』
「どして?」
『これからはスレインって呼んでほしい』
「スレイン…?」
クルルはスレインの言葉の意味を知る由もない。ただ名前の頭に1文字増えたと、不思議そうな顔をしていた。
『名前を変えたんだ。俺自身がしっくりくるようにな』
「…分かった」
理解を示した後、「…でも」と言葉を続ける。
「ときどき、レインって呼びたい」
クルルにとって彼は太陽だった。
いきなり捕縛され、独りぼっちで檻に入れられた。真っ暗で、寒くて、寂しくて…。立ち替わり来る人間は、欲に塗れた賤しい瞳で此方を吟味する。
ずっと怯えていた。
与えられる食事が汚く思えて喉を通らなくなった。腹は減るのに体が拒絶する。口に入れても直ぐに吐き出した。
そんな生活が長く続くと、何かにこの苛立ちをぶつけずにはいられなかった。
鉄格子に体当たりして気を鎮めようとする。己の腕に噛み付いて僅かでも余憤を晴らそうとした。
苛々する。満たされない。苦痛の日々が過ぎる。
ある日、薄暗い牢屋に1人の少年が連れて来られた。
朝日のように眩しい髪色をした、幼い人間。今まで側に居た人間とは明らかに違う雰囲気を纏っていた。
ただ、それが何か…具体的に他の人間とどう違うのかは形容し難かった。
噛み付いても引っ掻いても、何度も此処に来る。いつものように身噛みしていたら小さな腕を差し入れ、これ以上自身の体を傷付けないようにと身を挺して庇われた事もあった。
通じないと分かっていながら、まるで人間に語り掛けるかのように、いつも穏やかに話し掛けて来る。お陰で人間の言葉を覚えていった。
彼と居ると不思議な心地がした。暗く孤独だった牢屋の中に光が差し、陽だまりの中にいるように暖かい。
彼から与えられる食事は美味しい。彼が一緒に居ると楽しい。
少年に会うのが楽しみになった。それは幼獣が成獣になっても、少年が青年になっても変わる事はなかった。
スレインが止めろと言えば、彼女はレインと一生呼ばないだろう。そんな気がした。
意気地のない非力で卑屈な過去と決別を果たした彼にその名前は必要ない。
しかし、クルルにとってはそうではないのかもしれない。
無意識な上目遣いで懇願され、降参だと頭を掻き『……時々な』と溜め息を吐く。
すると少女は嬉しそうに何度も頷いていた。
クルルが美味そうにご飯を食べる様子を頬杖を突いてぼんやり眺める。
『クルルは…』
「…?」
サファイアの双眸と目が合った。
『前の俺が良い?』
幼い頃から一緒に居た人間が、心身共にまるで別人のように変わってしまった。
その件についてクルルはどう思っているのだろう。
「ううん。どっちもレインに変わりない」
『結構、変わったと思うけどねぇ…』
背丈や体型、目付きや髪色など細かく言ったらきりがない。ましてや彼は、今までのように襲い来る暴力を甘んじて受けようなどとは微塵も思わない。
ジャミルから教わった弱肉強食の摂理と、弱者は搾取されるしかない残酷な現実がスレインを形成している。
この世と思えぬ地獄を味わい、性根は腐り捻じ曲がった。人格も根底から歪んだと自負している。
「レインはちっとも変わってない」
少女はスレインの顔を両手で挟んだ。キラキラと輝く海のような瞳に、情けない顔の男が映り込む。
「前も今も、すごく優しい」
違う誰かが言ったなら嘲笑を向けるのだが、他ならぬ彼女の言葉は心に染みるように柔らかく、耳心地が良い。
慈母のような眼差しを向けるクルルの手に、自らの手を重ねた。
彼女の手は白くて小さく、深い愛情に満ちている。
この世の凡ゆる悪意からクルルを守りたいと思う。
こんな感情は初めてだった。
「もう食べない?」
料理に手をつけようとしないスレインが白湯ばかり飲んでいるのに気付いた。
『嗚呼、俺は気にせず食ってくれ。10日も寝てたんだ。食い過ぎると胃がな』
彼女がスレインの為に、と準備してくれた気持ちは嬉しかった。滋養に良いと鳥も狩猟し、菜園で野菜を収穫するのは初めての事に苦労した跡があった。
確認した後、あっという間に皿を空にしたクルルが、スレインの膝の上に座った。胸板に顔を埋め「好き」と身を寄せる。雪白の尻尾が脚に絡み付いた。
口元に煮崩したトマトが付いているのが可愛らしい。呆れつつも親指でソースを拭い取りそのまま口に運んだ。
クルルは気にした様子もなく、青年にくっ付いて嬉しそうにしていた。
『なぁクルル、レンヨウは果物と木の実しか食べねぇんじゃなかったか?』
綺麗に空になった皿と缶詰を見て、文献の内容を思い出す。
「誰?そんなこと言ったの」
キョトンとした反応が返って来た。
書庫にレンヨウについての文献があり、彼らは木の実や甘い果実を好む四足獣である、と記述されている。
「何でも食べる。お肉もお魚も好き」
好きな食べ物を言いながら指を折る少女の手は止まらない。
これは書物の記載に誤りがあると認めざるを得ない。
雑食のクルルに長年無理を強いていたと悟り、複雑な目を向ける。
「レインがくれる木の実も好き」
また指を折る。クルルから言わせれば、スレインが運んで来る物であれば何だって食べた。
実際に口に合わない果物があっても、彼の手から食べれば格別に美味しく感じた。
「果物も」
指を折り返す。彼女は慰めているつもりは毛頭無い。ただ単純に好きな物を伝えているのだ。
「レインのことはもっと好き」
少女が最後の指を折り返した。甘えて擦り寄るクルルの髪を優しく撫でる。
『俺も、スゲー好き』
心の底からそう思う。
幼い頃から一緒に居てくれて、辛い時はいつだって励ましてくれた。危険を省みず駆け付けてくれた。
我を忘れて化け物になりかけてた自分を引き戻してくれた。
何方からともなく額を合わせる。鼻先が触れてそのまま唇を重ねた。
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