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二章

19話【毒に呑まれた成れの果て】

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 静寂が包む廃墟と化した古い洋館。至る所埃だらけで黴臭い。シャンデリアに蜘蛛の巣が厚く被さり、殷賑はもう随分昔の事だと見て取れた。腐朽した壁が崩落し冷気を感じる。

 壁に空いた小さな穴から赤色の眼が覗いていた。鼻を小刻みに動かし用心深く周囲の様子を探って、穴から這い出て来たのは2匹の鼠。静けさが佇む広い廊下で追い駆けっこが始まった。
 唐突に、暗闇の奥から何者かの足音が響く。鼠たちは慌てて縺れ合い、壁の隙間へ隠れて見えなくなった。

『~♪』

 陽気な鼻歌が闇の中に溶けていく。音を外して分かりにくいが、誕生日を祝う歌に聞こえなくもない。

『~~♪~♪~、~』

 不自然に波打つ旋律を口遊むのは1人の青年だった。

 弾む踵に合わせて白髪が揺れる。左腕が二の腕から途切れており、ワイシャツの至る所に赤黒い染みが付着していた。
 悽愴な怪我をしているにも関わらず、琥珀色の瞳にはこの上ない逸楽の感情が刻まれていた。

 白髪の青年は薄ら笑いを浮かべたまま、広間へ続く両開きのドアを蹴飛ばす。
 腐り果てた木製の扉は嫌な音と共に拉げた。

 他の部屋と比べ清掃された形跡のある食堂。その中心にテーブルクロスを着飾った長机があり、燭台の炎が妖しく揺れる。
 周囲を囲む大きな窓には真っ赤なカーテンが引かれ、そこは食堂というよりもまるで舞台劇場のようだった。

 立派な椅子の前には取り分け用の食器とシルバーが並び、奥の大皿に“料理”が2皿置かれている。
 1皿目にヒトの首。2皿目は心臓。奇妙な事にソレらはまるで生きているかのように動いていた。

「えらく待たせるではないか」

 青年の帰りを待ち侘びた生首が喋る。

『いや~、悪りぃ。丁度良い大きさの蝋燭が無くてさ』

 首と平然と言葉を交わす青年は、懐から照明用の蝋燭を取り出し指の上で器用に回した。

『もう仕方ねぇから灯り用ので良いわって思って。アンタを待たせるのも心が痛んだしな』

 嘯く青年は無邪気に笑って、手に握った蝋燭を傾け燭台から火を灯す。暖かな灯色が濃くなり、珍奇な食卓を彩った。

『う~ん…、アンタが喋ってくれねーと寂しいな。どうすっか…』

 火を灯した蝋燭と、ひとりでに喋る生首を交互に見る。
 当初の予定では心臓はメインディッシュ、彼がデザートだった。誕生日ケーキに蝋燭は必須。

 問題は蝋燭を立てる位置だ。目に突き立てるのも良いが、彼には心臓を喰われる様をありありとその目に焼き付けてほしい。
 残るは口だが、それではお喋りが弾まない。パーティーは愉快な会話を楽しまなくては。

「マリアーナが居ればケーキなどあっという間に作ってくれただろうに」

『あー…マリアーナね。居ねぇもんを嘆いても仕方ねぇさ。今はケーキの代用を…』

 悩む青年の手元に大ムカデが忍び寄る。生首は気付いていながら、注意喚起を意図して怠った。
 息を吐くように『決めたわ』と声色変えずに呟いた青年は、明後日の方を向いたまま、フォークでムカデの首を貫きテーブル上に磔にした。
 反応が遅れた百足の王は体を激しく捻り蠢く。しかし、シルバーは深々と突き刺さりピクリとも動かなかった。

『こっちがデザートで、アンタが招待客って事で』

 ニコニコと微笑む琥珀に狂気が過ぎる。青年はムカデごとテーブルに刺さったフォークの柄に、力任せに蝋燭を突き刺した。

「ははは、これは見事な」

『だろ?ケーキの代わりにゃ不細工な見た目だが、この際目を瞑るさ。ついでに味もな』

 改めて椅子に腰掛ける青年は、久方振りの祝い事に唇を吊り上げた。
 向かい合った首と目が合う。凄艶な笑みを携えて、改めて客人たちを歓迎した。

『嗚呼、俺の誕生日パーティーに来てくれて感謝する。しかもその身を以って祝ってくれるなんて感激だ!クソ不味いだろうが、この際我慢するさ』

 首は皮肉を込めた失笑を零す。

『さぁー、歌も祈りも省略!待ち焦がれた食事の時間だ』

 行儀悪く皿とシルバーを打ち鳴らし、ステーキ用のカービングナイフに持ち替える。小さく鼓動する心臓に、刃が吸い込まれた。

「……っ」

『あれ、やっぱ痛みは感じんの?自分が喰われる側に回って、どんな気持ちな訳ぇ?』

 瞳孔を開きダランと舌を出す。あからさまな挑発にも、首は優雅な表情を崩さない。

「…ふむ、多少覚悟はしていたが最早痛みは感じん。こうなる事は君に心臓を握られた時にある程度予測していた」

『なぁんだ、面白くねー』

 興醒めだとばかりに椅子へ半身を埋める。そして何事か閃くと悪戯っ子のような笑みで前屈みになった。

『じゃぁ例えば、耳を引き千切ったらどう?歯を抜いてやったら?鼻を削いだら?』

「さぁ?やってみると良いではないか」

 やれと言われたらやりたくなくなる、そんな幼子のような反発精神で眉根を歪める。
 どうせなら止めてくれと懇願された方が加虐心が擽られて愉快だ。

 フォークを噛んだ青年は、耳を摘んでいた指を放した。

「存分に味わってくれたまえよ。究極を極めた我輩の血肉は正に至高であろう」

『どうだかな』

 手前の平皿へ移した心の一部。青年は先程とは打って変わって礼儀正しくナイフを動かす。左腕を欠損している為に全て右手だが、姿勢が良く所作としては整っている。塊を口に入れ、目を閉じて注意深く咀嚼した。

『ハズレだ。生臭ぇゴム食ってるみてー』

 もう一口放り込み、ゴムと称したコリコリの食感に顔を歪める。削られた心臓はまだ動いていた。

『丈夫だな。いつになったら死ぬん?』

「さぁ…だが一切の魔力も練れない。我輩の最期も近いのだろう」

 それを聞いた青年の口がニンマリと左右に裂ける。臓器から削いだ大きめの肉塊をフォークに突き刺し、歯を突き立てて一口毟り取った。

『少なくとも800年か?長っいこと生きてんだから、さっさとくたばれ。ホント、害虫並みの生命力だわ』

「フハハ!それを言うなら貴殿もであろう?」

 途切れた左腕に目をやり、ワイシャツを派手に彩る血痕を辿る。目を覆いたくなる怪我にも関わらず平然とお喋りに興じる青年は異常だった。

『…フン、元からこうだった訳じゃない。知ってるだろ?』

 今はもう、ずっと昔のように感じる過去を顧みる。他でもない自分の歩んだ軌跡が、まるで知りもしないアカの他人の記憶を覗いているような心地だ。

 遠くを見ていた青年は、不意に首と視線が交わるとニコリと笑った。その笑みは恍惚に満ち溢れ、天使のように無邪気で悪魔のように残虐だった。

 鮮血に塗れた彼は置かれた大皿を引き寄せ、舌舐めずりをしながら――…。

『誕生日パーティーなんて、楽し過ぎて狂っちまいそうだな!』

 そう、言うのだった。
 

 

 
 ――レインが心臓を見付けたその後、戦闘は4日間にも渡り遂に互いの魔力は底をついた。

 ジャミルの治癒する頻度が減り、余裕が無くなる様をレイン自身も傷だらけになりながら楽しんだ。
 彼も魔術が使えない状態に陥ったが、肉体が軽く、戦闘の間は疲労など微塵も感じなかった。

 何より自らを絶対的捕食者だと信じていたジャミルの鼻柱を折るのはとんでもない快感だった。
 心臓を軽傷に留めたのも、なるべくジャミルを生かし屈辱を与える為。

『なぁ、俺の血と左手は美味かったか?』

「…嗚呼、至極甘美な味であったぞ」

 弱肉強食の理を垂教したジャミルに、その教授を持って復讐する。人間を弱者と侮り家畜としてレインを生かした怠慢を心の底から後悔させてやりたかった。

『テメーの心臓は生臭ぇゴム…フェアじゃねーよなぁ』

「我輩の心臓は猛毒だ。美味い筈がないだろう?」

『確かにな』

 ジャミルの心臓は魔石と融合しており、見るからに猛毒だと分かる。
 口内に含むと舌が痺れ、咀嚼し胃に落ちても爪で引っ掻かれるような痛みがあった。

 それでも口に運ぶのは意地でもある。自分を食い物にしたジャミルへ自身が食われる様をまざまざと見せ付けたいという歪んだ報復。

 龍種の毒肉に耐えたこの身体なら、また奇跡が起こるのではという細やかな期待。
 そして単純に極度の飢餓状態だったからでもある。

 人間の青年は礼儀正しく振る舞い食事を堪能したが、ヒトである事を放棄した。

「――最期に、1つ…良いかね?」

『何だ?』

 ジャミルの意識が途切れる間際、質問を投げかけられた。

「…貴殿は、何と言う名だ?」

『…、……』

 青年は口を開けて、閉じた。

 レイン・ルクスレア――。
 小さな村に生まれ両親を殺され奴隷に堕ちた哀れな少年。伯爵家の従者として業務を熟す傍、鬱憤晴らしに使われる毎日。
 幻想に縋り付いた挙句、全てを失った奴隷。

 ――違う。

 両親が願いを込めて名付けた名前など何の意味も無い。

 “慈雨のように優しくあれ”。

 レインにとってこの願いは呪いに他ならなかった。彼らの願いが全て邪魔をした。
 理不尽に殴られるのを我慢するのも、身に覚えのない罪を被され罰を受けるのも、与えられる過度な仕事も、本当は何もかも嫌気が差す時もあった。

 叫びたかった。滅茶苦茶にしたかった。

 吹き荒れる感情を抑えたのはいつだって両親のその願いだ。
 嘗て彼らがそう望んだように、人に優しくしなければならない。嘗て彼らがそうであったように、優しく在らなければならない。

 その願いが無ければ、――もっと早く自分を見失えたのに。

『は はハ…ハ…』
 
 乾いた嗤笑が零れた。

 もう彼らは居ない。どうしてこんな簡単な事に気付かなかったのだろう。愚かだった。
 慈雨のように優しくあれ。そう望まれた青年はもう何処にも居なかった。

 此処に居るのは復讐心に塗れた残虐な本性を剥き出しにした怪物だけ。

『――スレイン』

 ポツリと声が漏れる。

 幼少の頃に付けられた、名前と奴隷スレイブを混ぜた蔑称。あの頃伯爵家に居た召使フットマン達は本当の言葉の意味など深く考えずあだ名を命名した。

 「スレイン」の意味するところ…それは残虐と殺戮、虐殺。正に今の自分を表すにはピッタリだと思った。
 単語の意味を知った時から呼ばれる度に心の何処かで抵抗があった。心の中で否定し続け受け入れ難かった名が、嘘のようにストンと胸に落ちてくる。

「ほぉ…、覚えておこう。我輩を、葬った人間として…」

 まるで眠るように穏やかな顔で目を閉じた。微弱になりつつあった心臓の鼓動も止まり、憎き相手の絶命を知る。

 残りの臓器を豪快に口に入れ、脚を机の上に投げ出した。

『…、なぁにが覚えておこうだ。偉そうにしやがって』

 こうしている間にもジャミルの毒が全身に回る。節々に激痛が走るが慣れたものだった。
 この程度なら耐えられる。毒薔薇や龍種の毒肉の方が何倍も辛かった。

 椅子を後ろに倒して天井を見上げ、物思いに耽る。
 口が寂しく感じ、煙草が吸いたくなった。

 テーブルの隅で蠢くムカデに目が止まり、フォークを引き抜く。弱々しく身を捩る百足は鋭い顎でシルバーに噛み付いていた。

『あー、ん』

 躊躇いなく口に運び、いつか習ったように頭を確実に潰す。バリバリと咀嚼音が響いた。口内でムカデの脚が躍る。擽ったくて、自然に口角が上がった。

『……、』

 青年の動きがほんの刹那、停止する。パーティーに招いた覚えの無い客人の気配がした。
 暗がりの廊下から何かを引き摺る音を優れた聴覚が感知する。

 スレインは構わず、エグみの強いムカデをパスタのように食べ進めた。指で摘んだ尾を飲み込むと、椅子を後方に傾け天井を仰ぐ。
 更に仰け反ると逆さまの視界に廊下へ続く開け放たれた扉が見える。

 引き摺る音は続いていた。微かに粘着質な耳につく水音もする。

 闇の中から珍妙な風貌の客人が現れた。

『ははっ!アンタって奴は、ホンット俺を退屈させねぇーな』

 死したジャミルの頬を摘んで悪戯っ子のように笑う。
 廊下から脚を引き摺って現れたのは、首の無い吸血鬼の身体だった。肩の肉が抉れ、脚は骨折している。

 ジャミルはもう死んでいた。

 この体はジャミルの魔素が僅かに残っただけの空っぽの傀儡だ。800年に渡り生命活動の維持を強いてきた弊害でもある。彼の意思とは無関係にこの世に残った残穢。

 強大な力を持つ者、無念の死を遂げた者、強い目的意識を持っていた者などは、死して尚この世に魔力が留まる事があった。

 椅子から重い腰を上げたスレインは嘲笑する。
 
『サイコーだ!パーティーは派手にしねぇと面白くねぇッ!』

 予期せぬサプライズに高揚して仕方ない。嘗て無い程に浮ついている。

 スレインは手に魔力を集結させ、黒炎の中から刃渡り40㎝程のナイフを創り出した。
 グリップの先端には紐が結ばれており、刀身や刃先に至るまで黒一色。
 これこそジャミルの首を刎ねた漆黒の刃。ククリナイフのように内反りに湾曲しており細い形状をしていた。

 対するジャミルの体は、蝋燭の明かりに照らされテラテラと光る血液を操り両腕を包んだ。
 手先が鎌のように鋭い刃へと変化する。

 ナイフを逆刃に持ち替えたスレインは跳躍すると豪速で間合いを詰めた。着地と同時に首の無い身体の腹部に刃物を突き刺し線を描く。
 ジャミルが反射的に腕の鎌で薙ぎ払うが、空を切っただけだった。
 
『ん~…』

 遥か後方、ナイフの峰で肩を叩く影があった。吸血鬼が振り返ると、ククリナイフにより捌かれた傷口から臓物が溢れる。

『アハッ!痛覚がねぇのが残念だなぁ~』

 生きていれば絶叫は間違い無い。どうせパーティーをするなら賑やかな方がスレインの好みだ。

 首無しの吸血鬼は血を撒き散らしながら腕を振った。豪速で放たれた疾風で燭台の蝋燭が掻き消え、周囲一帯濃厚な暗闇に包まれる。

 ジャミルが獲物に向けて突進し、首無しの身体が臓物を垂らしながら勢い良く向かってくるという、あまりにホラーな状況に陥った。

 スレインは笑みを崩さぬまま、ジャミルの攻撃をひらりと躱す。
 今の彼には灯りが消えた漆黒の世界は心地良いとさえ思える。

 ジャミルの体はスレインを追い掛け、両腕の鎌を振り回していた。
 机が両断されバランスを失い、皿と燭台が滑り落ち、ガシャリと嫌な音を立てる。

 蝋燭の芯に残っていた火種がテーブルクロスを焦がした。

『まだ喰ってたってのに…』

 腸が垂れたままのジャミルは暴れ回り、部屋を半壊させていく。触感以外の全てが無い今の彼は、手当たり次第に攻撃を行なっていた。

 疾走したジャミルへ向けて『ブライアー』と唱えると、片足に荊棘が絡まった。動きが止まった首無しをどう甚振るか楽しそうに考える。

 するとジャミルは荊棘が巻き付く足を引き千切り強引に拘束から抜け出した。

 目を見開いたスレインは後方にステップを踏みながら歓喜する。

『スゲー根性!やるぅ!』

 振り回される腕が喉元を掠めた。出血するが大した傷ではない。
 スレインは親指で傷をなぞり、妖艶に微笑む。

 この痛みさえも全てが悦楽だった。

 テーブルクロスから煙が立ち上り燃え広がる。腐った床、破れたカーテンを飲み込み、小さな篝火があっという間に激しい業火へ変わった。

 炎の壁に囲まれたがスレインは微動だにしない。熱風が辺りを包み血濡れの白髪を撫でた。
 埃の積もった絨毯を火が舐める。支柱が焼け落ちる大きな音も火炎の勢いに掻き消えた。

 炎は屋根まで立ち上り、辺り一面火の海だ。

『さぁさぁさぁッ!次はどーするんだ?…ッとぉ』

 言葉を遮って鎌が振り下される。スレインは勢い任せの攻撃を回避し、繋がる腕を踏み付けた。
 体勢を崩した首無しの胸を蹴り上げると傷口から血が噴き出す。

 鮮血を浴びた青年の口元が綺麗な弧を描いた。

『…っぱ、我慢出来ねぇ』

 頬を紅潮させ切迫詰まった息を吐く。
 ジャミルの腹部へ脚を回して締め付け、地面に押し倒した。床にククリナイフを刺し、足で鎌を踏んで固定する。
 馬乗りになった格好のまま素手で、ジャミルの胸を抉った。

『アハ!あはハッ』

 子供を思わせる無邪気な笑い声。

『駄目だ…!楽しくて仕方がねぇ!』

 これは危ない、まともではない。とっくに自覚していた。分かっていても胸が躍るのだ。止められない。

 胸に差し入れた手がアタタカイ。迸る血がアタタカイ。ジャミルの身体がビクビクと跳ねるのが面白い。何故笑っているのか分からない。

 でも何故だかどうしようもなくハッピーだ。
 俺はどうなっテる?本気でおかしくなったのか?

 黒い靄がスレインを包む。背後から包容されているかのように徐々に侵蝕されていく。害虫が身体の上を這う感覚がした。不快で、享楽で、悍ましくて酷く楽しい。

『ミッド・ブライアー』

 ジャミルの胸に差し入れた掌から黒炎が広がる。周囲の炎とは違い異質で邪悪な火は吸血鬼を飲み込んだ。
 身動き出来ずもがくジャミルを輝く瞳で見下ろす。

 長年に渡り美食を求めた吸血鬼の体が炭のようにボロボロと朽ちていく。

『――は ハハハ!』

 復讐は蜜の味、とはよく言ったものだ。蜂蜜のように甘く焼き菓子のように芳しい。
 溜まった鬱憤や憤怒が払拭され肩の荷が取れて清涼な心地。
 
 炎の海の真ん中で黒い靄が蠢いていた。
 座り込んだまま哄笑を上げる青年に纏わり付くへどろは絶えず形を変えている。
 膨張と収縮を繰り返し、触手のように手を伸ばす。

 ぬるま湯の中を揺蕩う心地良い浮遊感。そして脳内を蚕食していく快楽と快楽、快楽快楽快楽楽楽。

『アハ、やっぱりそうでなくちゃなぁ…』

 視界も闇に閉ざされた暗い世界でひとりごちる。

 黒い靄が体内へ吸収されたかと思うと、背中が大きく膨れ上がった。漆黒の水晶槍のような大きな棘がワイシャツを裂き、外界へ向けて出現する。

 首の後ろから伸びた同様の異質に目を覆われたが、不思議と脳裏に情景が浮かんでいる。

 骨格が歪んで前傾姿勢になり、尾が生えた。牙と爪が発達し、至る所の皮膚が割れて罅が入る。
 人間の名残りもない、言葉の通りの化物がそこに居た。

 散々な人生だった。復讐リベンジしてやらなきゃ、気が収まらない。
 憲兵、スペトラード伯爵家、従者、【紅の狼】…どいつもこいつもクソッタレだ。反吐が出る。

 炎に包まれた屋敷を出た。その瞬間、支柱が倒れて洋館が倒壊した。

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