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一章

2話【少女】

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 ティーセットを乗せたトレーを持ち、扉をノックして部屋に入る。

『失礼致します』

 彼らに用意された客間は数ある部屋の中でも豪勢な造りで、冒険者の至要性を感じずにはいられなかった。
 「万が一、無礼を働いたら命が無くなると思え」昨晩上長の執事バドラーから受けた忠告を想起し喉がゴクリと鳴る。
 ベッドで穏やかな寝息を立てている少女の機嫌を、もしも損ねる事などがあったら、奴隷のこの身など首と胴体が泣き別れだ。

 数回大きく息をして、緊張と恐れを振り払う。カーテンを開けると眩しい朝日が差し込み、室内が明るくなった。備え付けの丸テーブルの上で茶の準備を整える。

『ナオ様、お目覚めのお時間です』

 ゆっくりと落ち着いたトーンで声を掛けた。穏やかな覚醒を促すよう心掛ける。

「んん…」

 形の良い眉が潜められゆっくりと瞼が開く。布団に包まって横たえていた身体が起き上がり、大きな瞳がレインの姿を映す。

 【紅の狼レッドウルフ】所属、A級冒険者ナオ・ミツキはまだ幼さが残る少女だった。栗色の髪は肩で切り揃えられ内を向き、目を縁取りする睫毛は長い。前髪が短く寝癖で大きく跳ねているのは彼女の意図しないところだろう。
 少女は無言のまま欠伸をした後、徐々に瞼が落ちていく。

『おはよう御座います。目覚めの紅茶をご用意致しました。砂糖やミルク、檸檬などお好みの品はありますか?』

「……お砂糖とミルクで…」

『畏まりました』

 砂糖を一欠片と、温かいミルクをカップに注ぐ。緩くかき混ぜると、透き通った紅茶は柔らかな香色になった。
 彼女にティーカップが乗ったソーサーを手渡すと、放心しながらそれを受け取った。

「有り難う御座います…」

『ナオ様…?大丈夫ですか?』

 口だけが条件反射で動いている虚ろな様子に不安になり声を掛ける。彼女の顔を覗き込み、体調に異常がないかそれとなく確認した。

「ッ!」

 レインの顔を鮮明に捉えた瞳が動揺する。肩が揺れた拍子に茶器が音を立てた。細い指がソーサーごとカップを落としそうになったので咄嗟に支える。
 初日から彼女に火傷を負わせてしまうなど一大事だ。

「ご、ごめんなさい!私ったら夢だと思って…!」

『い、いえ…?僕こそ驚かせてしまい、申し訳ありませんでした』

 重ねた手を引っ込め、そのまま一歩下がる。畏まった青年は膝を突き頭を垂れた。

『初にお目に掛かります。この度旦那様より、ナオ様がご滞在の間世話係に任命されたレイン・ルクスレアと申します』

「は、わわッ!?顔を上げて下さい!…えと、レインさん!?」

 突然跪かれ、焦るナオは紅茶の遣り場に困った。ベッドの横にあったサイドテーブルに一先ず紅茶を置いて、その後ワタワタと忙しなく手を動かす。

 ゆっくりと顔を上げたレインに、酷く焦った様子で立つように促した。
 
「私、…そんな風に扱われるの全く慣れてないので、友達みたいに気軽に接してくれると嬉しいのですけど…っ!」

 いつまでも跪いている青年に、困った笑顔で説得する。

「ほら、冒険者になったのも最近なのに手厚い待遇に気後れしちゃうと言うか…っ!ナオ様だなんて呼ばれるのもガラじゃない気がして…!」

『……、お許し下さい。僕は卑俗な身でありますので、このように接する事しか許されておりません』

 彼女の口振りから、近頃【紅の狼】に新しく加入した当人だと判明した。冒険者になったばかり。言い換えれば、最近冒険者ギルドに登録したにも関わらず、彼女の実力はA級パーティーに所属しても遅れを取らないと言う事。
 
 数の利もあるだろうが、A級への昇格はもしかしたら彼女の存在が大きいのかもしれない。

 再び顔を伏せ、絨毯を見つめた。心苦しいが、彼女の提案は呑めない。呪印がある身で僭越だ。

 今のレインは上流階級で育った従者と仕事の質を比べても遜色無い。上司である執事バドラーは密かに、彼が屋敷中で1番優れた従者だと認めている。
 彼の仕事ぶりは謹厳で、他の従者と違い手落ちが許されない分、早く丁寧だった。

「レインさん、その手の…」

 少女の視線が膝に置いた呪印に注がれていた。手の甲に大きく描かれた記述式魔法陣にナオの声が震える。奴隷を実際に見たのは初めてだろうか。

 自らの身分を証明する為、屋敷内で奴隷が呪印を隠す行為は禁止されている。レインには甲が露出した特殊な手袋が支給されていた。

「えっと、おしゃ――」

『ど、奴隷の身ではありますが、誠心誠意お仕えします!どうか、お傍に居る事をお許し下さい』

 彼女に拒絶されては矜持どころではない。レインは早口に訴願する。

 すると、ナオは「――え?ど…、れ……?」と吃った。青年の顔と呪印を交互に見やり、口元を押さえる。

「………」

 言うべき事は伝えた。後は願うのみだ。
 卑しい奴隷の身では排斥は仕方無いと、心の何処かで受け入れていた。

『分不相応だとは承知しております…』

 力不足も否めない。特に優れた技量も持たない身で烏滸がましい。厳しい非難を予想して体が強張った。

「いやいや、そんな…!私こそ、この世界の事何も知らないので、迷惑を掛けるかもしれませんが…宜しくお願いします!」

 予測に反して、温かい対応に目を見開く。同時に彼女の言動に僅かな違和感が芽生えた。
 世間に疎い人間は居る。それは幼い頃からスペトラード伯爵家に奉仕してきたレインも当て嵌まる。しかし、それを“世界”と表現する者は居ない。
 
 対話の中に生じた引っ掛かりなど態度には噯にも出さずに、青年は膝を突いたまま『有り難う御座います。此方こそ、宜しくお願い致します』と微笑む。

『僕に丁寧な言葉を使う必要はありません。楽にお話し下さい』

「いや…レインさん、どう見ても年上ですし」

『……?確かに、僕は今年で19歳ですが…』

 少女は明らかにレインより幼く見える。貴族の娘ならデビュタントを終えた辺りだろうか。

 青年の答えに「ほら~!」と陽気に笑うナオに、レインは首を傾げた。

『?』

「はは…は…、…?」

 根本が噛み合ってない現状に気付いた少女も一緒になって首を倒す。

 年上だから言葉遣いを崩すべきか躊躇う、とナオは言った。しかし、レインにとっては身分の上の者が下の者に気を遣うべきではないと考えている。そこに年齢など関係なかった。

「あ、ぁ…えっとー、うーん…努力しマス?」

 沈黙に耐えきれなくなったナオが頬を掻いて返答する。
 妙な空気から解放されホッと吐息し『僕の事はレインとお呼び下さい』と胸に手を当てた。

「れ、レイン…?」

 鸚鵡返しに彼の名前を口にする。

『はい。御用があれば何なりとお申し付け下さい』

 柔らかに目を細め会話する一方で奴隷の青年の注意は、世話係に有能な従者ではなく奴隷を遣わせた事にナオが気を悪くしてはいまいか、その一点に注がれていた。
 上目で確認するが少女は照れ笑いを浮かべるだけで、悪感情は伝わって来ない。

 幼い頃から唾棄に晒さ続けてきた彼は、観察力と危機察知能力に長け、顔色を窺う癖が身に付いていた。
 ギロチンの刃が降ろされる寸前で遠退いていく心地がするが、まだ油断は禁物だ。

 立ち上がった彼は『冷めてしまったでしょうか。淹れ直しますね』とティーカップを下げようとする。すると、少女はそれをやんわりと断わった。

「せっかく淹れて下さったのですし、頂きます。それに、私猫舌なのでちょっと冷めた位が丁度良いんです!」

 本心なのか気を遣わせてしまったのか。美味しそうにニコニコしながら、「良い香りですね!」と紅茶で唇を濡らす彼女の仕草からは前者か後者か窺い知る事が出来ない。

『リラックス効果の期待出来るお茶です。お気に召して頂けたなら、何よりです』

 落ち着く香りに包まれ、ナオの顔が綻ぶ。それを見たレインも、この茶を選んで良かったと胸を撫で下ろした。この香りで少しでも疲労感が和らげば良いのだが…。

『ナオ様、朝食はどの様な物がお好みでしょうか?クロワッサン、バケット、スコーンをご準備しておりますが…』

「うえぇ!?え、えっと…他の皆さんは何を希望したんですか?」

 予想外の答えにレインは目を大きく開けて瞬きを繰り返す。次にしくじった、と心中に焦燥が駆けた。

『申し訳ありません、確認して参ります…!』

「あ、良いんです、良いんですッ!誰かと同じ物なら作る人の手間はあまり掛からないかと思っただけなので!」

 踵を返そうとしたレインを、ナオは慌てて呼び止めた。
 その後顎に手を当ててうーん、と頭を捻って考えている。

 立場上、様々な人物、来客に同様の質問をしてきたが、料理人を労る発言をした人物は初めてだった。
 更に、奴隷だと明かしたにも関わらず、貶める事もせず人として扱ってくれている。剰え言葉遣いも丁寧なままだ。

 暫く悩んでいた彼女は「では、レインさんのオススメで…」と困った様に笑った。

 堅物の従者は悩む。

 今朝、帝国でも上質なエレシバターが届いた筈だ。
 クリームを乳酸発酵させてから作るバターで、黄色ではなく白色に近いバター。塩気は強くなく、クリーミーな口当たりと、ヨーグルトのような爽やかな酸味と香りが鼻に抜けていくような特徴がある。

 更にノノア地方のクロテッドクリームは遠方の貴族も取り寄せるほどに品質が良い。絹のようになめらかな口当たりが保たれ、濃厚なミルク感がありながらすっと舌の上で溶けていく。

 で、あれば薦めるべきはエレシバターを練り込むクロワッサンと、たっぷりのクロテッドクリームを付けて食べるスコーンだろう。

『…それでは本日はクロワッサンとスコーンをご用意させて頂こうと思いますが宜しいでしょうか?』

「はい!」

 ナオの元気な返事を聞いて安心する。

『畏まりました。後は旬の食材を使ったサラダ、ポタージュスープ…卵料理、果物、焼き菓子プティフール、食後の珈琲です。内容は此方で宜しいでしょうか?食材で何か苦手な物はありませんか』

 豪勢な朝食メニューに、お腹に入るか不安に駆られつつ、少女は「大丈夫です!」と笑った。

『では、料理長にはこの内容でお伝えしておきますね』

 レインは手に持ったボードに留めた紙に何事か書き込み、それを捲る。
 その時、扉の向こうからノックが聞こえた。ベッドから降りて出迎えようとした彼女を制して、代わりにドアを開け用件を聞く。

 仕える者の手を煩わない為に扉の開閉は決まって従者か召使い、使用人の仕事だ。寧ろ主人は従僕の仕事に手を出さないのが暗黙のルールであり、貴族の嗜みとされる。
 それを真っ先に破り出迎えようとしたナオは、言い零していた通り貴族文化に慣れていないようだ。

『ナオ様、お召し替えの手伝いに侍女が来ておりますが、通して宜しいでしょうか?』

「はい?どうぞ」

 言われるがまま返事をする。咄嗟の事で理解出来たのは誰かが来たから通して良いか、くらいだった。
 レインが扉を大きく開くと、メイド服に身を包んだ3人の女性がナオの前に並び、非常に揃った動きで一礼する。

「おはよう御座います。ナオ様」

「お召し替えの服をご用意しております」

「さぁ、此方へどうぞ」

 洗面器とタオルを持ったメイドは洗顔を促し、他2人が彼女の服を持って来た。レインは静かに壁際に寄り、侍女達の邪魔にならないよう控える。
 本来であれば従者と侍女の立場は対等、もしくは従者がやや上だが、レインは普通の従者ではない。その為、多くが貴族令嬢である屋敷の侍女とは凄まじい身分差があった。
 
 顔を洗ったナオが衝立の向こうで着替えを行う。衣擦れの音、そして「じ、自分で出来ますよ!」と焦って制止しようとする彼女の声。

「あら、ナオ様こんな所に色気のある黒子が」

「肌がスベスベでいらっしゃいますね」

「変わった胸当てをされてますのね」

「むぎゃーー!」

 聞いていて此方が恥ずかしくなる女子トークに、少々居心地が悪くなる。A級冒険者の世話が出来るなど彼女達にとっても名誉な事で、嬉しそうに張り切っていた。

「まぁ!ナオ様、綺麗な体のラインですこと」

「羨ましい…何か秘訣がありますの?私なんて最近お腹周りに…」

「括れが美しいですわ」

「ひょわーー!」

 燥ぐメイド達に自分の存在を思い出して慎んで貰おうと軽く咳払いして『お召し替えの最中ですが、本日のご予定をお伝えしても宜しいでしょうか』と声を張った。

『本日の朝食には旦那様とその御子息、ディーリッヒ様と御息女ミーア様もご参加なされます。顔合わせの後、今回の依頼に関するミーティングがあるかと思います』

 今日はスペトラード家と客人の朝食会だ。使用人の間でも打ち合わせが入念に行われ、現在厨房では料理人が懸命に腕を奮っている。

 朝食の後はクエストに関する擦り合わせが控えていた。10日後の魔物討伐の成功は彼らに掛かっていると言っても過言ではない。

『その後は御自由にお過ごし下さい。屋敷で何か必要な物がありましたら直ぐにご用意致します』

「な、なるほど…分かりました」

 説明を終えて暫く待っていると、侍女に促さたナオが衝立の横から出て来た。寝間着から上品な洋装に着替えた彼女の姿に、一瞬息が止まる。

 レインの視線を手繰った少女は「えへへ…どうでしょう?」とスカートを翻して見せた。
 冒険者をしている彼女にとって、例え軽装であっても貴族令嬢が着るようなドレスは初めてなのだろう。反応が気になるのか、顔を赤らめ視線を彷徨わせていた。

「…その、…レインさん?」

 凝視しながら返事も無く固まってしまった従者に不安になり、ナオは小首を傾けた。

 侍女の見立ては完璧だ。

 彼女に相応しい気品のある服。白を基調としたガウンに控えめなレース、金色の刺繍がされたチョコレート色のローブを羽織り括れある腹部で組紐が揺れている。寝癖を整えられ髪飾りが揺れていた。
 夜会で見るような華やかなドレスではないが、女性らしく、それでいて品がある。

「まったく、これだから奴隷は」

「ナオ様の美しさに声も出ないのですよ」

 メイドの言うその通りだった。彼女の従者として感想を求められたにも関わらず、気の利いた言葉が出てこなかった己を恥じる。

『誠にその通りです。お許し下さい』

「ナオ様、素敵です!」

「大変お美しいですわ」

「えへへ有り難う御座います、嬉しいです!」

 照れて莞爾と笑ったナオに、彼女が起きるまでの不安が晴れていくようだった。
 
 奴隷にも関わらず人として扱ってくれる少女の心遣いが、長年に渡り渇いたココロに染み込んでいく。飾りっ気のない素直な性格も今時珍しい。
 彼女はどこか他の人とは違う何かを漠然と、だが確かに感じた。

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