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なんでもない日
(3)両手にいっぱいの牡丹一華を①
しおりを挟む八月二十九日、陸軍工兵第五聯隊駐屯地……
「───あのチュー助、いつまでここで燻っとるんじゃろうな」
ポツンと呟かれた言葉を拾い、工兵科二等兵の千歳 孝史はそちらの方に顔を向ける。声の主は隣の中隊に所属している同郷の“戦友”のものだった。誰の事か考えているのか、千歳がきょとんと目を瞬かせる。
「千歳んとこの中隊長で。あの出戻りチュー太」
「大尉殿の事をあんまし悪ぅゆうなよ」
ブー垂れたように唇を尖らせて隣の戦友をつつくと、戦友はめんどくさそうに先程の発言の一部を訂正する。
「あー、はやぁい。そういやわれ、尾坂大尉殿のシンパじゃったっけかのぉ。そりゃ悪かった」
「それでどがぁな意味で、さっきの。広島は日本で七番目の大都市で。そりゃ帝都に比べたら………ちぃたぁ見劣りするかも、じゃが」
忙しい新兵の二人だが、昼食も終わった一拍の間を狙ってこっそりサボって駄弁っているようだ。炊事場が近くにあるのか、炊事モサ達(※炊事担当の二年兵)が後片付けに追われる声と食器類の掠れる音がする。
「判ってねーな、千歳は。なんぼ広島が日清戦争の時に大本営が置かれて臨時首都になったことがあるって言ぅても、今は平時だし広島は一地方の軍都でしかありゃぁせんよ。その地方で聯隊の中隊長やっとって、一年経っても中央からお声がけが無いなんて……士官学校出の陸軍将校にとってのエリート街道な訳あるかい」
陸軍将校にとってのエリートコースと言えば、幼年学校に入学してそのまま陸士を卒業し、任官してしばらくしてから陸大を受験し無事に合格するまでが第一歩。ここまではそこそこいるだろうが、その次が難しい。陸大卒業までに大尉になって、卒業後は中隊長として全国に散らばりつつ、遅くとも一年以内には中央三官衙に引き抜かれるという経歴を歩むことこそが真の陸軍エリートというものだ。
千歳の中隊長である尾坂大尉は陸大こそ出ていないものの、砲工学校高等科を首席で卒業したために人事の面では陸大卒と同じ扱いを受け、恩賜の軍刀も賜っている。さらに彼は員外学生として三年間、陸軍外の──それも米国の大学に留学してきた特別抜擢組である。
経歴だけ見るならば尾坂は正にエリート中のエリートという奴だ。それなのになぜか───本当になぜか、帰国してきてからの彼はその約束されたエリートコースを外されて中央から遠ざけられていた。
「あのチュー助、特別抜擢組なんじゃろ? じゃったら今頃は中央に引き抜かれて軍学校の教官をやっとるか………いや、海外留学経験者じゃったら語学力を買われて駐在武官の補佐になりょぉってもおかしゅうないのに。一年経っても東京に呼び戻される気配さえ無いじゃん」
「そりゃぁそうじゃが………」
「噂じゃ留学中に向こうで色々仕込まれて間諜にさせられたけぇ、情報流出を恐れたお上が中央からなるだけ遠ざけたって話じゃけぇね。あくまで噂じゃけぇ、実際はどうか知らんが」
彼の少尉時代を知っている古参の下士官達は皆口を揃えて言うのだ。尾坂大尉殿は、少尉時代は地味で垢抜けない格好をしてあまり目立ちたがらない大人しい性格だったと。
とは言ってもあの顔と瞳だ。いくら大人しくしていようがどこへ行っても目立っていたらしく、陸士を卒業して広島に帰ってきた頃にはすっかり出不精になっていたそうだとか。
しかし今ではご覧の有り様である。派手に喧嘩するわ数々の浮き名を流す色男と言われているわ………これでは米国留学時に何かありましたと言っているようなものだろう。今の姿しか見たことのない新兵二人には、にわかに信じられない話ではあるが。
「……好き勝手言ぅゆてなんじゃが、こがぁな所を聞かれたら何ゆわれるかわからんな」
「あ、うん。今、大尉殿は来客中じゃけぇこっちにゃぁ来なやぁずで」
「お客? あんなぁに?」
「幼年学校の二期上の先輩らしい。なんでも、欧州出張から帰ってきたばかりなんだってさ」
「へぇ、エリート様か。中央から煙たがられとる尾坂大尉にわざわざ何んようじゃろ」
「その人、大尉殿の幼年学校時代の模範生徒らしゅうて……なんでも、大尉と義兄弟の契りを交わしたこともあるとか」
「なんじゃ。それじゃったら納得」
幼年学校では二期違いで堅い絆が結ばれる。三年生が入学してきた一年生の世話を焼き、時には気に入ったショーネンとの間で義兄弟の契りを交わしたりするのが裏で横行しているくらいだ。今は軍縮の煽りもあってか地方の幼年学校は全て閉鎖され、東京にある中央一校に絞られているが。かつて同じ広島幼年学校に通っていた模範生徒とその“稚児どん”の関係ならば、中央から煙たがられてる尾坂にわざわざ会いに来てもなんらおかしくはない。
それにしても、可愛がっていた純朴な弟分がすっかりグレて不良になっている所を目の当たりにしてしまった兄貴分の心境や如何に……
「それにしても……あんなぁ、けっこう気いたしい所もあるじゃろ。われらよう耐えられるよな」
「ええ、何が?」
「わしらは影で大尉殿の事を『鉄仮面』とか呼んどるが……ほら、どがぁなことがあっても無表情のままじゃろ? なんぼトテシャンでも、愛想笑いのいっこも無いから逆にいびせぇ。人間より人形ってゆぅた方がしっくりくるよな」
「まあ……でも、それがええんよ。滅多に笑顔を見せてくれんから、その……なんっちゅうか、高級感っちゅうか……特別感があってさ」
千歳自身も皮肉げな冷笑以外に尾坂大尉の笑顔らしいものは見たことが無いのだが、それが良いのだ。尾坂大尉は高貴なお方だから、滅多に笑顔など見せなくて良い。いや、むしろ親密な仲になっていくうちにふとした瞬間はにかむ姿を想像してぐっとする気持ちを味わっていたい。千歳の気持ちを約八十年後の未来の言葉で代弁するなら「尾坂大尉殿が尊い」だろうか。まあそんなものだと思っていただければ良いだろう。
「まあ、好きな奴にゃぁたまらんじゃろうな」
「ほっとけ」
「われらげに尾坂大尉の何がええんなんじゃ。答礼とかひやい感じがするし、ゆい方がいちいち直球すぎてカチンと来るし。なんぼ恩賜組だって言ぅても、人格ができとらん。聯隊長以下、他の士官方が気さくでおおらかじゃけぇ余計にそれが際立っとる」
戦友は非常に手厳しい。ぐうの音もでないド正論を吐かれて千歳はたじろいた。
「われ、あんなぁが影でなんてゆわれとるんか知っとるか」
「え?」
「みんな口を揃えてゆうんで。尾坂大尉のことを“心臓まで氷でできとる魔王様”っての。たとえ自分の親が敵でも、眉ひとつ動かさんとぉに任務を遂行できるってゆわれとるよ───尾坂大尉は人の心がわからん化けモンやってな」
「それがええって奴もいるんよ」
そっと唇を尖らせて、ささやかな反論らしきものをするが今一つ弱い。そういえば何で自分はあの人にあんなにも強く惹かれるのだろうか……と。客観的に指摘されている内に自分で自分が判らなくなってきた。
「人を相手にええがぃに立ち回れる参謀の才能なんて無い、かゆっても人の上に立って皆を纏める指揮官の才能もからっきし。なんぼ特別抜擢組のエリートってっても、しょせん大尉は技術屋向きの俊才さ。おまけに中央から睨まれて、新技術の開発や研究任務からも遠ざけられとる。これじゃあ予備役になるんも時間の問題……いや、そりゃぁ無いの。なにせ海外留学までしてきたんだんじゃ。大尉殿一人を育てるまでに投入した金と労力を考えるなら、早々に予備役なんてもったいなさすぎてできるはずがない」
そう考えたら定年まで飼殺しにされるのが関の山って奴だろう、と戦友が呟くのを横で眺めながら千歳はそっと目を伏せた。
……あの人はずっと孤独な人であったのに、さらに自分の能力も認められずに飼殺しにされる人生が待っているなんて。と考えると上官に密かな憐れみを抱いてしまう。
炊事モサ達の後片付けも終盤に入ったのだろうか、背後のざわめきが穏やかになってきた。そろそろ九月に入ろうかという昭和六年の晩夏のある日。雲ひとつ無い広島の空の元で、日陰で涼みながらも幼馴染み二人の会話は続く。蝉が近くで張り合うように鳴いていた。
「まあ、有事でも起きて早急に新技術が必要になりゃぁ話は別じゃろうが」
「縁起でも無いことゆわんでよ」
「悪い悪い」
数年前に満州で某重大事件が起き、世界恐慌の煽りを受けた昭和恐慌でどこもかしこも荒れているとは言えどもまだまだ──少なくとも国内は平和だ。そう、少なくとも今は……
「……せめて満期除隊まで何事も無けりゃぁええな」
「そがぁに心配せんでもきっと大丈夫さ。戦争なんて滅多に起こらんって」
一瞬感じた不安をぬぐい去るように笑い飛ばして、千歳は側に生えていた雑草を指先でつつく。さてそろそろ班に戻ろうか。と、考えたその時。
「──んのーぅ」
「ん?」
妙に間延びしたがらがら声。人間の声ではなく、獣の声だ。それも小型で人が家で飼える程度の大きさの……
「お、猫」
「ほんとじゃ、猫おる」
視線の先にいたのは猫だ。それも黒猫。野良にしてはずんぐりとした大きな身体を持っていて、やけにふてぶてしい。耳が小さく見えるくらいに丸々とした顔につぶらな黄色い目が二つ乗せてあって、それが申し訳程度の可愛らしさを演出していた。
ぷんぷん、と短い鍵尻尾を振り回しながら自分達の前を通りすぎていくその黒猫に見覚えがあって、千歳は「あ」と声を上げる。
「あれ、クロスケじゃないか。おーい、クロスケー」
「千歳、知っとるんか」
「うん。ここら辺一帯の猫どもの元締め。師団長のとこで飼われとる猫らしいが……」
黒猫は千歳の呼び掛けにも応じずに、図々しくも無視しながらぽてぽてと歩いていく。千歳が指でつついていた雑草の中に紛れていた猫じゃらしを引き抜いて、目の前で振ってみても効果は無しだ。
「なんだ、あんなぁクロスケって名前なんか」
「いや、わしが適当に付けた名前じゃけぇ本名じゃ無いよ。それにしても珍しいなぁ……駐屯地内に来るなんて。いったいなにしに来たんじゃろ」
「師団長の命令じゃないか。わしら下っ端の兵隊が油を売っとらんか見回りに来たとか」
「さすがにそりゃぁ無かろ。猫ってきまぐれだって話だし。おいでおいで、クロスケ」
みょんみょん、と猫じゃらしを振ってもやはり黒猫は振り返らない。二人を無視して通りすぎて行った。
「……猫、なんか咥えとらんか?」
「ほんまや……はんぺん?」
「どっかから持ってきたんか。炊事場からサシくってきたわけじゃ無さそうじゃが……どこに持ってくんだ」
サシくる、とは軍隊用語で盗んでくるという意味だ。似たようなもので海軍の「銀蠅」というものもある。どら猫が食料を掠め取っていくなんて良くあることだが、なぜこの“クロスケ”は根城でもない工五駐屯地にわざわざはんぺんを咥えてやってきたのだろうか。
不思議に思って二人が首を傾げたその時だった。
──にー
「……」
「……」
“クロスケ”のがらがら声ではない。まだ使い込まれていなさそうな声帯から出たと思わしき甲高い鳴き声が響いた。
それに応じたのだろうか。咥えていたはんぺんをぽてっと落として“クロスケ”が前足を器用に使ってそれをグイっと前に押し出していく。そこにあるのは植え込みだ。なぜそんな所にはんぺんを押し込むんだ。と、疑問に思った二人は、どちらからともなく立ち上がって植え込みの中をそっと確認した。そして、そこにいた毛の塊を見付けて「あっ」と声を上げる。
「嘘じゃろ」
「なんでこがぁな所に………」
そこには五色の毛玉──もといまだ小さな仔猫が五匹、ひしめき合って“クロスケ”の差し出したはんぺんを胃の中に収めている所だった。
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