海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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昭和六年広島

(17)常磐薺③─追想、昭和五年広島─

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 視線の先、仙の白い太腿には歪な赤い線が何本か刻まれ、その線を焼いて潰したかのような火傷が存在していた。そのなかにはついさっき火かき棒で付けたと思われるものも混ざっている。
 何度も何度も繰り返し傷付け、治りきる前にまた付けられた傷の数々。そのほとんどは爪と熱した火かき棒でつけたのか、中には膿んでいると思われるものまであった。

「おい……待て、これ……どうしたんだ……?」

 声がひきつる。こんな傷、どう考えてもこいつが自分で付けたとしか考えられない。
 顔面蒼白のまま、どうしてこんな事をしたんだという意味を込めて零士は問いかける。すると仙はへらりと笑ってこう答えた。

「うん……これ?前に血が出るくらいに引っ掻いたら、すごく楽になって……それで……どんどん強くなっていって……さすがにまずいかなって思って……それで、月齢検査(※健康診断)で見付かっても火傷だったらまだ言い訳できるから………」

 確かに。爪で抉るほど強く引っ掻いたような傷が、一つならまだしも複数あるのを軍医に見咎められたらまずいことになる。だがその点、火傷だったらまだ言い訳がきく。火かき棒など熱した道具の取り扱いを誤ってしまったとでも言えば、それ以上追求する事はできなくなるだろうから。

「それに───焼いたらちょっとは綺麗になるかなって」

 ひゅぐっ、と変な声が出た。そうか。自分は汚い、穢れた存在だ。と、彼は自分自身をずっと責めていたのだろう。だから、少しでも綺麗になれば、という気持ちで焼くという行為を選んだのか。

「大隊長達は服を完全に脱がさない方が興奮するって言ってくれているから助かったぁ……」
「おま……痛く…無いのか……それ………?」
「ん……まあ………最初は痛かったよ。けど、段々痛みが薄れていって、今はもう何にも感じなくなったんだ………」

 なぜそこまで考えが及んでいながら止められなかったんだ、とか言いたいことが腹の中でぐるぐる回っていた。それが喉の奥から出てこなかったのは、何もかもを悟っていたからだ。

────そうか。こいつはもう、とうの昔に壊れてたんだった。

 壊れてバラバラになって、それでも破片を拾い集めて不格好でも良いから人間のフリをして。それでも中身は破綻してぐちゃぐちゃになって、痛みでしか生きている実感を得られずにドロドロに融けていた。
 いったい何時からこうなった?いや、そもそも誰のせいで彼はこうなった?
 もう答えなんか判りきっている。

────俺のせいだ。

 自分があの時、彼の後ろを追い掛けてその手を取らなかったせいだ。自分の保身のことばかり考えて、彼の気持ちに何一つとして寄り添おうとしなかったせいだ。

「………ごめん」

 自分の選択のせいで人ひとりを───それも無自覚なまま終わった初恋の相手を壊してしまった。その恐怖と罪悪感で気が触れてしまいそうだ。

「ごめん……ごめん………ゆるしてくれ…………すまなかった…………ごめんなさい……」

 カタカタと身体を震わせ、冷や汗を流しながら謝罪の言葉を口にする。脚から力が抜けてその場でへたりこんでしまった。


「───なんで滝本が謝るの?」


 不意に、仙が口にした言葉に喉の奥で呼吸が引っ掛かる。やめてくれ、という声は音に出なくて唇を戦慄わななかせるだけに留まった。

「おざっ……」
「瀧本は何も悪くないだろ……? なのにどうして謝るんだ……?」
「それっ……は………」

 決して、責め立てるような言葉尻ではない。それは何も知らない幼子が周りにいる大人に「これはなぁに?」と聞くような、そんな残酷なまでに無邪気なものだった。

「謝るのはぼくの方だよ。びっくりしたでしょ?ごめんね、瀧本。気持ちが悪かっただろう?」
「やめてくれ……たのむから………」
「殴っても罵っても構わない。なんなら犯してくれたって構わないよ……満足させられるか判らないけど………」

 いっそ聖人のように穏やかな微笑を浮かべ、仙はそっと左手で脚に散らばる傷を撫でる。でも彼は泣いていた。泣きながら乾いた声を上げて笑い続けていていた。
 その様が痛々しくて、もう見ていられない。放っては、おけなかった。

「……もう、やめよう」

 傷口を撫でていた仙の左手に震える指先を伸ばし、その白くて優美な手を壊れ物を扱うかのような力加減でそっと握る。
 白魚しらうおのような──とはいかない。長年に渡って円匙えんぴ(※シャベル)や銃を持ち長距離を行軍する過酷な訓練に身を投じていたためか、意外にも武人らしい武骨な手だ。
 何を言われたのか判らなかったらしく、仙はきょとんと目を瞬かせている。零士は苦しげに表情を歪ませながら、愚図グズる子供を諭すかのような声音で言葉を紡いだ。

「もう、やめよう。な? こんなこと続けていたら、感染症になるかもしれないだろ? 脚を切断しなきゃいけなくなるかもしれないんだぞ。もっと悪かったら死んじまうかもしれない」
「………」
「お前、工兵だから塹壕ざんごう掘って泥だらけになったりもするだろ? 破傷風にでもなったら大変だ」

 零士の必死の説得に、仙は項垂れる。水気を含んだ前髪が、しっとりと重く垂れ下がった。伏し目がちになったせいで強調された長い睫毛に隠れて、揺れる瑠璃色の瞳がその姿を潜めた。

「だから……」
「─────うるさい」

 地の底を這うように低く、そして怒り狂った狼が唸るように恐ろしい声。
 もしかしなくても下手を打ってしまった事は明白だ。しまった、と口を閉ざそうとしたがもう遅い。一度出てしまったものは、二度と元には戻らないのだ。

「おざ」
「うるさいと言っている!!!!」

 バシッ、と握った手を叩き落とされて衝撃が走る。遅れて右手の指先を中心にジンとした痛みが広がった。その痛みでたじろく零士を他所よそに、仙は瑠璃色の瞳を怒りでぎらつかせながら激情に身を任せて叫んだ。
 今まで、それこそ産まれて物心ついた時から今の今まで腹の底に封じていた、タールのように澱んで暗く鬱屈とした感情がついに爆発したように。仙は目の前の男の胸ぐらに掴みかかって産まれて初めてあらんかぎりの声を張り上げ激昂した。

「貴様に私の何が判る!!!? 何が判るんだ!!言ってみろ!!! えぇ!!? どうせ何も言えないんだろ!!!? この目のせいで!! 私の目がこんな薄暗い青色をしているというだけで!! ちょっと人と違う色をしているってだけで!!! どんな目にあったか言ってやろうか!!? あいつら、私のことを露助だの合いの子だの言いたい放題言いながら石を投げて!!!! 散々馬鹿にしてっ!!! あいつの目は畜生の目玉だから色なんか見えちゃいないってわざわざ聞こえるように影でこそこそ嘲笑って!!! 何がそんなにおかしいんだ!!? 灰色ってだけでお前たちと同じように見えているのに!! 空の色も海の色も!! 森の色も街の色も!! 血の色だってお前たちと同じように見えているのに!!! 灰色の目で何が悪いんだ!!! 私が灰色の目だったからってお前たちに何か迷惑でもかけたのか!!!? なんでっ……どうして………っ私が!! この目のせいで!! 今までどんな惨めな思いをしながら生きてきたのか何も知らない癖に知ったような口を利くな!!!」
「尾坂……」
「私はっ、好きで侯爵家の三男に産まれた訳じゃない!!!! 産まれたばかりで何も言えない赤子を母親から無理矢理取り上げたのはそっちの方なのに!!! 侯爵が外で作った卑しい女郎の子でっ、ぅ……悪かったなぁ!!! そんなに嫌なら座敷牢にでも入れて見殺しにしてくれればよかったのに!! それも違う! あれも違う!! こうしろああしろ!!! これが九条院家のしきたりだから黙って従え!! 家から一歩も出るな、顔も見せるな!!! お前はお父様の言うことだけを聞いていればいい!!? ふざけるのもいい加減にしろ!!! 私は貴方の玩具じゃない!!!私は!!! 私の母じゃない!!! 貴方が一方的に恋慕した挙げ句に手篭めにした女学生じゃない!!! 何が侯爵の寵児だ!! 何がお前が女だったら良かった、だ!!! ハッキリ言えば良いだろう!!! 私の事なんて、貴方が殺したも当然の女の代用品程度にしか思っていなかった癖に!!! 私自身の事なんか!! 一度たりとも見てくれなかった癖に!!!」

 悔しさと自暴自棄が入り雑じった慟哭どうこくを聞きながら、そっと唇を噛んで目を閉じる。
 ああ、彼は。
 薄々感じていた予感は的中していた。そうだ彼は、自分の実の父親にさえ自分自身を見てもらえていなかった。仙、という自分の意思と感情を持つ一人の人間としてさえ扱われていなかった。
 産まれてからずっと、まるで女児が愛でるために作られた陶器の人形のように。所有者が気の済むまで存分に可愛がった後に、丁寧に丁寧に硝子ガラスの箱に入れられる骨董品のような扱いしか受けてこなかった。それが九条院 仙という少年だ。
 硝子の壁で四方を囲まれて展示されて、侯爵が望むがまま綺麗に飾り付けられていくお人形の人生。それがどれだけ惨めなものか、零士には想像もつかない。

「だいたいっ、素人の娘に手出しをして孕ませておいて……っ何が妾の子だ!!! よくぞそんな惨い仕打ちをっ、婚約者がいる十七の娘にできたな!!! それを隠すために私の母を貶めて!! 芸者だの女中だの適当な言い訳にくるんで隠して!!! 結局貴方は自分の事しか考えてないじゃないか!!! ぅぐ……ひっ………尾坂の大叔父だってそうだ!! いつも曖昧に笑って誤魔化して……っいっそのこと面と向かってハッキリ言ってくれよ!!! 私の事が憎いって!! お前が姪を殺したんだって!!! お前さえ身籠らなければあのは今頃結婚して幸せに暮らしていたって!!! そんなの言われなくったって判ってる!!! 私があのひと自分の母親を殺したんだって!!! 口に出さなくったって視線でそう言っているのが判るんだよ!!! 私がっ……ひっぐ……ぅ……あの家の外の世界に出るべき存在じゃ無かったって………ぇ………そんなの……っ……私自身が一番知ってる…………でもっ……でもっ…………あんな場所にいたらっ……気が狂ってしまう…………うぇっ……え……どいつも、こいつも……二言目には私を可哀想だなんて妄言をっ……ぅ………吐きやがって……!!! 何かあるたび私の事をっ………美しいだの綺麗だの……ひぐっ………決まり文句のように称賛して持て囃しているその裏でっ!!! 人の事を徹底的に踏みにじって!! 馬鹿にして!! 玩具にして……ぅう………弄びながら見下して……っ!! 面白おかしくてたまらないって………そんな………っ……薄ら笑いを浮かべている癖に………!!!」

 最後の方はもう堪えきれなかった嗚咽おえつ混じりのひきつった声だった。

 ……これらはおそらく、今まで彼が出会ってきた数多の人間に言われてきた事なのだろう。当然だが零士はそんな言葉を一度たりとも彼にぶつけた覚えはない。そして自分が無意識に言ってしまったという訳でも無いだろう。なぜなら仙が感情に身を任せて叫ぶ言葉の数々は、明らかに零士に向けられたものではないから。

 それらを零士にぶつけるのは見当違いだなんて本人が一番よく判っている。
 でもぶつけずにはいられなかったのだ。今まで誰一人として彼の心をありのまま受け止めてくれる人はいなかった。両親も、九条院家の人々も、そして養父でさえ。誰も彼の本音に耳を傾けようとさえしなかった。
 ただ一人───零士を除いて。

「も、ぉ!! うんっ、ざりなんだよ!!! 目の色のこととか、この顔や……ッ産まれのことでっ………ぅ……さんざんな目に……会わされるのはっ……!! ………ぐすっ………ずっと……この国で産まれて生きてきたのに…………私の祖国はここしか無いのに……どこに………ひっぐ…………どこに行けば…………自分じゃどうしようもできない理由で………ぅう……責められたり笑われたり………腫れ物を触るように扱われたり………ぅ………せずに済むんだよぉ……………」
「………」

 零士の胸ぐらを掴んでいた手に力はもう入らない。小刻みに震えながらすがり付くように胸板に指を這わせるだけとなっている。

────私の祖国はここしか無いのに。

 彼はこれをどんな気持ちで言ったのだろうか。中学に入るまで外界から隔離された環境でお人形のような生活を強いられ、他の子供が無邪気に笑い合っているであろう十四歳という幼い年齢で軍人として国に忠誠を誓った彼は……

 この国で軍人という職業に就いた者は自らの意思でその肩書きを返上することはできない。地位を手に入れる代わりに、軍服という名の首輪で繋がれた組織の犬に成り下がる。
 それは自分で選んだ選択だ。国に忠誠心と自分の人生全てを捧げる覚悟を持って、自分達はこの選ばれた者しか着れない詰襟の服に袖を通した。それについては文句などあるはずがない。

 だが──そうまでして彼が忠誠を捧げた国の、守る事を誓った民は彼の事を受け入れてはくれなかった。

 見返りなど求めること自体間違っていると言われたらそこまでだろう。しかし目の色が自分達とは違う、という理由だけで石を投げたり囃したてたり。時には崇拝の対象にさえした。さすがにこれは身勝手が過ぎると思うのは許されて良いはず。
 ここまでして自分の全てを国に捧げてもまだ足りないのか。彼がどこまで自分を捨てて奉仕し続ければ、彼に石を投げた者達は満足するというのだろうか。

「ほんっ……とに………ぅう……最後の、望みだったのに…………ひっぐ………色んな国や……地域の……ぅ……人が……交ざりあってる……ぐすっ…………亜米利加アメリカに行ったら………ふ…ぅ………ぼくの目も……目立たなくて……すむかなって……思って……ぇ……それに賭けたのに………ぅう……きぃ………きいろ……東洋人なのにって………東洋人のくせにって……逆に……悪目立ちして………結局…………ぇっぐ…………ぼくのこと………側にいて良いよって……受け入れてくれる人なんて………いなくって…………」

 ああ、だから留学先は米国だったのか。ようやく合点がいった。人種の坩堝るつぼと言われているかの国ならばあるいは、という僅かな希望にすがって彼は死に物狂いで努力を重ねて、そしてやっと渡米の切符を手にしたのだろう。
 だがそこで待っていたのは今まで以上の過酷な環境。東洋人に対する偏見と、激しい差別。言葉をぼかしてはいるが、恐らく実際にはもっと酷くて屈辱的な言葉を投げ掛けられたのだろう。
 仙の肌は東洋人にしては白いが、それは向こうでは東洋人の括りに入る程度のもの。加えて本来北欧の辺りでしかお目にかかれない灰色の瞳を持つ日本人。そんな仙は彼らにとっても中途半端で珍しくて、そして気味の悪い存在だったのだろうということは想像に難くない。

 彼が微かな希望を胸に死に物狂いで手にした海の向こう側への期待は、しかし現実の前に折れて粉々に打ち砕かれていった。
 後に残ったのはぬかるんだ汚泥の底でささやかに祈った夢の破片と、足の先から徐々に侵食してくる絶望感。
 自分の居場所は誰も自分を受け入れてくれなかった祖国の、自分の尊厳を徹底的に踏みにじって欲望の対象にした者達がてぐすねひいて待っている陸軍しか無い、と。その事実を思い知らされた瞬間が彼にとっての最後の引き金が引かれた瞬間だったのだろう。

 純朴で、真面目でおっとりとしていて何事にも一生懸命で。なのに不器用すぎて、それ故に瀟洒しょうしゃに仕立てた軍服の内側に自我を押し込めて血も涙も無い冷徹軍人という殻に籠ることでしか自分を守れなかった彼。虐げられた末にとうとう開き直ってしまい、派手に遊び回っては一人になったとき空虚な気持ちに打ちのめされる日々を送るしかなかった彼。
 濡れた指先をおずおずと伸ばして、せめて自分の温もりを彼に与えてやりたいと思った。

「……そう思ったとき…………なんでか瀧本の顔が思い浮かんで………ぐすっ……この十五年間………いつもいつも………何かある度お前の事を……ぅう………思い出して……ぉ……お前だけだったんだよ………ぼくのこと、可哀想だって……言わなかったの……ぼくの目の色を……ダシにしなかったの……ひっぐ………ぼくの人生で………お前だけだったんだよぉ……」
「…………!」

───お前だけだった。
 仙のその一言は雷に打たれたような衝撃を零士にもたらした。
 自分がつい最近まで記憶の隅に追いやって蓋をしていた十五年前の淡い初恋の相手は、自分の事を片時も忘れていなかったのだ。自分が彼の事を忘れて海軍軍人としての出世街道をまっすぐ駆け抜けているその間、暗く澱んだ欲望にまみれて心も身体も汚されながら、ずっと。
 たったの一年、いやそれよりも短かった。三十年近い人生の中で仙と零士が触れあったのは、瞬きの間に過ぎ去る程度に短いもの。
 だが彼にとってその思い出は自分にとって最後の拠り所だったのだ。だから、感じやすい繊細な心をボロ雑巾になるまでズタズタに引き裂かれて完全に壊れた後も、その微かに残った大切な思い出にすがって……零士を探していたのだろう。きっと。いや、おそらくそうだ。

 ……ずっと、想い続けていてくれたのだ。
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