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(30)真実と信念の追求③
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しかしそれでも───告げなければいけない思いがある。
「お兄さま。ねえ、仙お兄さま」
洋琴の鍵盤に手を乗せたまま、じっと固まる彼の背にそっとしなだれた。
室内だからか、上着を脱いで軍刀を吊り下げるための革帯も外した彼は、その下に着ていた白い襦袢と黒い革で作られた軍袴吊りだけという格好だ。身体の線に添うようにぴったりと誂えられた上衣が無いと、また違った印象を受ける。
着痩せをする質であるだろうか。男装の麗人に見えるほど細身で、軍服をかっちり着込んでいる姿はとてもじゃないが陸軍軍人───それも肉体労働が主な仕事である工兵将校とは思えない。
軍服を着込んでいるのに軍人に見えないというのは何か矛盾している気がするが、その表現が一番似合う。
しかし、上衣一枚脱いだらただ細いというわけではないことをハッキリ見られる。
将校と言えども技術屋だからか、尾坂の身体は細身ながらも骨や筋肉の密度が桁外れなのだ。
細い分、ギチギチに詰め込むしかなかったのか。彼はその麗人然とした上品な出で立ちと相反して、服の下は十四の頃から軍人として鍛え上げられた素晴らしい肉体を持っている。
薄い襦袢の生地ごしに小綺麗な顔に反した男の身体の想像を掻き立てられ、思わずごくりと息を呑んだ。
触れてみるとよく判る。指を滑らせていくと、筋肉の繊維一本一本が強靭で、骨と繋いでいる腱も柔軟性と弾力性を兼ね備えていると。それにその骨自体も太く、折れそうなほど細く儚い印象を払拭していった。
「……兄さま」
男らしく大きくて、安心する背中。そっと頬を寄せて、耳を付ける。
心臓の音と、呼吸の音。規則正しく鼓膜を震わす二つの音は、彼が人形ではなくまぎれもない人間だということを証明していた。
それだけ近いと、必然的に相手のにおいも特に意識していないが嗅ぎ取れてしまう。
先程、パーティーで共に円舞曲を踊った時と何も変わらない。機械油と燃料の微かながら存在感のある特徴的なにおいに、爽やかな柑橘系の香水を被せてあまり目立たないようにしているというもの。
しかし、先程とは少し違う。何か、別のにおいが鼻を突いた。何かと思って合致するものが無いか、記憶を底から浚ってみる。
(これ……)
思い出した。これは、医療の現場で使われている消毒用アルコールの臭いだ。つい先程はこんな臭い、しなかったのに。
「……芙三さま」
はあ、と溜め息。ドキッと心臓が止まりそうになって息を詰める。
非常に冷淡な声だ。まるで「近付くな」と言われているようで、明らかに尾坂から拒絶されていることを悟った芙三は悲しくなった。
いったい何が彼を変えてしまったのだろう。
十四年の間に彼は、おっとりとした素朴な優しさを振り撒く少年から、仕事以外に心を動かされることのない冷徹な男へ変貌してしまった。
芙三が尾坂と会わなかった間に、彼がどんな世界を見てきたのだろう。
どれだけ考えても、答えなんか見付からない。何も、教えてもらえない。
なぜなら芙三は女だったから。たったそれだけで、それは知ってはいけないことですと潰されてきた。ただひたすら殿方に従順であれと幼い頃から教えられ、疑問を挟むことさえ許されない世界に──そもそもその発想すら思い付かない世界で生きてきた。
軍隊のことなど、男の世界など、女は知らなくて良い。それが世界の『常識』だった。
常識の壁は分厚く、芙三の細い腕ではどんなに頑張っても壊すことなど叶わない。
これが幼い頃に読んだ物語の中だったのならば、なんて。なんど空想したのか判らない。
芙三が御伽噺の主人公だったのならば、今頃は多くの障害を乗り越えて───恋に落ちた殿方と、誰も自分達のことを知らない遠い所で幸せになれていたのだろう。
「……もう一度、忠告させて頂きます。夫ある身で他の男にそのような行為をされるなど、はしたないにも程があります。もし、貴女が一人前の淑女だというのなら、そのような風紀に反した行いはこれ以降、一切改めるように」
「兄さま───もしかしたらお怪我をされていらっしゃいますの?」
質問にはあえて何も返さず、逆に別の疑問を投げ掛けて封殺する。ピクリ、と鍵盤の上に置かれた指が跳ねた。上衣や帽子は脱いでいるというのになぜか手袋を着けたままの手は、その下がどうなっているのか見せてもくれないことを示唆している。
一瞬だったので見逃しそうになったが、確かに彼は今動じたのだ。
「……貴女が心配する必要はありません」
「胡二郎お兄様が手を打たれた後ですか?」
「判っているのならわざわざ聞かなくとも良いでしょうに」
今、この屋敷にいるものの中で侯爵に秘密を悟られずに尾坂を治療できる者がいるとすれば、消去法で考えると胡二郎しかいない。そしてその予想は見事に当たっていた。
「ねえ。御存知ですか、仙お兄様」
「他人の噂話を口にする前に、貴女にはやるべきことがあるのでは」
声に微かだが苛立ちが混ざり始めた。暗に「さっさと離れろ」と言われているのは判っていたが、あえて真逆の行動を取る。
そのままさらに身体を密着させ、指を彼の肩から腕の方に滑らせていく。固く盛り上がった筋肉の線をゆっくりと、精一杯の誘惑を乗せてなぞりあげると息を詰めて表情を強張らせていくのが感じ取れた。
緊張しているのだ、自分の行動で。
それを思うと、どうしようもなく興奮する。何にも興味がないとばかりにつんとしている尾坂仙という男を、仕事以外のことで動じさせたということが。
ころころと鈴を転がしたような笑い声を上げ、芙三はとうとう尾坂の後ろから抱き付いた。伸ばされた指先は鍵盤の上にある彼の手の甲に重ねられる。
殿方の手だ。男装の麗人のようだと騒がれていても、やはり彼は男なのだと伝わってきて、少し嬉しくなった。
「胡二郎お兄様、帝国大学に通っていた頃に海軍の軍医様と親しくなられたそうですよ」
「───芙三さま」
ふ、と。声の温度が急激に下がった。
ぞわっと肝が冷えるような思いをした芙三は、ビクッと身を震わせて細い身体を硬直させる。
「……私の目の前で、海軍の話を口にするのは止めて頂きたい」
低く、狼が唸るような声。なんとか平静を保とうと必死になっているのは見て取れるが、それでも完全には隠しきれていない。
今の会話の何がいけなかったのか。理由は明白だ。
───海軍。
その単語が彼にとっての禁句だというのは本当のことだったのだと悟り、芙三は密かに嗤った。
「あら、お嫌いですの? 海軍のことが」
「……お止めください、レディ。貴女の口から海軍の話など聞きたくもない」
スッと振り返った彼の瑠璃色の瞳には、底冷えするような光が宿っている。それはまるで、怒りに震える狼のよう。
「どうして? わたくしが海軍のお話をすると、何か不都合でも?」
「レディ、高貴な身分であられる貴女様は存じ上げないでしょう。海軍という所は下士官を使って兵を棒で殴らせ、それを黙認している野蛮人の集団です。それに明治建軍以来、我が陸軍は海軍とは幾度も衝突してきたのです」
思春期の多感な時期に海軍の悪口を聞かされ続けていたら、海軍嫌いになってもおかしくはないだろう。別に不自然な話ではない。
言外にそう告げ、尾坂は目を伏せて憮然とした態度を取る。どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。
「そうですの? 本当は別の理由があるのではなくて?」
「……坊主憎ければ袈裟も憎い」
えっ、と聞き返しそうになった。それはいったい、どういう意味だ。そんなの聞いていない……と。
「貴女、もしや東京で『鷦鷯』と呼ばれる探偵に出会いましたか?」
「!」
思ってもいなかった名前をボソッと口に出され、驚いた芙三は思いっきり後ろに飛び退いてしまった。
鷦鷯というのは鳥のことではない。東京の片隅に事務所を構える探偵が名乗っている名前を指すのだ。
当然ながら本名では無いだろう。どうもあの探偵、表で当たり障りの無い個人調査等をやりつつも、裏家業の人間と何やらよろしくやっているようだから。
今回、芙三はこの計画を立てるに当たってまず情報を集めることにした。そして、学習院時代の友人の伝を使って紹介されたのが、その鷦鷯という探偵だったというわけだ。
探偵を使ったのはこれが初めてだったが、あれは良い仕事をしてくれた。でなければ、芙三は今でも彼の瞳をくすんだ青灰色だと勘違いしたままだっただろう。
まるで醜いと言われていた灰色の家鴨の子が、純白の翼を広げて天を舞う白鳥に変身したように。幼かった頃は少し青色かかった灰色だった彼の瞳は、時を経て年月を積み重ねたことによって深みのある瑠璃色へと変化していたのだから。
彼が士官学校に通っていた時に再会した時と、まるで別人のようだった。地味で目立たないように気を配っていた彼が、短期間であんなお洒落なモダンボーイに変身するなんて、と。驚きすぎて逆に笑いたくなったほどだ。
とにもかくにも、優秀な働きをしてくれた鷦鷯には感謝している。
だが、問題が発生した。なぜ、その調査対象だった尾坂が、鷦鷯のことを知っているのだ?
「……無言は肯定と見なします。会われたのですね、鷦鷯に」
「ええ……そうです。貴方のことを調べるために」
悪戯がバレたような気分になって、芙三は苦笑する。
十四年───それはあっという間に過ぎ去った、あまりにも長い年月だった。
探偵を使って調べるまで、尾坂に関する芙三の記憶は十四年のあの日で止まってしまっていた。だからこそ、最新の情報を手に入れるために策を労したのだ。
「………レディ。あの男に何かご自身の知られたくない秘密を漏らされたりしましたか?」
「いいえ」
「なら良かった。では、あの男にはもう二度と関わらぬようになさってください。そして、私のことも今後一切お調べにならないように」
私からは以上です。そっけなく返して、尾坂は芙三のことをじっと見つめる。
その瑠璃色の瞳で見詰められると、まるですべてを暴かれているような気になってしまう。
……彼女がひた隠しにしてきた、異母兄への邪な想いも。全て。
「なぜですの、お兄様。なぜ、貴方の近況を知ってはならぬのですか」
「どうしてもです。私にだって、誰にも見せたくない汚い側面くらいございますので」
「いいえ、いいえ。何度言われたって、わたくしは貴方のことを知りたい。もっと、もっと知りたい」
「芙三さま。私は貴女が思っているほど綺麗な存在ではありません」
むしろ、と前置きを置いて。そして一泊溜め込んだ後で、尾坂はそっと囁くような事実を口にする。
「……どれほど外面を美しく取り繕っても、中身は腐り果てて蛆が湧いている。私はそういう男です………そうならなければ生きていけぬ世界で生きてきた男です。この手套を外して、貴女に直に触れることさえできない。貴女を穢してしまいそうになるのが忍びないから…………」
随分と力なく呟かれた一言だった。
まるで……その一言に、彼が今まで歩んできた人生全てが詰まっているような。
「そのようにご自分を卑下なさらないでください。軍人ですもの……ある程度なら何があったのか察して差し上げることができます。ですがお兄様、謀略渦巻く軍という組織の中であっても、貴方の輝きは少しも損なわれておりません。貴方はとても美しいお方です。わたくしはそんな貴方のお力になりたいだけでございますの」
「………」
そっと、目を閉じる。そうすると長い睫毛が頬に影を作って、思わずどきりとするような色香を作っていた。
「芙三さま……貴女は何も知らない」
少しでも『普通』から外れた者に対し、世間が向けてくる冷たい眼差しも。どっち付かずの半端者として産まれた者に、一生付きまとう苦労も。そして………陸軍という組織が抱える、本当の闇というものも。何も、知らない。
知らない───それがどれほど幸福なことなのか、まったく知らない。
どこまでも、どこまでも。彼女は井戸の中の蛙。深窓の令嬢、世間知らずのお嬢様でしかないのだ。
「……無知というものは、人を最悪の愚か者にします。でも、その一方で最高の幸福も与えてくれる」
私の持論です。ふ、と尾坂はその視線で真っ直ぐ芙三を射抜きながら、静かに……だが良く響く声で諭した。
「その無知は、貴女にとって最高の幸福です。どうか───どうか、貴女は何も知らぬままでいてください」
知ってしまって苦しむくらいなら、いっそ知らぬままであったほうが良い。そうやって産まれる歪みや憎しみは全て、自分が引き受けるから。
それが、彼の答えだった。
「……酷い方。わたくしは結局、最初から最後まで蚊帳の外ですのね」
予想はしていた。だが、実際に言われると……覚悟していたよりも、ずっとずっと心が痛い。
それを感じて、またズキズキ痛む心臓とツンとなっていく鼻の奥が辛い。
彼の心に傷を残したかった。だけど、気が付いたら傷付いているのは自分だけ。それも、自分で自分を傷付けているだけの、独りよがりの自己満足で。
それでも芙三は───自分の全てをかけた、自分のためだけの恋をする。
「───恋慕う殿方の苦しみを少しでも理解したいという想いは、間違っているのでしょうか?」
そうやって思わず、口を衝いて出てしまった言葉は───芙三の本音であった。
「お兄さま。ねえ、仙お兄さま」
洋琴の鍵盤に手を乗せたまま、じっと固まる彼の背にそっとしなだれた。
室内だからか、上着を脱いで軍刀を吊り下げるための革帯も外した彼は、その下に着ていた白い襦袢と黒い革で作られた軍袴吊りだけという格好だ。身体の線に添うようにぴったりと誂えられた上衣が無いと、また違った印象を受ける。
着痩せをする質であるだろうか。男装の麗人に見えるほど細身で、軍服をかっちり着込んでいる姿はとてもじゃないが陸軍軍人───それも肉体労働が主な仕事である工兵将校とは思えない。
軍服を着込んでいるのに軍人に見えないというのは何か矛盾している気がするが、その表現が一番似合う。
しかし、上衣一枚脱いだらただ細いというわけではないことをハッキリ見られる。
将校と言えども技術屋だからか、尾坂の身体は細身ながらも骨や筋肉の密度が桁外れなのだ。
細い分、ギチギチに詰め込むしかなかったのか。彼はその麗人然とした上品な出で立ちと相反して、服の下は十四の頃から軍人として鍛え上げられた素晴らしい肉体を持っている。
薄い襦袢の生地ごしに小綺麗な顔に反した男の身体の想像を掻き立てられ、思わずごくりと息を呑んだ。
触れてみるとよく判る。指を滑らせていくと、筋肉の繊維一本一本が強靭で、骨と繋いでいる腱も柔軟性と弾力性を兼ね備えていると。それにその骨自体も太く、折れそうなほど細く儚い印象を払拭していった。
「……兄さま」
男らしく大きくて、安心する背中。そっと頬を寄せて、耳を付ける。
心臓の音と、呼吸の音。規則正しく鼓膜を震わす二つの音は、彼が人形ではなくまぎれもない人間だということを証明していた。
それだけ近いと、必然的に相手のにおいも特に意識していないが嗅ぎ取れてしまう。
先程、パーティーで共に円舞曲を踊った時と何も変わらない。機械油と燃料の微かながら存在感のある特徴的なにおいに、爽やかな柑橘系の香水を被せてあまり目立たないようにしているというもの。
しかし、先程とは少し違う。何か、別のにおいが鼻を突いた。何かと思って合致するものが無いか、記憶を底から浚ってみる。
(これ……)
思い出した。これは、医療の現場で使われている消毒用アルコールの臭いだ。つい先程はこんな臭い、しなかったのに。
「……芙三さま」
はあ、と溜め息。ドキッと心臓が止まりそうになって息を詰める。
非常に冷淡な声だ。まるで「近付くな」と言われているようで、明らかに尾坂から拒絶されていることを悟った芙三は悲しくなった。
いったい何が彼を変えてしまったのだろう。
十四年の間に彼は、おっとりとした素朴な優しさを振り撒く少年から、仕事以外に心を動かされることのない冷徹な男へ変貌してしまった。
芙三が尾坂と会わなかった間に、彼がどんな世界を見てきたのだろう。
どれだけ考えても、答えなんか見付からない。何も、教えてもらえない。
なぜなら芙三は女だったから。たったそれだけで、それは知ってはいけないことですと潰されてきた。ただひたすら殿方に従順であれと幼い頃から教えられ、疑問を挟むことさえ許されない世界に──そもそもその発想すら思い付かない世界で生きてきた。
軍隊のことなど、男の世界など、女は知らなくて良い。それが世界の『常識』だった。
常識の壁は分厚く、芙三の細い腕ではどんなに頑張っても壊すことなど叶わない。
これが幼い頃に読んだ物語の中だったのならば、なんて。なんど空想したのか判らない。
芙三が御伽噺の主人公だったのならば、今頃は多くの障害を乗り越えて───恋に落ちた殿方と、誰も自分達のことを知らない遠い所で幸せになれていたのだろう。
「……もう一度、忠告させて頂きます。夫ある身で他の男にそのような行為をされるなど、はしたないにも程があります。もし、貴女が一人前の淑女だというのなら、そのような風紀に反した行いはこれ以降、一切改めるように」
「兄さま───もしかしたらお怪我をされていらっしゃいますの?」
質問にはあえて何も返さず、逆に別の疑問を投げ掛けて封殺する。ピクリ、と鍵盤の上に置かれた指が跳ねた。上衣や帽子は脱いでいるというのになぜか手袋を着けたままの手は、その下がどうなっているのか見せてもくれないことを示唆している。
一瞬だったので見逃しそうになったが、確かに彼は今動じたのだ。
「……貴女が心配する必要はありません」
「胡二郎お兄様が手を打たれた後ですか?」
「判っているのならわざわざ聞かなくとも良いでしょうに」
今、この屋敷にいるものの中で侯爵に秘密を悟られずに尾坂を治療できる者がいるとすれば、消去法で考えると胡二郎しかいない。そしてその予想は見事に当たっていた。
「ねえ。御存知ですか、仙お兄様」
「他人の噂話を口にする前に、貴女にはやるべきことがあるのでは」
声に微かだが苛立ちが混ざり始めた。暗に「さっさと離れろ」と言われているのは判っていたが、あえて真逆の行動を取る。
そのままさらに身体を密着させ、指を彼の肩から腕の方に滑らせていく。固く盛り上がった筋肉の線をゆっくりと、精一杯の誘惑を乗せてなぞりあげると息を詰めて表情を強張らせていくのが感じ取れた。
緊張しているのだ、自分の行動で。
それを思うと、どうしようもなく興奮する。何にも興味がないとばかりにつんとしている尾坂仙という男を、仕事以外のことで動じさせたということが。
ころころと鈴を転がしたような笑い声を上げ、芙三はとうとう尾坂の後ろから抱き付いた。伸ばされた指先は鍵盤の上にある彼の手の甲に重ねられる。
殿方の手だ。男装の麗人のようだと騒がれていても、やはり彼は男なのだと伝わってきて、少し嬉しくなった。
「胡二郎お兄様、帝国大学に通っていた頃に海軍の軍医様と親しくなられたそうですよ」
「───芙三さま」
ふ、と。声の温度が急激に下がった。
ぞわっと肝が冷えるような思いをした芙三は、ビクッと身を震わせて細い身体を硬直させる。
「……私の目の前で、海軍の話を口にするのは止めて頂きたい」
低く、狼が唸るような声。なんとか平静を保とうと必死になっているのは見て取れるが、それでも完全には隠しきれていない。
今の会話の何がいけなかったのか。理由は明白だ。
───海軍。
その単語が彼にとっての禁句だというのは本当のことだったのだと悟り、芙三は密かに嗤った。
「あら、お嫌いですの? 海軍のことが」
「……お止めください、レディ。貴女の口から海軍の話など聞きたくもない」
スッと振り返った彼の瑠璃色の瞳には、底冷えするような光が宿っている。それはまるで、怒りに震える狼のよう。
「どうして? わたくしが海軍のお話をすると、何か不都合でも?」
「レディ、高貴な身分であられる貴女様は存じ上げないでしょう。海軍という所は下士官を使って兵を棒で殴らせ、それを黙認している野蛮人の集団です。それに明治建軍以来、我が陸軍は海軍とは幾度も衝突してきたのです」
思春期の多感な時期に海軍の悪口を聞かされ続けていたら、海軍嫌いになってもおかしくはないだろう。別に不自然な話ではない。
言外にそう告げ、尾坂は目を伏せて憮然とした態度を取る。どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。
「そうですの? 本当は別の理由があるのではなくて?」
「……坊主憎ければ袈裟も憎い」
えっ、と聞き返しそうになった。それはいったい、どういう意味だ。そんなの聞いていない……と。
「貴女、もしや東京で『鷦鷯』と呼ばれる探偵に出会いましたか?」
「!」
思ってもいなかった名前をボソッと口に出され、驚いた芙三は思いっきり後ろに飛び退いてしまった。
鷦鷯というのは鳥のことではない。東京の片隅に事務所を構える探偵が名乗っている名前を指すのだ。
当然ながら本名では無いだろう。どうもあの探偵、表で当たり障りの無い個人調査等をやりつつも、裏家業の人間と何やらよろしくやっているようだから。
今回、芙三はこの計画を立てるに当たってまず情報を集めることにした。そして、学習院時代の友人の伝を使って紹介されたのが、その鷦鷯という探偵だったというわけだ。
探偵を使ったのはこれが初めてだったが、あれは良い仕事をしてくれた。でなければ、芙三は今でも彼の瞳をくすんだ青灰色だと勘違いしたままだっただろう。
まるで醜いと言われていた灰色の家鴨の子が、純白の翼を広げて天を舞う白鳥に変身したように。幼かった頃は少し青色かかった灰色だった彼の瞳は、時を経て年月を積み重ねたことによって深みのある瑠璃色へと変化していたのだから。
彼が士官学校に通っていた時に再会した時と、まるで別人のようだった。地味で目立たないように気を配っていた彼が、短期間であんなお洒落なモダンボーイに変身するなんて、と。驚きすぎて逆に笑いたくなったほどだ。
とにもかくにも、優秀な働きをしてくれた鷦鷯には感謝している。
だが、問題が発生した。なぜ、その調査対象だった尾坂が、鷦鷯のことを知っているのだ?
「……無言は肯定と見なします。会われたのですね、鷦鷯に」
「ええ……そうです。貴方のことを調べるために」
悪戯がバレたような気分になって、芙三は苦笑する。
十四年───それはあっという間に過ぎ去った、あまりにも長い年月だった。
探偵を使って調べるまで、尾坂に関する芙三の記憶は十四年のあの日で止まってしまっていた。だからこそ、最新の情報を手に入れるために策を労したのだ。
「………レディ。あの男に何かご自身の知られたくない秘密を漏らされたりしましたか?」
「いいえ」
「なら良かった。では、あの男にはもう二度と関わらぬようになさってください。そして、私のことも今後一切お調べにならないように」
私からは以上です。そっけなく返して、尾坂は芙三のことをじっと見つめる。
その瑠璃色の瞳で見詰められると、まるですべてを暴かれているような気になってしまう。
……彼女がひた隠しにしてきた、異母兄への邪な想いも。全て。
「なぜですの、お兄様。なぜ、貴方の近況を知ってはならぬのですか」
「どうしてもです。私にだって、誰にも見せたくない汚い側面くらいございますので」
「いいえ、いいえ。何度言われたって、わたくしは貴方のことを知りたい。もっと、もっと知りたい」
「芙三さま。私は貴女が思っているほど綺麗な存在ではありません」
むしろ、と前置きを置いて。そして一泊溜め込んだ後で、尾坂はそっと囁くような事実を口にする。
「……どれほど外面を美しく取り繕っても、中身は腐り果てて蛆が湧いている。私はそういう男です………そうならなければ生きていけぬ世界で生きてきた男です。この手套を外して、貴女に直に触れることさえできない。貴女を穢してしまいそうになるのが忍びないから…………」
随分と力なく呟かれた一言だった。
まるで……その一言に、彼が今まで歩んできた人生全てが詰まっているような。
「そのようにご自分を卑下なさらないでください。軍人ですもの……ある程度なら何があったのか察して差し上げることができます。ですがお兄様、謀略渦巻く軍という組織の中であっても、貴方の輝きは少しも損なわれておりません。貴方はとても美しいお方です。わたくしはそんな貴方のお力になりたいだけでございますの」
「………」
そっと、目を閉じる。そうすると長い睫毛が頬に影を作って、思わずどきりとするような色香を作っていた。
「芙三さま……貴女は何も知らない」
少しでも『普通』から外れた者に対し、世間が向けてくる冷たい眼差しも。どっち付かずの半端者として産まれた者に、一生付きまとう苦労も。そして………陸軍という組織が抱える、本当の闇というものも。何も、知らない。
知らない───それがどれほど幸福なことなのか、まったく知らない。
どこまでも、どこまでも。彼女は井戸の中の蛙。深窓の令嬢、世間知らずのお嬢様でしかないのだ。
「……無知というものは、人を最悪の愚か者にします。でも、その一方で最高の幸福も与えてくれる」
私の持論です。ふ、と尾坂はその視線で真っ直ぐ芙三を射抜きながら、静かに……だが良く響く声で諭した。
「その無知は、貴女にとって最高の幸福です。どうか───どうか、貴女は何も知らぬままでいてください」
知ってしまって苦しむくらいなら、いっそ知らぬままであったほうが良い。そうやって産まれる歪みや憎しみは全て、自分が引き受けるから。
それが、彼の答えだった。
「……酷い方。わたくしは結局、最初から最後まで蚊帳の外ですのね」
予想はしていた。だが、実際に言われると……覚悟していたよりも、ずっとずっと心が痛い。
それを感じて、またズキズキ痛む心臓とツンとなっていく鼻の奥が辛い。
彼の心に傷を残したかった。だけど、気が付いたら傷付いているのは自分だけ。それも、自分で自分を傷付けているだけの、独りよがりの自己満足で。
それでも芙三は───自分の全てをかけた、自分のためだけの恋をする。
「───恋慕う殿方の苦しみを少しでも理解したいという想いは、間違っているのでしょうか?」
そうやって思わず、口を衝いて出てしまった言葉は───芙三の本音であった。
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