ある侯爵令嬢の失恋

春蘭

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(6)ドラマティックな運命─追想、大正二年二月─①

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 ─────大正二年、二月。






「また、母上に怒られたのか?」

 ひょい、と上から覗き込む影に驚いた少女は小さな悲鳴を上げて天を仰ぐ。

胡二郎こじろうお兄様……」
「そんな所で拗ねていたら、またばあやが煩くなるぞ。風邪を引いてしまいますってな」

 九条院家の邸宅は東京目白に存在していた。当代の当主である梅継が若い頃、英国に留学していた影響が強いのだろうか。英国様式の建築が取り入れられた、しかしまるでずっと前からそこにあったとばりに違和感の無い佇まいの洋館である。
 少女が踞っていたのはその邸宅の廊下の窓の下。前庭を眺めながらいじけていた所だ。
 そんな彼女に気付いて、窓を開けて身を乗り出しながら少女の兄がそんなことを聞いてくる。廊下を歩いている時に妹に気付いて、お節介だとは思いつつも口出しすることにしたのだ。
 習い事が終わったばかりなのだろうか。少女の二番目の兄である胡二郎は、少しばかりかうんざりしたような表情をして呆れたようにすぐ下の妹を見ている。

「で、今度はなにをしちゃったんだよ」

 胡二郎の妹である芙三というこの少女は、昨年にようやく学習院女学部にようやく入ったばかり。数え八つの生意気盛りなじゃじゃ馬娘だった。
 少し落ち着きが無いというか。芙三という少女は何に対しても気後れせずにハキハキと物申し、その上好奇心旺盛ということもあってか、学習院の先生方も手を焼いている問題児一歩手前の扱いだ。

 良く言えば天真爛漫で愛嬌のあって可愛らしい。悪く言えば自由奔放で生意気。それが九条院芙三という少女である。

 なのでまた何か問題行動でも起こして母を怒らせたのだろうと検討を付け、一応は同じ母から産まれた兄として慰めてやろうと思った末の行動だった。

「………洋琴ピアノを……」
「ん?」
「お琴の稽古を辞めて、洋琴を習いたいと言いました」
「うん? 洋琴って、ピアノ?」
「ええ、そうです」
 
 教養の一貫として胡二郎も音くらいは聞いたことがある。西洋からもたらされた新しい文化で、日本ではまだ珍しいもの。故に奏者も国内では希少で、講師のほとんどが外国人。当然、洋琴ピアノそのものだけでなく講師の確保も大変だろう。
 ただでさえ稽古ごとをサボタージュしがちな芙三だ。また我が儘を言って始めたと思えば「思っていたのと違った」と、三日坊主で辞めかねない。

「お琴の稽古は苦手ですが、洋琴なら出来る気がしたので……」
「あのな……琴は華族の子女の嗜みだろ。九条院家は公家華族だし、たとえお前がいくら経っても上達しない下手くそでも、やったっていう実績を残すために続けておかなきゃならないぞ。嫁に行ったときに『琴もできない公家のお嬢様』だなんて笑われて、恥をかくのはお前の方なんだからな」
「お兄様! なんですの!?可愛い妹がこんなにも落ち込んでしょげている時に、傷口に塩を擦り込むような真似はおよしになってください!」
「真実だろ。というか、そもそも何でまた洋琴なんだよ」

 芙三を慰める体裁を取りながらも胡二郎は容赦がない。かの九条院侯爵家の長女であるため、使用人や学習院の教師達では中々言い出せないようなことでも、兄である胡二郎だったらハッキリきっぱり言ってやれるからだ。
 飴役はたくさんいるのだから、健全な・・・鞭役くらい自分が負うべきだと胡二郎は考えている。甘やかされてばかりでは彼女自身のためにならないし、かと言って自分達の母親のように操り人形にしようとするのは駄目だ。顔さえ見せない父親は論外である。
 自分で考えて行動できるように導いてやらないといけない。誰もしないのなら自分がその役目を担おう。という胡二郎の兄心から来る厳しい言葉だったのだが、当の芙三には届いていなかったらしい。
 露骨に顔をしかめて拗ねながら、芙三はひょこっと立ち上がる。

「同級生の晶子さんがね、洋琴を習い始めたのをおっしゃっていたの」
「ふうん。それで話を聞いて、対抗心を燃やしたと?」
「違います! わたくしはただ、お琴よりもこちらの方が合っていると思っただけです!」
「その分だと、烈火のごとく激怒されたと思って良い?」
「………」

 黙り込んでしまった。おそらく図星だったのだろう。
 胡二郎と芙三、そして二人の妹である次女の鈴四の母は、侯爵の後妻に当たっている。
 侯爵の一番目の妻は、長男であり胡二郎達の兄である樟一郎を産んだ後に亡くなっていた。詳しいことは子供である二人には伏せられていたが、風の噂では崖から身を投げての自殺だったそうだ。
 その後、後妻の座に収まったのが胡二郎達の母親。
 そんな色々と複雑な立場であるからか、母は何かと気難しい性格をしていた。
 いくら男児を産むことができても、前妻との間に産まれた男児である樟一郎が存在する限り、自分は次期侯爵家当主の母にはなれない。実家だけでなく自身の足元さえ盤石ではないため、いつ離婚で実家に戻されてもおかしくない難しい立場だった。
 周りに味方はおらず、それどころか永遠の二番手として嘲られる日々。華族ではなく新興財閥の令嬢としてなに不自由なく育った彼女にとっては、それは恐ろしく過酷な環境だったに違いない。

 胡二郎が物心付いた頃はまだ笑顔を見せることもあったが、最近はもう常に不機嫌で苛立ちを隠すことさえできなくなってきている気がする。
 母親の難しい立場とそれに伴い悪化していく精神状態を齢十一にして良く見られていたからこそ、胡二郎は母親から距離を置くという姿勢を見せていた。
 本当は空気の良い所でゆっくりと療養するのが最適なのだろうが、今の彼女にそれは難しい。胡二郎が今できる最善がこれだった。

 一方で芙三の方は母親に対して甘えたい盛りだというのもあるのだろうか。何かにつけて会いに行っては怒らせて帰ってくるのを繰り返していた。
 いいや、これはおそらく彼女なりの気遣いなのだろう。母親の周囲には敵だらけというのを幼いながらに理解していたから、せめて自分は味方だと伝えるために会いに行っているのだろうか。
 だが肝心の母親は、どうやら自分の思い通りにならない芙三が視界に入るだけで苛立つらしい。同じ自分の産んだ娘でも、素直に言うことを聞いて従順な次女の鈴四には甘い顔を見せるときもあるらしいが、芙三が見る母親の表情はいつも固いから。

「ええ、ええ。確かにわたくしの言い方も悪かったかもしれませんが、それにしたってあれは言い過ぎだと思いますわ」
「だから母上に会いに行くのは機嫌が良いときだけにしろって言ってるだろ」
「違います。ばあやからも鈴からも聞いて、ちゃんと機嫌が良いときを狙って言いました。それなのに、どうしてかおたあ様お母様は急に怒りだして……」

 そのときの事を思い出したのか、目にじわりと涙を浮かべて芙三はきゅっと服の裾を握る。

「『洋琴という単語を二度とわたしの前で出すな』と、枕を投げられました。直前までそれはそれは穏やかなお顔をされていらっしゃったのに……」
「ふぅん………確かに妙だよな」

 洋琴ピアノ、という単語ひとつでそこまで怒り狂うことなどあるのだろうか。
 何か、ピアノに対して嫌な思い出でもあるのかと勘繰ってしまった。

「おかしなお話です……洋琴なら、家の離れにあるようですのにね」
「ああ………近付いちゃダメって言われているあそこか」

 二人の言う離れというのは、この侯爵家の広大な敷地の片隅でひっそりと佇む別館の事だ。九条院家には、常緑樹や薔薇の花などが植えられて、まるで人目から隠すように建てられている建物が存在していた。
 ただし、胡二郎も芙三もその全容は見たこと無い。両親から「決して近付くことなかれ」と言い含められていたからだ。
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