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十二・五「あまやどり」

(62)同期の桜は

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(えっ、ちょっと待って。なにこれ、気まずっ)

 座ってみて初めて気付いた。これは、かなり気まずい状況ではないかと。
 本人の前で口に出すようなヘマはしないが、再三言っている通りに睦郎はこの男の存在が嫌いだ。艦内で本人がいないのを良いことに言いたい放題していた記憶が脳裏を過っていき、思わず自分で自分を殴りそうになる。穴があったら入りたい、というやつだ。

「…………」
「…………」

 ちらっと横目で隣の青年を見てみるが、相手は我関せずとばかりに猫と戯れている。なお、その猫は数日前に睦郎と鶴田という重巡「古鷹」幹部二人を手玉に取ってあしらった化け猫だ。
 あの時、睦郎相手に上位存在としての圧倒的存在感を見せ付けて敗北させた猫がなんということでしょう。この麗しの青年将校の前では、まるで骨抜きになったようである。ガーゴンガーゴンなどというまるで発動機のような音を奏でて喉を鳴らしつつ、目を細めて喜んでいた。鶴田に対するあの不遜な態度とは大違い。

 やっぱり顔か、顔なのか。人だけではなく、猫も顔で選ぶのか。そういえば赤岡も、尾坂とは別方面で美形だった。顔で選んでいるのかこの猫は。たとえ性格が最悪でも、顔さえよければ良いのか

(ぜっ……たいにムリ……隣に座って雨が止むまでって言われても、どうやって間ぁ持たせたらエエねんって話やで)

 雨足は収まるどころか益々勢いを増している。遠くの方ではゴロゴロと雷までが鳴り出した。そして、睦郎を隣へ誘った当の本人はと言うと、自分から呼びかけたくせして会話を続けようという努力さえ見せない始末。
 気まずい。ただただ気まずい。一方的に嫌ってボロクソ罵倒していた相手だったが、いざ隣に来たら何も言えずに意気消沈してしまう。存外、内弁慶な睦郎であった。

(うわあああ……なんとか、なんとか何でもエエから話題を……!)

 会話をしていなければ居心地が悪すぎて死ぬ。頭を抱えながら、睦郎はどうにかして会話するきっかけを作ろうと必死で自分の記憶の中から関連のありそうな情報を引っ張り出していった。
 瀧本大尉関係はダメだ、本人から口止めされている。艦内関係のこともダメ、機密事項が多すぎる。猫……も、ダメだ。この手合いの人間は、家の猫が一番可愛いとしか言わないに決まってる。
 と、ここで睦郎が誇る灰色の脳細胞がある事実をポンと導きだした。さすがは勉強のやりすぎで兵学校に落ちた奴が行く学校と言われる海軍経理学校を卒業しただけのことはある。普段の言動があれなせいで忘れられがちだが、本来睦郎はとても頭の良い人物なのだ。

「いや、ちょい待ち」

 まさに天啓。とばかりに睦郎は口を開く。先程からあまりにも当然のように言われているせいで、流しそうになってしまったとある事実をビシッと指摘してやった。

「なにか」
「なにか、やない。お前さん、なんで俺の名前を知っとるんや」

 そうだ、その通り。初対面から当たり前のように呼ばれていたせいで中々気が付かなかったが、そもそもなぜこの男は睦郎の名前を知っているのだ。
 断っておくが、睦郎はこの男の前で一度でも名乗った覚えはない。それに、まがりなりにも陸軍の将校サマが、なぜ士官とはいえ将校相当官でしかない──しかも海軍である睦郎の顔と名前を知っている。まったくもって解せない話だ。鼻息も荒く、睦郎は尾坂に詰めよった。

「……貴公は存じておられないかと思いますが」

 うなっ、と猫が鳴いた。しつこく撫ですぎたからだろうか、それともみじろきをしたからだろうか。尾坂の太腿をいたくお気に召しているらしいナハトが、彼の指先にギリギリと爪を引っ掻けて静かに抗議をしていた。そんなに人の膝枕が気に入ったのだろうか。
 一歩も引かぬナハトに早々折れた尾坂は、黒猫の望むがままを叶えてやりつつ、ポロッと爆弾を落としていく。

「私は、貴公と十年前に会っていますので」
「えっ」
「なので、その時にお顔とお名前は覚えておりました」

 一瞬、何を言われたのか理解できずに睦郎は宇宙を見た気がした。この男、いったい何を言い出すのだ。

「十年前、海軍省にお勤めでした貴公の元に弟君が訪ねて来られたでしょう」
「あっ……え?」
「鷹山千晴ちはる。少佐殿の弟でお間違え無いでしょう」

 尾坂の口から出てきた名前を聞いて、そして睦郎は雷に撃たれたような衝撃を受けてしまった。ピッシャーンと鳴り響く音は、現実かそれとも幻聴か。
 鷹山千晴──それは、睦郎が大阪の養家に残してきた一番下の弟の名前だ。

「チハっ……は? おま、あいつの知り合いなん?」

 そういえば、弟の千晴とこの男は同じ陸士35期卒だった。しかし、千晴の成績は全卒業生の中でも中の上辺りだったはず。首席卒業の恩賜組で、幼年学校も広島であった尾坂との接点など無いに等しいのに、なぜ。

「あの時、千晴さんが「一人で行くのが怖い」と泣き言を漏らしましたので、私が付いていってやりました」
「へ?」
「遠目からでしたが、貴公のお顔はしっかり拝見いたしておりましたゆえ。昨年の年末に道端で偶然見かけて声をかけようか迷いましたが、お急ぎのようでしたので止めました」

 尾坂の声がグルグルと脳内を巡り、刺激されて出てきた記憶に変な声を上げそうになる。
 それは十年前、睦郎がまだ中尉で一時赤レンガ海軍省に勤めていた頃の話だ。養家からほぼ家出同然で出ていった睦郎だったから、当然ながら行き先なども教えてはいなかった。最低限の義務として、帝大の給仕の仕事を貰えたと書いて送ったのと、そのあと海軍の士官になったことを盛大に自慢してやった手紙だけ。それだけ送って養家とは連絡さえ取り合っていなかったのだが、どうやら千晴はその僅かな手がかりを元にして睦郎を探し当てたらしい。
 十年前、それが睦郎と弟が再会した頃合いだ。まさか、その時に付き添いでこの男が来ていたとは思いもよらなかった睦郎は、愕然となって思考を飛ばす。

「えっ……待って。ちょお待ち、にーちゃん。お前さん、覚えとったんか? いや、だって……え?」
「あいにく私は、昔から一度見たもの聞いたものは忘れない質でありまして」

 一度見た人間の顔と名前を覚えることなど造作も無い、などと言われて睦郎は意識が遠退きそうになった。
 なんだ、この壮大な話しは。もしかせずとも、睦郎は今、とんでもない化け物と話をしているのではないか。
 聞けばこの男、自分が率いる中隊どころか連隊に属する将兵全員の顔と名前を覚えているとか。あっけらかんと言って良いことでは無いと思うのは睦郎だけではあるまい。
 ずば抜けた記憶力に加え、それらを瞬時にひっぱり出してくる能力の高さ。なるほど、陸軍でも勉強大好きな変態ばかりがひしめき合う砲工学校高等科を首席卒業した挙げ句に米国の名門大学を卒業した頭脳は伊達では無いらしい。
 だから、よけいに理解不能だった。こんな恐ろしいほど冴えた人間が、どうして自分の愚弟の名を親しげに呼んだ挙げ句にまるで友人のような扱いをされているのか。まったくもって意味不明だ。ところでなんだ「一人で行くのが怖い」とは。我が弟ながら情けないと涙する睦郎であった。

「貴公の弟君には陸士で散々世話になった身の上でありましてね。私は、彼のことを友人だと認識しておりますが」
「は?」
「昨年の六月に帰国してすぐ千晴さんに会いに行ったのでありますがね。その時……彼も私を友人だと言ってくれたのが嬉しかった」
「──」

 その時、睦郎は恐ろしいものを目撃してしまって盛大に固まる。
 誰が予想したか。冷徹、冷酷、冷血漢の三拍子が揃った血も涙も無い化け物と噂されている全てにおいて完璧である男が、微かではあるが唇に弧を描いてはにかんでいる姿など。
 少なくとも睦郎は想定さえしていなかった。そうで無ければ、これほどまでに硬直してはいない。


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