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十二・五「あまやどり」

(59)貧乏少尉にやりくり中尉

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 軍人という生き物は、基本的に傘をささない生き物である。

 いやそもそも軍人に限らず、階級章のある仕事を生業にしている者はだいだいそうだ。制服の時は傘をささないようにと正式に決められている。
 なぜかと言われれば、傘はささないといけない物だからとしか言えない。傘をさせば最低でも片手が塞がってしまい、いざ何か有事が起きた際にすぐ動けなくなるし、それに戦場で傘をさせば格好の的になってしまう。
 だから軍人は軍服を着込んでいる時は、決して傘をささない。

 なので正規の軍装品の中は雨套マントがあり、軍人は雨の日にそれを羽織ることで着衣が濡れることを防いでいた。

 そしてついでに、にわか雨に降られたからと言って慌てて走るのもご法度だ。常にスマートであれと言われ、一流の紳士として振る舞うことを要求される海軍では特に。

(さいあく……)

 スマートであれとは、モテる分には良いのだが、時には害悪でしかない場合もある。ぺちゃ、と情けない音を立てて短靴たんかがぬかるんだ地面に軽くめり込んだ。

 春も始まったある日の昼下がり。本来なら麗らかな春の兆しを楽しむものだがこの日だけは事情が違った。

 ふと気付いた瞬間、うすらぼんやりと青い空を覆う鈍色にびいろの雲。ズン……と重くねっとりと肺に絡み付く、湿度の高い空気。そして土埃が水気を含んで大気中に散っていく独特の匂い。
 まずい、と思った時には遅かった。ポツポツと数敵の水が地面をぬらしたかと思えば、あっという間にバケツをひっくり返したような滝雨が降ってきたのだ。
 通り雨かと思ったが甘かった。雨は止むどころか、ますます勢いを増して地上を洗い流さんとばかりに降り注ぐ。外で活動していた者たちは、突然変わった空模様に慌てながら転がるようにして屋内に待避している。

 そんな土砂降りの中。濡れ鼠になりながら、死んだ魚の目でフラフラ歩く海軍士官の姿が。
 上背は無いが、それでも軍服をかっちり着込むと格好良く見えてしまう。軍服を着ることでかけられる魔法のようなもの。ただし、格好良いと持て囃される海軍の軍服も、冬季に着用される紺の第一種では駅員に間違えられる悲哀がままあったそうで。
 ああ、色が濃いから泥跳ねが目立たなくて良かったと現実逃避をしながら海軍士官は──重巡「古鷹」主計長である鷹山睦郎主計少佐は呉の町を歩いていた。

 思考が溶けそうだった。いや、もう溶けている。色々考えていたが、この雨で全部吹き飛んだ。何もかもどうでも良くなった。

 そもそも、なぜ「古鷹」の主計長である彼がおかに出てきているという話だが、それには深い訳がある。深すぎて深淵を覗けそうだなどと下らぬことで乾いた笑い声を上げている内は余裕だろうが。

 つい先日、睦郎は同じ艦の砲術科テッポウ大尉である瀧本零士に料理を教えてやると啖呵を切ってきた。切ったというよりむしろ強制的に約束を取り付けたと言った方が正しいが、あえてそういう表現をしておく。瀧本大尉の名誉のためにもその方が良い。
 話を戻すが、今日の午後からがその瀧本大尉が休みの日であったために、睦郎もその日に合わせて休暇を取って食材を買い足しに呉の町へ繰り出したのだ。その結果がこれである。

「はぁ……」

 判っていたはずなのに、とまた溜め息を吐いた。そんなことをしたって状況は変わらない。せめて雨套くらい持ってくれば良かったのにだなんて思っても後の祭りだった。
 睦郎は昔から、雨の気配に敏感だ。なのでこれから雨が降ることくらい、艦の外に出たときから判っていた。
 それでもすぐに帰るし、これくらいなら通り雨だろうと慢心していたのだけは否めない。なんとも情けないことだ。

「穴があったら入りたい」

 ポツン、と呟いた一言が引き金になったかどうかは知らないが、途端に雨の勢いが強くなった。どういうことだ、自分が何をした。言葉の使い方を若干誤っていたからだろうか。
 と、睦郎は怨み節全開でそっと空を睨み付けるが、そんな八つ当たりで事態が改善するなら誰も苦労はしないだろう。

 ともかく、最優先事項は雨を凌げる場所を探すこと。あまり人気が無く、士官のメンツを潰さぬように配慮ができる場所が望ましい。可及的速やかに解決せねば、さらに惨めな濡れ鼠になる未来しか待っていない。

 なお余談ではあるが、梅雨と衣替えの時期が重なる六月頃にだけ見られる光景が海軍にはある。それが、下だけ紺の第一種軍装で上が白の第二種という、なんともちぐはぐな格好の奴が多くなることだ。
 何も知らぬ者が見れば首を傾げる光景だろうが、梅雨期に限ってだけその格好をするのにはもちろん理由があった。

 海軍士官は自分の軍服のクリーニング代も全て給料から天引きされる決まりになっている。だがそのクリーニング代だって馬鹿にならない。まだ雀の涙程度の給料しか貰えぬ少尉中尉の頃は、この出費が痛くて痛くてたまらないのだ。
 だというのに、そんな内情知らぬとばかりに下ろし立ての日に限って梅雨の天気はにわか雨を降らせてくる。
 海軍士官として、泥はねの汚れがついた軍袴ぐんこなど人前で見せられないとして、泣く泣く代えねばならなかった。
 だがその辺り、ちゃんと上層部は慈悲を出して下さっていたので安心である。梅雨時に限ってのみだが、下だけ第一種軍装を着用することを許可したのだ。紺ならば泥はねの汚れも目立たなくて済むから。
 海軍上層部の部下を想う気持ちが、そのちぐはぐな格好に繋がっていた。まあ、白黒キッパリ別れた軍装姿も、それはそれでキリッとしてて良いのだが。

 話を戻そう、今は睦郎が雨を凌げる場所だった。
 少し大通りから外れて裏路地を抜けて、人通りの少ない場所に出てくる。

「お、」

 すると、睦郎のとっては始めての場所が目の前に広がった。この雨が無ければ出会っていなかった光景だろう。

 まるで導かれるようにして、睦郎はその場所にやって来た。そして、ふと目に付いたのは屋根のある東屋のような建物。まさに雨宿りのために用意されたような建造物が、睦郎の眼前に差し出される。

「あっ」

 しめた、と思ったのと同時にそこに先客・・がいたことに気付いて、睦郎は思わず変な声を上げた。

(陸軍……っ!)

 カーキ色の詰襟をかっちり着込んだ男だ。東屋に備え付けられていた長椅子にちょこんと座っている。雨套を羽織っていたが、そこに付いた大尉を示す階級章のお陰で相手が陸軍の者だとすぐに判った。
 恐らく雨に降られて睦郎と同じようにここに来たのだろう。若干だが軍帽や雨套が濡れている。

 ここは海軍の町、呉。なぜ陸軍がここにるのだ。

(ん? なんやこの……妙な既視感は)

 そこまで思った瞬間、睦郎はこの状況に奇妙な既視感を覚えて立ち竦む。

 なぜだろう。これと同じようなやり取りを、以前にも呉でやった気がするのは。
 少なくとも数年単位の大昔の話ではない。これはここ数ヶ月以内、直近で起こったことのように思える。間違いない。

「あー……」

 だが、今最も優先させるべきなのは雨宿り。雨足もどんどん酷くなっている状況だ。背に腹は代えられない。
 ええい、どうにでもなれ。とばかりに睦郎は東屋の屋根の下に飛び込んだ。

「、」

 ポタポタと水滴が落ちる音。ふと、先客の男が顔を上げる。

「──嗚呼、誰かと思えば貴公でありましたか」

 不意に鼓膜を震わせたのは、甘く掠れた低い声。それほど大きくはないはずなのに、腹の底をざわりと撫でていく、そんな存在感に満ちた声だ。

 訳が判らず睦郎が固まったその瞬間──軍帽の下で作られた影に隠れてなお美しい、青いまなこが悠然と輝いた。

この節はどうも・・・・・・・
「あっ」

 可憐な赤い唇がゆるく弧を描き、宵の空のように深い青色の瞳が睦郎の姿を捕捉する。
 一度見たら二度と忘れぬであろうという、白百合のような端正な容貌。彫りが深く端正な顔立ちは、異国の血を感じさせながらもどこか日本的な美を醸し出していた。
 曖昧で、矛盾だらけで。なのにそれらは決して瓦解することなく、その男の美しさを引き出してくる。

「貴公と顔を合わせるのはこれで二度目でありますね。鷹山睦郎主計少佐殿」

 睦郎は、男の顔に見覚えがあった。そう、それは昨年の年末に、呉の料亭「徳田」付近での忘れられない出会いの話。

 雨の日に、偶然の出会いを果たした陸軍の男はそう──睦郎がおそらくこの世で最も忌み嫌っているであろう工兵大尉、尾坂仙であった。


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