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幕間「火を付けるのはいつだって」
(54)それは、嵐の向こう側へ届く咆哮
しおりを挟む明治四十二年、六月。
「最近どうしたんだ、君」
赤岡が廊下を歩いていたら、そんな声をかけられた。振り向いたらそこには、怪訝な顔をして腕を組んでいる友人の姿が。
「ここ一月ほど、様子がおかしいぞ」
「何か問題でもあるのか」
困惑する友人を尻目に、赤岡はあっけらかんとしている。それがどうしたと言わんばかりの態度だった。
「急に軍隊の志願制度なんかを調べ始めて……軍医にでもなるつもりか?」
「別に」
「まあ、確かに。このご時世でもあるからね。軍は人気だと思うけど、君のように才覚溢れた者がなにもわざわざ行くような所ではないだろう」
明治四十二年といえば、つい四年前に日露戦争があったばかりの頃。そして、欧州方面でも近々戦争が起こるのではないかと、まことしやかに囁かれる不穏な状況。軍の方も先の戦争で喪った人員を補充しようと躍起になっているだろう。が、それでも友人は納得がいかなかった。
「君、軍の委託学生にでもなる気かい?」
「まさか。これは僕のために調べていることではないよ」
友人は心外だったのだろうか。動揺のあまり、水に浸かった毛の長い猫のような表情をして盛大に固まっている。
「え、じゃあ誰のために」
「鷹山睦郎」
食堂にいた給仕の少年の名前を出され、今度こそ友人は顎が外れるのではないかと思うほど絶句した。
「な、なんでまた彼なんだい?」
「僕はね、才能や能力が下らない理由で潰されるのを見るのが嫌なだけなんだ」
「は、はあ……」
「見返りを求めてやっていることではないよ。これはただの、僕の自己満足でしかないから」
友人にとっては意味の判らない発言だ。軍隊、それも士官になるような奴は大抵が中学で成績が上から十番以内にいたような奴ばかり。
あの鷹山という少年は成績不良で中学を退学させられたはず。どう考えたって、あの少年が士官になれるはずがないのに。
「節穴め。あれの本性を見抜けなかったのか」
「人の顔を覚えられない君に言われたくは無いね」
「もう決定事項だ。僕はあれをなんとしてでも社会的地位の高い職に就かせてやる」
かつん、と靴音を響かせて。赤岡は友人を置いてけぼりにしながら颯爽と歩いて去っていく。
「自分が果たすべき義務を取り上げられて、恩返しさえさせてもらえないだと」
もしかしたら赤岡は腹が立っていたのかもしれない。能力があったのに、自身を卑下するあまりにいつまでも同じ場所に囚われて、一歩も前に進めずただ踞っている彼に。いいや違う。
赤岡が怒っていたのは……
「ならば、彼に新しい義務を与えてやればいい。新しく、自分が役に立てること見付けさせてやればいい」
赤岡は、本当の本当に自分の自己満足でやっているだけだった。そこに嘘も偽りも打算も無い。純粋な押し付けとお節介だ。
だが睦郎という少年にとって、この赤岡という医学生は本気で意味の判らない存在だった。
どうして自分に関わる、どうして自分にこんなにも優しくする。
言葉尻は冷血で暖かみなど一欠片さえないのに、どうしてその声はこんなにもストンと心の中に入り込んでくるのだろう。
「君は、海軍経理学校を知っているか」
集めてきた資料をポンと目の前に置いて、赤岡は睦郎に。
「つい最近になって海軍が作った学校だ。いや、一度廃校になってからまた募集を再開したといった方が正しいか。とにかく、ここを受験して合格しろ。そして海軍士官になれ。それが君の新しい目標だ」
「は、うん?」
まさか本当に来るとはまったく思ってさえいなかった睦郎は、混乱する頭を必死で働かせながら資料の文字を追う。
「士官になるなら兵学校でも良いが、それだと君は身長で引っ掛か」
「あ?」
「……失礼。経理学校は文字通りに経理のことだけじゃなく、給仕や食事全般を預かる主計科の士官を養成する学校だ。給仕としても君は一流になれるだろうし、それに料理も旨い。おまけに商家の家で教育されてきたのなら、金勘定は十八番だろう。なら、海軍の主計科士官になれ」
身長のことについては触れられたくなかったのだろうか。突如、顔に見合わないドスの利いた太い声が聞こえて、赤岡は慌てて訂正をした。ここで話を拗らせるのも拙い。ここは素直に自らの非を認めて謝罪すべし。
「え、ちょ、ちょい待ち。にーちゃん、経理学校ってあれやろ? 勉強のし過ぎで目ぇ悪ぅなったせいで兵学校落ちた奴らが来るとこやろ?」
一瞬動揺を表に出してしまった睦郎だったが、元から優秀な人なのだ。あっさり冷静さを取り戻して、そして記憶の底から引きずり出してきた情報と照らし合わせて蒼白となる。
前身となる機関はあったものの、新しい制度の元で開校したのが今の海軍経理学校。昨年度に一期生の募集が始まり、今は二期生を募集していたはず。そして、その難易度と倍率の高さから、一時話題になっていたのだ。世間の情報から耳を塞いでしまった睦郎にも届いてしまうくらいだったのだから、その話題性は推して図るべし。
海軍経理学校は、実は兵学校よりも身体検査の合格基準が緩い。なので、勉強のやり過ぎで視力が落ちてもなお海軍士官の夢を捨てきれなかった若者が行き着く最後の砦でもあったのだ。
「それがなにか」
「いや、何かちゃうやろ。にーちゃん、頭は大丈夫か? せやからゆぅとるやろ。経理学校なんか、勉強大好きの変態が受けるようなトコやって。そんな所に来る奴の頭の出来がどんなもんか判っとるやろ。中学中退のおれにできるわけないやん!」
「判っているからあえてここを選んだのだろうが」
今から頑張っても二期生は無理だから、三期生に合格することを目指そう。なんて他人事のような提案を繰り返し、睦郎の決死の主張もなんのその。赤岡青年はまったく意にも返さず、高圧的な態度を崩すことなく決定事項を告げる。
「君は言った。鷹山家を守ることが義務だったと。家の役に立てなかったのなら、家も全部ひっくるめたもっと大きなものの役に立て。それが、今の君が鷹山家の先代当主にできる最大級の恩返しだろう」
「いや、でも……」
この期に及んでまだ卑屈なままでいるつもりか。中々しぶとい相手である。舌打ちしそうな気持ちになったのをぐっと堪え、赤岡は一気に畳み掛けた。
「もっと深く物事を考えてみろ。そんな所を勝ち抜いて、見事海軍士官になった十年後の自分の姿を想像しろ」
「十年後……」
「君を散々貶してくれた連中は地方で細々と生活しているただの背景。そして君は誉れ高き帝国海軍の士官様。掌返したように連中は君のことを称賛してへこへこ媚びへつらってくるだろうよ。少しはそれを見たいと思わないのか」
「そんな不純な動機で海軍なんかに入ってもエエん!?」
突っ込みは入れたが食いついた。さすがにそんな、正直に言えば完全なる私怨であの海軍を受験しても良いのだろうかと。
しかし、これはもう完全に流れが赤岡の方に来ている。ここでトドメとばかりに、赤岡は最後の手札を切った。
「君のことを馬鹿にしていた同級生は十年後、何になっている。そして、こんな所で給仕の仕事をやっている君に向かって何を言う」
「!」
「そんなもの決まっているだろう────『どこの馬の骨かも判らない滋賀作にはお似合いの仕事だな』と、僕は優しい言い方をしてやったが、実際にはもっと馬鹿にされるだろう。いいや、絶対に馬鹿にされる。正攻法じゃ君に勝てなかった奴ほど、君のことを侮辱してくるぞ。そんな卑怯な連中に良いようにやられて悔しくないのか? 君だけじゃなくて、君を引き取った鷹山家のことも馬鹿にされて良いのか」
「あ……」
瞬間、睦郎の脳裏に今までの人生が一気に甦った。そう、中学を中退して上京するまで周囲からかけられまくった数々の嘲笑とその他屈辱的な言葉の数々。そして「こんな田舎者を引き取るなんて、鷹山の当主も耄碌した」などと暴言を吐かれたことを──
「……なんやろ。なんか……そう言われるとごっつ腹立ってきたんやけど」
思い返せば幾星霜。自分が馬鹿にされずに軽んじられなかった日が一週間続いたときはあっただろうか。いや、無かった。毎日毎日、近所のクソガキから噂好きのご婦人まで。しかも正面切って堂々と言わずに影でヒソヒソ言われる日々が絶えたことはない。上京するまでずっと、ずーっと。
「はぁぁぁああ? なんか腹立つねんけど? は?誰が耄碌したジジイが引き取って来た阿保ガキやボケェ。目ぇ腐っとんのかカスが!!」
「よし、もっと」
「うるっさいねん、あのハゲども!!! 言いたいことあるならハッキリ言えぁエエやろが!!! 一々人の出自のことでネチネチ、ネチネチ……正直に言ってまえや!!! 俺の方が頭エエから妬ましいってなァ!!!」
「それでいい。士官になって大阪に立ち寄ったら、君のことを馬鹿にした連中を鼻で笑って見下してやれ。判ったね」
「おっしゃあああぁぁぁぁぁぁぁああ!! ヤったるわボケェエエ!!!! 主計だが蜻蛉だがなんだか知らんが、首洗って待っとけやぁぁあああ!!!」
絶叫が響き渡る。かくして──睦郎少年は、国内最難関とされる海軍兵学校を遥かに越える難易度を誇る海軍経理学校への志願を決意した。
聞く人がいれば動機がかなり不純だと糾弾されそうだが、怒り狂う龍神と化した睦郎にはもうなにも届かない。
怒りは、人間の感情の中で最も多く熱量を消費する感情だ。そんな爆発的な感情に後押しされた人間が、死に物狂いにならないわけがなかった。
鷹山睦郎、数え十七歳。新しい目標ができたことによって、彼の人生は間違いなく狂ったのである。
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