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第九週「鯉こく」

(44)生きてる魚の口に指を入れてはいけません

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「……」
「なあ、睦さんや」
「はいはい、なんですやろ」
「あの長島って中尉、もしかして忍者の末裔とかそんなことあるかい?」

 睦郎は少しだけ思案した。長島の実家は滋賀の大津。そして滋賀には甲賀流忍者の里がある。
 忍者と言えば、暗殺や諜報などを専門としている隠密部隊だと思われがちだろうが実際にはどうだ。世間一般のイメージは半分正解で半分間違いであると言おう。

 傭兵をしていたのは伊賀流の方で、甲賀流はむしろ諜報を得意としている集団だった。普段は農民として生活し、有事の際には忍びとして活動する二足わらじが彼らの日常。各地で情報を収集するために、彼らはあらゆる者に擬態した。
 その一つが薬売りの仕事。甲賀では旧くは天智天皇の時代から、さらに時代を下れば織田信長が薬草園をこの地に作ったとされている。それだけ薬作りが生活に根付いていた土地なのだから、彼らがそれを利用するのは自明の理だったのだろう。
 山伏の姿で全国を行脚して薬を売りながら、怪しまれぬように彼らは地道な情報収集をしていた。滋賀、特に甲賀地方に製薬会社が多いのはそういった背景もある。

 明治に入って大正を越え、今は昭和六年。しかし、彼らの忍術が時代遅れになったとかそういうわけではなく、今も伝統は受け継がれていた。
 もちろん、それは薬学だけではなく諜報技術においてもだ。忍者の忍術はこれより数年後の日本で、軍──特に陸軍に注目されつつある。

 昭和六年からさらに数年後、陸軍ではある将校の発案で情報収集のための諜報部員──いわゆる間諜スパイを育成するための学校を作るのだが、その授業のひとつに忍術なる講義があるのだ。
 群雄割拠の戦国時代に主人を助けた忍者の技術は、時を越えてなお形を変えながらこの国を守って行くのだろう。

「長島くんが忍者? まっさかぁ」

 睦郎は茶で濡れた口許を、どこからともなく取り出してきたハンケチーフで拭って答える。
 長島は大津の出身。それに今、彼が主計科将校をやっているのを鑑みれば、実家が息子を中学にやれるくらいに裕福だったことは間違いない。
 そのほとんどが普段、農民として生活していた甲賀流であるのだから、ならば長島はその末裔ということは無いだろう。そう思ったから睦郎はやんわり否定したのだ。

「だよなぁ」

 自分が妄想した変な話をきっぱり否定して貰えてスッキリしたのか、鶴田はカラリと笑い飛ばしてやった。
 なお、その陸軍の間諜スパイ養成学校については「陸軍中野なかの学校」で調べられたし。といっても、昭和六年現在においては中野学校は影も形も無く、この世に産み出されるのを待っている状態なのだが。

「ところで睦さんや、いきなり茶ァ吹くなんてびっくりすんじゃねえかよ」
「しゃあないですやろ、ゆうてあれは鶴さんが悪い。いきなり乳がどうのこうのゆうた鶴さんが。おれぁ何もわる無いで」
「おいおい、睦さんや。俺はただ、鯉を食ったら乳の出が良くなるのが本当なのか聞きたかっただけだぜ。別にヘル談の中でのピラの話なんかしてねえよ」

 ヘル談とは海軍隠語で猥談、助平な話という意味だ。助平の助は助けるという意味なので、そこを英語に訳した「ヘルプ」に変えて前二文字を取っただけ。少々捻るが、口にするにはこっぱずかしい卑猥な話のカモフラージュにはもってこいなのだろう。
 ちなみに「ピラ」というのはピラミッドのことで、海軍隠語では女性のピラミッド部分を指していた。

「いや、だってさ……いきなり乳とか言われたら……ほら、な」
「そんなに動揺することでもねえだろ。あんただって、バーでもあるまいし」

 呆れたように肩をすくめる鶴田。なお、バーとは海軍隠語で童貞という意味だ。

「そうですよ。はあ……乳房など、ただの発達した乳腺とそれを保護する脂肪の塊でしょう。そんなものでなぜ動揺するのです」
「赤岡さんや。男は皆、ピラに引かれるモンなんだぜ。まるで光に釣られて翔んでくる蛾みたいにな」
「私としては臓物に劣情を抱ける方が不思議なのですが」

 だが赤岡の方は特に動じるわけでもなく、淡々とそんなことを論じていた。医者としての癖なのか、それとも赤岡個人の受け取り方の問題か。どうしても人体を見るとそこにある物を臓器という記号で見てしまい、劣情と結び付けることができなくなる。そういったことに淡白なのは自覚済みだ。

「大体、なぜ他の方は女性の体内にあるというだけの臓器を特別扱いして神聖視するのです。あんなものはただの臓器ですよ。男にもあるでしょう。特別に扱うことも、かと言ってぞんざいに扱うことも、あってはなりません。胃腸や肝臓が悪くなったら淡々と治療するだけでそこには何の感情も挟みませんよ。それがなぜ女性の臓器になった途端にこれほど紛糾するのか、昔から理解できません」

 胃腸や肝臓を悪くしたら薬を飲むなどして自分の体を調律するように、自分の体の一部なのだから同じようにメンテナンスしてやれば良いものを。なぜ人はそれが女性の体内にある臓器というだけで、やれ栄養が悪いから調子が悪いのだから自業自得だのなんだの難癖を付けようとするのだ。赤岡にとっては昔から疑問でしかなかった。

「しゃ、しゃあないやろ……その……うん。いきなり言われたら、おれの方も心の準備が……」
「アナタの十一サンチ砲のことなんか知りませんよ」

 何か気まずそうな空気を出しつつ、指先をツンツンと合わせていた睦郎に向かって、赤岡は無情にもスタンしたとでも思ったのだろう。とんでもない一言を吹っ掛けてきてくれた。
 それに対して、いったい何が睦郎の面倒臭い部分に触れたのだろうか。彼は見るまに顔をしかめてガタッと椅子から立ち上がる。

「失敬ですよ!? おれかて十五サンチ砲くらいありますぅ!!」
「見栄を張るのはよしなさい」
「そりゃ、赤岡さんの十八サンチ砲に比べたらみぃんな見劣りしますやろ!?」

 勢いのままに出てきた発言の数々。一見まじめそうな話に見えても油断してはいけない。海軍隠語は往々にして真面目そうに見える単語がいくつも混じっているのだから。

 過去はともかく今はもうお互いに折り合いを付けて、自身の感情を潰している二人だ。互いに自分達の過去をどやかく言い合う気は無いし、それを表に出すことも無い。この思いは、他の誰にもバレずに歴史の影に埋もれていくだけ──

(なんで軍医の赤岡さんはともかく、睦さんは赤岡さんの砲身・・の正確な大きさなんか知ってんだ……?)

 もしかしたらバレるかもしれない。

「少し待て、落ち着きなさい。鯉こくの話からなぜこのようなシモの話になるのです」
「そんなもん知るかい。鯉を食べたら乳の出が良くなる理由を聞いてただけだぞ」
「そんなもの、それだけ滋養があるからに決まっておるでしょう。第一、乳というのは血液から出来ているのですからね。ただでさえ出産で疲弊しているのに、毎日にように血を搾り取られているようなものですよ。しっかり滋養のあるものを食べたら、相応に出は良くなるでしょう」
「それもそうかぁ」

 それで鶴田は納得したらしい。先程の二人の会話で、奥歯に物が挟まったような違和感は拭えなかったが、それでも一応は答えを貰ったのだから引き下がる。

「今回は冷凍の鯉を使うので良いですが、生きている鯉を締める時は気をつけなさい。鯉の咽頭には咽頭歯があるので、迂闊に指を突っ込むと食いちぎられますよ」
「あ、なんかそれ聞いたことある……」
「あいつら、見た目は歯がないのに銅銭くらいなら平気でへし曲げてくるからな」

 歯がないからと言って油断することなかれ。一見なんの武器も持っていないように見えても、動物は人間とは比べ物にならないくらいに力が強いのだ。

「もう春ですからねぇ。冬の間で知らぬ間に疲弊している体にも、滋養が詰まった鯉は最適ですよ。気にしないで堂々と出したら良いでしょう」
「はぁい」

 どうやら話し合いはこれにて終了らしい。表面上は仲直りしているように見える二人の様子に、違和感を拭い切れない鶴田ではあった。が、それ以上の情報は引っ張っれないと判断するとあっさり引き下がった。
 長と名の付く役職の者は、時には諦めることも肝心なのだ。

「そんじゃあ、俺は帰るな」
「ほーい」

それよりも、そろそろ帰らないと不味いと思ったらしい。鶴田はそのままスッと立ち上がって、士官食堂を後にした。








 三月三日。

 はあ、なんとか無事に仲直りしたようですがね。ところであの二人、過去に何かあったんでしょうか。やたらと距離が近いような……
 ……え? 大河内が探していた? それを早く言ってくださいって。それじゃあ、俺はこれにて失礼させていただきます。




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