上 下
44 / 66
第九週「鯉こく」

(43)春はこいの季節

しおりを挟む
「い、いやぁ赤岡さんや。俺ぁ、別に盗み聞きなんかするつもりは……」
「ほう。無かったと仰るのですか。物陰に隠れてコソコソしておきながら」
「うぐっ」

 痛いところを突かれた。いや、そもそも物陰に隠れてこっそり様子を伺っていた所を、他でもない赤岡本人に押さえられているのだ。どのような言い訳をしても、彼には通じない。
 早々降参するか、それとも笑って誤魔化すか。判断が付かずにとりあえず鶴田はへらりと笑っておいた。

「あ、オレはただ通りすがっただけですので、これにて失礼させて頂きます」
「アッ」

 瞬間、先に動いたのは長島だ。鶴田が判断に迷っていることを見抜き、即座に適当な理由を付けてサササッと行ってしまった。
 待て、という一言さえ言わせて貰えない、まさに忍者のような動き。足音がしていないし、その上走っているのに上半身がまったくぶれない。見事な高速移動だった。

(……忍者?)

 長島の故郷、滋賀には甲賀流忍者の里がある。彼は大津の出身なので忍者の末裔とかそんな家柄では無いはずだが。もしかしたら子孫ですかと問い質したくはなった。たぶん違うだろうが。
 見とれている場合ではない。長島が一番自然な言い訳である「通りかかり」の手札を早々に切ってしまったため、残された鶴田は同じ手が使えなくなったのだ。
 しまった、と頭を抱えても時既に遅し。長島の姿はドロンと消えたし、鶴田の目の前には藪からカエルを狙っている蛇のような表情の赤岡がいる。頼みの綱の睦郎はというと、本気で何が起きたか理解していないらしく、きょとんと目を丸くしてことの成り行きを見守るばかり。

(あ、判った。この既視感の正体)

 先ほどから睦郎に感じていた既視感の正体に気付いてしまった。
 ぽやんとしているが、ちょんと座ってご主人の次の命令を待っている柴犬。

(俺ん家の番犬に似てる……)

 あまり家に帰らないせいで顔を覚えて貰えず、帰る度に吠えられているがそれでも可愛い家の番犬。睦郎が一瞬それに見えて、放心状態になった鶴田はプチンと思考を切った。

「いやぁ、うん……そのな。通りかかったら二人の声が聞こえたんで、仲直りしたのかと思ってな」

 ごちゃごちゃ考えるのは止めた。そもそも鶴田は、数週間前からよそよそしい態度を改めなかった二人が心配でここまで来たのだ。別にやましいことなど無いのだから、堂々としておけば良い。

「あと、純粋に来週の献立が気になっただけだぜ」

 ついでとばかりに、とって付けたような理由を追加しておいた。口にした後で、完全に蛇足のようになったと後悔したのだが。
 不自然に思われないように、極々自然な動作でするりと室内に入ってきた。

「次はいつ鯖カレーとか変化球が出てくるのかと楽しみにしてるんだ。なんであれ、目玉になるようなメニュウがあった方が嬉しい」
「鯖やないけど来週の目玉は鯉こくやで」
「鯉こく」

 取り合えず赤岡が怖かったために睦郎の隣に座ってみたものの、これはこれで赤岡からの視線がモロに来て怖い。ちょっとだけ後悔したが、もう後には引けない。
 赤岡が向ける謎の視線は華麗に無視し、鶴田はそうっと会話を継続させる方向に舵を切った。

 鯉こく、とは。知らない人向けに軽く解説すると、いわば鯉を筒切りにして入れた味噌汁である。現代では中々耳慣れない料理だが、当時は特に妊娠した女性に対して多く振る舞われたそうだ。

 鯉にはそれだけ滋養が多く含まれ、鯉こくは海軍でも提供されていた一品だった。

「冷凍庫の底から鯉が出てきたそうですよ」
「今日は桃の節句やさかい、ハマグリの代わりにな」
「なんで鯉が蛤の代用になるのか判らないし、そもそも桃の節句って女子の健康を祈る日じゃねえか。野郎率百パーセントの軍艦には一番縁のねぇ行事だよ」

 淡水魚がなぜ海水で生きる貝類の代用品になれるんだ。ここは百歩譲っても代用に相応しいのはシジミくらいだろうに。

「姉か妹か母親か。それか自分の娘さんや親族にいる女性のことでも思い出しながら、無事を祈っとってくださいという意味ですが何か」

 先ほどから赤岡の御機嫌が斜めに傾き始めたのは気のせいだろうか。自分の精神衛生のためにそうと思っておきたい鶴田であった。

「なあ、睦さんや」
「はいはい、なんどすか」
「今日決めた献立が来週に回るんだったら、桃の節句の下りはまったくもって意味を成さねえんじゃねえか?」
「あっ」
「気付いて無かったのか」

 今日は三月三日。桃の節句である。元々女子の健康と幸福を願う行事である桃の節句は、現代では雛祭りと言った方が親しみやすいだろうか。ちなみに男子の健康と幸福を祈る端午の節句は、こどもの日のことである。

「ま、まあ……上陸前やし、しかも会計監査前やし。冷凍庫の中を一旦整理する目的でもさっさと使いきったろってとこやな」

 ポッと思い浮かんだだけだったが、今思えば中々苦しい言い訳だった。そう反省しつつ、睦郎は手元の予定献立表にそっと何事かを書き足す。

 鯉こくの作り方、海軍編。
 用意する物はもちろん鯉。その他は甘味噌、ごぼうと生姜。最後に粉山椒。

 鯉は下準備としてエラと胆嚢を取り除いておくこと。これは魚だけでなく鶏などの食肉にも言えることなのだが、胆嚢を潰すと強い苦味が移って食べられたものでは無くなるので、特に注意して取り除くべし。なお、胆嚢とは内臓にある暗緑色の小さな玉のことである。見かけたら絶対に潰さずに取り除こう。
 そうして下準備を済ませた鯉は約二サンチの筒切りに。ごぼうは笹掻きをして灰汁を抜く行程を忘れずに。生姜は微塵切りにしておこう。

 そこまでできたら、鍋に湯を入れて一煮立ちさせておいた所に、ごぼうを入れる。さらに味噌を加えて溶かし、鯉と生姜は沸騰したときに入れてとろ火で気長に煮込む。
 後は椀に盛り付けて、そこに粉山椒を振って完成だ。生姜のおかげで鯉の臭みが取れ、さらに山椒のピリッとした辛さが食欲を誘う。骨もそのまま入れた鯉から出る出汁で味噌汁全体の味も落ち着き、いつもの具材の味噌汁とはまた違った良さを出している。

「ところで赤岡さん、いっこ聞きたいことがあったんだがな」
「何ですか」
「鯉を食うと乳の出が良くなるって本当の話かい」
「ゴフッ」

 睦郎が飲みかけていた茶を盛大に噴きそうになった。紅茶ではなく、さっき従兵に持ってきてもらった出涸らしの番茶であったのがまだ救いか。いや、まったくもって救いでは無い。
 しかしそこは海軍士官。何においてもスマートに解決する。
 ということで睦郎は咄嗟に掌で口許を抑えたために、周辺への被害は最小限で済んだ。ところでなのだが、真面目な席で何を言い出すんだ、このオヤジは。

「……大丈夫か?」
「いきなり何を言い始めますん……?」

 覆った掌の下で涙目のままギンッと睨み付けておいたが、睦郎がやっても効果は半減。あまり怖くはない。それよりも赤岡の方が怖い。

「オレの祖母が、昔そんなことを言いながら母に食べさせていたので……」
「あ、長島中尉」

 その時、なぜか先程雲隠れしたはずに長島中尉が士官食堂の入り口にコソッと顔を見せながらそっと囁いた。
 ところでこの長島中尉、出てくる時にもまったく気配が無かったのだが……もしかしたら、忍者なのだろうか。

「近所の人もみーんな言うんですよ。子供を身籠ったら奥さんに鯉を食べさせなさいって。あれって本当の話なのか気になってぼやいていただけですよ」
「ほうか」
「それよりも言うのを忘れていたんですが、後で資料を見てくれませんか。主計長。ほら、例の会計監査用主計科最大級の敵の……」

 どうやら先程、長島がこの辺りを彷徨いていたのはこのためだったらしい。
 事前に従兵から、睦郎はよく士官食堂で赤岡に献立表の相談に乗ってもらっていると聞いていたようだ。

「判った、後で事務室行くから待っといてな。あと十分かそこらで行くさかいに」
「は、了解であります」

 なるべく早めに戻ってきてくださいね、とは口には出さず。長島は来たとき同様に足音も立てないままスゥっと消えていった。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

『別れても好きな人』 

設樂理沙
ライト文芸
 大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。  夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。  ほんとうは別れたくなどなかった。  この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には  どうしようもないことがあるのだ。  自分で選択できないことがある。  悲しいけれど……。   ―――――――――――――――――――――――――――――――――  登場人物紹介 戸田貴理子   40才 戸田正義    44才 青木誠二    28才 嘉島優子    33才  小田聖也    35才 2024.4.11 ―― プロット作成日 💛イラストはAI生成自作画像

政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。

皇太女の暇つぶし

Ruhuna
恋愛
ウスタリ王国の学園に留学しているルミリア・ターセンは1年間の留学が終わる卒園パーティーの場で見に覚えのない罪でウスタリ王国第2王子のマルク・ウスタリに婚約破棄を言いつけられた。 「貴方とは婚約した覚えはありませんが?」 *よくある婚約破棄ものです *初投稿なので寛容な気持ちで見ていただけると嬉しいです

【完結】実家に捨てられた私は侯爵邸に拾われ、使用人としてのんびりとスローライフを満喫しています〜なお、実家はどんどん崩壊しているようです〜

よどら文鳥
恋愛
 フィアラの父は、再婚してから新たな妻と子供だけの生活を望んでいたため、フィアラは邪魔者だった。  フィアラは毎日毎日、家事だけではなく父の仕事までも強制的にやらされる毎日である。  だがフィアラが十四歳になったとある日、長く奴隷生活を続けていたデジョレーン子爵邸から抹消される運命になる。  侯爵がフィアラを除名したうえで専属使用人として雇いたいという申し出があったからだ。  金銭面で余裕のないデジョレーン子爵にとってはこのうえない案件であったため、フィアラはゴミのように捨てられた。  父の発言では『侯爵一家は非常に悪名高く、さらに過酷な日々になるだろう』と宣言していたため、フィアラは不安なまま侯爵邸へ向かう。  だが侯爵邸で待っていたのは過酷な毎日ではなくむしろ……。  いっぽう、フィアラのいなくなった子爵邸では大金が入ってきて全員が大喜び。  さっそくこの大金を手にして新たな使用人を雇う。  お金にも困らずのびのびとした生活ができるかと思っていたのだが、現実は……。

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?

闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。 しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。 幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。 お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。 しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。 『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』 さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。 〈念の為〉 稚拙→ちせつ 愚父→ぐふ ⚠︎注意⚠︎ 不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。

処理中です...