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幕間「注文の多い食堂」

(38)それは、まるで流星のように〈前〉

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 明治四十二年、五月。


「睦郎くーん、ちょっとこっちに来てくれー!」
「はいはい、ただいまー」
「こっちのも頼むよ!」
「はぁい、次にお伺いしますぅ」

 その少年は独楽鼠のように走り回っては、まるで蜻蛉のように舞い戻っていく。
 背が低いのでその分だけ身軽なのか。栗鼠リスのようにちょこまかと机の間をすり抜けては、呼ばれた先にひょっこり出向いて注文を伺っていた。

「……」
「お、彼のことが気になるのかい。赤岡くん」

 そんな少年の姿を、遠くからじっと眺めている青年が一人。若き日の赤岡軍医である。もっとも、この時はまだしがない医学生だったのだが。
 友人の呼び掛けにふと意識を引き戻され、赤岡はそちらの方をふと振り向いた。

「人間に興味の無い君にしては珍しい。もしかして、彼と何かあったのかい?」
「……別に」

 この時、赤岡の思考を占めていたのは数日前に起きたあの出来事なのだが、それを口にするほど赤岡はボケてはいない。
 一人で食堂に残っていたら、おにぎりを皿に乗せてやってきたあの少年。結局あの後、少年は固まる赤岡を置いてさっさと立ち去っていったのだが。

「あれは、昨年の年末に来た新人か。中々見慣れない顔なもので、つい考えてしまった」
「え? 赤岡くん、彼は確か今年の三月からここに来た給仕じゃないか。知らなかったのかい」

 今は五月。三月に入ったということは、既に二ヶ月も経過しているじゃないか。その間、赤岡だって何度も食堂を利用しただろうに。この友人はそれを指摘したのだ。

「それは昨年の年末の話ではないのか」
「違う違う。確かに昨年の年末にも人は入ったが、それは違う少年だ」
「そうなのか」
「そうだよ。本当に君は他人に興味が無いんだな。人の顔を覚えられない癖は改めた方が良いぞ」

 赤岡は食堂に興味が無い男である。なのでまた新しく給仕人が来たとは思いもせずに、どうやら新人二人を混同して覚えてしまっていたらしい。

「残念ながら僕はあまり食堂に興味が無いんだ。覚える必要性など無い」
「そんなに悲しいことを言うなよ。関西訛りはキツいが愛嬌があるんで、みんなから可愛がられているんだぞ。気配りも上手だし。ああいうのが理想の弟ってヤツかな。まったく、ウチの利かん気の強い愚弟に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものだ」
「……」

 などとのたまう友人には目もくれず、赤岡は少年のことをじっと観察し続けた。

「いつもスマンなぁ。後、こいつも追加してくれないか? ああ、そうだ赤茄子トマト抜きって出来るっけ」
「別にかまへんけど好き嫌い激しいのも考えてモンやでぇ、兄ちゃん。確かに赤茄子は種んとこ気色悪いけど、皮んとこはホンマに旨いんやからな。キンキンに冷やして食うやら絶品や。まあ、無理なモンは無理やねんけどな。おれも嫌いやで、赤茄子」
「なぁんだ、結局お前も嫌いなんじゃないか!」
 
 けらりと笑い飛ばして、オチを付けて。まるで台本ありきの舞台で熱弁を奮っている芸人かなにかのよう。それかもしくは、本番の前に出てくる道化ピエロそのもの。そして──

「…………」

 顔全体の筋肉の動き、そして一瞬だけ見せた声の質の変化。
 普通の人間なら判らないだろう。だが、なぜか赤岡だけは、少年の本性が今目に見えているもののさらに奥の部分のあると悟ってしまったのだ。
 それは人並外れた観察力か、医者として後天的に獲得した第六感とやらなのか。
 間違いなく、少年はとんでもない曲者だ。あんなに表情豊かに笑ったりしているが、その仮面の下では笑ってなどいない・・・・・・・・のだから。

「あっと、しまった。おうい、睦郎くんやーい。こっちも頼むよー」
「あ、はいはい。ただいま行きまーす」

 その瞬間、友人がいらぬお節介をかけた。観察をしているだけの赤岡が、あの少年のことが気になっていると勘違いして、声をかけられずにいるのだと勝手に推測して少年を呼び寄せたのだ。これには赤岡も不意を突かれて焦るしかない。

「なんかお呼びですやろか」
「いやぁ、実はこっちの赤岡くんがね」
「あれ? この間の飯食いっぱぐれてたにーちゃんやん」

 少年も少年で、何気なくポロッと数日前の赤岡が昼御飯にありつけなかったことを暴露した。空気の読めない口が軽い残念な子なのか、それともこれさえも自分を馬鹿に見せるための演技なのか。イマイチ理解できない。

「えっ? 赤岡くん、また昼御飯を抜こうとしていたのかい」
「……君は、なぜそれを今ここで言ってしまうんだ」
「あれっ? 言ったらアカンことやった……?」

 きょとんと惚けたような表情で、あざとく首を傾げる。赤岡の目には演技臭く写ったが、他の連中はそうでも無かったらしい。どっと笑い声が上がった。

「ハハハ! いやぁ、別に構わないさ。この赤岡くんにはことあるごとに昼御飯を抜く悪癖があってね。気にしないでくれたまえ」
「えぇ……気にしまっせ」
「忘れてそのまま夕食になってしまうだけさ。元々食が細い方なんだからこれくらい良いだろう」
「いーや。言わせてもらうえ、にいちゃん。人間、ちゃんと三食食う癖は付けとくモンや。たとえ握り飯一個でもエエから胃に入れといた方が健康的やろ? お医者の卵やねんさかい、不摂生はアカンで。身体は大事にせなアカンやろ」
「だとさ」
「放っておけ」

 ケラケラ笑ってからかう友人を軽くいなし、赤岡はふうと溜め息を吐いた。そんな彼を尻目に、友人と少年の会話は続く。

「君ももうここに来て二ヶ月か。仕事には慣れたかい?」
「もちろん、今はもう自分一人でなんでも出来まっせ」
「それは頼もしいなぁ。ちょっと前まで中学に通っていたとは思えないくらいだよ」

 と、ここで気になる発言が飛び出した。この少年、少し前まで中学に通っていたとはこれいかに。

「いやん、兄ちゃんそれは言わん約束やでぇ。アホで成績万年ビリッケツやったんやから、恥ずかしゅうて恥ずかしゅうて」
「そんなに成績が良くなかったのか。確か君、長男だったはずだろ? それも、鷹山で大阪といったらかなり大きな家じゃないか」

 大阪の鷹山。興味はないので知らないが、漏れ出る会話で判断するに、彼はかなり大きな商家の出らしい。それも、跡継ぎであるはずの長男。そんな彼が、なぜ後継の座を捨ててこんなところで給仕の仕事なんかしてるのだろう。

「なにか、お家騒動にも巻き込まれてここまで逃げ延びたとか?」
「ちゃうでー。まあ確かに長男やったし跡継ぎやってんやけどなぁ。おれがあんまりにもド阿呆やったせいで中学退学にさせられてなぁ、そんで家のモンにぶちギレられて家追い出されてん」

 それで仕方無く上京して、それで駅でたまたま見かけたのがこの帝大食堂での給仕の仕事の募集。それにこれ幸いとばかりに飛び付いた結果、ここに立っているというわけだ。

 もちろん、それが本当の話・・・・ならばという注釈が付くが。

「…………」

 赤岡を置いてけぼりにして、目の前で軽やかな会話を続ける友人と少年。
 赤岡の友人は本当に気付いていないのだろうか。少年の笑顔は、笑顔であって笑顔ではないことに。

(さて、少し探りを入れるか)

 化けの皮を剥がせば、いったいどんな表情を見せて激昂するだろうか。内面がまったく読めぬ存在の本性を暴く行為は、非常に楽しいもの。
 これはほんのちょっとした遊びだ。隠されていた宝箱の中身を探り出して、日の光に晒してやろうという。
 まるで童話に出てくる猫のような意地悪な思考だった。以前のことに対する意趣返し、という意味でもあったのだろう。
 まだ若く経験に乏しかった赤岡は、その行為こそが自分の人生を狂わせる決定打になるとも知らずに秘密を暴く算段をたて始めた。




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