39 / 66
幕間「注文の多い食堂」
(38)それは、まるで流星のように〈前〉
しおりを挟む明治四十二年、五月。
「睦郎くーん、ちょっとこっちに来てくれー!」
「はいはい、ただいまー」
「こっちのも頼むよ!」
「はぁい、次にお伺いしますぅ」
その少年は独楽鼠のように走り回っては、まるで蜻蛉のように舞い戻っていく。
背が低いのでその分だけ身軽なのか。栗鼠のようにちょこまかと机の間をすり抜けては、呼ばれた先にひょっこり出向いて注文を伺っていた。
「……」
「お、彼のことが気になるのかい。赤岡くん」
そんな少年の姿を、遠くからじっと眺めている青年が一人。若き日の赤岡軍医である。もっとも、この時はまだしがない医学生だったのだが。
友人の呼び掛けにふと意識を引き戻され、赤岡はそちらの方をふと振り向いた。
「人間に興味の無い君にしては珍しい。もしかして、彼と何かあったのかい?」
「……別に」
この時、赤岡の思考を占めていたのは数日前に起きたあの出来事なのだが、それを口にするほど赤岡はボケてはいない。
一人で食堂に残っていたら、おにぎりを皿に乗せてやってきたあの少年。結局あの後、少年は固まる赤岡を置いてさっさと立ち去っていったのだが。
「あれは、昨年の年末に来た新人か。中々見慣れない顔なもので、つい考えてしまった」
「え? 赤岡くん、彼は確か今年の三月からここに来た給仕じゃないか。知らなかったのかい」
今は五月。三月に入ったということは、既に二ヶ月も経過しているじゃないか。その間、赤岡だって何度も食堂を利用しただろうに。この友人はそれを指摘したのだ。
「それは昨年の年末の話ではないのか」
「違う違う。確かに昨年の年末にも人は入ったが、それは違う少年だ」
「そうなのか」
「そうだよ。本当に君は他人に興味が無いんだな。人の顔を覚えられない癖は改めた方が良いぞ」
赤岡は食堂に興味が無い男である。なのでまた新しく給仕人が来たとは思いもせずに、どうやら新人二人を混同して覚えてしまっていたらしい。
「残念ながら僕はあまり食堂に興味が無いんだ。覚える必要性など無い」
「そんなに悲しいことを言うなよ。関西訛りはキツいが愛嬌があるんで、みんなから可愛がられているんだぞ。気配りも上手だし。ああいうのが理想の弟ってヤツかな。まったく、ウチの利かん気の強い愚弟に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものだ」
「……」
などとのたまう友人には目もくれず、赤岡は少年のことをじっと観察し続けた。
「いつもスマンなぁ。後、こいつも追加してくれないか? ああ、そうだ赤茄子抜きって出来るっけ」
「別にかまへんけど好き嫌い激しいのも考えてモンやでぇ、兄ちゃん。確かに赤茄子は種んとこ気色悪いけど、皮んとこはホンマに旨いんやからな。キンキンに冷やして食うやら絶品や。まあ、無理なモンは無理やねんけどな。おれも嫌いやで、赤茄子」
「なぁんだ、結局お前も嫌いなんじゃないか!」
けらりと笑い飛ばして、オチを付けて。まるで台本ありきの舞台で熱弁を奮っている芸人かなにかのよう。それかもしくは、本番の前に出てくる道化そのもの。そして──
「…………」
顔全体の筋肉の動き、そして一瞬だけ見せた声の質の変化。
普通の人間なら判らないだろう。だが、なぜか赤岡だけは、少年の本性が今目に見えているもののさらに奥の部分のあると悟ってしまったのだ。
それは人並外れた観察力か、医者として後天的に獲得した第六感とやらなのか。
間違いなく、少年はとんでもない曲者だ。あんなに表情豊かに笑ったりしているが、その仮面の下では笑ってなどいないのだから。
「あっと、しまった。おうい、睦郎くんやーい。こっちも頼むよー」
「あ、はいはい。ただいま行きまーす」
その瞬間、友人がいらぬお節介をかけた。観察をしているだけの赤岡が、あの少年のことが気になっていると勘違いして、声をかけられずにいるのだと勝手に推測して少年を呼び寄せたのだ。これには赤岡も不意を突かれて焦るしかない。
「なんかお呼びですやろか」
「いやぁ、実はこっちの赤岡くんがね」
「あれ? この間の飯食いっぱぐれてたにーちゃんやん」
少年も少年で、何気なくポロッと数日前の赤岡が昼御飯にありつけなかったことを暴露した。空気の読めない口が軽い残念な子なのか、それともこれさえも自分を馬鹿に見せるための演技なのか。イマイチ理解できない。
「えっ? 赤岡くん、また昼御飯を抜こうとしていたのかい」
「……君は、なぜそれを今ここで言ってしまうんだ」
「あれっ? 言ったらアカンことやった……?」
きょとんと惚けたような表情で、あざとく首を傾げる。赤岡の目には演技臭く写ったが、他の連中はそうでも無かったらしい。どっと笑い声が上がった。
「ハハハ! いやぁ、別に構わないさ。この赤岡くんにはことあるごとに昼御飯を抜く悪癖があってね。気にしないでくれたまえ」
「えぇ……気にしまっせ」
「忘れてそのまま夕食になってしまうだけさ。元々食が細い方なんだからこれくらい良いだろう」
「いーや。言わせてもらうえ、にいちゃん。人間、ちゃんと三食食う癖は付けとくモンや。たとえ握り飯一個でもエエから胃に入れといた方が健康的やろ? お医者の卵やねんさかい、不摂生はアカンで。身体は大事にせなアカンやろ」
「だとさ」
「放っておけ」
ケラケラ笑ってからかう友人を軽くいなし、赤岡はふうと溜め息を吐いた。そんな彼を尻目に、友人と少年の会話は続く。
「君ももうここに来て二ヶ月か。仕事には慣れたかい?」
「もちろん、今はもう自分一人でなんでも出来まっせ」
「それは頼もしいなぁ。ちょっと前まで中学に通っていたとは思えないくらいだよ」
と、ここで気になる発言が飛び出した。この少年、少し前まで中学に通っていたとはこれいかに。
「いやん、兄ちゃんそれは言わん約束やでぇ。アホで成績万年ビリッケツやったんやから、恥ずかしゅうて恥ずかしゅうて」
「そんなに成績が良くなかったのか。確か君、長男だったはずだろ? それも、鷹山で大阪といったらかなり大きな家じゃないか」
大阪の鷹山。興味はないので知らないが、漏れ出る会話で判断するに、彼はかなり大きな商家の出らしい。それも、跡継ぎであるはずの長男。そんな彼が、なぜ後継の座を捨ててこんなところで給仕の仕事なんかしてるのだろう。
「なにか、お家騒動にも巻き込まれてここまで逃げ延びたとか?」
「ちゃうでー。まあ確かに長男やったし跡継ぎやってんやけどなぁ。おれがあんまりにもド阿呆やったせいで中学退学にさせられてなぁ、そんで家のモンにぶちギレられて家追い出されてん」
それで仕方無く上京して、それで駅でたまたま見かけたのがこの帝大食堂での給仕の仕事の募集。それにこれ幸いとばかりに飛び付いた結果、ここに立っているというわけだ。
もちろん、それが本当の話ならばという注釈が付くが。
「…………」
赤岡を置いてけぼりにして、目の前で軽やかな会話を続ける友人と少年。
赤岡の友人は本当に気付いていないのだろうか。少年の笑顔は、笑顔であって笑顔ではないことに。
(さて、少し探りを入れるか)
化けの皮を剥がせば、いったいどんな表情を見せて激昂するだろうか。内面がまったく読めぬ存在の本性を暴く行為は、非常に楽しいもの。
これはほんのちょっとした遊びだ。隠されていた宝箱の中身を探り出して、日の光に晒してやろうという。
まるで童話に出てくる猫のような意地悪な思考だった。以前のことに対する意趣返し、という意味でもあったのだろう。
まだ若く経験に乏しかった赤岡は、その行為こそが自分の人生を狂わせる決定打になるとも知らずに秘密を暴く算段をたて始めた。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
『別れても好きな人』
設樂理沙
ライト文芸
大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。
夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。
ほんとうは別れたくなどなかった。
この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には
どうしようもないことがあるのだ。
自分で選択できないことがある。
悲しいけれど……。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
登場人物紹介
戸田貴理子 40才
戸田正義 44才
青木誠二 28才
嘉島優子 33才
小田聖也 35才
2024.4.11 ―― プロット作成日
💛イラストはAI生成自作画像
政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。
克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。
皇太女の暇つぶし
Ruhuna
恋愛
ウスタリ王国の学園に留学しているルミリア・ターセンは1年間の留学が終わる卒園パーティーの場で見に覚えのない罪でウスタリ王国第2王子のマルク・ウスタリに婚約破棄を言いつけられた。
「貴方とは婚約した覚えはありませんが?」
*よくある婚約破棄ものです
*初投稿なので寛容な気持ちで見ていただけると嬉しいです
【完結】実家に捨てられた私は侯爵邸に拾われ、使用人としてのんびりとスローライフを満喫しています〜なお、実家はどんどん崩壊しているようです〜
よどら文鳥
恋愛
フィアラの父は、再婚してから新たな妻と子供だけの生活を望んでいたため、フィアラは邪魔者だった。
フィアラは毎日毎日、家事だけではなく父の仕事までも強制的にやらされる毎日である。
だがフィアラが十四歳になったとある日、長く奴隷生活を続けていたデジョレーン子爵邸から抹消される運命になる。
侯爵がフィアラを除名したうえで専属使用人として雇いたいという申し出があったからだ。
金銭面で余裕のないデジョレーン子爵にとってはこのうえない案件であったため、フィアラはゴミのように捨てられた。
父の発言では『侯爵一家は非常に悪名高く、さらに過酷な日々になるだろう』と宣言していたため、フィアラは不安なまま侯爵邸へ向かう。
だが侯爵邸で待っていたのは過酷な毎日ではなくむしろ……。
いっぽう、フィアラのいなくなった子爵邸では大金が入ってきて全員が大喜び。
さっそくこの大金を手にして新たな使用人を雇う。
お金にも困らずのびのびとした生活ができるかと思っていたのだが、現実は……。
【完】あの、……どなたでしょうか?
桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー
爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」
見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は………
「あの、……どなたのことでしょうか?」
まさかの意味不明発言!!
今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!!
結末やいかに!!
*******************
執筆終了済みです。
僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?
闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。
しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。
幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。
お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。
しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。
『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』
さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。
〈念の為〉
稚拙→ちせつ
愚父→ぐふ
⚠︎注意⚠︎
不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる