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第五週「鶏の旨煮」

(23)付き合うのなら断然、沈黙が心地良い人

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「……なんや、上手いこと乗せられた気ぃするんですけど」
「気のせいでしょう」

 心なしか、赤岡が満足そうに見える。手帳はそのまま広げて他の予定を確認しながら、彼はふと思ったことを口に出した。

「ああ、そうだ。別にアナタが小麦粉をどう使おうが別に構わないのですが、小麦粉の保管には最新の注意を払いなさい。特に、一度開けた小麦粉の袋は必ず冷蔵庫で保管するように」
「え? なんでですの?」

 海軍では小麦粉の保管に関しては「湿気無き場所」という指定は入っているが、他には特にこれといった注記は無い。カビが発生しそうな場所に置くのは避けているつもりなのだが、開封した後の小麦粉は必ず冷蔵庫に保管しろとはこれ如何に。

「別に……下手をすれば生死に関わることですよ、などと私の弟子がやけに口煩く言っていたものですから。思い出して口にしてみただけです」
「弟子?」

 睦郎が首を傾げて、赤岡の話の中で気になった単語を反芻する。しばらくの間、記憶を探るとすぐにその答えは出てきた。

「そういえば赤岡さん、弟子おったっけ」

 赤岡には弟子がいる。しかも、二人。当然ながらどちらも医者だ。
 一人目は赤岡と同じく海軍で軍医をやっており、二人目はなんと女医だそうだ。今は岡山で診療所に勤めているとかなんとか。

「そうです。その小麦粉うんぬんを言ってきたのは、一番目の弟子の方なのですがね」
「ああ、あの不思議くんで有名な」

 赤岡の弟子その壱は現在、どこかの駆逐戦隊で軍医長をしているグンチュー軍医中尉だとか聞いた覚えがあった。そして、かなり重度の天然なのだとも。

「弟子いわく、開封後に一定期間以上常温で保存した小麦粉を使った料理を食べると、最悪の場合は死に至るのだとか」
「えっ? うわ、なにそれ。怖いわぁ……」

 まさか一定期間常温で保存しただけの小麦粉がそのような危険物質に早変わりするなど、知らなかった睦郎は身震いをしてさっと思い返す。開封した小麦粉を、未開封の物と共にあの場所に保管していないか、と。考えうる限りそんなものは無かったので、ひとまず安心したが。

「なんでも、気管が腫れ上がって気道が狭まることで窒息するとか。そうなると息ができませんからね。おかにいながら溺れているようだとか」
「え……待って、こわ……次から小麦粉は冷蔵庫で保管しよ……」
「ええ、その方がよろしいでしょう」

 睦郎の恐怖を感じ取ったのか、やんわりと助言してやりながら赤岡は目を閉じる。
 この時の彼の脳裏にいたのは、睦郎ほどではないが何かと手のかかる彼の弟子のことだった。

「彼はパンケーキがどうのこうの言っていましたがね。小麦粉の中に湧いているダニが原因だそうですよ」
「はあ、ダニ……」
「開封してしばらく経った小麦粉を黒い紙の上でうっすらと広げれば、蠢いているのを観察できるそうですよ」
「うへぇ……なんか嫌やわぁ……それ……」

 その様を想像した、睦郎が舌を出してしかめっ面をする。確かに、そんなダニまみれの小麦粉など、誰も好き好んで口にしたくはない。

 開封した小麦粉は、決して常温で保存することなかれ。さもなくば最悪、死に至るであろう。

 現代では常識になっている粉物類の保管方法。これを破れば重度のショック症状を引き起こす可能性が高い危険物質を生み出すことになる。
 それこそが後の世で『パンケーキシンドローム』と呼ばれる症状で、アレルギーの一種だ。原因となるのは小麦粉などの粉類を食料として増殖するダニの一種。その糞や死骸を口にすることで、激しい反応を起こし、最悪は死に至る。これがパンケーキシンドローム。

 しかしこの時代においては、免疫学はまだそれほど発展していない。

 原因不明の突然死として処理されていたものが、医学の発展により名前を付けられるようになっただけ。別に新しい病気が生まれたわけでも無いのだ。

「ずーっと思っとってんやけどな。赤岡さんの弟子その壱って何者なん?」
「知りません。そんなの、私が聞きたいくらいです」

 訝しげに方眉を上げている睦郎の問いかけに、赤岡は視線をそらしたままスパッと返した。
 師である赤岡でさえ「よく判らない」と言われる弟子、とは。

「医術の知識と腕については太鼓判を押しますがね。少々ばかり空想に浸りがちなのが短所というところでしょうか、彼。あれさえ無ければ、私ももう少し安心するのですが」

 無垢で無知。物心ついたばかりの子供のように純粋な内面に反した、妙に理性的で無感情な言動。医療のためなら自身の生死でさえ問わぬ姿勢。
 異常と言えば異常だろう。あれは人間と言うよりむしろ、決められた行動だけを行う機械と言ったほうが良い。それも、人間の言うことを聞かず暴走する、ブレーキの壊れた機関車だ。
 そんな暴走機関車を、人間として最低限の生活ができるように矯正していった自身の手腕は称賛に値する。などと自画自賛する赤岡であった。

「彼とは十年単位で付き合っていますが、いまだに何なのかよく判りません」
「えぇー……赤岡さん、彼のお師さんやねんやろ?」
「知りませんよ。私に他人の心が理解できると思っているのなら大間違いですからね」

 何か書き留めておくことでもあったのだろうか。赤岡が開いた手帳に鉛筆を走らせている。

「…………」
「…………」

 沈黙。話しかけるような隙など無い。
 恐れていた事態がやってきた。気まずい時間が訪れる。

「……なあ、赤岡さん」
「ん、」
「……」

 恐る恐る、話かけたが赤岡の反応は非常に薄い。だから、睦郎は嫌だったのだ。赤岡との会話を途切れさせるのが。

「あー……うん、その……」
「……」
「赤岡さん、あんな」
「なんです」

 面倒くさそうな声に、ビクリと身を震わせる。
 ここに鶴田がいれば、さりげなくフォローしてくれていたのだろうか。だが、いない者を当てにしたって仕方がない。

 こればかりは、睦郎だけで解決すべき問題だ。誰の手も借りるわけにはいかない。だから、睦郎は思いきって大きな勝負に出ることにした。


「あぁ──もう! 止めや、ヤメッ!! 気まずくなるくらいなら自然体でいた方がマシや!!!」


 ガタッ、と大きな音を立てて椅子からぐわっと立ち上がると、さすがの赤岡もビクッと身を震わせて手帳から顔を上げた。その顔は、珍しく呆然としている。
 だが、睦郎は止まらなかった。いや、止まることなどできるわけがなかった。

「いきなりなんですか、そんな大声を出して」
「鶴さん挟まんと、気まずぅてロクに話もできひんなんて仕事にならんやろ!!」

 勢いのままに解決できる問題ではないことくらい、睦郎自身が一番良く知っている。
 だが、どうすれば良いのか判らないだけだ。唯一解決できるであろう方法は、二十年も前に置いてきてしまった。後に残っているのは、二十年分溜まりに溜まった捻れと鬱屈だけ。
 ここで第三者が間に入っても、余計に問題が拗れるだけだ。だから、睦郎の力だけで解決しなければならない。誰の手も借りずに、自分の力だけで。それが、お互いのための最適解なのだから。

「なぜ急にこの場にいない者の名を出すのです。今は機関長は関係ないでしょう」
「その機関長がおらんとマトモに会話が続かんやん!!」
「それは、アナタが私のことを意識しすぎて余計なお節介を……」
「──おれのことを意識しとんのは赤岡さんの方やろ!!」

 衝撃が走った。睦郎の一声は、赤岡の息を詰めさせるのには十分すぎるくらいの威力があった。
 そのまま赤岡は、何を言いたかったのかさえ忘れて口を開いたまま目を見開く。

「……、は」
「嫌でも判るわ、あんなん!」

 鶴田が睦郎と親しく話していた時、気に入らないとばかりの視線を寄越してきたくせに。少しでも睦郎が突き放すような言動を取れば、あまり変化の無い表情の向こうで寂しそうな色を灯していたくせに。
 なぜ、自分だけは何でもないというような表情ができるのだと。怒鳴りたくなったのを、必死で押し込みながら睦郎は懸命に言葉を紡いだ。

「頼むで、赤岡さん……あれはもう二十年も前に終わったことやねん」

 ぐっと腹に力を込めて、衝動のままに叫びたくなるのを抑え込む。少しでも気を抜いてしまったら、大声で泣きわめいていただろう。
 それができないのは、お互いに責任というものがあるからだ。自分たちはもう、十代二十代の若造ではない。ただの雇われ給仕と、しがない医大生などではない。
 誉れ高き帝国海軍が誇る重巡洋艦「古鷹」の、主計長と軍医長。何人もの部下を率いる、艦という名の国を動かす要なのだ。
 早々簡単に、それも自らの私情でその責任を投げ出すわけにはいかない。

「俺が一方的に終らせた関係や。せやから、あんたに何か言う資格なんか無いことくらいよぉ判っとる」

 声は震えていただろうか。表情は悲痛なまま強張っていただろうか。
 そんなもの、確かめる術など無い。余裕もない。何もかも足りていない。何もかもが不完全で、不格好で……だからこそ、彼らは英雄でも何でもない、ただの人間でいられるのだ。

「それを判っている上で言うわ、赤岡さん。仕事上の関係でいようやゆうたんはそっちの方やろ」
「……そう、ですね」
「お互いに良い歳やしな。もうエエやろ。昔のことは」

 そっと目を閉じて、諦めたように──だが、瞳の奥にいまだ諦めきれぬというような光を宿して。赤岡は、静かな同意の言葉を差し出した。

「あれはもう過ぎたことや。おれが全部悪かった。何もかも」
「睦、」
「せやから、な。あれは単なる過去の思い出として割り切っていきまひょ? なあ、赤岡さん……これはな、」

 そこで一旦言葉を切って、そして睦郎はそっと目を閉じた。


「これはな────かつてあんたと関係があったモンからのささやかな願いやで、赤岡さん」


 ひゅ、と。喉から掠れたような音が聞こえたのはどちらだったのだろう。
 諦めきれぬ思いを再び、心の最下層に放り込んで蓋をして。赤岡はただ黙ってうなずいた。










 一月十六日。
 その後のお二人……ですか。いえ、特に変わった様子は見受けられませんでしたが。自分の観察眼が貧弱ということかもしれませんが……強いて言うのならば、軍医長をが「悩みごとがあるなら主計長に相談しろ」と。
 え? 恋の悩み? ま、まあそうですけど……はあ、そうですか。考えておきます。
 では、自分はこれで失礼します。





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