上 下
21 / 66
第四週「味噌汁」

(20)従兵さんには顔が良い人が多い

しおりを挟む

(あっ)

 これは不味い、と睦郎は慌てた。というのも、彼は知っていたからだ。赤岡が軍医になった本当の理由を。
 そしてそれが──恐らく睦郎本人が起因して選んでしまったものだと悟っていたから。

「…………」
「うん? 赤岡さん?」
「あ、あーっ!!」

 睦郎は叫んだ。とにかく、二人の意識を反らさねばと必死になって。
 人間、慌てると何をするか判らない。睦郎は考えなしに叫んで後悔した。このままではいきなり叫んだ変な人である。かといって、自身の心当たりをそのまま口にするのがもっとマズイ。
 それが心の底に固く縛って封印したものなら尚更。

「ど、どうした睦さん」

 一方で年長の二人は、突如大きな声を出した睦郎に驚き、ビクッと体を跳ねさせながら咄嗟にそちらの方を向いた。

(あっ、マズイ。やってもた)

 時間よ、止まれ。それに続く言葉は「汝はあまりに美しい」だろう。しかしこの時の睦郎にとっては続きは「おれに言い訳を考える時間をください」だった。
 無論、そんなことができるのなら誰も苦労などしない。つまらぬ現実逃避で著書を引用に使われた独逸ドイツの詩人にも謝って頂きたいところだ。
 だがやってしまったことは仕方がない。覆水盆に帰らず、It's no use crying over spilt milkこぼれたミルクを嘆いても仕方がない。考えるべきは急に叫んだ理由だ。
 当然だが本当の理由など言えない。かと言って、空気も読まずに急に叫ぶような理由など早々無い。
 さらに苦しいことに、睦郎はこういう事態に陥った際に使える言い訳なんて用意してさえいなかった。地味に絶体絶命の危機である。

「急に叫んで何事ですか。騒々しい」
「え、えーっとな。その……ハハ、なんや、えーと……」

 さらにトドメとばかりに赤岡からの追撃が来た。なぜ急に会話に割り込んできた、と言わんばかりに眼光が鋭い。下手な言い訳などしようものなら、きっと恐ろしいことになるのは目に見えていた。

(ひん……誰か助けてぇ)

 半べそをかきそうになりながらも、そこはやはり海軍士官。しかも主計科の親分。間違えてでも顔に出すわけにはいかなかった。
 ならば睦郎が取るべき行動などただひとつ。この場をどう乗り切るかを残りあと三秒で考え──その時、不意に三人の耳に鋼鉄を叩くような音が飛び込んで来た。
 いや、この感じはノックと言った方が良いか。誰かが士官室にやってきて、入室許可を求めてきたのだ。

(しめた!)

 誰かは知らないが、睦郎にとっては天から垂らされた蜘蛛の糸。すかさずそれを掴みとらんと、睦郎は士官室への入室許可を認めてやった。

「よっしゃ、入れ!」
「あっ、睦さん!?」

 本来ならば機関科将校であり、なおかつ最先任である鶴田がすべきことなのだろう。睦郎が先に答えたせいで、鶴田がぎょっと目を剥く。

「───失礼いたします!」

 しかし、一応は士官からの許可を貰ったのだ。相手もさっと入り込んでくる。
 入室許可を求めたのは従兵だった。

「軍医ちょ……! 機関長!!」

 よほど切羽詰まっていたのだろうか。どうやら中にいた鶴田に気が付かなかったらしい。従兵はその姿を見てようやく鶴田の存在に気付いたらしく、慌てて彼に向かって敬礼する。

「構わん、続けろ」
「は……」

 従兵、というのは士官の世話をする専属の兵のことだ。
 明治建軍の際に日本海軍が参考とした英国海軍では、士官は貴族であったため自分達の身の回りの世話をさせる従卒を艦に乗り込ませていた。帝国海軍でもその名残を残す形で、従兵という制度が存在していたのだ。彼らは士官の世話を焼き、そして一般の兵よりも士官との距離が近いためか、彼らと固い縁や絆で結ばれる者が大半だった。
 もちろんそのぶんだけ士官の世話は大変だったわけだが、従兵自身も士官が食べている白米のお零れを貰えたりしたので色々と旨味のある役職でもあったわけだ。

 従兵になるものは大体が優秀で、そのため昇進が早いとも言われている。なので、頭の回転が早く非常に優れた観察眼を持つ者ばかり。
 この従兵もその例に漏れず、機関長の許可を受け取ったのでそれ以上は何も詮索せずに黙った。
 なぜ、こんな時間にこんな所に機関長がいて、しかも軍医長と主計長と共に何やら気まずい空気を出していたなどと。良く訓練された従兵は何も言わずにスルーしてくれる。
 別に「関わったら面倒なことになりそう」とかそういう理由では無いので、その辺りは留意されたい。

「軍医長宛に伝令であります」
「おや、私でしたか」

 従兵の目的は軍医長だった。指名を受けた赤岡が、何かに思い当たったような表情をしつつ椅子から立ち上がる。

「砲術長が相談したいことがあるとの事で、至急艦橋までお越し願いたいと……」
「珍しいですね。砲術長が私に直接用があるなど……」

 何かトラウマでもあるのか。医者嫌いでなるべく医務室には近寄らない砲術長が、その医務室の主である赤岡に直接用事があるなど珍しいこともあるものだ。

「でもまあ……呼ばれたのでしたら仕方がありません。主計長、献立の件は夕食後でよろしいでしょうか」
「ええですよ。軍医長の予定にあわせますから」
「……」

 ニコッと笑って送り出す睦郎に、少しだけ眉を寄せた赤岡。だが、別に彼とは個人的な話をしていたわけではない。あくまで仕事上、必要な話をしていただけだ。
 軍医長である赤岡に、より優先度の高い仕事が回ってきたのならそちらの方に行くべきだろう。特に不自然な動きなど無い、いたって普通の反応だ。

「なら、夕食後に時間を取りますのでそちらに向かいます」
「はぁい。事務室を開けときますんでよろしゅうお願いします」

 短く、だが一分の隙無くピシャッと閉め出した。
 それを感じて少々複雑な気持ちになりつつ、赤岡は後ろ髪引かれる思いに駆られならがも従兵と共に士官室を辞した。

「…………」

 後に残ったのは、赤岡の背中に向かってヒラヒラと手を振る睦郎と、それに納得いかないとばかりに憮然とした表情をする鶴田だけ。

「……」
「ん? 鶴さん、どないしました?」
「……睦さん、あんたな…………」

 言いたいことは色々あった。どうしても言いたいことがたくさんあって、そしてそれらは歳上としてのお節介から来るものであって……悩んだ結果、鶴田はそっと頭を振る。

「いや、なんでもない。忘れてくれ」
「?」

 今は、それらを言うべき時ではない。
 睦郎は、ああ見えて他人に心を開くことが稀だ。特に、今のように親しい相手となにかいざこざがあった直後は。
 何があったかなど決して口を割ってくれないだろうし、何か忠言をしても彼の心には届かない。届いてくれない。
 基本的にお節介である鶴田にとって、もどかしいことこの上無かったのだが。

「うん……まあ、なんだ。あんたもな、悩んだら相談してくれたら良いんだぜ」

 ポリポリと後頭部を掻いて、鶴田はさてとばかりに自分も立ち上がる。

「時間を取らせてすまなかったな、睦さん」
「いいえ、いいえ。一緒にいてくれて助かりましたよ」

 鶴田もそろそろ根城に帰ってやらねばならないだろう。
 だが、その前にどうしても聞いておきたいことがあった。

「ところでよ、睦さんや」
「はいはい、なんですやろ」
「赤岡さんの実家云々の話で思い出したんだがな。あんた、大阪の商家の長男なんだろ。なのになんでまた、海軍で主計科の士官なんざやってんだ?」
「──」

 睦郎が、息を呑んだ。
 狭い海軍社会。噂はいくらでも回ってくる。みんな、自分の艦にいる奴の事情ぐらいいくらでも知っているのだ。そう、例えば……主計長の実家が大阪で代々商いを営んできた大きな家で、しかも彼がそこの長男、つまり後継ぎだったことくらい。今やこの艦の誰でも知っている。

 だからこそ、不思議だったのだ。
 そのまま家を継いでいたらかなり裕福な生活を送れていただろうに、なぜわざわざ薄給で過酷な任務に従事させられる海軍に入ったのだと。

「……」

 睦郎はだんまりだ。俯いているため表情は見えないが、おそらく言う気は無いのだろう。
 鶴田が諦めて行こうとした、その時だった。

「……継ぎたくても継げへんかってんや」
「え?」

 ボソッと、早口で言われた台詞。聞き取れなかったが、今確かに何か言わなかっただろうか。不安を感じた鶴田が睦郎の名を呼んだ、その時。

「……いやぁ、なんてことあらへんで。おれは確かに後継ぎやったけどなぁ。海軍になるゆうて聞かんかったから、勘当されただけやで」

 たぶん、嘘だ。
 なぜだか知らないがそう感じた。睦郎は、嘘を吐いていると。

「でもな、おれな……ほら、背ぇ低いからそれで兵学校に落ちてもうてな。そんで、その時の担当教官から海軍を諦めないつもりなら海経行ったらどうやゆわれて、そんで受けただけや。それだけやで」
「お、おう」
「それより機関長、時間はええんどすか?」

 聞き返そうにも、有無を言わせぬような口調だったためにそれ以上は何も聞き返せなかった。
 おまけに急かされ、鶴田は酢を飲んだような表情をしながら回れ右をして退出せざるをえないだろう。

「ほんじゃまあ、またよろしゅう頼んますわぁ」
「ああ……まあ、ほどほどにしとけよ、睦さん」

 それだけ言って、鶴田は士官室を辞した。








 一月六日。
 ……え? 主計長でありますか?
 ううん……少佐は煙草を呑まれませんし、酒もお付き合い程度ですので、扱いやすいと言えば扱いやすい方であります。
 ですが……少し、取っ付きにくいような……あ、いえ。なんでもありません。
 それでは、私の方は今日のお勤めもあるのでこの辺りで失礼いたします。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

『別れても好きな人』 

設樂理沙
ライト文芸
 大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。  夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。  ほんとうは別れたくなどなかった。  この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には  どうしようもないことがあるのだ。  自分で選択できないことがある。  悲しいけれど……。   ―――――――――――――――――――――――――――――――――  登場人物紹介 戸田貴理子   40才 戸田正義    44才 青木誠二    28才 嘉島優子    33才  小田聖也    35才 2024.4.11 ―― プロット作成日 💛イラストはAI生成自作画像

政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。

皇太女の暇つぶし

Ruhuna
恋愛
ウスタリ王国の学園に留学しているルミリア・ターセンは1年間の留学が終わる卒園パーティーの場で見に覚えのない罪でウスタリ王国第2王子のマルク・ウスタリに婚約破棄を言いつけられた。 「貴方とは婚約した覚えはありませんが?」 *よくある婚約破棄ものです *初投稿なので寛容な気持ちで見ていただけると嬉しいです

【完結】実家に捨てられた私は侯爵邸に拾われ、使用人としてのんびりとスローライフを満喫しています〜なお、実家はどんどん崩壊しているようです〜

よどら文鳥
恋愛
 フィアラの父は、再婚してから新たな妻と子供だけの生活を望んでいたため、フィアラは邪魔者だった。  フィアラは毎日毎日、家事だけではなく父の仕事までも強制的にやらされる毎日である。  だがフィアラが十四歳になったとある日、長く奴隷生活を続けていたデジョレーン子爵邸から抹消される運命になる。  侯爵がフィアラを除名したうえで専属使用人として雇いたいという申し出があったからだ。  金銭面で余裕のないデジョレーン子爵にとってはこのうえない案件であったため、フィアラはゴミのように捨てられた。  父の発言では『侯爵一家は非常に悪名高く、さらに過酷な日々になるだろう』と宣言していたため、フィアラは不安なまま侯爵邸へ向かう。  だが侯爵邸で待っていたのは過酷な毎日ではなくむしろ……。  いっぽう、フィアラのいなくなった子爵邸では大金が入ってきて全員が大喜び。  さっそくこの大金を手にして新たな使用人を雇う。  お金にも困らずのびのびとした生活ができるかと思っていたのだが、現実は……。

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?

闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。 しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。 幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。 お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。 しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。 『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』 さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。 〈念の為〉 稚拙→ちせつ 愚父→ぐふ ⚠︎注意⚠︎ 不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。

処理中です...