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翼のない航空隊・上
4-1「そっか、今日からお前がいたんだっけな」
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宇宙歴3502年1月12日、けたたましいアラームと共にクロウが目覚めると、隣のベッドからシドも冬眠明けの熊のようにのそりと起き出した。その巨体の質量で金属製の彼のベッドがぎしりと音を立てて軋んだ。
「おはようございます、先輩」
「おー……」
シドは寝起きが悪いのか言葉少なに着替え始めた。と、シャツをはだけた所ではたと、シドは動きを止め、クロウに向き直る。
「……そっか、今日からお前がいたんだっけな」
昨日食堂で夕飯を取った後、シドとクロウは自室に戻りパラサが届けてくれていたクロウの服や日用品などを検品して、それぞれクローゼットに仕舞ったり、細かい備品などをシドが解説してくれていた。ルピナスについての説明はまた後日、と日を改めることになった。別れ際にルピナスはクロウに手のひら程の小さな箱をくれた。
「これからはそれをいつも身に着けるのじゃ!」
と、言いながら。クロウには中身はデジタル式の腕時計に見えた。実際にその後手に巻いて見たが、まさに腕時計で合っているようだった。
「そいつは、この艦の乗艦証と、身分証と、通信機を兼ねている。めったに壊れはしないが大事にしろよ?」
そう言うシドの左腕にも同じものが巻かれていた。ためしにと、その機能を見せてもらったが、この小ささで、クロウの知るスマートフォンのような機能を搭載していた。
彼らはこの腕時計をリスコン(リスト・コンピュータ)と呼んでいた。腕時計の文字盤に当たる部分には見慣れたデジタルの腕時計のように時刻表示と、各種ステータスを表すアイコンが並んでいた。文字盤左にあるボタンを押すと。手の甲の上に四角くディスプレーが空間投影された。これをスマートフォンのように操作すればさまざまな機能を使用できるという。
クロウは機械を触る事も好きだったため、しきりにリスコンを触ろうとしたが、「使い方はインストールしてやったろ」とシドに言われて、実際にリスコンの全ての機能を知ってしまっていることに気が付いた。瞬間その時まで感じていた新しい機械を触るというワクワク感が消え失せ、クロウはリスコンをいじるのをやめておいた。
シドによると艦内の普段着はジャージでいいらしい。その他に常備服と呼ばれる簡易的な軍服があり、普段はそれらを着まわすのだという。実際、ルウやパラサ、その他クロウがこの艦に乗って見かけた多くの者たちはこの服であった。
常備服は上下3セット支給されていた。シドのツナギは技術科特有のもので、クロウには支給されないという。「代わりにお前にはもっといいものが支給されるから楽しみにしておけよ」と言われた。
言われて気が付いたが、クロウは知らないものはインストールされていたとしても知らないのだった。シドによればインストールされた知識は、その実物を見るか、それに関連する知識を言語として聞かないと思い出さないという。そうしないと、知識の洪水で自我など吹っ飛んでしまうとシドは言っていた。
パラサがクロウに対して心配していた部分はここで、インストールは通常必要な知識を必要な分だけインストールするのだという。だが、クロウはこの時代の常識などにも疎い上、いきなりこの艦の士官として振る舞う必要があった。だから知識だけ先にインストールして、VRで何よりも初めに、軍隊での体の動かし方、所作を学んだのだ。
昨日はそのまま身の回りの整理をして、シドと連れ立って大浴場に行き(大浴場でもタイラーに遭遇したが、本当に仮面をつけたままだった。クロウはタイラーがその金髪を洗う際素顔を晒すのではないかと期待し、横目でそれを追ったが、なんとタイラーは仮面の上から湯を被り、そのまま豪快に仮面ごと髪を洗っていた)、風呂で体を温めて、部屋に戻って寝た。
「今日、お前は常備服だな。あ、この後多分朝礼でお披露目だぞ」
リスコンでざっと予定を確認していたシドは、クロウの今日の予定を教えてくれる。現在時刻6:05、朝礼は8時から、それまでに朝食と身支度を済ませて、昨日タイラーと車を降りた大格納庫に集合との事だ。クロウも自分のリスコンで自身のスケジュールを確認するがそれ以降の事は未定らしく、予定はまだリスコンに表示されない。
常備服に着替えてから、ベッドで寝るときに使用したシーツや毛布を畳んでいたクロウは無意識に寝具を軍規通りの形に整頓している事に気が付いた。インストールした知識でこのベッドの寝具の畳み方を考えていたら無意識に体が動いていた。
「マメな奴だ。下士官以上は通常時は軽く慣らすだけで大丈夫だぞ」
言いながら、見慣れない青いラインの常備服に着替えたシドもベッドメイキングをしていたが、寝具を畳みこそしないものの、ベッド全体をしわ一つなくベットメイキングしていた。
「朝飯食いにいくべ」
二人そろって準備出来た所でシドと連れ立って部屋を出た。目的地は昨晩の食堂だった。食堂には人が列をなしていた。
「ああ、考えれば当然ですけど、やっぱりこの艦にはすごくたくさん人がいるんですね」
「3401名の大所帯だからなあ……」
3400名の乗組員にクロウが加わった事で3401名となっていた。シドは「インストールされてわかっているだろうが……」と前置きしてざっと人員構成を説明してくれる。
現在『つくば』に乗船している人員は、総勢3401名、士官34名(クロウ、タイラーを含む)、下士官564名(シドを含む)、兵卒2803名だった。この内、クロウは士官4名、タイラー、ルウ、パラサ、ルピナスと知り合ったことになる。
総勢3401名が3交代制で人員を分配するため、常時活動している人数は1100人前後になるという。休みは5勤2休制で、曜日という感覚が廃れても一週間という単位は残っているのだなという事をクロウは考えていた。因みに、シドもクロウも3日後が休みという事になっている。
並んでいる人の列を見ると、ほとんどの人間は常備服を着こんでいたが、常備服にも数色あり、クロウの着こんでいる赤いラインが入っている常備服は戦術科の人間であることを表していた。
珍しくと先ほどクロウは感想したが、シドも着ている時間で考えるのであれば常備服の方が圧倒的に多い。作業をする時のみ今着ている青いラインの常備服から昨日着ていた作業着であるツナギに着替えるのだった。艦内の科と呼ばれる部署は他に、航海科、船務科、主計科、機関科、技術科、医療科、保安科と全部で8部署が存在していた。
「ありゃ、今日はパンか。米の方が好きなんだけどな」
列が進み、重ねられているトレーを手に取り表示されているメニューを見ながらシドは言う。
「シド先輩って日系なんですか?」
「おう、母方の爺様が日系でロスト・カルチャーだよ」
と、事も無げにシドは言う。クロウはぎょっとして周囲を見回すが、周りの聞こえたであろう人間たちにも特に変化は無い。どうやら周知の事実らしかった。
「別にロスト・カルチャーって言っても本人じゃ無ければ大したことじゃないのさ」
あっけらかんと言うシドに、クロウはそんなものか、と思う。
「あ、言い忘れていた。自分の『ルーツ』を語るときは気を付けろよ?」
シドによれば、思わずシドも口に出してしまったものの、人種と言う概念はこの時代においてかなり希薄だという。シドも『日系人』という言葉自体ロスト・カルチャーである祖父から教わったものだという。そのため、自分のルーツを知らないものがほとんどで、ほとんどが人間と言う種の民族だと考えている。「一部例外がいるが、これがまた面倒くさいんだ」とクロウの耳元でシドは言う。
クロウは言われ、逆に深く考えないことにした。そんな寛容な世界がこの時代なのだとすれば、自分が生きた時代の醜い争いの事などを持ち出したくもなかった。この遥かな歳月が経過した世界にはそんな些事は人々の生活に大きな影響を与えないのだ、と言い聞かせながら。
―――本当にそうだろうか?
という、蛇が鎌首をもたげたように唐突に沸き上がりそうになった感想を必死に押し殺した。それは触れてはいけないと、心のどこかで警鐘が鳴っているのだ。
「げっ」
トーストとサラダ、スクランブルエッグに茹でたソーセージという簡素な食事を受け取って、空いた席を探す目の前にシドを認めたパラサがそんな声をあげていた。パラサの前にはルウとルピナスも並んで座っており、その3人の周りは3人分席が空いていた。
「おはようございますパラサ大尉、ルウ中尉。ご一緒してもいいですか?」
「ご挨拶だなパラサ、ダメだって言っても俺は座るがね」
丁寧に聞くクロウを他所に、シドは鼻を鳴らしてパラサの一つ離れた席にどかりと座った。自然にクロウはシドの対面のルピナスの隣に座る事になる。
「おはようルピナスちゃん」
「『クロにい』もおはようなのじゃ!」
ルピナスを驚かさないように努めて優しく声を掛けたクロウに、ルピナスはまぶしい笑顔で挨拶を返してくれた。金色の瞳に、口の周りをケチャップに染めていた。
座りながら、思わずクロウは強烈な保護欲をルピナスに対して覚えたが、必死にそれを抑えて静かに席についた。
「この子、本当に誰にでも懐くわね」
「いい人にだけですよ」
ルピナスの口元のケチャップを拭いながら、パラサの感想にルウが答えた。
「パラサねえもシドにいと仲良くすればいいのじゃ!」
屈託なく言うルピナスに、パラサは突如顔を赤面させ、自分のトレーの食事を一気に口に掻き込むと、「この後の朝礼の準備があるから先に行くわねっ」と、席を立ってその長い金色の髪を翻し駆け去ってしまった。
「先輩、パラサ大尉に何かしたんですか?」
「いやぁ、実はそれが全然わからねぇから扱いに困っているんだよ」
と、クロウにシドがぼやく。
パラサとシドの付き合いは長い。
この『つくば』が就航する際、初めて集められた第一期メンバーの内2名がパラサとシドであり、パラサは航海科の長として航海長を、シドは技術科の長として技術長の立場として、初期の『つくば』を引っ張った仲であった。二人は当初性格の違いから反りが合わないことも多々あったが、1年ほどで打ち解けたとシドは記憶している。二人がこのようなぎくしゃくとした関係に戻ってしまったのはごく最近の事だった。
ルウはその直接の原因を知ってはいたが、あえて口には出さなかった。そういった美しい感情の機微には余人が干渉すべきではないのだ。
「本当に心当たり無いんですか? セクハラとかしたんじゃないですか?」
「おま、俺を何だと思ってるんだ? 俺は男女とかそういうのあんまり意識しねぇぞ、あーまった、それで変なところ触ったとかならあるかもしれねえ。俺、あんまり女扱いとかしねぇから」
「やっぱあるんじゃないですか、絶対謝った方がいいですって」
「あー、うんー、ぶっちゃけそう考えると心当たりが多すぎる。あいつと組手して思いっきりぶん投げた事もあるからな。そりゃ体だって当たる」
クロウと、シドの会話を聞きながら、ルウは静かに微笑んだ。そういう事ではないのだが、この調子だとシドはあらぬ誤解を抱いたまま訳も分からず。パラサに謝罪しにいきかねない。そんな事になればパラサがまた荒れるのは火を見るよりも明らかだった。
『フォローしておきますかね』
と、ルウは思う。
「訓練上の出来事は、あの子も気にしていないと思いますよ」
これくらいのサービスは友人として妥当だろう。
「まあ、同性のルウさんが言うならそうなんですかね? 僕なんか昨日何度殺されるかと思ったか、先輩激しすぎなんですよ」
「お前それ、周りに『誤解される』ってわかって言ってるだろコノヤロウ」
このやり取りを見て、ルウは二人を幼いとは思わない。むしろ、シドは『わかっていて、気が付かないフリ』をしている気さえする。この艦のこれからの行く末を考えればそれも仕方のない事だった。
「さあ、そろそろ行かないと朝礼に遅れてしまいますよ」
と、ルウは二人を促した。小突きあっている二人を見てルピナスはころころ笑っていた。ルピナスの手を取って手をつなぎながら歩く。自分を母と慕うルピナスという少女は確かにルウの娘という訳ではない。だが、親を持たない『フォースチャイルド』の少女が自分を母と呼ぶ行為をルウは単に『子供が勝手に言っているだけ』とはどうしても思えないのだ。艦長も同じように思っているからこそ、この子に父と呼ばれるがままにしている。と、ルウは確信していた。
これからの事がその実分からないのは、私も同じか、と、ルウは思う。
戦火は確実に、目の前まで迫っているのだ。それも、あと数日でこの『つくば』はその最前線へ行く。一年前から決定づけられていたその運命に、ルウは今、祈らざるを得なかった。願わくば、自分の大切な人たちだけでも、どうか。と。
「おはようございます、先輩」
「おー……」
シドは寝起きが悪いのか言葉少なに着替え始めた。と、シャツをはだけた所ではたと、シドは動きを止め、クロウに向き直る。
「……そっか、今日からお前がいたんだっけな」
昨日食堂で夕飯を取った後、シドとクロウは自室に戻りパラサが届けてくれていたクロウの服や日用品などを検品して、それぞれクローゼットに仕舞ったり、細かい備品などをシドが解説してくれていた。ルピナスについての説明はまた後日、と日を改めることになった。別れ際にルピナスはクロウに手のひら程の小さな箱をくれた。
「これからはそれをいつも身に着けるのじゃ!」
と、言いながら。クロウには中身はデジタル式の腕時計に見えた。実際にその後手に巻いて見たが、まさに腕時計で合っているようだった。
「そいつは、この艦の乗艦証と、身分証と、通信機を兼ねている。めったに壊れはしないが大事にしろよ?」
そう言うシドの左腕にも同じものが巻かれていた。ためしにと、その機能を見せてもらったが、この小ささで、クロウの知るスマートフォンのような機能を搭載していた。
彼らはこの腕時計をリスコン(リスト・コンピュータ)と呼んでいた。腕時計の文字盤に当たる部分には見慣れたデジタルの腕時計のように時刻表示と、各種ステータスを表すアイコンが並んでいた。文字盤左にあるボタンを押すと。手の甲の上に四角くディスプレーが空間投影された。これをスマートフォンのように操作すればさまざまな機能を使用できるという。
クロウは機械を触る事も好きだったため、しきりにリスコンを触ろうとしたが、「使い方はインストールしてやったろ」とシドに言われて、実際にリスコンの全ての機能を知ってしまっていることに気が付いた。瞬間その時まで感じていた新しい機械を触るというワクワク感が消え失せ、クロウはリスコンをいじるのをやめておいた。
シドによると艦内の普段着はジャージでいいらしい。その他に常備服と呼ばれる簡易的な軍服があり、普段はそれらを着まわすのだという。実際、ルウやパラサ、その他クロウがこの艦に乗って見かけた多くの者たちはこの服であった。
常備服は上下3セット支給されていた。シドのツナギは技術科特有のもので、クロウには支給されないという。「代わりにお前にはもっといいものが支給されるから楽しみにしておけよ」と言われた。
言われて気が付いたが、クロウは知らないものはインストールされていたとしても知らないのだった。シドによればインストールされた知識は、その実物を見るか、それに関連する知識を言語として聞かないと思い出さないという。そうしないと、知識の洪水で自我など吹っ飛んでしまうとシドは言っていた。
パラサがクロウに対して心配していた部分はここで、インストールは通常必要な知識を必要な分だけインストールするのだという。だが、クロウはこの時代の常識などにも疎い上、いきなりこの艦の士官として振る舞う必要があった。だから知識だけ先にインストールして、VRで何よりも初めに、軍隊での体の動かし方、所作を学んだのだ。
昨日はそのまま身の回りの整理をして、シドと連れ立って大浴場に行き(大浴場でもタイラーに遭遇したが、本当に仮面をつけたままだった。クロウはタイラーがその金髪を洗う際素顔を晒すのではないかと期待し、横目でそれを追ったが、なんとタイラーは仮面の上から湯を被り、そのまま豪快に仮面ごと髪を洗っていた)、風呂で体を温めて、部屋に戻って寝た。
「今日、お前は常備服だな。あ、この後多分朝礼でお披露目だぞ」
リスコンでざっと予定を確認していたシドは、クロウの今日の予定を教えてくれる。現在時刻6:05、朝礼は8時から、それまでに朝食と身支度を済ませて、昨日タイラーと車を降りた大格納庫に集合との事だ。クロウも自分のリスコンで自身のスケジュールを確認するがそれ以降の事は未定らしく、予定はまだリスコンに表示されない。
常備服に着替えてから、ベッドで寝るときに使用したシーツや毛布を畳んでいたクロウは無意識に寝具を軍規通りの形に整頓している事に気が付いた。インストールした知識でこのベッドの寝具の畳み方を考えていたら無意識に体が動いていた。
「マメな奴だ。下士官以上は通常時は軽く慣らすだけで大丈夫だぞ」
言いながら、見慣れない青いラインの常備服に着替えたシドもベッドメイキングをしていたが、寝具を畳みこそしないものの、ベッド全体をしわ一つなくベットメイキングしていた。
「朝飯食いにいくべ」
二人そろって準備出来た所でシドと連れ立って部屋を出た。目的地は昨晩の食堂だった。食堂には人が列をなしていた。
「ああ、考えれば当然ですけど、やっぱりこの艦にはすごくたくさん人がいるんですね」
「3401名の大所帯だからなあ……」
3400名の乗組員にクロウが加わった事で3401名となっていた。シドは「インストールされてわかっているだろうが……」と前置きしてざっと人員構成を説明してくれる。
現在『つくば』に乗船している人員は、総勢3401名、士官34名(クロウ、タイラーを含む)、下士官564名(シドを含む)、兵卒2803名だった。この内、クロウは士官4名、タイラー、ルウ、パラサ、ルピナスと知り合ったことになる。
総勢3401名が3交代制で人員を分配するため、常時活動している人数は1100人前後になるという。休みは5勤2休制で、曜日という感覚が廃れても一週間という単位は残っているのだなという事をクロウは考えていた。因みに、シドもクロウも3日後が休みという事になっている。
並んでいる人の列を見ると、ほとんどの人間は常備服を着こんでいたが、常備服にも数色あり、クロウの着こんでいる赤いラインが入っている常備服は戦術科の人間であることを表していた。
珍しくと先ほどクロウは感想したが、シドも着ている時間で考えるのであれば常備服の方が圧倒的に多い。作業をする時のみ今着ている青いラインの常備服から昨日着ていた作業着であるツナギに着替えるのだった。艦内の科と呼ばれる部署は他に、航海科、船務科、主計科、機関科、技術科、医療科、保安科と全部で8部署が存在していた。
「ありゃ、今日はパンか。米の方が好きなんだけどな」
列が進み、重ねられているトレーを手に取り表示されているメニューを見ながらシドは言う。
「シド先輩って日系なんですか?」
「おう、母方の爺様が日系でロスト・カルチャーだよ」
と、事も無げにシドは言う。クロウはぎょっとして周囲を見回すが、周りの聞こえたであろう人間たちにも特に変化は無い。どうやら周知の事実らしかった。
「別にロスト・カルチャーって言っても本人じゃ無ければ大したことじゃないのさ」
あっけらかんと言うシドに、クロウはそんなものか、と思う。
「あ、言い忘れていた。自分の『ルーツ』を語るときは気を付けろよ?」
シドによれば、思わずシドも口に出してしまったものの、人種と言う概念はこの時代においてかなり希薄だという。シドも『日系人』という言葉自体ロスト・カルチャーである祖父から教わったものだという。そのため、自分のルーツを知らないものがほとんどで、ほとんどが人間と言う種の民族だと考えている。「一部例外がいるが、これがまた面倒くさいんだ」とクロウの耳元でシドは言う。
クロウは言われ、逆に深く考えないことにした。そんな寛容な世界がこの時代なのだとすれば、自分が生きた時代の醜い争いの事などを持ち出したくもなかった。この遥かな歳月が経過した世界にはそんな些事は人々の生活に大きな影響を与えないのだ、と言い聞かせながら。
―――本当にそうだろうか?
という、蛇が鎌首をもたげたように唐突に沸き上がりそうになった感想を必死に押し殺した。それは触れてはいけないと、心のどこかで警鐘が鳴っているのだ。
「げっ」
トーストとサラダ、スクランブルエッグに茹でたソーセージという簡素な食事を受け取って、空いた席を探す目の前にシドを認めたパラサがそんな声をあげていた。パラサの前にはルウとルピナスも並んで座っており、その3人の周りは3人分席が空いていた。
「おはようございますパラサ大尉、ルウ中尉。ご一緒してもいいですか?」
「ご挨拶だなパラサ、ダメだって言っても俺は座るがね」
丁寧に聞くクロウを他所に、シドは鼻を鳴らしてパラサの一つ離れた席にどかりと座った。自然にクロウはシドの対面のルピナスの隣に座る事になる。
「おはようルピナスちゃん」
「『クロにい』もおはようなのじゃ!」
ルピナスを驚かさないように努めて優しく声を掛けたクロウに、ルピナスはまぶしい笑顔で挨拶を返してくれた。金色の瞳に、口の周りをケチャップに染めていた。
座りながら、思わずクロウは強烈な保護欲をルピナスに対して覚えたが、必死にそれを抑えて静かに席についた。
「この子、本当に誰にでも懐くわね」
「いい人にだけですよ」
ルピナスの口元のケチャップを拭いながら、パラサの感想にルウが答えた。
「パラサねえもシドにいと仲良くすればいいのじゃ!」
屈託なく言うルピナスに、パラサは突如顔を赤面させ、自分のトレーの食事を一気に口に掻き込むと、「この後の朝礼の準備があるから先に行くわねっ」と、席を立ってその長い金色の髪を翻し駆け去ってしまった。
「先輩、パラサ大尉に何かしたんですか?」
「いやぁ、実はそれが全然わからねぇから扱いに困っているんだよ」
と、クロウにシドがぼやく。
パラサとシドの付き合いは長い。
この『つくば』が就航する際、初めて集められた第一期メンバーの内2名がパラサとシドであり、パラサは航海科の長として航海長を、シドは技術科の長として技術長の立場として、初期の『つくば』を引っ張った仲であった。二人は当初性格の違いから反りが合わないことも多々あったが、1年ほどで打ち解けたとシドは記憶している。二人がこのようなぎくしゃくとした関係に戻ってしまったのはごく最近の事だった。
ルウはその直接の原因を知ってはいたが、あえて口には出さなかった。そういった美しい感情の機微には余人が干渉すべきではないのだ。
「本当に心当たり無いんですか? セクハラとかしたんじゃないですか?」
「おま、俺を何だと思ってるんだ? 俺は男女とかそういうのあんまり意識しねぇぞ、あーまった、それで変なところ触ったとかならあるかもしれねえ。俺、あんまり女扱いとかしねぇから」
「やっぱあるんじゃないですか、絶対謝った方がいいですって」
「あー、うんー、ぶっちゃけそう考えると心当たりが多すぎる。あいつと組手して思いっきりぶん投げた事もあるからな。そりゃ体だって当たる」
クロウと、シドの会話を聞きながら、ルウは静かに微笑んだ。そういう事ではないのだが、この調子だとシドはあらぬ誤解を抱いたまま訳も分からず。パラサに謝罪しにいきかねない。そんな事になればパラサがまた荒れるのは火を見るよりも明らかだった。
『フォローしておきますかね』
と、ルウは思う。
「訓練上の出来事は、あの子も気にしていないと思いますよ」
これくらいのサービスは友人として妥当だろう。
「まあ、同性のルウさんが言うならそうなんですかね? 僕なんか昨日何度殺されるかと思ったか、先輩激しすぎなんですよ」
「お前それ、周りに『誤解される』ってわかって言ってるだろコノヤロウ」
このやり取りを見て、ルウは二人を幼いとは思わない。むしろ、シドは『わかっていて、気が付かないフリ』をしている気さえする。この艦のこれからの行く末を考えればそれも仕方のない事だった。
「さあ、そろそろ行かないと朝礼に遅れてしまいますよ」
と、ルウは二人を促した。小突きあっている二人を見てルピナスはころころ笑っていた。ルピナスの手を取って手をつなぎながら歩く。自分を母と慕うルピナスという少女は確かにルウの娘という訳ではない。だが、親を持たない『フォースチャイルド』の少女が自分を母と呼ぶ行為をルウは単に『子供が勝手に言っているだけ』とはどうしても思えないのだ。艦長も同じように思っているからこそ、この子に父と呼ばれるがままにしている。と、ルウは確信していた。
これからの事がその実分からないのは、私も同じか、と、ルウは思う。
戦火は確実に、目の前まで迫っているのだ。それも、あと数日でこの『つくば』はその最前線へ行く。一年前から決定づけられていたその運命に、ルウは今、祈らざるを得なかった。願わくば、自分の大切な人たちだけでも、どうか。と。
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