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だから私はレベル上げをしない

急展開

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 キィと軋んだ音を立てて開いた扉は、この建物の歴史を物語っている。
 それはともすれば聞き逃してしまいそうな僅かな物音であったが、それをじっと待ち望んでいた者からすれば、慌てて顔を上げる動機ともなる。
 その扉を潜って現れた主人、セラフの下へと駆け寄る侍女、ケイシーは彼女の一歩手前まで近づくと、そこでピタッと制止し深々と頭を下げていた。

「お嬢様、お疲れ様でございました。では、帰る準備を致しましょう。馬車は既に、建物の前に回してありますが・・・ここで少し休んでいかれますか?奥様への言い訳も考えませんと・・・お嬢様?」

 先ほどまであれほど嫌がっていたお見合いを、なんとかやっつけた主人であるならば、精一杯の労いの言葉を掛けるのが従者の務めというもの。
 深々と頭を下げながらセラフに労いの言葉を掛けたケイシーは、疲れているであろう彼女が休めるように、帰還の準備を急いでいた。
 セラフがいうように、今回のお見合いの相手がセクハラ親父であったのならば、彼女の心労はかなりのものだろう。
 当然そんな奴の支配するこの建物からなどは一刻も早く離れたい筈で、ケイシーが気を回した行動も正しい筈であった。

「お嬢様、いかがなされましたか?ま、まさか・・・!?お相手の方から、よほど酷い事を!?許せません、私が抗議をっ!!」

 しかしそんなケイシーの言葉にも、セラフは放心したように立ち尽くしたままで反応しようとしない。
 そんなセラフに彼女を心配して掛けた声までをも無視されてしまえば、流石にケイシーも何かおかしいと気付いてしまう。
 セラフがどうしてそのような状態になってしまったのか、それは彼女がその扉の向こうへと向かう前に話していた事を考えれば、容易に想像がつくだろう。
 つまりセラフは、その向こう側にいる男の手によって乱暴されてしまったのだ。

「・・・いいの、ケイシー。私は大丈夫だから」
「いけません、お嬢様!!これは貴族である前に、お嬢様の一人の女性としての沽券に関わる問題でございます!!決して、泣き寝入りで済ませてはなりません!!!」

 敬愛する主人が汚されしまったと考え憤慨するケイシーは、もはや許せぬと身分の違いすらも超えてこの館の主へと殴りこみに向かおうとしてしまっている。
 そんなケイシーの事をセラフは呆けたような表情のままで止めようとするが、そんな事ではもはや彼女は止まりそうもなかった。

「ううん、いいのケイシー。そんな事より、結婚式の準備を急がないと・・・お願い出来るかしら?」
「そんな事などという話では・・・!?お、お嬢様?今、何と仰いましたか?」

 自分がこれほど憤慨しているのに関わらず、暢気な様子を崩さないセラフの姿に、ケイシーは余計に怒りを加速させている。
 しかしそんなケイシーですら、彼女が口走った言葉は無視することが出来ない。
 それを聞き返すケイシーがセラフの顔をよくよく見てみれば、その頬はどこか赤く染まってはいなかったか。

「そのね、彼のお母様があまり身体の状態がよろしくないんだって。だから奥さんを貰う姿を見せて、安心させたいって・・・ま、まぁ!急な話だって、私は断ったんだけど!彼がどうしてもって言うから、仕方なくよ仕方なく!!」

 ケイシーから尋ね返されたセラフは、最初は恥ずかしそうに目を伏せながら語り始める。
 しかし彼女はそれを誰かに話したくて仕方がなかったようで、途中からケイシーが聞いてもいない事まで、勝手にべらべらと話し始めていた。

「お嬢様?その・・・お相手の方は、脂ぎったセクハラ親父だったのでは?私はてっきり、そういう方の事をお嬢様はお嫌いかと・・・」

 始めから断るつもり満々でお見合いの席に挑んだ主人が帰ってきた途端、結婚式の日取りについて話し始めている。
 そんな異常事態に戸惑うケイシーは、そんな筈はないとセラフに確かめようとしていた。

「・・・?あぁ、そうだったわね!そいつは前の当主で、今は別の人がお見合いの相手だったのよ。何でも立て続けに当主とその後継者が亡くなって、急遽当主の座が回ってきたんですって。それまで庭弄りばかりしてたから、驚いたって話していたわ」
「はぁ・・・そうだったのですか。しかし、そんなすぐに結婚を決めてもよろしかったのですか?そのお相手の方とも、今日会ったばかりだったのでしょう?」

 ケイシーの疑問に、一瞬何の事を聞かれているか理解出来ないような表情を見せたセラフは、僅かな暇の後にようやくその噛み合わない会話の理由に気付いていた。
 自分自身、目の前に現れた素敵な紳士がお見合いの相手だと知り、大いに驚いたのだ。
 その場にいなかったケイシーがそれを知らずに、戸惑ってしまうのも無理はない。
 そうして噛み合わない会話の理由を知ったセラフは、それを解消しようと嬉々として先ほど出会った男性、ブラッドについて説明していく。

「ま、まぁ!そうはそうなんだけど!相手は公爵だし、悪くはないかなって!!それにちょっといい男だったし・・・ちょっとだけよ、ほんのちょっと!!ギリギリ妥協出来ない事もないかなってレベルの!!」
「はぁ、そうでございますか。それは、よろしゅうございました」

 セラフの家、エインズワース家は幾ら財産を築いているとはいえ、家格としては伯爵でしかない。
 それが公爵と結婚するのだから悪くはないでしょうと、セラフは話している。
 しかし彼女の上気した顔と、強がってみせる言葉を聞けば、それが主な理由ではない事は明確であった。

「そ、それに結婚式っていっても、あくまで彼のお母様を安心させるために行うものであって、正式なものじゃないんだから!!本当に結婚するかどうかは、その後よその後!!ま、まぁ!彼がどうしてもっていうなら、受けてあげてもいいんだけどね!!」

 自らの言葉に呆れた表情を見せては、ぞんざいにお祝いの言葉を述べてくるケイシーに、セラフはあくまでも自分はそれほど乗り気ではないのだと主張していた。
 それが彼女の強がりであると、見抜けないほど彼女達の付き合いは浅くはない。
 しかしそんな彼女の振る舞いを、優しく微笑んで流してやる程度の優しさを、ケイシーは持ち合わせていた。

「なるほど、そういう話でございましたか。しかしそうなると、実際の式の日取りというのはどうなるのでしょうか?あちらの奥様のご体調の事もありますし、かなり急な事となると思いますが?」

 セラフの強がりを薄く微笑んで聞き流したケイシーは、彼女が話した内容の要点である結婚式の日取りについて尋ねている。
 体調の悪いブラッドの母親を安心させるための式ならば、それほど大規模なものではないだろう。
 しかしそれでも急な日程ともなれば、色々と手回しを急がなければならない。
 そうケイシーが頭の中で必要な項目を思い浮かべていると、セラフからその答えが返ってくる。

「あれ、いってなかったっけ?明日よ明日」
「・・・は?明日?」

 なんてことのない事のようにそれを口にしたセラフは、目の前のケイシーの様子の変化に気付かない。
 彼女はその日取りを耳にして、言葉を失い固まってしまっているというのに。

「ここの近くにある教会で行うんですって。だから今日はここに泊まるわよ。あぁ、後でお母様に報告の手紙を書かないと・・・ケイシー、文面を考えるの手伝ってもらえる?ケイシー?ねぇケイシー、聞いてるの?」

 自らの言葉を受けて固まってしまっているケイシーの横を通り過ぎて、セラフは溜まっている仕事を済ませようと歩みを進めている。
 しかしその仕事も、ケイシーの手助けがあって始めて進行するものだ。
 それをいつものように彼女に頼み、先に進もうとしていたセラフは、いつまで待っても返ってこない返事に後ろへと振り返る。
 そこには今だに言葉を失ったまま、立ち尽くすケイシーの姿があった。
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