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それは吹雪の中で始まる

復讐と、乱入者 2

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「いーれーーーてーー!!」


 その突如響き渡った声は、場違いなほどに明るく、無邪気なものであった。

「なっ!?」

 しかしその声と共に窓のガラスを突き破り、この部屋に踏み入ってきたのは、決して場違いな存在ではなかった。
 窓ガラスを突き破り、吹雪と共にこの部屋に降り立ったのは、強い風にその長い髪を激しくはためかせる、ホッケーマスクで顔を隠した少女であった。

「き、君は・・・?いや、それより一体何をっ!?」

 異常な見た目と行動をしていても、それが小柄な少女がした事であれば、それほどの恐怖は齎さないだろう。
 その少女が、その手に小ぶりなチェーンソーを持っていなければ。

「ねぇねぇ!それ殺っちゃわないの?」

 突如現れた、明らかに異常な少女の存在に、匂坂は戸惑うことしか出来ない。
 彼は彼女に対して問い掛けるが、それは何から聞けばいいのかも分からずに搾り出したものでしかない。
 そんな匂坂の言葉を聞いてもいないように、少女は彼が組み敷いている要から目を離そうとしない。
 その目は本当に楽しそうに、要の事を殺さないのかと匂坂に問いかけていた。

「っ!それは・・・いや、まず君の事が先だ!それが分からなければ、僕は君の事も・・・」

 要を殺すと覚悟を決めた瞬間に襲い掛かった不測の事態は、その決意すらも有耶無耶にしてしまっている。
 少女から問い掛けられた言葉に、匂坂が躊躇いを見せたのは、本当に彼女の事を優先しなければならないからだろうか。
 彼がナイフを握る力はもはや弱く、とてもではないが命に届く強さを持ってはいなかった。

「ふーん、殺さないんだ・・・じゃ、ボクが貰っちゃうね!」

 何かを躊躇うように言葉を濁す匂坂に、少女はどこかつまらなそうな声を漏らすと、にっこりと笑みを形作っていた。
 それは彼女なりの合図なのだろう。
 今から人を、殺すという。

「何をっ!うわっ!?」

 スイッチを入れられたチェーンソーは鈍い唸り声を上げて、凶暴な回転を開始する。
 それを大きく振り上げた少女は、躊躇う事なくそれを振り下ろしていた。
 匂坂にとって幸運だったのは、彼女が狙ったのが要と匂坂の間であった事だ。
 覆い被さるように要に対して上になっていた匂坂は、慌ててその場を飛び退くことでどうにかその凶刃から身を躱している。
 要の事を押さえつけていただけで、特に身体を拘束されていない彼だからこそ、そうした動きも出来たのだろう。
 では、その彼に身体を拘束されていた要は。

「いぎゃゃぁあぁぁぁぁあぁぁ!!!いだいいだいいだいぃぃぃ!!!」

 匂坂にその身体を押さえつけられていた要は、当然身動きが取れずにその刃を喰らう事となる。
 彼の中年男性相応にボリュームを持った腹に食い込んだチェーンソーは、ガリガリと生々しい音を立ててはその脂肪を削り取ってゆく。
 そうして撒き散らされる飛沫は、脂肪本来の白色ではなく血みどろの混じった濁った朱色であった。

「うーん、中々死なないな~?あ、そうだ!ここを、こうしってっと・・・」

 要のボリュームのあるお腹は、チェーンソーの刃を巻き取って、中々それを先に進ませない。
 それが彼にとって幸運な事であったか分からないが、少なくとも少女にとって不満を感じる事実であったことは間違いないようだ。
 彼女は中々進まない刃に不満そうに首を傾げると、何かを思い出したように手元を動かし始める。
 そうして何かが作動するような軽快な音が響き、チェーンソーが一層激しい唸り声を上げて回転し始めていた。

「あぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃっ!!!いぎゃい、いぎゃ・・・ぎゃぁぁぁぁぁっ!!!」

 激しくなった刃は、やがてその命へも届くだろう。
 その証拠は、要の口から漏れている声からも窺える。
 先ほどまでは必死に痛みを訴えていたそれも、今や意味のある言葉を発することも出来なくなってしまっていた。
 その獣のような叫び声も、やがて終わるだろう。
 少女は何の気もないような動きで、チェーンソーを彼の身体から持ち上げていた。

「も、いっかなー?ふぅ・・・いい仕事をしました」

 刃の回転を止めたチェーンソーを肩に担いだ少女は、まじまじと要の身体を見下ろしている。
 中途半端な所まで切断された要は、どうやらまだ息があるようであったが、彼女はそれを見てもう満足だと息を漏らしている。
 確かにどちらにしろ、要はもう間もなく息を引き取るだろう。
 彼が幸運だったのは、既に意識を失っており、これ以上苦しむことはないという事ぐらいか。

「あー、楽しかった!!もっと、もっと・・・もっともっともっともっともっともっともっと、殺したいなー!」

 その雪山で過ごすには相応しくないほどの薄着を返り血で汚した少女は、死に逝く要を見下ろしては楽しそうに笑い声を漏らす。
 その狂気染みた呟きはしかし、とても無邪気で、人を殺すのがただただ楽しくて仕方ないのだという、彼女の喜びをはっきりと表現していた。

「君は・・・君は、一体何なんだ?」

 少女のそんな姿は、明らかに異常なものだ。
 匂坂はそんな少女から、ジリジリと距離を取るように後ずさっている。
 そのまま黙っていれば、こっそりこの場から逃げ出すことも出来たにもかかわらず、彼は何故そんな事を問い掛けてしまったのだろうか。
 恐怖が搾り出した言葉はきっと、自らの心を守るためにその正体を知りたいと願っていた。

「ボク?ボクはね、えっと・・・そうだ!殺人鬼だよ!だから・・・」

 破壊された窓から吹き込んでくる吹雪を浴びるように立っていた少女は、匂坂の声にぐるりとそちらへと顔を向ける。
 匂坂の問い掛けに、鮮血に濡れたホッケーマスクを傾けた少女は、自らがどんな存在かを思い出すと嬉しそうに声を上げていた。

「君も、殺すね?」

 そうして、彼女はゆっくりと歩き出す。
 その手に持ったチェーンソーもまた、ゆっくりと回転を始め、その刃に張り付いて血液を撒き散らし始めていた。
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