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逃亡

楽園 2

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「お主ら、話の腰を折るでない!」
「はんっ!おめぇも同じことを思っておっただろうが!大体、おかしかろう。こんな若いもんがここにおるなど・・・」
「・・・て、・・・です」

 そしてようやく、クルスがその口を開く。
 しかしそれは掠れて、誰の耳にも届きそうはない。

「あぁ?なんじゃって?」
「まどろっこしい!もっとはっきり喋らんかい!」
「しっ!騒ぐな、馬鹿者!」
「なんじゃと!?お前などもっと―――」

 そして老人達の遠い耳では、それは当然の如く聞き取れなかった。
 口元の隠れた老人は呟くクルスに耳を寄せ、耳が塞がった老人は聞こえないと怒りだす。
 それは彼らに新たな騒乱の種を蒔こうとしていたが、それが芽吹く前にクルスは再びその口を開く。

「逃げて、来たんです」

 その当たり前の事実を口にするのに、余りに多くの時間が掛かってしまったのは、そこに後ろめたさを感じているからか。
 クルスはその背中に、いつか耳にした明るい呼び声の幻聴を聞いている。
 その声に彼は振り返らず、そっと俯いていた。

「・・・そうかい、そうかい。兄ちゃんも苦労したんだなぁ」
「ふんっ!そんなもん始めから分かっておったわい!!お前さんみたいな若いのがここに来るのに、他に何の理由があるもんか!」
「ひゃひゃひゃ!そうじゃそうじゃ!」

 クルスの言葉に、口元の隠れた老人は彼を気遣うように眉を下げると、その肩へと手をやっている。
 彼とは逆に、耳が塞がった老人は不満そうに鼻を鳴らしていたが、その表情にはどこか同情の色があった。
「気にせんでえぇ。世間にゃ自分じゃどうすることの出来ねぇもんで溢れとる、それも兄ちゃんが悪い訳じゃねぇさ。それにここにいる連中は、皆どっかから逃げてきたもんだで。兄ちゃん一人増えた所で、誰も気にせんでよ」

「逃げて、逃げて・・・逃げ続けて、そのどん詰まりがここって訳よ。それを考えれば、案外悪くねぇだろ?ほれ、うめぇもんも食えるしよ」

 口元の隠れた老人は、クルスに同情するように何度も頷きながら、彼を慰めている。
 耳が塞がっている老人はそっぽを向いたままであったが、その口にする言葉は優しく、クルスを励ましている。
 彼が示した方向から漂う美味しそうな食事の匂いに、目の塞がった老人は鼻をひくひくと動かしていた。

「でも、僕は・・・僕は・・・」

 彼らの言葉は、クルスの事情を欠片も捉えてはいない適当なものだ。
 そんな言葉は上辺を撫でるばかりで、碌な慰めにもなりもしない。
 しかしだとしたら、この頬に伝う温もりは何なのだろう。
 喉に何かが溢れてきて、否定も拒絶も出てきやしない。

「えぇ、えぇ。好きなだけ泣けばえぇ」
「ふんっ!ええ若いもんが、人前でボロボロ泣いてんじゃねぇってんだ!情けなくって、こっちまで泣けてくらぁ!」

 ぽろぽろと零れていく涙に、口元の隠れた老人はクルスの肩をポンポンと叩いている。
 耳が塞がっている老人は先ほどよりも大きく鼻を鳴らし不満そうな態度を見せているが、その顔はそっぽを向いたままで、決してこちらには向こうとしていない。
 今、彼の方から聞こえた音は、鼻を啜る音ではなかったか。

「くんくんくん・・・こりゃ、食いもんの匂いじゃねぇぞぉ」

 周りの会話に加わらず、一人鼻をひくつかせて漂ってくる匂いを確かめていた目が塞がった老人は、首を傾げている。
 彼にはどうも、その漂ってくる匂いが食べ物のものとは思えないようだった。

「あぁ、何だって?おめぇ、適当なこと言ってんじゃねぇぞ!これが食いもんじゃなきゃ、何が・・・あぁ?確かに、何か変だなこりゃ・・・?」

 目の塞がった老人の言葉に、振り返った耳が塞がった老人の目元は赤くなっている。
 彼の言葉に、耳が塞がった老人も鼻をひくつかせる。
 すると、彼もまたこの匂いが何かおかしいと首を捻ってしまっていた。

「そういや、ここまでずいぶんな数の扉を通ってきたが・・・ありゃ変だよな?ずっと一本道だったってのに、何でこんなに扉が必要なんだ?」

 首を捻る二人に、口元の隠れた老人は背後が気になっているようだった。
 そこには彼らの後ろに続く列と、それが通った後に息もつかせぬ速さで扉を閉めていく信徒達の姿があった。

「あぁ?それじゃまるで俺達を閉じ込めて、ここから逃げ出させないようにするみたいじゃねぇか?」
「ははは、そんな訳が・・・ま、まさかっ!?」

 それはまるで、自分達を閉じ込めようとしているみたいだと耳が塞がった老人は笑う。
 その冗談めかした口調に、口元の隠れた老人も同調し笑い返そうとしていたが、彼の表情は途中で凍りつき、何かに気づいてしまったかのように目を見開いていた。
 そして振り返る彼の背後で、最後の扉が開く。

「お、おい!こりゃ・・・」
「あぁ、こりゃ酷ぇな・・・貧者の救済を謳っておきながら、実際は奴隷としてこき使おうってかい?ふざんけんじゃねぇってんだ!」

 最後の扉の先からは、呻き声と怨嗟の声、そしてそれを怒鳴りつける声と鞭を振るう音だけが聞こえてきている。
 そこには病める者、貧しい者、逃げ出してきた者、そして老人達がいた。
 それは、彼らが考えていた通りである。
 ただ一点、彼らが少数の信徒達によって強制的に働かされているという点を除いて。

「な、なぁ・・・逃げた方がいいんじゃねぇか?」
「あ、あぁ・・・そうだな」
「ひゃひゃひゃ、逃げよう逃げよう!」

 この漂ってくる匂いは、彼らが掘り出している鉱石によるものか、それとも別のものからか。
 思えば、ここにやって来るまでの廊下は、徐々に下っていたように思える。
 いやこの匂いは恐らく、そこに鎮座している大鍋から漂ってくるものだろう。
 そこで何が煮えられているのかは、考えたくもない。
 それを受け取りに並んでいる者達の、暗く沈んでいる表情を目にしてしまえば。

「兄ちゃん、あんたも行くだろ?」
「おい、早くしろ!時間がねぇんだぞ!」

 望んでいたのとは異なるその場所の光景に慌てふためく老人達は、この場から逃げ出そうと顔を突き合わせて相談している。
 そして彼らは、その光景を目にしたまま固まってしまっているクルスの肩を叩き、一緒に逃げようと促していた。

「あぁ、そうか・・・」

 見開いたまま固まっているクルスの目には、地獄のような光景が映っている。
 老人達は彼の肩を強く揺すり、引っ張っていこうとしているが、その身体は決して動くことはない。

「逃げ出した先に、楽園なんてないんだ」

 涙も枯れ果て、乾いた瞳にはレンズのような鈍い輝きが宿っている。
 その瞳で、目の前の光景を見詰めながらクルスは呟く。
 そこには絶望と、諦めだけが映っていた。
 彼らの背後で、最後の扉が閉じ鍵が閉められる。
 がちゃり。
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