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壊れた女
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冬が終わった。
男が治めるこの地は雪が深く、冬の間は屋敷の外に出る機会が極端に少なくなる。男は冬の間に滞っていた領内の視察のために屋敷を空けることが増え、ひとり残された女は気分転換のために近くの集落へと出かけた。
そこで、自分と歳の頃が変わらない女から桶の水を浴びせかけられたのだ。
あんたが分不相応な先に嫁ぐことになったから皆が飢えた、私も乳が出なくなって子を亡くしたと泣き喚いたその女の腕や脚は棒切れのように細かった。
投げつけられた言葉の意味を、女はよく理解できなかった。
自分がどこかに嫁ぐことなどありえない。今年も冬の間じゅう男と暖め合ったのだし、つい最近は寝台まで行くのを待てずに服を着たまま書斎の長椅子で男の膝の上に跨って身体を繋げ――男が胎の中に精を放つまで、決して離れなかったのだから。
男が視察から戻るまでの数日を、女は自分の寝台の上で過ごした。熱っぽいのは水を浴びせかけられて風邪をひいたからではないと女は確信していた。
眠気と吐き気、胸の張りに月のものの遅れ。今度こそ間違いなく子を授かったのだからもうどこへも嫁げるはずがない。あれは子を亡くして狂ってしまった哀れな女の妄言に違いない。だから、ばあやが淹れてくれるあのお茶をしっかり飲んで男の帰りを待っていればいいのだ。
期待は二重の意味で裏切られた。
酷い痛みと普段より多い出血をみたその日に、男は客人を連れて帰ってきた。
「ナターリヤ、この方がおまえを娶ってくださるそうだ。――子供が欲しいという願いが、叶うかもしれないぞ」
笑顔で語る男にどう返事をしたのかは、もう思い出せない。
「そんなはずが、だって、声が」
「貴方に聞かせられないのだから、あんな甘ったるい声など要らないでしょう?」
口布の下に隠した唇を吊り上げて女は笑う。この唇を使って何度も男を愛し、愛されてきた。その度に唇からこぼれた『可愛らしい声』はもう必要なくなったから薬で潰した。
声と唇を晒さない限り、男は目の前の女が散々弄んだ『妹』であることに気づかなかった。これまで見つめあっていたと、愛しあっていたと思っていたのは女の願望でしかなかったのだ。
――そもそも、事を終えた後に貴方が私の顔を見てくれたことは一度もなかったものね。
「したことの報いは受けてもらいますよ。増税により家族を喪った民に恨まれて殺された、ということにすればよいのです」
女の言葉に、男は歯をがちがちと鳴らしながらも必死に命乞いをする。
「ナターシャ、お願いだからやめてくれ。……死にたくない」
「そんなに私と離れたくないのですか? 大丈夫ですよ。私もすぐに逝くから寂しくなんかありません」
「違う、そんなことは言っていない」
「どうして? 貴方が何を言いたいのかはちゃんとわかっているわ」
かつて男が口にした言葉の意味を、今の女は正しく理解している。
『私は、自分の子がいっときでも私生児として扱われることが許せないのだよ』
自分の子は嫡出子でないと許せない。
『自分の子が、おまえのここをこうするのも許さない』
いつかおまえ以外の女に産ませる自分の子がおまえの乳を吸うことなど、自分の血を引く息子を誘惑することなど決して許さない。
『秘密を守ることを、おまえの血に誓う』
――女の血に誓ったのは、自分が女を穢したという秘密を守ることだけ。
「私が約束を守れなかったら一緒にいられなくなる、と言ったでしょう? 約束は守ります。だから、今までも、これからも、ずっと、ずうっと一緒。……もちろん、貴方とばあやが殺した子供達も」
男が愕然とした表情を見せた。
女はうっとりと微笑みながら男を見下ろした。かつて下から自分を貫いていた時の紅潮した顔色とは全く違う、月よりも青白い頬をした男と目が合う。
男に抱かれた時の悦びに似たものが、女の身体と心を満たしていく。
やっと、私を見てもらえた。
「頼む……もう許してくれ……」
「貴方は本当に愚かね。でも、私は昔からずっと」
女は少しずつ身体を倒し、男に体重を掛けていく。
「そんなお兄様が、大好きだった」
そうしてそのまま、刃を握った手に全ての体重を乗せた。
男が治めるこの地は雪が深く、冬の間は屋敷の外に出る機会が極端に少なくなる。男は冬の間に滞っていた領内の視察のために屋敷を空けることが増え、ひとり残された女は気分転換のために近くの集落へと出かけた。
そこで、自分と歳の頃が変わらない女から桶の水を浴びせかけられたのだ。
あんたが分不相応な先に嫁ぐことになったから皆が飢えた、私も乳が出なくなって子を亡くしたと泣き喚いたその女の腕や脚は棒切れのように細かった。
投げつけられた言葉の意味を、女はよく理解できなかった。
自分がどこかに嫁ぐことなどありえない。今年も冬の間じゅう男と暖め合ったのだし、つい最近は寝台まで行くのを待てずに服を着たまま書斎の長椅子で男の膝の上に跨って身体を繋げ――男が胎の中に精を放つまで、決して離れなかったのだから。
男が視察から戻るまでの数日を、女は自分の寝台の上で過ごした。熱っぽいのは水を浴びせかけられて風邪をひいたからではないと女は確信していた。
眠気と吐き気、胸の張りに月のものの遅れ。今度こそ間違いなく子を授かったのだからもうどこへも嫁げるはずがない。あれは子を亡くして狂ってしまった哀れな女の妄言に違いない。だから、ばあやが淹れてくれるあのお茶をしっかり飲んで男の帰りを待っていればいいのだ。
期待は二重の意味で裏切られた。
酷い痛みと普段より多い出血をみたその日に、男は客人を連れて帰ってきた。
「ナターリヤ、この方がおまえを娶ってくださるそうだ。――子供が欲しいという願いが、叶うかもしれないぞ」
笑顔で語る男にどう返事をしたのかは、もう思い出せない。
「そんなはずが、だって、声が」
「貴方に聞かせられないのだから、あんな甘ったるい声など要らないでしょう?」
口布の下に隠した唇を吊り上げて女は笑う。この唇を使って何度も男を愛し、愛されてきた。その度に唇からこぼれた『可愛らしい声』はもう必要なくなったから薬で潰した。
声と唇を晒さない限り、男は目の前の女が散々弄んだ『妹』であることに気づかなかった。これまで見つめあっていたと、愛しあっていたと思っていたのは女の願望でしかなかったのだ。
――そもそも、事を終えた後に貴方が私の顔を見てくれたことは一度もなかったものね。
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女の言葉に、男は歯をがちがちと鳴らしながらも必死に命乞いをする。
「ナターシャ、お願いだからやめてくれ。……死にたくない」
「そんなに私と離れたくないのですか? 大丈夫ですよ。私もすぐに逝くから寂しくなんかありません」
「違う、そんなことは言っていない」
「どうして? 貴方が何を言いたいのかはちゃんとわかっているわ」
かつて男が口にした言葉の意味を、今の女は正しく理解している。
『私は、自分の子がいっときでも私生児として扱われることが許せないのだよ』
自分の子は嫡出子でないと許せない。
『自分の子が、おまえのここをこうするのも許さない』
いつかおまえ以外の女に産ませる自分の子がおまえの乳を吸うことなど、自分の血を引く息子を誘惑することなど決して許さない。
『秘密を守ることを、おまえの血に誓う』
――女の血に誓ったのは、自分が女を穢したという秘密を守ることだけ。
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やっと、私を見てもらえた。
「頼む……もう許してくれ……」
「貴方は本当に愚かね。でも、私は昔からずっと」
女は少しずつ身体を倒し、男に体重を掛けていく。
「そんなお兄様が、大好きだった」
そうしてそのまま、刃を握った手に全ての体重を乗せた。
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